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Episode1 京子
29 ぐらりと揺れた視界
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「一人になったところを狙われて、車に連れ込まれたんです。海辺の倉庫に監禁されて」
綾斗が中学三年になってすぐの話だ。
他のキーダーより少し早めに能登の訓練施設へ入ることになったのは、福岡への修学旅行中事件に巻き込まれたのがきっかけだという。
本来であれば十五歳になった後の高校入学に合わせて関東の本部へ配属され、指導を受けながら実戦経験する所だが、前例のない措置だった。
「銀環を付けた俺が中学生だと知って、まだ覚醒前だと思ったんでしょうね」
キーダーが覚醒するのは、十七歳前後だと言われている。だが彼は事件の時すでに力を使えたらしい。
「相手の目的は? 向こうは能力者だったの?」
「いえ、ノーマルでした」
覚醒から間もない時期の話とはいえ、彼が断言するなら間違いはないだろう。
アルガスを狙う組織があることを噂では聞いているが、その実態はまだ明らかではないし、特段に何かを仕掛けてきているという訳でもない。
もう一つ考えられるとすれば力の悪用だが、位置情報や力を国に管理されているキーダーの誘拐はリスクの方が高い気がした。
綾斗は両手に握り締めた牛乳をグイと飲んで話を続ける。
「目的も相手も分からないんです。俺そんな目に遭ったの初めてで、屈辱的な気分になって、つい縛られたまま戦っちゃったんですよ。それで相手のこと怪我させて」
「屈辱的なんて綾斗らしいね。何かやらかして北陸送りになったっては聞いてたけど、やっと理由が分かったよ」
アルガスに入る前の覚醒はあまり例もなく、京子はそんな決まりの存在をすっかり忘れていた。
アルガスに入る前のキーダーは、能力での攻撃が禁止されているのだ。
どんな場合でも正当防衛という言葉を使うことはできない。
十五歳以前に覚醒した綾斗は、管轄支部からその事を厳重注意されていたはずだ。
けれどよくよく考えてみれは、福井出身の綾斗にとって北陸は管轄支部にあたる。だから能登に行くことは重すぎるペナルティでもない気がした。
京子に情報が流れてこないのは、解放前からのアルガスに根付く古い考えによるものだろう。真相を上が掴んでいるのかどうかは分からないが、『今日の味方は明日の敵になるかもしれない』というのが上層部の姿勢だ。
「そんなことがあったんだね」
「誘拐されただなんて、言いたくなかったんですよ」
「けど、話してくれてありがと。綾斗が無事でいてくれて良かったよ」
「京子さん……」
ホッと安堵する京子に、綾斗はきまり悪そうに目を逸らた。
それから夕方になっても平野がそこに現れることはなかった。
次第に日も落ち、再び風がひんやりと凍り始め、京子は軽い咳を繰り返す。
「風邪じゃないですか? 京子さん先に戻って下さい。俺がもう少し粘りますから」
綾斗が気遣うが、京子は「大丈夫」と首を振った。
実際体調はあまり良くなかった。身体が騒めくのは熱の兆候だが、まだ平気だと自分に言い聞かせると、不思議と少しだけ楽になる。
そんな時、ポケットのスマホが小さく音を鳴らした。東北支部からの連絡だ。京子は「はい」と出て、用件だけ聞きすぐに通話を切る。
「ねぇ綾斗、今から支部に行ってもらえるかな。ホテルに置いといた資料、届けて欲しいんだけど」
「構わないですよ。けど、京子さんはもう休んで下さい。用事が済んだら俺がこっちに戻りますから」
「ありがとう。けど急がなくていいからね? 私はもう少しだけ待ってみるよ」
はあっと息を両手に吹きかけると、喉が痺れて咳込んでしまう。
「熱あるんじゃないですか? 京子さんに倒れられたら、俺も困るんですよ?」
「九時過ぎたら諦めるから」
待てば平野が来る根拠などないが、ここで帰ってしまったら朝からいた意味がなくなってしまう気がした。
待つことがただの自己満足で終わるとしても、もう少しだけ待ちたいと思う。
けれど、その選択は綾斗にとって不服らしい。
「どうしてそんなに頑張ろうとするんですか?」
「私はやれることをしてるだけだよ。できる事なんて限られてるし」
「無茶しちゃダメですからね。届け物は俺の部屋の金庫に入れたやつでいいんですよね?」
「そう。管理部の佐田さんにお願い。ごめんね」
「いいですよ」と諦めて、綾斗は明かりの灯りだした街へ消えて行くが、五分程でまた戻って来た。手にしたコンビニの袋を突きつけるように京子の目の前に差し出す。
「これ食べて下さい。辛かったらホテル戻って下さいね。連絡くれれば俺、飛んできますから」
足早に去っていく背中を見送って、京子は受け取ったビニール袋を覗いた。熱々の中華まんと缶コーヒーが入っていて、京子は思わず笑顔をこぼす。
「ありがとう、綾斗」
小さくなった背に礼を言うと、急な目眩に襲われる。
ぐらりと揺れる視界に足を踏ん切り、京子はズルズルと平野の店の前へ移動して、扉の前に崩れた。賑やかな夜の音が、一呼吸ごとに遠ざかっていく。
どれくらいそこに居ただろうか。
ほんの少しか、長かったのかさえ分からないが、ぼんやりと開いた視界に一人の知らない女性の顔が飛び込んできた。
「貴女、こんな所でどうしたの?」
着物姿の五十代くらいの女性だ。京子は朦朧とする意識の中身体を起こそうとするが、うまく力が入らず、慌てる彼女の顔をぼんやりと眺めた。
「ひらのさんを、待っていて……」
「芳高に用事があるの? ちょっと、すごい熱じゃない!」
京子の額に手を当て、女性は慌てて隣の店へ駆け込んでいく。
暗い夜、闇の中へ吸い込まれていくような感覚に、京子は静かに目を閉じた。
綾斗が中学三年になってすぐの話だ。
他のキーダーより少し早めに能登の訓練施設へ入ることになったのは、福岡への修学旅行中事件に巻き込まれたのがきっかけだという。
本来であれば十五歳になった後の高校入学に合わせて関東の本部へ配属され、指導を受けながら実戦経験する所だが、前例のない措置だった。
「銀環を付けた俺が中学生だと知って、まだ覚醒前だと思ったんでしょうね」
キーダーが覚醒するのは、十七歳前後だと言われている。だが彼は事件の時すでに力を使えたらしい。
「相手の目的は? 向こうは能力者だったの?」
「いえ、ノーマルでした」
覚醒から間もない時期の話とはいえ、彼が断言するなら間違いはないだろう。
アルガスを狙う組織があることを噂では聞いているが、その実態はまだ明らかではないし、特段に何かを仕掛けてきているという訳でもない。
もう一つ考えられるとすれば力の悪用だが、位置情報や力を国に管理されているキーダーの誘拐はリスクの方が高い気がした。
綾斗は両手に握り締めた牛乳をグイと飲んで話を続ける。
「目的も相手も分からないんです。俺そんな目に遭ったの初めてで、屈辱的な気分になって、つい縛られたまま戦っちゃったんですよ。それで相手のこと怪我させて」
「屈辱的なんて綾斗らしいね。何かやらかして北陸送りになったっては聞いてたけど、やっと理由が分かったよ」
アルガスに入る前の覚醒はあまり例もなく、京子はそんな決まりの存在をすっかり忘れていた。
アルガスに入る前のキーダーは、能力での攻撃が禁止されているのだ。
どんな場合でも正当防衛という言葉を使うことはできない。
十五歳以前に覚醒した綾斗は、管轄支部からその事を厳重注意されていたはずだ。
けれどよくよく考えてみれは、福井出身の綾斗にとって北陸は管轄支部にあたる。だから能登に行くことは重すぎるペナルティでもない気がした。
京子に情報が流れてこないのは、解放前からのアルガスに根付く古い考えによるものだろう。真相を上が掴んでいるのかどうかは分からないが、『今日の味方は明日の敵になるかもしれない』というのが上層部の姿勢だ。
「そんなことがあったんだね」
「誘拐されただなんて、言いたくなかったんですよ」
「けど、話してくれてありがと。綾斗が無事でいてくれて良かったよ」
「京子さん……」
ホッと安堵する京子に、綾斗はきまり悪そうに目を逸らた。
それから夕方になっても平野がそこに現れることはなかった。
次第に日も落ち、再び風がひんやりと凍り始め、京子は軽い咳を繰り返す。
「風邪じゃないですか? 京子さん先に戻って下さい。俺がもう少し粘りますから」
綾斗が気遣うが、京子は「大丈夫」と首を振った。
実際体調はあまり良くなかった。身体が騒めくのは熱の兆候だが、まだ平気だと自分に言い聞かせると、不思議と少しだけ楽になる。
そんな時、ポケットのスマホが小さく音を鳴らした。東北支部からの連絡だ。京子は「はい」と出て、用件だけ聞きすぐに通話を切る。
「ねぇ綾斗、今から支部に行ってもらえるかな。ホテルに置いといた資料、届けて欲しいんだけど」
「構わないですよ。けど、京子さんはもう休んで下さい。用事が済んだら俺がこっちに戻りますから」
「ありがとう。けど急がなくていいからね? 私はもう少しだけ待ってみるよ」
はあっと息を両手に吹きかけると、喉が痺れて咳込んでしまう。
「熱あるんじゃないですか? 京子さんに倒れられたら、俺も困るんですよ?」
「九時過ぎたら諦めるから」
待てば平野が来る根拠などないが、ここで帰ってしまったら朝からいた意味がなくなってしまう気がした。
待つことがただの自己満足で終わるとしても、もう少しだけ待ちたいと思う。
けれど、その選択は綾斗にとって不服らしい。
「どうしてそんなに頑張ろうとするんですか?」
「私はやれることをしてるだけだよ。できる事なんて限られてるし」
「無茶しちゃダメですからね。届け物は俺の部屋の金庫に入れたやつでいいんですよね?」
「そう。管理部の佐田さんにお願い。ごめんね」
「いいですよ」と諦めて、綾斗は明かりの灯りだした街へ消えて行くが、五分程でまた戻って来た。手にしたコンビニの袋を突きつけるように京子の目の前に差し出す。
「これ食べて下さい。辛かったらホテル戻って下さいね。連絡くれれば俺、飛んできますから」
足早に去っていく背中を見送って、京子は受け取ったビニール袋を覗いた。熱々の中華まんと缶コーヒーが入っていて、京子は思わず笑顔をこぼす。
「ありがとう、綾斗」
小さくなった背に礼を言うと、急な目眩に襲われる。
ぐらりと揺れる視界に足を踏ん切り、京子はズルズルと平野の店の前へ移動して、扉の前に崩れた。賑やかな夜の音が、一呼吸ごとに遠ざかっていく。
どれくらいそこに居ただろうか。
ほんの少しか、長かったのかさえ分からないが、ぼんやりと開いた視界に一人の知らない女性の顔が飛び込んできた。
「貴女、こんな所でどうしたの?」
着物姿の五十代くらいの女性だ。京子は朦朧とする意識の中身体を起こそうとするが、うまく力が入らず、慌てる彼女の顔をぼんやりと眺めた。
「ひらのさんを、待っていて……」
「芳高に用事があるの? ちょっと、すごい熱じゃない!」
京子の額に手を当て、女性は慌てて隣の店へ駆け込んでいく。
暗い夜、闇の中へ吸い込まれていくような感覚に、京子は静かに目を閉じた。
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