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9章 俺の居ないこの町で

96 彼女がお前をそう呼んだから

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 風呂上がりのポニーテールを解いたクラウの髪に違和感を感じないのは、父親似だと思っていた彼がどことなく母親の雰囲気をにじませているせいだろうか。

「お前とメルのことは聞きたいけど、俺たちはこんなにのんびりしてていいのか? こっちで行かなきゃならない場所とか……」

 クラウがこの世界に留まれる時間が24時間とはいえ、迎えが来るタイミングが調度の時刻とは限らない。

「そういうのは特にないから」
「そうなのか? だったら俺は、お前が向こう世界に行って、メルと知り合って、どうやって魔王になったのかを知りたい」

 クラウの今持っている力は、『汗と血と涙の結晶』だと言っていた。

 ――『僕は生まれながらの魔王じゃないんだ。ただ、昔タブーを犯してしまって、それが逆に先代に気に入られて、今の地位を与えられたんだ。死ぬ思いで得た力だからね……』

 最初にクラウに会った時にそう聞かされた。
 今ではクラウが俺の兄・瑛助えいすけであることも、グラニカの前王はメルだったことも知っている。だから、王位を剥奪はくだつされてメルとして生きる彼女の事をいまだに忘れられないクラウの気持ちが知りたかった。

「いいよ、話してあげる」

 そう言ってクラウは再びメルの頭を撫でると、ゆっくりと立ち上がって窓枠に腰を掛けた。
 眼下にある道路の向こう側には堤防が横に伸びている。

「向こうに行った時の事なんて殆ど忘れてるけど、ユースケの保管者になったことで断片的には思い出せてるんだよ」

 対岸にのぞむ町へ顔を向けて、クラウは過去を懐かしむように目を細めた。
 ゆっくりと語りだすその記憶は、瑛助が5歳の時までさかのぼる。

 次元の穴に迷い込んだ瑛助がたどり着いた場所は、グラニカの町から少し離れた丘の上だったという。遠くの山にお城が見えたと聞いて、俺は勝手にメルと行った草原の丘を思い出していた。

「結構距離があったと思うけど。無我夢中で歩いたのかな、城のすぐ近くまで来た時にメルーシュが俺を見つけてくれたんだ」
「確かティオナ様も言ってたな? 最初にお前を見つけたのはメルだって」

 「そうだね」とクラウはうなずく。
 14歳のメルーシュが異世界から来た瑛助を気にかけて、城に住まわせたいと父親である先々代の魔王に頼み込んだという。ティオナも異世界の穴を広げた責任を感じて掛け合ったらしい。

「それで城に居れることになったんだけど、僕はずっと泣いてたらしいよ」

 5歳の子供が、家族の誰もいない世界に突然放り出されたら、そりゃあ泣くだろう。
 今みたいに向こうとこっちを行き来できるようになったのは、クラウが魔王になってからということ。クラウが異世界に飛んだ時から考えると、だいぶ後のことだ。
 
 小さな瑛助が向こうの世界で泣いていた時、俺は兄のことなど何もかも忘れて、のほほんと暮らしていたわけだ。
 けど……。

「お前が居なくなって、美緒も泣いてたんだろうな。俺の保管者はお前で良かったって思うよ」

 美緒の気持ちを考えると、さっき見た京也と重なる。
 クラウは切なさをにじませて頷くと、ゆっくりと話を続けた。

「僕はメルーシュが居たから、笑うことができた。グラニカの人間として生きることになって、僕は向こうでの名前を名乗ることになったんだよ。ハルク様が……えっと、メルーシュのお父さんで、当時の魔王様のことね。彼がそうした方がいいっていうから」
「それでクラウになったのか」
「この名前はメルーシュが付けてくれたんだ」

 嬉しそうに笑顔を広げるクラウ。

「僕の名前は、アルドュリヒ=ジル=クラウザー。アルドゥリヒはメルと一緒。ジルは魔王に付く称号だから後からついたもので、クラウザーは絵本に出てくる王子様の名前なんだ」

 その絵本をメルーシュはクラウに何度も読んでくれたらしい。
 メルは前に過去の名前を「アルドュリヒ=ジル=メルーシュ」と名乗っていた。
 俺は「そうか」と呟いて、胡坐あぐらをかいた膝に乗せていた両手をパチリと撃ち合わせた。
 傍らで寝るメルがその音にむにゃむにゃと動いて、俺の方へと寝返りを打つ。

 そんな彼女に向けるクラウの表情は、嬉しそうな、もどかしいような、あぁ好きなんだなと納得させる分かりやすい顔だった。

「あんな遠くの世界に一人で飛んで行ったのは悲運だったけど、僕はメルに会えて幸せだったと思う。年が離れていたから最初は姉のような存在だった気がするけど、メルが即位するときにはもう彼女のことを愛していたよ」
「すげぇな」
「そう?」

 俺は15歳になって、ようやく美緒が好きだと自覚したというのに。
 大人になるってことは、『愛』って言葉を平然と口にすることができるようになることなんだろうか。
 けれど、20歳でメルーシュが魔王に即位した時、クラウはまだ11歳だ。

「憧れなんかじゃない、もうずっと側に居たいと思った。僕は元々魔法が使えなかったけど、剣術を習っていた。いずれはメルーシュを支える役目になれたらと思ってたんだけどね」
「クーデターが起きたんだな」

 少なくとも今、幼いクラウが望んだ将来は叶えられていない。

「メルーシュの食事に、巧妙こうみょうに毒が仕掛けてあってね。一命はとりとめたけど、やったのは国王への抵抗勢力だった」
「どこの世界でも居るんだな、そういうヤツ」

 「そうだね」とクラウは答える。

「反乱がおきて、それを収めたのが僕だから、僕は今魔王として生きている」
「俺はお前から、タブーを犯したことが逆に先代に気に入られて王になったって聞いたぞ」

 それがクラウとメルの事だと知った時は、だいぶ驚いた。

「生まれながら魔力を持たない人間が魔法使いになることは禁忌とされてる。しかも僕の場合は異世界の人間で、魔王の魔力だ。戦いをしずめる為とはいえ、メルーシュはそんなの望んではいなかった。それを僕が無理矢理奪い取ったものだから、彼女は僕の事馬鹿だって笑っていたよ」
「ちょっと待って」

 俺は一つ重要なことを思い出す。それは、酒場でゼストが言った言葉だ。

 ――「魔王クラウザーは、前王メルーシュが仕掛けた100匹のジーマを相手に一人で戦ったっていうぜ?」

「お前は誰と戦ったんだ?」

 その戦いはひと月くらいかかったと言っていた。まだヒルドやゼストが兵学校に居た頃の話だ。
 「そうだね」と話し出すクラウの顔が悲しみを帯びているのが分かって、俺は身構える。

「魔王の力ってのはさ、暴走するんだよ」
「暴走……って。緋色の魔女のことか?」

 メルも、あの状態のことを『暴走』と言っていた。

「そう。あれは魔王の力の名残なんだよ。僕がユースケに分けた力もそうだ。覚えがあるんじゃない?」
「あっ……」

 俺は山でのことを思い出して、大きく頷いた。
 メルが緋色の魔女になって俺は一度殺された。けれど、クラウの力で生還した俺は別の意思に支配されてメルを殺そうとしたのだ。
 つまり、俺も暴走したという事らしい。

「あれが……じゃあ、お前はクーデターの時、緋色の魔女と戦ったのか」
「メルーシュが悪いわけじゃないのにね。国民の前で暴走したせいで、彼女の王位が剥奪はくだつされた」
「そんな!」

 つい大きくなる俺の声に、クラウが「静かに」と人差し指を立てる。

「魔王の力ってことは、お前もあんな風に自分を忘れたように暴れるのか?」
「そうならない努力はしてるけどね」

 クラウは立ち上がり、自分のシャツのボタンに手を掛けた。
 上から一つずつ外されていく様子に俺は驚きつつも、息を呑んで見入ってしまう。
 シャツを脱ぎ、月明かりに晒された胸板の真ん中に、てのひらほどの大きな傷痕きずあとがあった。

「これは、その時に聖剣で一突きにされたあとだよ。治癒師でメルーシュ親衛隊だったリトの父親のマーロイや、まだ小さかったリトに全力で治してもらったけど、これ以上は消えなかったんだ」
「聖剣って、メルにやられたってことなのか?」

 もうすっかり塞がってはいるが、傷を見ただけで痛みが伝わってくる。
 メルに殺された記憶が蘇って、俺は自分の心臓を押さえた。

「僕が魔王になって、メルーシュは全ての力を僕に託した。力を失ったメルが赤ん坊の姿になったことは、誰かの意図した結果じゃない。そうなってしまったってのが正しいかな」
「お前は……そんなにメルが好きなのに、メルを断ち切らなきゃならないのか? そうしないと本当に聖剣を抜けないのかよ」

 俺たちがこの世界に来た理由は、クラウが心を断ち切って魔王として聖剣を抜けるようになることだ。
 それは分かってるけれど。

「僕はメルーシュの代わりに魔王を務めなきゃならないんだよ」
「けど、今も愛してるんだろ?」
「もちろん」

 矛盾だらけの笑顔は、雲のない晴れた空に浮かぶ太陽のようだった。

 俺はその時、メルが起きていることに気付いてしまった。
 クラウを背に、泣き出しそうな目をこらえている。
 このまま気付かぬふりをすべきか、演技して『起きちゃったのか?』とでもいうべきか。
 けれど俺は出しかけた言葉を発することができず、素知らぬ顔を作ってクラウの話に耳を傾けた。

 (メル、俺はお前に何をしてやれる--?)

 メルは何も言わずに、声を殺して涙を流す。
 俺は布団の中に手を滑り込ませて、小さな彼女の片手をぎゅっと握った。
 いつもの逆だな、と思いながら。 
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