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最終章 決着
165 消えた気配
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咲にとって蓮が心の拠り所だというのは、あの二度目のお泊り会で彼女の泣き声を聞いた時から分かっていた。
ハロン戦真っ只中、みさぎは気を失ったままリーナだった頃の夢を見ていた。
「ウチに来ないか」と言われてハリオスの家に住むことになった夜、初めて与えられた一人部屋に寂しさが込み上げて、ヒルスに泣きついた。
それまでの家は家族四人が同じ部屋に寝るような狭い所で、一人でいることがまずなかった。暗い窓に戦争の記憶が蘇って、兄のベッドに飛び込んだのだ。
小さい頃のリーナは、兄がいれば何でもできるような気がしていた。怖くても寂しくても、兄と手を繋いでいれば、そんな気持ちもどこかへ吹き飛んで行ってしまう。
けれど、あの時「しょうがないな」と微笑んだヒルスもまた、色々な思いを抱えていたのかもしれない。
夢心地で目覚めたみさぎは、頬を撫でる冷たい風と不気味な気配にハッと目を見開いた。
事態が最悪の展開を醸しているかもしれないと危惧したのは、冷えた空気に混じる臭いがまだ新しい記憶を引きずり出したからだ。
「甘い匂いがする……」
まさかという思いに飛び起きると、「待て」と背後からの声に止められる。その懐かしい響きに、みさぎは驚いて振り向いた。
まだ夢の中に居るのだろうか──そこにターメイヤの賢者ハリオスがいたのだ。
地面にひかれた茣蓙の上に座った状態で、みさぎの剥いだ毛布を膝の上に掛け直す。
「お爺ちゃん……?」
彼は、校長の田中耕造ではなくハリオスの姿をしていた。彼はターメイヤからの転移でこの世界に来て、ルーシャの魔法で日本人の顔になっていると聞いている。
魔法が解かれた状況に不安になって、みさぎは思わず耕造の腕を掴んだ。
「まさかルーシャに何かあったの?」
「いや、ルーシャも他の連中もみんな無事だ。姿が違うのは、ルーシャが隔離魔法に集中するためだよ」
「そうか、空間隔離……びっくりしたけど、それなら良かった」
異なる外見の維持は相当な魔力を使う。ただでさえ隔離壁への負担は大きいのだ。
目の前にいるハリオスは、リーナの記憶の中の彼よりも大分年上に見える。
久しぶりの再会のような気がして、みさぎは彼の胸に飛び込みたい気分になったが、衝動を堪えて真っ暗になった空を見渡す。今の状況を知るのが先だ。
さっき戦ったハロンの気配がある位置と、甘い匂いのする方向は大分離れている。
今いるこの場所は、隔離空間の西の端だ。初めて来る場所だけれど、赤い鳥居がすぐ側にあって、等間隔に並んだ灯篭の灯りで、そこが神社だとすぐに分かった。
お社は隔離壁の外で、北の端同様に透明の膜が視界を遮っている。
「お爺ちゃんがここまで運んでくれたの?」
耕造は「まだ若いからな」と目を細めた。
「今、あのハロンが出てるんだよね? この間倒した丸いやつ」
「そうだ。けど、まだ早い。回復しないまま行ってもやられるだけだぞ?」
どうしてまたあのハロンが出ているのかは分からないが、広場で感じた嫌な予感の正体はそれだと確信して、みさぎは意気込んだ。
咲の怪我を治したことによる体力の消耗が、まだまだ不十分なことは分かっている。けれど、ここで待っていられるような穏やかな性格は生憎持ち合わせがない。
「向こうにはラルが居るから大丈夫だよ。行かせて」
「お前からそんな言葉が出るとは驚いたな」
酷い言われようだ。けれど、自分でも自分の発言に笑いたくなった。
『私が行くから』
それがリーナの常套句だった。何でも自分でできると思っていた。
けれど今は違う。
「私一人じゃ何もできないって分かったから」
こうしている間にも、皆が戦ってくれている。もし隔離されたこの空間に居るのがハロンと自分だけだったら、もう負けの決着がついていたかもしれない。
一人でないからできることは多くて大きい。
「そうだな。けど、お前は強い。ターメイヤが誇る最強のウィザードであることには変わらんよ。だからって自分だけ前に出ようとはしなくていいから。ちゃんと覚えておきなさい」
「おじいちゃん……」
「まずは、これを食べるのが先だ」
また丸薬かと思って警戒するが、耕造がみさぎの手に乗せたのはアルミ箔に包まれた大きなおにぎりだった。
「これお爺ちゃんが作ってくれたの?」
「お前の為にな」
みさぎは眩暈を堪えてアルミ箔を剝がすと、「ありがとう」と口へ運んだ。
少し冷たくて、優しい味がする。
「美味しい」
「薬は持っていきなさい。ここに埋めてあった分だ」
「うん」
耕造は横に置いたみさぎの鞄に丸薬を詰めた。
「儂には何が正しいのかなんて分からん。この戦いもそうだ。何が運命を動かすきっかけになるかなんて分からないが、お前は自分の動きたいように動いてみなさい。儂がこの世界に来たのは、お前たちにまた会いたかったからだ。この先何があっても、その事に後悔はしない。ヒルスも自分の意志でアッシュの死を救っただろ? お前もやってみなさい」
「泣かせないで」
おにぎりの最後の一口がやたらしょっぱい。
「分かったよ」とみさぎは改めて耕造に抱き着く。懐かしいハリオスの匂いがした。
「私行ってくるから、おじいちゃんも気を付けてね」
「お前もな」
みさぎは立ち上がって、広場へ向けて駆け出す。
砂糖を煮詰めたような甘い匂いは、プンと前の方向から沸き立ってくる。
けれど、広場への坂に差し掛かった所で、みさぎは「あれ」と足を止めた。
どこからかキンと高い音が鳴り、同時に黒いハロンの気配が消えたのだ。
ハロン戦真っ只中、みさぎは気を失ったままリーナだった頃の夢を見ていた。
「ウチに来ないか」と言われてハリオスの家に住むことになった夜、初めて与えられた一人部屋に寂しさが込み上げて、ヒルスに泣きついた。
それまでの家は家族四人が同じ部屋に寝るような狭い所で、一人でいることがまずなかった。暗い窓に戦争の記憶が蘇って、兄のベッドに飛び込んだのだ。
小さい頃のリーナは、兄がいれば何でもできるような気がしていた。怖くても寂しくても、兄と手を繋いでいれば、そんな気持ちもどこかへ吹き飛んで行ってしまう。
けれど、あの時「しょうがないな」と微笑んだヒルスもまた、色々な思いを抱えていたのかもしれない。
夢心地で目覚めたみさぎは、頬を撫でる冷たい風と不気味な気配にハッと目を見開いた。
事態が最悪の展開を醸しているかもしれないと危惧したのは、冷えた空気に混じる臭いがまだ新しい記憶を引きずり出したからだ。
「甘い匂いがする……」
まさかという思いに飛び起きると、「待て」と背後からの声に止められる。その懐かしい響きに、みさぎは驚いて振り向いた。
まだ夢の中に居るのだろうか──そこにターメイヤの賢者ハリオスがいたのだ。
地面にひかれた茣蓙の上に座った状態で、みさぎの剥いだ毛布を膝の上に掛け直す。
「お爺ちゃん……?」
彼は、校長の田中耕造ではなくハリオスの姿をしていた。彼はターメイヤからの転移でこの世界に来て、ルーシャの魔法で日本人の顔になっていると聞いている。
魔法が解かれた状況に不安になって、みさぎは思わず耕造の腕を掴んだ。
「まさかルーシャに何かあったの?」
「いや、ルーシャも他の連中もみんな無事だ。姿が違うのは、ルーシャが隔離魔法に集中するためだよ」
「そうか、空間隔離……びっくりしたけど、それなら良かった」
異なる外見の維持は相当な魔力を使う。ただでさえ隔離壁への負担は大きいのだ。
目の前にいるハリオスは、リーナの記憶の中の彼よりも大分年上に見える。
久しぶりの再会のような気がして、みさぎは彼の胸に飛び込みたい気分になったが、衝動を堪えて真っ暗になった空を見渡す。今の状況を知るのが先だ。
さっき戦ったハロンの気配がある位置と、甘い匂いのする方向は大分離れている。
今いるこの場所は、隔離空間の西の端だ。初めて来る場所だけれど、赤い鳥居がすぐ側にあって、等間隔に並んだ灯篭の灯りで、そこが神社だとすぐに分かった。
お社は隔離壁の外で、北の端同様に透明の膜が視界を遮っている。
「お爺ちゃんがここまで運んでくれたの?」
耕造は「まだ若いからな」と目を細めた。
「今、あのハロンが出てるんだよね? この間倒した丸いやつ」
「そうだ。けど、まだ早い。回復しないまま行ってもやられるだけだぞ?」
どうしてまたあのハロンが出ているのかは分からないが、広場で感じた嫌な予感の正体はそれだと確信して、みさぎは意気込んだ。
咲の怪我を治したことによる体力の消耗が、まだまだ不十分なことは分かっている。けれど、ここで待っていられるような穏やかな性格は生憎持ち合わせがない。
「向こうにはラルが居るから大丈夫だよ。行かせて」
「お前からそんな言葉が出るとは驚いたな」
酷い言われようだ。けれど、自分でも自分の発言に笑いたくなった。
『私が行くから』
それがリーナの常套句だった。何でも自分でできると思っていた。
けれど今は違う。
「私一人じゃ何もできないって分かったから」
こうしている間にも、皆が戦ってくれている。もし隔離されたこの空間に居るのがハロンと自分だけだったら、もう負けの決着がついていたかもしれない。
一人でないからできることは多くて大きい。
「そうだな。けど、お前は強い。ターメイヤが誇る最強のウィザードであることには変わらんよ。だからって自分だけ前に出ようとはしなくていいから。ちゃんと覚えておきなさい」
「おじいちゃん……」
「まずは、これを食べるのが先だ」
また丸薬かと思って警戒するが、耕造がみさぎの手に乗せたのはアルミ箔に包まれた大きなおにぎりだった。
「これお爺ちゃんが作ってくれたの?」
「お前の為にな」
みさぎは眩暈を堪えてアルミ箔を剝がすと、「ありがとう」と口へ運んだ。
少し冷たくて、優しい味がする。
「美味しい」
「薬は持っていきなさい。ここに埋めてあった分だ」
「うん」
耕造は横に置いたみさぎの鞄に丸薬を詰めた。
「儂には何が正しいのかなんて分からん。この戦いもそうだ。何が運命を動かすきっかけになるかなんて分からないが、お前は自分の動きたいように動いてみなさい。儂がこの世界に来たのは、お前たちにまた会いたかったからだ。この先何があっても、その事に後悔はしない。ヒルスも自分の意志でアッシュの死を救っただろ? お前もやってみなさい」
「泣かせないで」
おにぎりの最後の一口がやたらしょっぱい。
「分かったよ」とみさぎは改めて耕造に抱き着く。懐かしいハリオスの匂いがした。
「私行ってくるから、おじいちゃんも気を付けてね」
「お前もな」
みさぎは立ち上がって、広場へ向けて駆け出す。
砂糖を煮詰めたような甘い匂いは、プンと前の方向から沸き立ってくる。
けれど、広場への坂に差し掛かった所で、みさぎは「あれ」と足を止めた。
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