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5章 10月1日のハロン
67 無機質な黒
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『あれが現れた時、どうして私たちは人間同士で戦争なんかしてるのかしらって思ったの』
昔、大戦の話をした時に、ルーシャがそんなことを言っていた。
『敵は人間じゃないだろうってね。それでも戦争は続いたけど』
ハロン出現から次元隔離完了まで、半日もなかったという。間に合ったのが奇跡だと言って、ルーシャは哀しそうに微笑んだ。
☆
慣れてきたと思っていた嗅覚が、また甘い匂いを感じ取る。
ロッドから放たれた炎が照らしつけたその姿は、巨大な漆黒の玉だった。
人の長さの倍はあるだろう直径の玉は、金属のような重量感のある見た目を無視してフワリフワリと空中を彷徨う。
戦う手足もなければ表情さえない。
炎を反射して飴色に光る無機質な玉がハロン本体の全貌だった。
ただ不気味に浮かぶだけなのに、そこから発される無言の威圧感に息をすることすら忘れそうになる。
「ルーシャが言っていましたが、これは大きな的ですね」
中條の声に危機感は感じられない。
「ただの的なら簡単だろうけど……」
「簡単ですよ。アレを仕留めるのに欲しいのは覚悟だけです。このハロンは昼の空に闇を降らせるので、夜の間は何も怖いことはありません。アッシュを助けることで生じる、別の未来に挑む覚悟をするだけで終わらすことができますよ」
試すように笑んだ中條から目を逸らして、みさぎは炎を消した。くるりと回した指の軌跡に魔法陣が現れて、ロッドを柄から吸い込んでいく。
深い闇が戻って、ハロンの咆哮が木霊した。
口なんてないのに全身で響かせてくる声に、みさぎは息を呑む。
「この壁の内側は、空気が薄いはずです。一度仕掛けたら一気に終わらせないと立っていられなくなりますよ。ですから気持ちを整えましょうか。少しなら休んでも構いませんよ。やる気になったら言って下さい」
中條はみさぎを一瞥すると、嫌顔の咲に並んで目を閉じた。
休憩などいらなかった。
今すぐにでも飛び出したい気持ちを堪えて、みさぎは闇を見据える。
「私が……」
そっと呟いた声は、誰の耳にも届かないほど小さい。
目の前にいるのは、リーナが戦ったハロンとは全くの別物だ。
魔法攻撃を受け付けないモンスターは山に行くとたまに遭遇することがある。そんな時は自分で剣を取るか、仲間の剣士に任せるかという選択になる。
だから今は湊に任せるべきだというのは分かっているのに、ウィザードとして戦えない自分が、過去のハロン戦に何もできなかった自分と重なってしまう。
あの時止めを刺せなかった。だから次元隔離をして、智に死の運命を負わせてしまっのだ。
今これを叩くのが自分でありたいと思う。
「緊張してる?」
横から覗き込んだ湊に「してないよ」と答えて、みさぎは胸の内を明かす。
「早くやりたいって焦ってる。良くないよね」
湊は「そうだね」と苦笑して、中條を振り返った。
「宰相、先生と呼んでもいいですか?」
中條は伏せていた目をパチリと開いて、顔を起こした。
「構いませんよ。昔の貴方とは、あまり面識がありませんしね」
「どうしてルーシャは、俺がコレを一人で倒せると言ったんですか? 確かに止めを刺せるのはこの剣かもしれないけど、一人じゃ中に入るのもやっとだ。それを――」
「貴方が戦うのを昼間だと想定していたからですよ」
中條はあっさりとした口調で、湊の言葉を遮った。
「このハロンは夜明けまでこのままです。アッシュを助ける選択をしないのなら、朝になって闇が晴れるのを待てばいい」
つまり、この世界に転生したのがラルとアッシュの二人だけなら、感覚の鈍い湊は朝になるまで智の危機に気付かなかったということだ。
「この闇さえなければ、ハロンは本体だけです。それを倒すのは貴方一人で十分というわけですよ。アッシュの死を前提としてね。過去の敗因は、最初に遭遇した部隊の戦力不足です。魔法使いが中心で、手練れの剣士も武器もなかった。けど今は違います。ラルフォン、貴方がいて武器がある。条件は揃っていますよ」
「恐らく」と加えて、中條は続けた。
「アッシュが死を迎えるのは、日を跨いでからなんだと思います。十月一日にハロンがアッシュを殺す――そこだけを切り取れば、何の間違いもない。いいですか? 戦は思い通りになんていかないものです。想定外だと思う事をどれだけ事前に想定の範疇へ引き込めるかが大事なんですよ。心しておいてください」
「そういうことですか……」
非情だと思うけれど、彼が現実を告げているだけだという事は分かる。
中條の隣で押し黙る咲がまだヒルスだった頃、彼はリーナが戦う事を拒絶していた。
リーナがハロン戦で苦戦して、力のなさに圧し潰されそうになったからだ。それなのに転生したいという妹を送り出して、記憶も戻してくれた。
だから、この世界に来てまで守られる立場になんていたくないと思う。
「私たちは貴方たちの起こす運命を見届ける為に来たんです。アッシュを救うと決めたのなら、助けてあげなさい。私たちもできる範囲でですが、全力で力添えしますから」
「私たちってルーシャの事ですか? それ以外にもターメイヤから来た人はいるんですか?」
湊が尋ねると、咲がハッと顔を上げて横目に中條を見る。
彼女は大人たちの事情を知っているようだ。
「他にも居るの?」
確かに二人いるなら三人いてもおかしくないなと、みさぎは期待してしまう。
けれど中條はその答えをくれなかった。
「この戦いが終わったら分かりますよ」
不敵な笑みは肯定を示すのだろうか。
みさぎは少し嬉しくなって、懐かしの面々を頭に浮かべる。
そのうちの誰かと再会するために、智を救ってハロンを倒さなければならない。
「湊くん、行こうか」
「おぅ」と答えた湊が剣を構えると、また闇がズンと地面を揺らした。
「このハロン、剣に反応してる気がする」
「言葉は話さなくても意思があるのでしょう。かつてターメイヤに現れた時の、切られた刃の痛みを覚えているのだと思います。次元隔離で異次元に弾き出されたハロンは、足掻いて足掻いてようやく今脱出したところで、蘇る記憶にもがいている。この世界で朝を待つ戦意の原動力は、復讐なのかもしれません」
「コイツに朝なんて来させない。その前に、記憶以上の痛みを味合わせてやるよ」
「そうですね」
冷ややかに闇を睨む湊に、中條は軽く手を叩いてにっこりと笑んだ。
「先生も、準備はいいですか?」
「私はいつでも」
「はい」と頷いて、湊はみさぎと顔を見合わせた。
まずは湊の剣で中へ突入する。
「じゃあ、お願いします」
緊張を走らせたみさぎの声を合図に、湊が剣を振り上げて闇へと地面を蹴りつけた。
昔、大戦の話をした時に、ルーシャがそんなことを言っていた。
『敵は人間じゃないだろうってね。それでも戦争は続いたけど』
ハロン出現から次元隔離完了まで、半日もなかったという。間に合ったのが奇跡だと言って、ルーシャは哀しそうに微笑んだ。
☆
慣れてきたと思っていた嗅覚が、また甘い匂いを感じ取る。
ロッドから放たれた炎が照らしつけたその姿は、巨大な漆黒の玉だった。
人の長さの倍はあるだろう直径の玉は、金属のような重量感のある見た目を無視してフワリフワリと空中を彷徨う。
戦う手足もなければ表情さえない。
炎を反射して飴色に光る無機質な玉がハロン本体の全貌だった。
ただ不気味に浮かぶだけなのに、そこから発される無言の威圧感に息をすることすら忘れそうになる。
「ルーシャが言っていましたが、これは大きな的ですね」
中條の声に危機感は感じられない。
「ただの的なら簡単だろうけど……」
「簡単ですよ。アレを仕留めるのに欲しいのは覚悟だけです。このハロンは昼の空に闇を降らせるので、夜の間は何も怖いことはありません。アッシュを助けることで生じる、別の未来に挑む覚悟をするだけで終わらすことができますよ」
試すように笑んだ中條から目を逸らして、みさぎは炎を消した。くるりと回した指の軌跡に魔法陣が現れて、ロッドを柄から吸い込んでいく。
深い闇が戻って、ハロンの咆哮が木霊した。
口なんてないのに全身で響かせてくる声に、みさぎは息を呑む。
「この壁の内側は、空気が薄いはずです。一度仕掛けたら一気に終わらせないと立っていられなくなりますよ。ですから気持ちを整えましょうか。少しなら休んでも構いませんよ。やる気になったら言って下さい」
中條はみさぎを一瞥すると、嫌顔の咲に並んで目を閉じた。
休憩などいらなかった。
今すぐにでも飛び出したい気持ちを堪えて、みさぎは闇を見据える。
「私が……」
そっと呟いた声は、誰の耳にも届かないほど小さい。
目の前にいるのは、リーナが戦ったハロンとは全くの別物だ。
魔法攻撃を受け付けないモンスターは山に行くとたまに遭遇することがある。そんな時は自分で剣を取るか、仲間の剣士に任せるかという選択になる。
だから今は湊に任せるべきだというのは分かっているのに、ウィザードとして戦えない自分が、過去のハロン戦に何もできなかった自分と重なってしまう。
あの時止めを刺せなかった。だから次元隔離をして、智に死の運命を負わせてしまっのだ。
今これを叩くのが自分でありたいと思う。
「緊張してる?」
横から覗き込んだ湊に「してないよ」と答えて、みさぎは胸の内を明かす。
「早くやりたいって焦ってる。良くないよね」
湊は「そうだね」と苦笑して、中條を振り返った。
「宰相、先生と呼んでもいいですか?」
中條は伏せていた目をパチリと開いて、顔を起こした。
「構いませんよ。昔の貴方とは、あまり面識がありませんしね」
「どうしてルーシャは、俺がコレを一人で倒せると言ったんですか? 確かに止めを刺せるのはこの剣かもしれないけど、一人じゃ中に入るのもやっとだ。それを――」
「貴方が戦うのを昼間だと想定していたからですよ」
中條はあっさりとした口調で、湊の言葉を遮った。
「このハロンは夜明けまでこのままです。アッシュを助ける選択をしないのなら、朝になって闇が晴れるのを待てばいい」
つまり、この世界に転生したのがラルとアッシュの二人だけなら、感覚の鈍い湊は朝になるまで智の危機に気付かなかったということだ。
「この闇さえなければ、ハロンは本体だけです。それを倒すのは貴方一人で十分というわけですよ。アッシュの死を前提としてね。過去の敗因は、最初に遭遇した部隊の戦力不足です。魔法使いが中心で、手練れの剣士も武器もなかった。けど今は違います。ラルフォン、貴方がいて武器がある。条件は揃っていますよ」
「恐らく」と加えて、中條は続けた。
「アッシュが死を迎えるのは、日を跨いでからなんだと思います。十月一日にハロンがアッシュを殺す――そこだけを切り取れば、何の間違いもない。いいですか? 戦は思い通りになんていかないものです。想定外だと思う事をどれだけ事前に想定の範疇へ引き込めるかが大事なんですよ。心しておいてください」
「そういうことですか……」
非情だと思うけれど、彼が現実を告げているだけだという事は分かる。
中條の隣で押し黙る咲がまだヒルスだった頃、彼はリーナが戦う事を拒絶していた。
リーナがハロン戦で苦戦して、力のなさに圧し潰されそうになったからだ。それなのに転生したいという妹を送り出して、記憶も戻してくれた。
だから、この世界に来てまで守られる立場になんていたくないと思う。
「私たちは貴方たちの起こす運命を見届ける為に来たんです。アッシュを救うと決めたのなら、助けてあげなさい。私たちもできる範囲でですが、全力で力添えしますから」
「私たちってルーシャの事ですか? それ以外にもターメイヤから来た人はいるんですか?」
湊が尋ねると、咲がハッと顔を上げて横目に中條を見る。
彼女は大人たちの事情を知っているようだ。
「他にも居るの?」
確かに二人いるなら三人いてもおかしくないなと、みさぎは期待してしまう。
けれど中條はその答えをくれなかった。
「この戦いが終わったら分かりますよ」
不敵な笑みは肯定を示すのだろうか。
みさぎは少し嬉しくなって、懐かしの面々を頭に浮かべる。
そのうちの誰かと再会するために、智を救ってハロンを倒さなければならない。
「湊くん、行こうか」
「おぅ」と答えた湊が剣を構えると、また闇がズンと地面を揺らした。
「このハロン、剣に反応してる気がする」
「言葉は話さなくても意思があるのでしょう。かつてターメイヤに現れた時の、切られた刃の痛みを覚えているのだと思います。次元隔離で異次元に弾き出されたハロンは、足掻いて足掻いてようやく今脱出したところで、蘇る記憶にもがいている。この世界で朝を待つ戦意の原動力は、復讐なのかもしれません」
「コイツに朝なんて来させない。その前に、記憶以上の痛みを味合わせてやるよ」
「そうですね」
冷ややかに闇を睨む湊に、中條は軽く手を叩いてにっこりと笑んだ。
「先生も、準備はいいですか?」
「私はいつでも」
「はい」と頷いて、湊はみさぎと顔を見合わせた。
まずは湊の剣で中へ突入する。
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