1 / 190
プロローグ
しおりを挟む
世界を脅威に陥れた戦いが終わって一年が過ぎた。
ため息が出る程の平和な日々が過ぎ行く中、城の地下で魔術師の女が、垣間見た未来に絶句する――それが全ての始まりだった。
☆
異世界へ旅立つ決心を胸にいざここへ来たものの、足が竦まないわけはない。
断崖絶壁から水しぶきに霞む下方を覗き込んで、リーナはゴクリと息を呑んだ。
崖で途切れた川の水が滝壺を叩き付ける振動が全身に響いてくる。
「別に、怖いなら飛び込まなくてもいいのよ? 貴女がここで死んで異世界へ生まれ変わらなくても、先に行ったラルがちゃんとアイツを始末してくれるはず。彼の力を信用してみたらどう?」
背後で見守るルーシャが仁王立ちに構えて、眉間の皺を寄せた。
リーナは下唇をぎゅっと噛んで、ふるふると首を横に震わせる。
「ラルが強い事なんて、私は誰よりも知ってる。だから、信用してないわけじゃないよ。けど、アッシュの事を聞いたら、一人にさせるなんてできないから……」
――『アッシュが死んでしまうの』
つい数日前にルーシャが言った言葉を頭で繰り返すと涙の衝動が起きて、リーナはきゅっと目を閉じた。
ラルもアッシュも、リーナにとって大切な人だ。なのに二人はリーナに何も言わず、別の世界へ行ってしまった。
「あの二人が異世界へ飛んで、貴女までを行かせるのは、この国にとって大きな損失なのよ?」
「私にはもう力なんてないのに」
「そう思ってるのは周りだけ。貴女はそうじゃないって分かっているでしょう? 発動できないように魔法を魔法で抑え込んでいるだけなんだから」
「うん――」
ルーシャの言う事はちゃんとわかっている。一年前消したはずの魔法がまだ使えることは、二人だけの秘密だ。
けど、それを当てに先に行ったラルとアッシュを追い掛ける決断をしたのも事実だった。これはルーシャにも言っていない。
胸の前で両手をぎゅっと合わせたリーナに、ルーシャは右手に掴んだ黒い杖の先で足元をドンと突いた。
「貴女があの二人を追い掛けたいのはよぉく分かるけど、それが彼等の想いに背くことになるのを覚えておいてね」
「それでも行きたいと思ったから、ここに来たんだよ。そうでしょ……?」
躊躇いを含んだ返事に、ルーシャは「貴女が決めたのなら、構わないわ」と肩をすくめた。
「その調子だと、ヒルスにも言わないで来たの?」
「……うん」
そのことは少しだけ後悔している。
ヒルスはリーナの兄だ。彼に言えばきっと全力で止められるだろうし、覚悟が鈍ると思って最後まで言う事ができなかった。
先に異世界へ旅立った二人を追い掛けて、この世界にさよならを言う。
その手段は、この崖を飛び降りて今の自分の肉体を殺すことだ。
「全く、貴女達は。三か月前、あの二人にも同じことを聞いて、私は同じ返事をもらったわ。突然二人が居なくなって貴女が泣いたように、ヒルスも泣くんでしょうね。そしてきっと、同じことを私に聞くのよ」
「同じこと……?」
「まぁいいわ。行きたいと思うなら行けばいい。けど、もう一度確認させて。ここに飛び込めば貴女はもうこの世界に戻れない。私がヘマしないとも限らないけど、それでもいいの?」
「それでもいい。二人の所へ行ける可能性を、自分が生きる為だけに無視することはできないよ。大丈夫、ルーシャが失敗したら、ここで私が死ぬだけだから。あの時最後まで戦えなかった私が責任を取らなきゃ。だから、その世界へ行かせて」
潤んだ涙を拭って、リーナは訴える。一瞥した崖は、底が見えない程に深い。
ルーシャは浅いため息を吐き出して、「しょうがないわね」と苦笑した。
「偉大なるウィザード様ね、貴女は。私の目は間違っていなかったわ」
「ルーシャには感謝してる」
不安がないわけではないけれど、もう大丈夫だとリーナが崖へと踵を返した所で、滝の音に重ねた足音がドドドっと近付いてきた。
「リーナぁぁあああ!!!」
「兄様?」と呟いて、リーナが崖の先端へ急いだ。けれど、そのまま飛び込もうとして足が竦み、走ってきたヒルスに後ろ腕を引っぱられてしまう。
「行くなよリーナ、僕を置いていかないでくれよ!」
強引に崖から離され、リーナは涙をいっぱいにためたヒルスと向かい合った。
朝食時のままの平服に、いつも整ったおかっぱ髪が乱れている。よほど急いで来たのだろう。
彼を残しては行けないと、何度も思った。けれど、二人を追い掛けたいという気持ちを捨てることはできなかった。
「どうして追ってきたの? 兄様にさよならなんて言いたくなかったよ」
「城で聞いたんだ。僕を一人にして、お前はアイツらの所に行くのかよ。だったら僕もついて行くからね?」
「ちょっと、いきなり何を言い出すの?」
リーナに訴えるヒルスの提案に、ルーシャが声を荒げた。
「異世界へ行く穴は今一人分しか確保できてない。二人で突っ込めば破裂して共倒れしてしまうわ」
「黙れよルーシャ。お前本気でリーナを行かせる気かよ。先に行ったアイツらだって、本当に生きてるかも怪しいんじゃないのか?」
ヒルスの勢いは止まらない。
ルーシャに詰め寄って胸ぐらを掴み上げるが、パシリと細い手で払われてしまう。
「落ち着いて。いい、たとえ住む世界が違っても、あの二人がちゃんと生きてることは私が保証する。リーナは自分の意志で行くと決めたんだから、貴方は兄として送り出してあげて」
「僕は、もうリーナに会えないのが嫌なんだよ!」
威嚇するように喚いて、ヒルスはガクリと項垂れる。
「リーナがアイツを助けたいって言うなら、僕がリーナの代わりに行く。ルーシャ、リーナじゃなくて僕をそっちへ行かせてくれないか?」
「貴方じゃ役不足なのよ。リーナはアッシュから剣を引き継ぐために行くの。最強の敵と戦う為に作られた、魔法使いにしか発動できないものだから、潜在能力のない貴方じゃ無理なのよ」
はっきりと否定されて、ヒルスは「畜生」と地面にうずくまる。瞼に留まっていた涙がボタボタっと砂利を濡らした。
「僕は、リーナを戦場へ戻したくないんだ。リーナはもうウィザードじゃないんだぞ?」
「兄様……私はもう大丈夫。魔法は……使えないけど、戦えるよ」
肩を震わせるヒルスに、リーナはふと可能性を垣間見て「そうだ」と顔を上げた。
「どうした?」と涙でぐしゃぐしゃの顔を傾けるヒルスに小さく笑顔を零す。
「ねぇ兄様。昔から、兄様の言ったことは何でも本当になったと思わない?」
「リーナ?」
「戦争で父様も母様も居なくなって泣いてた私がこうしてお城に居られるようになったのは、兄様のお陰でしょう?」
――『リーナ、僕がきっと毎日ドレスを着られるようにしてあげるから』
小さい頃、寂しさを紛らわせるように言ってくれたヒルスの言葉は、今でも耳に残っている。
「兄様が私にまた会えるって思ってくれるなら、多分そうなるんじゃないかと思うの。だから、私が兄様に最後の魔法を掛けてもいい?」
話を把握できないヒルスに両手を伸ばし、リーナは兄の胸にぎゅうっと抱き着いた。
驚いたルーシャが、「そういう事」と納得顔でリーナへ大きく頷く。
「リーナ?」と戸惑うヒルスの耳元まで背伸びして、リーナは小さく呪文を唱えた。けれどそれはヒルスにも聞き取れない程の小さな声で、ほんの一瞬の事だった。
リーナがヒルスを離れ、そのまま再び崖へと向かう。
爪先を割れた地面の先端に合わせて、二人を振り返った。
「ねぇルーシャ、あの二人は最後まで笑顔だった?」
「えぇ。最後まで貴女のこと心配してたけどね」
「それなら良かった」
「いい、運命ってのは本来変えることができないのよ。未来を救うなんて賭けみたいなものだって言ったでしょう? 貴女達が異世界へ行くことで向こうにどれだけの影響を及ぼすかなんて分からない。覚悟しておくのよ」
「分かってるよ」
リーナは滝の向こうの風景を仰いだ。
ここから跳べば、遠い世界の未来を救うことができるかもしれない。
だからその前に、戻ることのできないため息が出る程の平和を目に焼き付けておこう。
青い空、緑の山、遠くの海、そして大事な人たちを――。
肩越しにもう一度二人を振り返って、リーナはいっぱいの笑顔を送った。
先に行った二人がそうであったように。
「大好きだよ、兄様。じゃあまたね、バイバイ」
「リーナぁぁぁああ!」
最後にまた引き止められるんじゃないかと思ったけれど、ヒルスはそこから動かなかった。
軽く地面を蹴ると、身体は滝壺に引き寄せられるように落ちていく。
空が藍色に光ったのが見えて、リーナはそっと目を閉じた。
この先にあるのが未来だと信じて。
☆
ただ水の音だけが広がる沈黙の中で、ヒルスはルーシャに背を向けたまま立ち尽くしていた。
「貴方、良く堪えたわね。後追いでもされたらどうしようかって内心ヒヤヒヤしてたのよ?」
「あいつは、ちゃんと行ったのか?」
ヒルスが消失感を背負ったまま力なく問いかけると、ルーシャは滝壺へと構えていた杖を引いて「えぇ」と答えた。
彼女が空中に描いた藍色の魔法陣が、宙に溶けて消える。
「リーナのさっきのアレは何だったんだ?」
ヒルスはもう二度と会えない妹を思って自分の肩をそっと抱きしめた。
彼女は最後に何か言っていたけれど、それが別れの言葉でも何でもなかったことが不思議でたまらない。
「アイツはもう魔法なんて使えないはずだろう?」
「何ってそれは――まぁ、必要になったら教えてあげるわ」
「意味わかんないよ。けど、リーナが向こうへ行って幸せなら、それでいいのかな。どうせなら何も思い出さずに暮らしてくれたらと思うのは、僕の我儘なのかい?」
「貴方にしては珍しく物分かりが良いじゃない。先に行った二人は、あの子が追い掛けてくるなんて夢にも思っていないでしょうね。会ったらさぞ驚くんじゃないかしら」
「アイツらが恨めしいよ。けど、本当にアッシュは死ぬのか?」
「死ぬわよ」
杖の先についた黒い球を撫でながら躊躇いなく肯定したルーシャに、ヒルスはその意味を噛み締めるように唇を結んだ。
「だからリーナはアッシュの武器を引き継いで、ラルと一緒に地球って世界を救うのよ」
ヒルスは涙を腕でゴシゴシっと拭い、意気込むルーシャを振り返る。
ルーシャは実に楽しそうな顔をしていた。愉快を通り越して何かを企むような表情に、ヒルスはぼんやりと首を傾げる。
「そんなしょげた顔しなくていいわよ。やっぱり貴方は私に同じことを聞いた。いいわよ、貴方も異世界ってのに行きたいんでしょう?」
「――えっ?」
「さっきはあぁ言ったけど、他にも手段はある。つまり、そういうことよ」
ルーシャは崖の向こうを指差して、悪戯な笑顔を見せる。
ヒルスは驚愕の表情を貼り付けたまま、彼女の腕にしがみついた。
「そ、それって、僕も向こうの世界に行けるってこと?」
「さぁ。すぐではないし、試してみないと分からないけど」
接近した顔に口元を引きつらせ、ルーシャはヒルスの身体をえいと押しのける。
「いいよ、リーナの所に行けるなら幾らでも待つから。なんなら僕のお願いを一つだけ聞いてもらえないかな」
「何よ、言ってみれば?」
面倒そうに聞くルーシャに、ヒルスは悲しさを一掃する笑顔を広げてその願望を放った。
「どうせ生まれ変わるなら、僕を女にしてくれないか?」
☆☆☆
九月一日。
学校から三つ手前の広井駅で堰を切ったように下りていく人々。
ホームへなだれ込む様子をのんびりと見送って、みさぎは閑散とした車内に残った彼に「おはよう」を言った。
「おはよ」と返事をして隣に並んだ彼は、眼鏡の奥にどこか思い詰めた表情を沈めて遠くの風景を見つめている。
そんな二学期の始まりは、いつも通りの朝だった。
みさぎが湊にここで初めて会ったのは、高校の入学式の翌日だ。
同じ車両から葉桜の迎える無人駅のホームへ下りるのが自分と彼だけだという事に気付いて、みさぎから声を掛けた。
「同じ制服ですね」
第一声は相手に聞こえないように。けれど彼の耳には届いていたらしい。じろりと視線を合わせてきた彼が、少しだけ笑顔を見せた。
一学年一クラスしかない小規模校で、新入生は十五人。そこに彼がいたかどうか、覚えてはいない。
少し距離を置こうか迷って、彼の後を追い掛けた。
その時のみさぎは、まだ彼の事も自分の選んだ運命も思い出してはいなかった。
運命の日は十月一日。
この地球で、この町で、みさぎは――。
ため息が出る程の平和な日々が過ぎ行く中、城の地下で魔術師の女が、垣間見た未来に絶句する――それが全ての始まりだった。
☆
異世界へ旅立つ決心を胸にいざここへ来たものの、足が竦まないわけはない。
断崖絶壁から水しぶきに霞む下方を覗き込んで、リーナはゴクリと息を呑んだ。
崖で途切れた川の水が滝壺を叩き付ける振動が全身に響いてくる。
「別に、怖いなら飛び込まなくてもいいのよ? 貴女がここで死んで異世界へ生まれ変わらなくても、先に行ったラルがちゃんとアイツを始末してくれるはず。彼の力を信用してみたらどう?」
背後で見守るルーシャが仁王立ちに構えて、眉間の皺を寄せた。
リーナは下唇をぎゅっと噛んで、ふるふると首を横に震わせる。
「ラルが強い事なんて、私は誰よりも知ってる。だから、信用してないわけじゃないよ。けど、アッシュの事を聞いたら、一人にさせるなんてできないから……」
――『アッシュが死んでしまうの』
つい数日前にルーシャが言った言葉を頭で繰り返すと涙の衝動が起きて、リーナはきゅっと目を閉じた。
ラルもアッシュも、リーナにとって大切な人だ。なのに二人はリーナに何も言わず、別の世界へ行ってしまった。
「あの二人が異世界へ飛んで、貴女までを行かせるのは、この国にとって大きな損失なのよ?」
「私にはもう力なんてないのに」
「そう思ってるのは周りだけ。貴女はそうじゃないって分かっているでしょう? 発動できないように魔法を魔法で抑え込んでいるだけなんだから」
「うん――」
ルーシャの言う事はちゃんとわかっている。一年前消したはずの魔法がまだ使えることは、二人だけの秘密だ。
けど、それを当てに先に行ったラルとアッシュを追い掛ける決断をしたのも事実だった。これはルーシャにも言っていない。
胸の前で両手をぎゅっと合わせたリーナに、ルーシャは右手に掴んだ黒い杖の先で足元をドンと突いた。
「貴女があの二人を追い掛けたいのはよぉく分かるけど、それが彼等の想いに背くことになるのを覚えておいてね」
「それでも行きたいと思ったから、ここに来たんだよ。そうでしょ……?」
躊躇いを含んだ返事に、ルーシャは「貴女が決めたのなら、構わないわ」と肩をすくめた。
「その調子だと、ヒルスにも言わないで来たの?」
「……うん」
そのことは少しだけ後悔している。
ヒルスはリーナの兄だ。彼に言えばきっと全力で止められるだろうし、覚悟が鈍ると思って最後まで言う事ができなかった。
先に異世界へ旅立った二人を追い掛けて、この世界にさよならを言う。
その手段は、この崖を飛び降りて今の自分の肉体を殺すことだ。
「全く、貴女達は。三か月前、あの二人にも同じことを聞いて、私は同じ返事をもらったわ。突然二人が居なくなって貴女が泣いたように、ヒルスも泣くんでしょうね。そしてきっと、同じことを私に聞くのよ」
「同じこと……?」
「まぁいいわ。行きたいと思うなら行けばいい。けど、もう一度確認させて。ここに飛び込めば貴女はもうこの世界に戻れない。私がヘマしないとも限らないけど、それでもいいの?」
「それでもいい。二人の所へ行ける可能性を、自分が生きる為だけに無視することはできないよ。大丈夫、ルーシャが失敗したら、ここで私が死ぬだけだから。あの時最後まで戦えなかった私が責任を取らなきゃ。だから、その世界へ行かせて」
潤んだ涙を拭って、リーナは訴える。一瞥した崖は、底が見えない程に深い。
ルーシャは浅いため息を吐き出して、「しょうがないわね」と苦笑した。
「偉大なるウィザード様ね、貴女は。私の目は間違っていなかったわ」
「ルーシャには感謝してる」
不安がないわけではないけれど、もう大丈夫だとリーナが崖へと踵を返した所で、滝の音に重ねた足音がドドドっと近付いてきた。
「リーナぁぁあああ!!!」
「兄様?」と呟いて、リーナが崖の先端へ急いだ。けれど、そのまま飛び込もうとして足が竦み、走ってきたヒルスに後ろ腕を引っぱられてしまう。
「行くなよリーナ、僕を置いていかないでくれよ!」
強引に崖から離され、リーナは涙をいっぱいにためたヒルスと向かい合った。
朝食時のままの平服に、いつも整ったおかっぱ髪が乱れている。よほど急いで来たのだろう。
彼を残しては行けないと、何度も思った。けれど、二人を追い掛けたいという気持ちを捨てることはできなかった。
「どうして追ってきたの? 兄様にさよならなんて言いたくなかったよ」
「城で聞いたんだ。僕を一人にして、お前はアイツらの所に行くのかよ。だったら僕もついて行くからね?」
「ちょっと、いきなり何を言い出すの?」
リーナに訴えるヒルスの提案に、ルーシャが声を荒げた。
「異世界へ行く穴は今一人分しか確保できてない。二人で突っ込めば破裂して共倒れしてしまうわ」
「黙れよルーシャ。お前本気でリーナを行かせる気かよ。先に行ったアイツらだって、本当に生きてるかも怪しいんじゃないのか?」
ヒルスの勢いは止まらない。
ルーシャに詰め寄って胸ぐらを掴み上げるが、パシリと細い手で払われてしまう。
「落ち着いて。いい、たとえ住む世界が違っても、あの二人がちゃんと生きてることは私が保証する。リーナは自分の意志で行くと決めたんだから、貴方は兄として送り出してあげて」
「僕は、もうリーナに会えないのが嫌なんだよ!」
威嚇するように喚いて、ヒルスはガクリと項垂れる。
「リーナがアイツを助けたいって言うなら、僕がリーナの代わりに行く。ルーシャ、リーナじゃなくて僕をそっちへ行かせてくれないか?」
「貴方じゃ役不足なのよ。リーナはアッシュから剣を引き継ぐために行くの。最強の敵と戦う為に作られた、魔法使いにしか発動できないものだから、潜在能力のない貴方じゃ無理なのよ」
はっきりと否定されて、ヒルスは「畜生」と地面にうずくまる。瞼に留まっていた涙がボタボタっと砂利を濡らした。
「僕は、リーナを戦場へ戻したくないんだ。リーナはもうウィザードじゃないんだぞ?」
「兄様……私はもう大丈夫。魔法は……使えないけど、戦えるよ」
肩を震わせるヒルスに、リーナはふと可能性を垣間見て「そうだ」と顔を上げた。
「どうした?」と涙でぐしゃぐしゃの顔を傾けるヒルスに小さく笑顔を零す。
「ねぇ兄様。昔から、兄様の言ったことは何でも本当になったと思わない?」
「リーナ?」
「戦争で父様も母様も居なくなって泣いてた私がこうしてお城に居られるようになったのは、兄様のお陰でしょう?」
――『リーナ、僕がきっと毎日ドレスを着られるようにしてあげるから』
小さい頃、寂しさを紛らわせるように言ってくれたヒルスの言葉は、今でも耳に残っている。
「兄様が私にまた会えるって思ってくれるなら、多分そうなるんじゃないかと思うの。だから、私が兄様に最後の魔法を掛けてもいい?」
話を把握できないヒルスに両手を伸ばし、リーナは兄の胸にぎゅうっと抱き着いた。
驚いたルーシャが、「そういう事」と納得顔でリーナへ大きく頷く。
「リーナ?」と戸惑うヒルスの耳元まで背伸びして、リーナは小さく呪文を唱えた。けれどそれはヒルスにも聞き取れない程の小さな声で、ほんの一瞬の事だった。
リーナがヒルスを離れ、そのまま再び崖へと向かう。
爪先を割れた地面の先端に合わせて、二人を振り返った。
「ねぇルーシャ、あの二人は最後まで笑顔だった?」
「えぇ。最後まで貴女のこと心配してたけどね」
「それなら良かった」
「いい、運命ってのは本来変えることができないのよ。未来を救うなんて賭けみたいなものだって言ったでしょう? 貴女達が異世界へ行くことで向こうにどれだけの影響を及ぼすかなんて分からない。覚悟しておくのよ」
「分かってるよ」
リーナは滝の向こうの風景を仰いだ。
ここから跳べば、遠い世界の未来を救うことができるかもしれない。
だからその前に、戻ることのできないため息が出る程の平和を目に焼き付けておこう。
青い空、緑の山、遠くの海、そして大事な人たちを――。
肩越しにもう一度二人を振り返って、リーナはいっぱいの笑顔を送った。
先に行った二人がそうであったように。
「大好きだよ、兄様。じゃあまたね、バイバイ」
「リーナぁぁぁああ!」
最後にまた引き止められるんじゃないかと思ったけれど、ヒルスはそこから動かなかった。
軽く地面を蹴ると、身体は滝壺に引き寄せられるように落ちていく。
空が藍色に光ったのが見えて、リーナはそっと目を閉じた。
この先にあるのが未来だと信じて。
☆
ただ水の音だけが広がる沈黙の中で、ヒルスはルーシャに背を向けたまま立ち尽くしていた。
「貴方、良く堪えたわね。後追いでもされたらどうしようかって内心ヒヤヒヤしてたのよ?」
「あいつは、ちゃんと行ったのか?」
ヒルスが消失感を背負ったまま力なく問いかけると、ルーシャは滝壺へと構えていた杖を引いて「えぇ」と答えた。
彼女が空中に描いた藍色の魔法陣が、宙に溶けて消える。
「リーナのさっきのアレは何だったんだ?」
ヒルスはもう二度と会えない妹を思って自分の肩をそっと抱きしめた。
彼女は最後に何か言っていたけれど、それが別れの言葉でも何でもなかったことが不思議でたまらない。
「アイツはもう魔法なんて使えないはずだろう?」
「何ってそれは――まぁ、必要になったら教えてあげるわ」
「意味わかんないよ。けど、リーナが向こうへ行って幸せなら、それでいいのかな。どうせなら何も思い出さずに暮らしてくれたらと思うのは、僕の我儘なのかい?」
「貴方にしては珍しく物分かりが良いじゃない。先に行った二人は、あの子が追い掛けてくるなんて夢にも思っていないでしょうね。会ったらさぞ驚くんじゃないかしら」
「アイツらが恨めしいよ。けど、本当にアッシュは死ぬのか?」
「死ぬわよ」
杖の先についた黒い球を撫でながら躊躇いなく肯定したルーシャに、ヒルスはその意味を噛み締めるように唇を結んだ。
「だからリーナはアッシュの武器を引き継いで、ラルと一緒に地球って世界を救うのよ」
ヒルスは涙を腕でゴシゴシっと拭い、意気込むルーシャを振り返る。
ルーシャは実に楽しそうな顔をしていた。愉快を通り越して何かを企むような表情に、ヒルスはぼんやりと首を傾げる。
「そんなしょげた顔しなくていいわよ。やっぱり貴方は私に同じことを聞いた。いいわよ、貴方も異世界ってのに行きたいんでしょう?」
「――えっ?」
「さっきはあぁ言ったけど、他にも手段はある。つまり、そういうことよ」
ルーシャは崖の向こうを指差して、悪戯な笑顔を見せる。
ヒルスは驚愕の表情を貼り付けたまま、彼女の腕にしがみついた。
「そ、それって、僕も向こうの世界に行けるってこと?」
「さぁ。すぐではないし、試してみないと分からないけど」
接近した顔に口元を引きつらせ、ルーシャはヒルスの身体をえいと押しのける。
「いいよ、リーナの所に行けるなら幾らでも待つから。なんなら僕のお願いを一つだけ聞いてもらえないかな」
「何よ、言ってみれば?」
面倒そうに聞くルーシャに、ヒルスは悲しさを一掃する笑顔を広げてその願望を放った。
「どうせ生まれ変わるなら、僕を女にしてくれないか?」
☆☆☆
九月一日。
学校から三つ手前の広井駅で堰を切ったように下りていく人々。
ホームへなだれ込む様子をのんびりと見送って、みさぎは閑散とした車内に残った彼に「おはよう」を言った。
「おはよ」と返事をして隣に並んだ彼は、眼鏡の奥にどこか思い詰めた表情を沈めて遠くの風景を見つめている。
そんな二学期の始まりは、いつも通りの朝だった。
みさぎが湊にここで初めて会ったのは、高校の入学式の翌日だ。
同じ車両から葉桜の迎える無人駅のホームへ下りるのが自分と彼だけだという事に気付いて、みさぎから声を掛けた。
「同じ制服ですね」
第一声は相手に聞こえないように。けれど彼の耳には届いていたらしい。じろりと視線を合わせてきた彼が、少しだけ笑顔を見せた。
一学年一クラスしかない小規模校で、新入生は十五人。そこに彼がいたかどうか、覚えてはいない。
少し距離を置こうか迷って、彼の後を追い掛けた。
その時のみさぎは、まだ彼の事も自分の選んだ運命も思い出してはいなかった。
運命の日は十月一日。
この地球で、この町で、みさぎは――。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた
楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。
この作品はハーメルン様でも掲載しています。
『収納』は異世界最強です 正直すまんかったと思ってる
農民ヤズ―
ファンタジー
「ようこそおいでくださいました。勇者さま」
そんな言葉から始まった異世界召喚。
呼び出された他の勇者は複数の<スキル>を持っているはずなのに俺は収納スキル一つだけ!?
そんなふざけた事になったうえ俺たちを呼び出した国はなんだか色々とヤバそう!
このままじゃ俺は殺されてしまう。そうなる前にこの国から逃げ出さないといけない。
勇者なら全員が使える収納スキルのみしか使うことのできない勇者の出来損ないと呼ばれた男が収納スキルで無双して世界を旅する物語(予定
私のメンタルは金魚掬いのポイと同じ脆さなので感想を送っていただける際は語調が強くないと嬉しく思います。
ただそれでも初心者故、度々間違えることがあるとは思いますので感想にて教えていただけるとありがたいです。
他にも今後の進展や投稿済みの箇所でこうしたほうがいいと思われた方がいらっしゃったら感想にて待ってます。
なお、書籍化に伴い内容の齟齬がありますがご了承ください。
【完結】いせてつ 〜TS転生令嬢レティシアの異世界鉄道開拓記〜
O.T.I
ファンタジー
レティシア=モーリスは転生者である。
しかし、前世の鉄道オタク(乗り鉄)の記憶を持っているのに、この世界には鉄道が無いと絶望していた。
…無いんだったら私が作る!
そう決意する彼女は如何にして異世界に鉄道を普及させるのか、その半生を綴る。
追放もの悪役勇者に転生したんだけど、パーティの荷物持ちが雑魚すぎるから追放したい。ざまぁフラグは勘違いした主人公補正で無自覚回避します
月ノ@最強付与術師の成長革命/発売中
ファンタジー
ざまぁフラグなんて知りません!勘違いした勇者の無双冒険譚
ごく一般的なサラリーマンである主人公は、ある日、異世界に転生してしまう。
しかし、転生したのは「パーティー追放もの」の小説の世界。
なんと、追放して【ざまぁされる予定】の、【悪役勇者】に転生してしまったのだった!
このままだと、ざまぁされてしまうが――とはならず。
なんと主人公は、最近のWeb小説をあまり読んでおらず……。
自分のことを、「勇者なんだから、当然主人公だろ?」と、勝手に主人公だと勘違いしてしまったのだった!
本来の主人公である【荷物持ち】を追放してしまう勇者。
しかし、自分のことを主人公だと信じて疑わない彼は、無自覚に、主人公ムーブで【ざまぁフラグを回避】していくのであった。
本来の主人公が出会うはずだったヒロインと、先に出会ってしまい……。
本来は主人公が覚醒するはずだった【真の勇者の力】にも目覚めてしまい……。
思い込みの力で、主人公補正を自分のものにしていく勇者!
ざまぁフラグなんて知りません!
これは、自分のことを主人公だと信じて疑わない、勘違いした勇者の無双冒険譚。
・本来の主人公は荷物持ち
・主人公は追放する側の勇者に転生
・ざまぁフラグを無自覚回避して無双するお話です
・パーティー追放ものの逆側の話
※カクヨム、ハーメルンにて掲載
勇者召喚に巻き込まれ、異世界転移・貰えたスキルも鑑定だけ・・・・だけど、何かあるはず!
よっしぃ
ファンタジー
9月11日、12日、ファンタジー部門2位達成中です!
僕はもうすぐ25歳になる常山 順平 24歳。
つねやま じゅんぺいと読む。
何処にでもいる普通のサラリーマン。
仕事帰りの電車で、吊革に捕まりうつらうつらしていると・・・・
突然気分が悪くなり、倒れそうになる。
周りを見ると、周りの人々もどんどん倒れている。明らかな異常事態。
何が起こったか分からないまま、気を失う。
気が付けば電車ではなく、どこかの建物。
周りにも人が倒れている。
僕と同じようなリーマンから、数人の女子高生や男子学生、仕事帰りの若い女性や、定年近いおっさんとか。
気が付けば誰かがしゃべってる。
どうやらよくある勇者召喚とやらが行われ、たまたま僕は異世界転移に巻き込まれたようだ。
そして・・・・帰るには、魔王を倒してもらう必要がある・・・・と。
想定外の人数がやって来たらしく、渡すギフト・・・・スキルらしいけど、それも数が限られていて、勇者として召喚した人以外、つまり巻き込まれて転移したその他大勢は、1人1つのギフト?スキルを。あとは支度金と装備一式を渡されるらしい。
どうしても無理な人は、戻ってきたら面倒を見ると。
一方的だが、日本に戻るには、勇者が魔王を倒すしかなく、それを待つのもよし、自ら勇者に協力するもよし・・・・
ですが、ここで問題が。
スキルやギフトにはそれぞれランク、格、強さがバラバラで・・・・
より良いスキルは早い者勝ち。
我も我もと群がる人々。
そんな中突き飛ばされて倒れる1人の女性が。
僕はその女性を助け・・・同じように突き飛ばされ、またもや気を失う。
気が付けば2人だけになっていて・・・・
スキルも2つしか残っていない。
一つは鑑定。
もう一つは家事全般。
両方とも微妙だ・・・・
彼女の名は才村 友郁
さいむら ゆか。 23歳。
今年社会人になりたて。
取り残された2人が、すったもんだで生き残り、最終的には成り上がるお話。
欲張ってチートスキル貰いすぎたらステータスを全部0にされてしまったので最弱から最強&ハーレム目指します
ゆさま
ファンタジー
チートスキルを授けてくれる女神様が出てくるまで最短最速です。(多分) HP1 全ステータス0から這い上がる! 可愛い女の子の挿絵多めです!!
カクヨムにて公開したものを手直しして投稿しています。
クラス転移、異世界に召喚された俺の特典が外れスキル『危険察知』だったけどあらゆる危険を回避して成り上がります
まるせい
ファンタジー
クラスごと集団転移させられた主人公の鈴木は、クラスメイトと違い訓練をしてもスキルが発現しなかった。
そんな中、召喚されたサントブルム王国で【召喚者】と【王候補】が協力をし、王選を戦う儀式が始まる。
選定の儀にて王候補を選ぶ鈴木だったがここで初めてスキルが発動し、数合わせの王族を選んでしまうことになる。
あらゆる危険を『危険察知』で切り抜けツンデレ王女やメイドとイチャイチャ生活。
鈴木のハーレム生活が始まる!
異世界帰りの俺、現代日本にダンジョンが出現したので異世界経験を売ったり配信してみます
内田ヨシキ
ファンタジー
「あの魔物の倒し方なら、30万円で売るよ!」
――これは、現代日本にダンジョンが出現して間もない頃の物語。
カクヨムにて先行連載中です!
(https://kakuyomu.jp/works/16818023211703153243)
異世界で名を馳せた英雄「一条 拓斗(いちじょう たくと)」は、現代日本に帰還したはいいが、異世界で鍛えた魔力も身体能力も失われていた。
残ったのは魔物退治の経験や、魔法に関する知識、異世界言語能力など現代日本で役に立たないものばかり。
一般人として生活するようになった拓斗だったが、持てる能力を一切活かせない日々は苦痛だった。
そんな折、現代日本に迷宮と魔物が出現。それらは拓斗が異世界で散々見てきたものだった。
そして3年後、ついに迷宮で活動する国家資格を手にした拓斗は、安定も平穏も捨てて、自分のすべてを活かせるはずの迷宮へ赴く。
異世界人「フィリア」との出会いをきっかけに、拓斗は自分の異世界経験が、他の初心者同然の冒険者にとって非常に有益なものであると気づく。
やがて拓斗はフィリアと共に、魔物の倒し方や、迷宮探索のコツ、魔法の使い方などを、時に直接売り、時に動画配信してお金に変えていく。
さらには迷宮探索に有用なアイテムや、冒険者の能力を可視化する「ステータスカード」を発明する。
そんな彼らの活動は、ダンジョン黎明期の日本において重要なものとなっていき、公的機関に発展していく――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる