氷の貴公子と呼ばれている婚約者が、私を愛しすぎている

瑠美るみ子

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17 ウィステリア視点(上)

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 月のない夜は、決まって母の口癖を思い出す。

「可哀想、あの子が可哀想よ」

 幼い頃の、私の日常を形成していた台詞だ。
 母は過保護だった。私が転んで怪我をしないように、温いスープで火傷をしないように、日焼けをして酷いことにならないように、と、母は使用人に細かく注文していた。
 何か一つでも注文を誤れば、母はいつも同じ言葉で使用人を叱った。

「ウィステリアをこんな目に合わせるなんて! あの子が可哀想だと思わないの!?」

 母は私に優しかった。使用人を怒ることはあれど、私を叱ったことは一度もなかった。
 だが反対に、父は私に厳しかった。

「お前は他人より完璧でなくてはならない! 例えリーゼが許そうとも、次期公爵として相応しくない言動は、私が許さん!」

 数学の計算を間違えれば鞭で手を打たれ、夕食のマナーを間違えればそのまま食事を抜きにされ、魔法が使えないことも関係なく昼間に外に放り出された。
 もちろん、過保護な母が父の教育を許すはずがなく、二人はよく言い争っていた。

「むやみやたらとウィステリアを傷つけないでください! なぜ自分の息子に、そんな酷い仕打ちができるのですか!?」

「あなたがウィステリアに甘すぎるのだ! 体質の件があるとはいえ、腑抜けた性格は他人の食い物にされる。今のうちに鍛えておかなければ、将来苦しむのはウィステリア自身だ」

「この子の将来を免罪符に、今のウィステリアをただいたずらに虐めているだけではありませんか! 炎天下の中、まだ魔法が使えないこの子を
放り出すなんて、殺す気ですか!?」

「まだ夏も始まっていないうちに己の身を守れないなら、いずれ近いうちにウィステリアは死ぬ。そうなる前に、私達はこの子に生きる術を教えなければならない!」

「だとしても物事には順序というものがあるでしょう!? 魔法が使えるならまだしも、抵抗する手段をもたない幼子を死地に追いやるなんて、父親のすることではないわ! まだウィステリアは七歳なんですよ!? 親である私達が守ってあげなくてどうするのです!?」

「もう七つの間違いだ! わかっているのか!? あと三年でウィステリアは貴族学校に通うことになる! 社交界に顔を出すことも多くなるだろう! いつまでもウィステリアが私達の手が届く範囲にいると思うな!」

「それでも納得できません! 過激な教育を正当化しているだけではありませんか!」

「リーゼこそ何かと理由をつけてウィステリアを甘やかしているだけではないか!」

 二人の口喧嘩は、いつも私のせいだった。
 嫌だった。怖かった。父と母には仲良くしてほしかった。
 母は私を叱りこそしなかったが、諭すことはあった。ただ私に甘いだけではなかった。
 父は私を甘やかすことはなかったが、褒めることはあった。ただ私に厳しいだけではなかった。
 どうして二人は仲が悪いのだろう。互いが嫌いなのだろうかと、両親に仲良くしてほしかった私は、ただ悲しかった。
 そしてある日、夜中に目が覚めてしまい、物寂しさから母を探していた時だ。
 こっそり覗いた両親の寝室で、母は父に肩を抱かれて泣いていた。

「どうしてウィステリアだけが、こんな目に合わなくてはならないの」

 薄暗い部屋の中で、母は顔を覆って涙を流していた。母は人前では決して笑みを絶やさない人だった。いつも優しく、聡明で、太陽のように明るく美しい人だった。

「神はどうして、あの子を見捨てたのでしょうか」

 そんな母が、幼き私にとって絶対的な正しさを持っていた母が、嗚咽を漏らしながら子の境遇に絶望していた。

「私はただ、ウィステリアが幸せなら、それでよかったのに」

 母は「私のせいで」と己を責めていた。何度も何度も、誰かに向かって謝罪を繰り返していた。
 父はそんな母を優しく宥めていた。誰のせいでもない、と母を慰める父の姿は、見たこともないほど穏やかで、少し、疲れているように感じた。
 口論ではない二人の会話を聞いて――私は、その時、ようやく理解した。
 二人の不仲の原因は、何より自分自身のせいであると。
 私の存在が、家族を壊してしまっているという事実に――私は、消えてしまいたいと思った。
 今まで私は、自分の存在で両親を困らせていると考えていなかったのだ。

 なぜなら私は、二人が「可哀想」だと言うほど、自分の体質に不満がなかったのだから。

 不便ではある。人より暑さに弱くて、すぐ身体が溶けてしまうのは大変だ。でもそれだけではないか。
 目は見える。耳は聞こえる。手足は動く。運動だって問題ない。難病を抱えているわけでもない。私は至って健康だ。ただ人より、少し特殊なだけで、「普通」の子供だと思っていた。
 だが、私の体質は私の気持ちに関係なく、他人を不幸にしてしまう性質らしい。
 その事実がとても心苦しく、胸を締め付け、私は己の存在を否定しなければと使命感に駆られた。
 それが罪悪感だと知ったのは、母が死んだあとのことだった。


*****

 母の余命がわずかだと告げられたとき、父は彼女の意思を優先することにした。
 穏やかな日々だった。私は母と父と共に、領地で一日一日を緩やかに過ごした。二人は言い争わなくなった。「普通」の家族らしい半年だった。
 だが、時間が経つにつれ、母は目に見るほど弱っていった。それでもなおやせ細った顔で私の心配をするものだから、私は彼女に元気になってほしくて、必死になった。

「母上、悲しまないでください。私は、父上と母上と過ごせて幸せです。何も悲しいことなどありません」

 嘘ではない。本当に幸せだった。本心からの言葉だった。
 それでも、母に私の想いは伝わらなかった。

「ごめんね、ウィステリア」

 母は痛々しく笑って、私の頬をそっと撫でた。母の目は私を映しているけど、どこか遠くを見ているようだった。
 触れた母の手は熱かったけれど、私は我慢した。
 嘘を吐かず、正直に、心の底からの言葉を伝えれば、きっと母に伝わるはず。
 だから私は何度も母に言った。私は幸せだと。彼女はそのたびに、遠くを見て、私の頬を撫でた。

「ごめんね。ウィステリア。ああ、本当に、ごめんなさい」

 母は最期まで私に謝っていた。私の言葉では、彼女の悲しみを払拭できなかった。
 父はただ一言、「誰のせいでもない」と私に言った。母の棺が土に埋められていく時、私は私を見下ろすように眺めていた。

 母が死んだのは病のせいでも、悲しみの中逝ってしまったのは私のせいではないか、と。
 しかし、どうすればよかった。いくら私が本心を話したところで、信じてくれなくては意味がない。私は幸福だった。だが、他人に不幸だと決めつけられては、もうどうしようもないではないか。
 見たいものしか見ない、聞きたいものしか聞かないのなら、私がいくら訴えても無駄ではないか。

 ……やめよう。
 他人と関わるのをやめよう。
 父も避けるべきだ。余計な心労を負わせるべきではない。友人も、気を遣わせる。使用人から同情の視線を送られるのも、嫌だ。
 身体のことは秘密にし、孤独になろう。
 それが一番、傷つかずにすむ。
 私も含めて、誰も不幸にならない選択だ。


*****


「ごめんね、ウィステリア。辛かったでしょう。ありがとう、話してくれて」

 最善の選択を選んだはずなのに、私はまた、他人を傷つけてしまったようだ。
 私のために涙を流してくれたのは、隣国の王女だった。王家主催の舞踏会で知り合って以降、気に入られ、何かとかまわれるようになったのだ。
 来国をもてなしたり観光に付き合う程度ならまだしも、婚姻話を出されてしまえば対応が違くなる。
 もちろん話を受けることはできない。しかし、無難な理由では王女が納得しないだろうから、秘密を全て打ち明けなくてはならない。
 母の死後、体質について話すのはこれで三度目だった。一度目は国王夫妻と王子に、二度目は直属の上司であるエドワルド・ドゥ・トアイトンに。
 そして、三度目は王女に話した。私の話を聞き終えた彼女は、静かに、美しく、涙を零した。

「そんなの、可哀想よ」

 心優しき彼女は、悲しみで唇を震わせていた。

「ウィステリアが、可哀想よ」

 母の口癖と全く同じ言葉に、私は息が詰まった。
 ああ、やはり――私は「可哀想」なのか。
 一度目と二度目の告白の際も、彼らから感じ取った視線。同情。憐み。それは、涙で滲んだ王女の瞳にも浮かんでいた。
 今の人生に不満などない。
 しかし、私の生は、他人から見れば欠けているものなのだろう。
 私を愛している人間だけではなく、誰から見ても、そう受け取られてしまうのだ。

「――泣かないでください、殿下」

 私は、悲しむ王女の涙を、ハンカチでそっと拭い、微笑んだ。
 王女の瞳に映る私は、涙で歪んでいる。

「あなたが悲しむのは、私も辛い」

 本心は話さなかった。
 否定しても無駄だと、母の時に思い知ったからだ。
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