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第18話・気は心
しおりを挟む「何やってるんですか!」
カウンターの横で背伸びしている売り方。その背に向かって咎める声。
声の主は、ブースに居た筈の従業員だった。
「くっ……」
売り方が掴んだ謎の紙。それは一瞬の手触りを残して彼の手をすり抜けた。
「何故だ、何故掴めない……」
己が手を見る売り方。
一瞬だが、確かに掴んだ感触は有った。
しかしそれは、薄い紙のそれとはまた違ったものだった。
例えるなら、何か硬い金属の棒の様な。
その、見た目と感触との差異が、売り方の動揺を増幅した。
紙は、カウンターの板の上で弾ける様に無数の細かな光の粒になって、消えた。
その様を見つめる売り方の視界の端に、回りこんで来た従業員の姿が映る。
「どうした、連絡は終わったのか?」
「え……はい、それで社長が貴方と話をしたいと」
怪訝そうな表情の従業員。
どうした、というのは自分の台詞だと言いたげに。
「そうか、分かった」
従業員に向かって頷いて見せ、ブースに向かう売り方。
紙を掴もうとした行動は、傍から見て余程奇妙に見えたのか。
ブースまでの間に居る、他社の場立ち達。彼らも従業員と同じ様な、不審げな目を売り方に向けてきた。
従業員も彼らも、いや、この立会場に居る(売り方を除いた)全員が、この謎の紙と初老を認識出来ないのだろう。
売り方は、初老絡みの事には細心の注意が必要だと自分を戒めた。
「全部売ったぞ」
ブースに着き、インカムを付けて挨拶無しで話しかける。
従業員はカウンターを巡って板の状況を確認している。
ブースに二人が居る必要は無かった。
『2パー上だと? 上がるのかよ、そこまで』
半ば呆れた様な山師の声。こちらも挨拶無しだ。
「ああ、大丈夫だ」
椅子に座る売り方。
それと同時に、体の重みが椅子の座面や背もたれに吸い込まれる様な錯覚を覚える。
疲れが出ているのだ。
『大丈夫だ? ……それだけかよ』
見落としていた何か意外な材料か理由が述べられると思っていたのか、山師はあっけにとられる。
「それだけだ」
電光掲示板を見る売り方。
それは、相場全体が上げ方向に転じた事を示している。
その眺めが、ゆっくりと暗くなってくる。
売り方は、一つの所を見続けるのが辛くなってきていた。
『あのな、この生保の委託分は半端な気持ちで』
「分かってる、クイック見てみろ」
目先の作業を終え緊張が抜けた為か、後頭部の辺りに鈍痛を覚える売り方。
それでも、山師の指摘に言葉を被せる。
『ん? まだ下げてんだろ? だから一気に全部……』
インカムの向こうから、ガソゴソという音が漏れてくる。
『おい、なんだこりゃ』
山師も相場の現状を把握したか、驚きの声を返してくる。
多分に呆れも混ざっているが。
「ああ、もう間もなく約定するぞ、全部」
電光掲示板を見ながら、売り方。
院長から貰った気付け薬(という名のビタミン剤)は、その効力が切れたのか、売り方の瞼が普段の十倍以上の重量になっていた。
本当はもう少し効力が続いたかもしれない。それを阻んだ初老の指摘に、売り方は心中で毒づいた。
『凄いな……』
「それで、この後はどうする? 売りっぱなしで良いのか?」
言いながら、従業員に手招きする売り方。
座りっぱなしでは拙いと判断したのだ。
『おいおい、昨日の打ち合わせ通りだろ、そこら辺は』
少し驚いた風で、山師。
『利幅が出れば同じ枚数を買い戻して、中二日後に余った金額分で買い増しだ』
この頃は未だ即日決済ではなかった。
この場合は、この日が火曜日であるから、実際の受け渡しはその週の金曜日となる。
「そうか、では今日中にまた同数買い戻しだな」
ブースに向かって歩いて来る従業員を見ながら、売り方。
『いや、幾らなんでもそんな都合良く行く訳ねえだろ』
山師、完全に呆れた風で。
「行く行かないじゃなく、注文出しの手数の都合で、指値で待たせなきゃダメなんだよ」
近くまで戻ってきた従業員に、場電の交代を身振りで伝える売り方。
しかし、まだ通話の途中と見た従業員は、その指示に渋る素振りを見せる。
『無理して指値にしねぇでも、成りでもかまわねえぞ。それに、この上げなら、生保の連中から損切り注文の電話が入りそうだしな』
「なんだ、半分しか売ってないのを、まだ連絡してないのか?」
とにかく隣に座れ、との身振りを従業員に見せる。
従業員は、それに渋々ながら従った。
『連絡してねえ。ただ、後場寄りで成り売り注文を実行したとだけは言ったが』
「何故? いや、今からでも遅くないから連絡してくれ」
従業員に、注文票を出す様に身振りで伝える。
その指示に応える従業員、テーブルの下を覗き込む。
『ダメだ。まだ半分残ってると言うと、連中が混乱しちまう』
「分割売買も理解出来ないのか? 奴ら、今まで何やってきたんだ……ああ、売った銘柄を買い戻す準備を」
後半は、新品の注文票をテーブルの下から出した従業員に対しての指示だった。
それに従う従業員、銘柄は30全てかと確認してくる。
『おいおい、買い注文出すのか? 幾らで出すつもりだ?』
「そりゃもちろん……ああ、30銘柄全部だ」
従業員に向かって言う売り方。
買い注文の価格は、考えていなかった。
『いや、銘柄数じゃなくて価格だ!』
「分かってる。そうだな、今日の安値でどうだ」
トータルの値幅は3%近くになる。利益の金額としては10桁となり、かなりの額だ。
それを聞いた従業員が、30銘柄の安値を調べますと言ってブースから飛び出す。
『安値……おい、もし今、連中から損切りの買い注文が入ったらどうするつもりだ?』
そこで、それまでも充分賑やかだったカウンター周辺が、一段と騒々しさを増した。
数銘柄で実栄の笛が吹かれた所為だ。売り買いが集中した為、一旦注文を止めて、板寄せが行なわれている。
相場は上げ方向で過熱していた。
『いま笛が鳴っただろ? 大丈夫かよ?』
「大丈夫だ。今、2銘柄ほど約定した」
電光掲示板を見ながら、売り方。
その手前のカウンター近くで、従業員が動き回っているのも見える。
同時に、軽い眩暈も。
売り方は、相場の加熱ぶりと従業員の元気の良さに中てられていた。
『何が大丈夫なんだ』
堪えきれないといった風で、山師。
『客の注文が最優先だぞ!』
「よいせっと……その注文は、まだ来てないんだろ?」
椅子から立ち上がる売り方。せめて体内の血行を良くしようとしたのだ。
『いや、まあ、まだ来てねえが。だが時間の問題だぞ、これ以上騰がったら』
「それは無い、もうすぐ上げ止まる」
テラスの方を見上げる売り方。其処には既に初老の姿は無く、チェロの音も無くなり、例の紙も数えるほどしか舞っていなかった。
『だから、その根拠をだな……』
山師は、自分が詮の無い事を言おうとしてるのに気付いたか、急に話題を変える。
『実はな、今日あたりに例のK氏が買い上げて来るって情報があってな』
「そんなもの勝手に来させとけ」
吐き捨てる様に売り方。
この時点で既に、他の相場師の存在は売り方の眼中に無かった。
『無視かよ。まあ確かに生保の連中からの情報だから眉唾だがな。それでも、そうとでも考えないと、この上げは説明出来ねえだろ?』
「説明は出来るが……必要無いな、儲かればそれで。それより」
背伸びをする売り方。それで言葉が一旦途切れる。
「俺のカネを入れさせてくれ。それならもっと楽に売買が出来る」
頭の上で組んで伸ばしていた両腕を下ろす。
と同時に、後頭部の痛みが増幅した。
『いや、それは昨日説明した通り、無理だって』
「奴らは見せ金が有ればと言ってただろ、その分だけでも」
この時点では、生保から山師の会社が株券売買の委託を受けている形だった。その為、生保側からの細かな売買注文を受けざるを得ない。
だが、生保の持ち株を借りる形なら、山師の会社側でかなりな部分まで好きに売買が可能となる。その場合、信用としての見せ金が必要となる。
この頃の、銀行の自己資本比率は3%程度。生保もその辺りを要求してきており、売り方の資産ならば余裕で見せ金と成り得た。
『しかし、それがオマエのカネだったら、オマエは場立ちで居られなくなる。手張りになるからな。それはダメだったんじゃねぇのか』
「それは、そうなんだが」
首を左右に振って、後頭部の痛みを振り払おうとする売り方。
それで漏れる溜息。痛みは消えない。
その視線の先にある電光掲示板が、10銘柄ほど売りの約定を示していた。
『まあとりあえず、今日のところは連中の注文通りにやってろよ』
「無論、そうしてるつもりだ……買戻しも含めてな」
軽い貧血状態になったのか、眩暈と共に、目の前に黒い紗がかかる売り方。
頭の奥に痺れまで出てくる。
思い通りにならない体調に、思わず舌打ちを漏らしてしまった。
『おい、何だよ』
流石に憤る山師。舌打ちを強制的に耳元に聞かされたのだから、無理も無い。
「ああスマン、体調が思わしくなくてな」
『……言いたかぁねぇが、体調管理も仕事のうちだぞ』
「いやホント悪かった。この通り」
立ったまま、眼前で両手を合わせる売り方。場電の向こう側に見える筈も無いのだが。
しかしそれで、自分がボロを出している事は自覚出来た。
「そして、と言っては何だが、また約定したぞ、売り分が10銘柄」
これ以上ボロを出さない内に、場電を切り上げようと考えた。
「だから、買戻しの注文を入れなきゃならん。忙しくなるから、これで」
『え? いやおい、ちょっと待てよ』
「じゃあ、また後でな」
売り方は、強引に場電の通話を終了した。
そして、インカムを外しテーブルの上に置く。
見上げる電光掲示板。板寄せが終わったのか、急に価格が上昇して、15銘柄ほど約定していた。残りは3銘柄だが、それらももう時間の問題だった。
テーブルの下を覗き込んで、バッグから“気付け薬”を2錠取り出し、口に含む。
飲料は既に飲み終わっていた為、奥歯で一気に噛み砕き飲み下す。
これはキツいクスリなんだと自分に言い聞かせながら。
そうしないと、なけなしのプラシーボ効果さえ期待できなかったから。
ふらつく足でブースから離れる売り方。
それを見た従業員が駆け寄ってくる。
例の紙は、もう一枚も舞ってはいなかった。
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