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第28話 もうひとつの帰る場所
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サイレントの姫様の部屋に急遽設置された簡易的なテーブルで俺達は朝食をとっていた。
本来であれば食堂でみんな揃って食べるという話だったのだが、寝たきりだった妹姫がまだ歩く事が出来なかった事と、俺達と一緒に食事をしたがった事から急遽簡易的な食堂として皆が集まった次第であった。
「初めは無理矢理にでも引き剥がして別々の部屋に移すつもりだったのだが、テオドミロ殿のみならずドリスまで手を握っている状態では諦めるしかなくてね」
椀に満たされたスープを口にした後、しみじみと語るのはこの国の王子たるアスラだ。
彼は昨晩俺がこの部屋で寝る事になった経緯を説明してくれていた。
ちなみに、彼が口にした‘ドリス’とは彼の妹の名前であり、普段俺が彼女に対して呼んでいる『ドライアド』ではなく、この『ドリス・サイレント』が彼女の本当の名前だった。
「すっかり寝入ってしまっていた二人を残して皆を部屋に案内して就寝した時は正直もう期待していなかったのだが、朝訪れてみれば何故か髪の色の変わった我が妹が目を覚まし、昨晩連れてきた男と熱い抱擁を交わしているではないか。その時は驚きと喜びはもちろんあったが、目の前の男を叩き切りたくなったのも事実でね」
「いや……今朝の事は本当に申し訳ない……」
うんうんと頷きながら語るアスラに内心ビクビクしながら答える俺に、アスラは右手を上げて「よい」と言う。
「どのような経緯があったかは詳しくは聞かないが、妹を助けてくれたのは事実。しっかり責任を取ってくれるのなら僕から言うことは何もない」
「責任って何よ」
一人納得したように頷くアスラに対して疑問を挟んだのはリディアだった。
彼女は先程まで頬張っていた山菜の衣揚げをングっと飲み込むと、アスラに対してギロッと睨む。
「責任は責任だ。大切な妹を傷物にされた以上、相応の責任を求めるのは兄としての努め」
「傷物になんかしてないでしょっ!」
「いや、別に変な事してないんですけど」
アスラの言葉に俺とリディアの台詞が被る。
どうやら、アスラの中で酷い勘違いが一人歩きしているらしい。
「なら、どうしてドリスの髪と瞳の色が変わっている? どうやって起こしたのか? それが分からない以上僕としては妹と君が特別な行為を──」
「兄様」
どこまでも加速していく兄の暴走を止めたのは妹であるドリスだった。
彼女はまだ固形物を取るのは控えた方がいいだろうという事で、口にしているのは野菜をドロドロに溶かしたスープだ。
「テオドミロ様が私を助けてくれたのは事実ですが、兄様が考えているような事は一切ございません。今朝の行為に関しても、思わず感極まった私がしてしまっていただけで、テオドミロ様は私を受け止めてくれただけです」
「ほう」
アスラは一言零すと腕を組みつつ俺にチラリと視線を向ける。
どうでもいい事だが、アスラの口調が昨日シグルズに対していたものとは随分違う。
ひょっとしたら、こちらが彼の本来の口調で、シグルズにしていたのは対外的なものなのかもしれない。
「ならば、お互いやましい気持ちは一切ない。と。」
「はい。最も、私の方はお慕いしてはおりますが」
「成る程」
妹の言葉にようやく納得したのだろう。
アスラは俺の目をじっと見つめると、真剣な眼差しでこう言った。
「責任を。テオドミロ殿」
「何でそうなるのよ!!」
アスラの言葉に今度こそ本気で激高したらしいリディアが、テーブルを叩きながら立ち上がる。
食事中に行儀が悪い……とも思ったのだが、俺の膝の上で食事をしているレイラの方が10倍行儀が悪かった事もあって口には出さない。
「レイラちゃん。美味しいですか?」
いつの間にかこちらとは関係のない口論を始めたアスラとリディアをよそに、ドリスは微笑みながらレイラに声を掛ける。
そんなドリスに対して、レイラは素直に頷いた。
「うん。おいしい」
「そう。良かった」
食べながら答えるレイラと、それを見て嬉しそうに微笑むドリス。
その様子の何と微笑ましい事か。
既にお互いの頬を引っ張り合いながら、互いの過去の暴露合戦に発展しているアスラとリディアの二人とは大違いだ。
「とても仲が良いですね」
俺がそちらを見ていたからだろう。
ベッドの上のドリスも俺と同じ光景を見ながら声をかけてくる。
「それは俺とレイラの事? それとも、あっちの2人の事?」
「ふふ。ご主人様とレイラちゃんも仲が良いと思いますが、先程のセリフは兄様達に向けて、ですね」
俺の問いにドリスは小声で返してくる。
どうやら、誰かに聞かれている時以外は俺の事を『ご主人様』で通すつもりらしい。
何だか、背中が痒くなるような気分である。何故なら、立場的には彼女の方が俺よりも遥かに上なのだから。
「あの2人はリディアがサイレントで生活していた頃からの友達らしいからね。きっと、俺達ではわからないような絆があるんだと思うよ」
「そうなのでしょうね。あの方とは私は初めてお会いしましたが、兄様からずっとお話では聞いていましたから」
なんの遠慮も感じないリディアの態度を見ながら、俺は2人の喧嘩を何とも複雑な気持ちのまま見つめていた。
そんな俺の様子をドリスも見ていたが、それ以上は何も言ってこなかった。
ちなみに2人の喧嘩は、使用人が食器を片付けに来るまで終わる事は無かった。
「なんか納得いかないんだよね」
「何が?」
ドリスの部屋を後にして、それぞれあてがわれたと言う部屋に向かう廊下の途中で、唐突にそんな事を言ってきたリディアに、俺は問い返す。
今回この城に来た当初の目的は果たした俺達だったが、俺達の旅の目的を聞いたアスラが国境を安全に通過できるよう配慮してくれるとの事で、その準備が整うまでの間この城でゆっくり休んでいいと言ってきてくれた。
更にはキリスティア王国に対して襲撃犯撃退の連絡をしてくれるという事なので、俺たちも素直に好意に甘えることにしたのだ。
国境を無事に抜けて王都までの検問が解除されるなら、わざわざ魔大陸経由で王都に入るよりもずっと近い。
それに、途中にあるクロスロードでまた姉さんに会う事もできるだろう。
そうなれば、無理に急ぐ必要も無くなった為だ。
「アスラの妹の事。あんたとの間に何があったのか知らないけどさ。なーんか『私はテオドミロ様の特別なんです』って態度? それが気に入らない」
唇を尖らせてそんな事を言い出すリディアに、俺は苦笑する。
「何でそれでお前が不満に思うんだよ」
「知らないよ。わからないけど、何だかすごく気に入らないの」
俺の言葉にリディアはやはりプリプリと怒り出す。
昨日は随分と元気が無いようだったが、一晩寝たことで多少は気持ちの整理が出来たのかもしれない。
それとも、アスラとゆっくり話せた事でホッとしたということもあったのか。
胸がちくりと痛む。
俺は一瞬だけ嫌な気持ちになったような気がしたが、隣を歩くリディアの顔を見た所でそんな気持ちもスッと消える。
何だろう。今の変な気分は?
リディアの横顔に視線を向けたまま、俺は右手を自分の左胸に当てる。
さっきからリディアが口にしている‘気に入らない’という気持ち。
それが、アスラとリディアの二人に対して俺が感じているとでも言うのだろうか?
馬鹿馬鹿しい。
そんな風に自分の考えを否定している所で、リディアが俺の方を向く。
相変わらず不機嫌そうなその顔に、俺はいつも通りのリディアを見たような気がした。
「何?」
「いや、何でもないよ」
リディアは一瞬怪訝そうな表情をしたが、すぐに「ふーん」と言って黙ってしまう。
その後はお互い無言でしばらく進んだ所でリディアは足を止めると、1つの扉を指さした。
「そこがあんた達の部屋みたい。昨日その部屋に突っ込まれたのはレイラだけど、どうせあんたら一緒の部屋で寝るつもりなんでしょ?」
「あー……そうかな?」
リディアの言葉に俺は視線を下に向ける。
そこでは俺の服の裾を掴んだレイラが俺を見上げている所だった。
「うん。一緒の部屋にいるよ」
「……相変わらずのシスコンね」
俺達の様子を見た後に何だか嫌そうな顔をしながらそう呟いたリディアに対して、俺は苦笑しながら言い返す。
「こんな小さな子を一人にさせるわけにもいかないだろ」
「昨日はそいつ一人でいたんだけどね。ま、いいわ。あたしの部屋はここだから」
しかしながら俺の言葉にリディアは納得はしなかったようで、頭を掻きながら俺達の部屋のちょうど対面にあるドアに手を掛ける。
「リディア」
そんなリディアの背中が何だか少し小さく見えたような気がして、俺は思わず声を掛ける。
俺からの呼びかけに一瞬ビクッとしたリディアだったが、ドアに手を掛けたそのままの格好で、こちらに顔を向けるでもなく答える。
「何?」
いつも通りの声だった。
しかし、こちらに顔を向けないリディアに対して、何だか先程アスラと共に居た時のリディアの姿とかぶり、俺は言おうとしていた言葉を飲み込んでしまった。
「……いや、何でもない。おやすみ」
「……まだ朝なんだけど」
呆れたようなリディアの言葉に、俺は自分でも何言ってるんだと思いながら、自室のドアに向き直ってドアを開ける。
しかし、服の裾を握っていたレイラの手を取って部屋の中に入るまで、リディアの部屋のドアが閉まる音がする事は無かった。
「何だかリディア怒ってたな」
俺は部屋に入ると設置されたベッドに仰向けに倒れ込みながら思わず呟く。
そんな俺のお腹の上に乗るように、レイラが俺に重なってきた。
「どうしてかな?」
俺の腹の上でモゾモゾと動きながら、結局は俺の首元に顔を突っ込んで匂いを嗅いでいたレイラに尋ねる。
何をこんな小さな子に聞いているのだと思ったが、レイラは意外にも返答してきた。
「しらない」
それは非常に簡潔な一言ではあったが。
「そうだよなー」
「あいつのおこってる理由しらない、けど」
頭の下に両手を回し、天井を見上げた俺の視界に、レイラの顔がニュっと現れると、俺の頬をぺろりと舐めた。
「しらないけど、『ごしゅじんさま』って、なに? お兄ちゃん」
一瞬、レイラの言っている意味が分からなかった。
リディアの怒っている理由を話していたはずなのに、何故かレイラの口から出たのは『ごしゅじんさま』という単語。
どこでそんな単語を覚えてきたんだと言う疑問が湧いたが、その機会に直ぐに思い至った。
『ふふ。ご主人様とレイラちゃんも仲が良いと思いますが、先程のセリフは兄様達に向けて、ですね』
あの時の会話だ。
喧嘩していたアスラとリディアの二人を見ていた時にしていたドリスとの会話。
あの時のドリスは俺の耳元で、さらに小声で囁いたはずだが、獣人族であるリディアの耳は頭頂部にあり、さらにその聴力は人間族の数倍はあるだろう。
あの距離関係ならばその声を拾っていてもおかしくはない。
俺はどう答えようかと頭の中で色々考えるが、結局はうまい言葉が見つからず、そのまま伝える事になる。
「あー、ご主人待ってのはね……レイラが俺に対して使う『お兄ちゃん』みたいな言葉かな」
「お兄ちゃん、ごしゅじんさま?」
「うーん。そうじゃなくて……レイラ、俺の名前分かる?」
「お兄ちゃん」
レイラの即答に、俺は思わず苦笑する。
「俺はテオドミロって言うんだよ。でも、レイラはお兄ちゃんって呼ぶよね?」
「うん」
俺の言葉にレイラは頷く。
今のところわかってるんだか分かっていないんだか分からないが、とりあえず先を続ける。
「じゃあ、問題。リディアは俺の事をなんて呼ぶ?」
俺の問いにレイラは少しだけ嫌な顔をした後、うーんと言いながら考える。
なんというか、私の前であいつの話題を出すなと言わんばかりの態度だな。
リディアも随分と嫌われたものだ。
「あいつは、お兄ちゃんのこと『あんた』って言ってる」
「そう。それが人によっては『ご主人様』になる事もあるんだ」
ちゃんと知識のある人間であれば、人からご主人様と呼ばれるのはどんな状況だと突っ込みを入れられてしまう所だろうが、ここにいるのは俺とレイラの二人だけ。
幸いにもそう言ってくる人間は皆無である。
「わかった」
案の定リディアは頷き、俺にしがみつく。
しかし、今日は朝からいつも以上に接触が多いような気がした。
膝の上に乗せて食事をさせるという行為も、出会って少ししてからしばらくの間は確かにさせていた。
でも、リディアと出会ったあたりからそういった行為は目に見えて減っていったはずなのだ。
リディアがいる手前俺が自重させたという事もあるが、それでも俺の言う事を聞いていたはずなのに、今日の朝はどうしても膝の上に座ると言って聞かなかった。
その時は一晩一人で寝た寂しさからだと思ったのだが……。
「お兄ちゃんは、レイラとずっと一緒だよね?」
そんな事を考えている時に、突然レイラからそんな事を言われて驚く。
今までそんな事を聞かれた事はないし、むしろ、それが当然とばかりに振舞ってきたレイラ。
そのレイラが、俺にそんな事を聞いてくることが信じられなかったのだ。
先の事を考えた事はある。
このままレアンドロを追っていき、レイラの両親を助ける事が出来た時は別れることになるのだろうと漠然と考えた事はある。
しかし、あくまでそれは先の話なのだ。
俺でさえその程度でしか考えた事がない事を、レイラから言われてしまったのだ。
「俺達は……」
だから俺の言葉は濁る。
いつかレイラのお父さんお母さんが見つかったら別れるんだよ。
いつまでも一緒に居られるわけではないんだよ。
言葉にするならそれが現実だ。
しかし、俺の口からその現実を言葉にしてしまう事はどうしても出来なかった。
何故なら、こちらを見つめるレイラの顔がとても真剣なものだったから。
「ずっと一緒だよ。俺達は」
「なら、いい」
そう言って再び俺の首元に顔を埋めるレイラの頭を優しくなでる。
撫でるたびに舞い上がる柔らかな香りは、出会った頃から変わらない日向の匂いだった。
夜になっても眠くならなかったのは昼間に寝てしまったからかもしれない。
深夜にサイレント城の庭を歩きながら、その行為にそんな言い訳をつけてみる。
今は暗くて見えないが、ここサイレントの城と城下町までの距離は遠い。
その境界である堀が今見ることができないのも、辺りが暗いという理由ばかりではない程に。
しかし、その暗闇においてもその庭の見事さはわかるし、何よりも空気が澄み、街明かりの殆どないサイレントの地の夜空は本当に美しい。
空に浮かんだ真円を描いた月も、瞬く星空も今まで目にしてきたどの夜空にも比較できないほどだった。
だからだろうか。
そんな美しい夜空を見上げている1人の少女が、人口の池の傍で座っていた。
漆黒の髪は月明かりに反射して光沢を放ち、横顔から見える真紅の瞳は僅かに輝いている。
その目の輝きは、彼女が魔力を使用している証で、それでも発動していない魔術は彼女にかせられた枷でもある。
「ここの星空は好きなんだ」
少女は……リディアは独り言のように呟く。
だから俺も何も答えずに彼女の隣に腰を下ろすと、同じように空を見上げた。
先程から見ていて、リディアと同じような感想を抱いた星空も、この位置から見るとまた違った顔を見せたような気がした。
「リディアと別れた後にさ」
俺は空を見上げながら独りごちる。
「レイラに言われたんだ。ずっと一緒に居られるよねって」
やはり独り言のように呟いた俺の言葉は、風に流されるように暗闇に溶け込む。
特に返答を期待したものでもない。
さっきのリディアの言葉に俺が答えなかったように、これは独り言でいいのだ。
夜空を見ながら零す愚痴の類でちょうどいい。
「……どうせ、本当の事は言わなかったんでしょ」
しかし、予想に反してリディアは俺の呟きに返してきた。
ただ、その声には朝聞いたような疲労の色を感じたが。
「いや、ずっと一緒にいるって言った」
「それが嘘だって言ってるの」
俺の反論をリディアの一言が断じる。
「あんたいつかあたしに言ったじゃない。レイラの両親を探す為に旅をしてるってさ。どうせあんたの事だからあいつの両親が見つかったら姿を消すつもりなんでしょ?」
「どうしてそう決めつけるんだよ」
「わかるよ。普段のあんたを見ていれば」
リディアは言い終わったあと大きな息を吐いて、視線を池の水面に移したようだった。
横目で見えていたレイラの瞳が消えて、見えるのが綺麗な黒髪のみとなる。
「あいつだけじゃない。あたしだって最近のあんたを見ているとすごく不安になる。いつでもどこでも誰かの為。簡単に死地に飛び込むし、簡単に憑依魔術を使う。あんたは知っているはずでしょう? 人の死を。それから、憑依魔術を使った先に何があるのかを」
その言葉に、俺はサイレントの姫の事を思い出す。
憑依魔術を失敗し、人間では無くなってしまった少女の姿を。
「いつまでも一緒にいられるわけじゃないかもしれない。別れるのはひょっとしたら明日かもしれない。どんなにあんたから『ずっと一緒にいる』何て言われても、信じられないよ。今回の兄さんとの戦いだって、もしも私が魔術を失敗していたらあんたは死んでいたんだよ。レイラなんか気絶から覚めたらあんたが死んでいたかもしれなかったんだよ? 不安にならない方がおかしいよ。それなのに……」
リディアは膝を抱えると、膝の上に額を落とす。
そのせいで表情を見る事は出来なかったが、その声が震えているのはわかった。
「それなのにあいつはなんなの……。自分は特別みたいな顔して。あんたも満更でもない顔して。あいつなんか特別じゃないよ。あんたと魂で繋がっているのはあたしなんだ。あたしだけがあんたがどこにいても見つける事が出来るんだ」
リディアには俺とドリスの関係は話していない。
もしもこの事を話してしまったら、どうしてもドリスが人間ではない事を話してしまう事になってしまうからだ。
だから、この事はアスラはもちろんリディアにも話すわけにはいかなかった。
その行為が余計リディアの不安を煽っているのかもしれないが、こればかりはドリスの為にも俺の心の中に仕舞い続けなければいけない。
それに、リディアと俺の魂が癒着しているのと同じように、今のドリスは俺の守護精霊だ。
森が近くなければ意識を通わせる事が出来なかった今までとは違い、彼女の意識は常に俺と共にある。
リディアが今俺が外に出ている事を知っていたように、今のドリスも俺が外に出ている事に気が付いているだろう。
そういう意味では、俺にとっての二人の距離はほとんど変わらないと言えた。
もっとも、それを口にする事は出来ないが。
「なあリディア。お前この国好きか?」
「……何よ。今はそんな話……」
「頼む。大事な話だ」
俺の頼みにリディアは少し悩んだようだったが、膝に顔を埋めた姿勢のまま答える。
「……好きだよ」
「じゃあ、アスラの事は?」
「嫌いなわけ無いでしょ」
「この国の人達の事はどうだ?」
「みんないい人ばかりだよ」
リディアの返答に俺は満足して頷くと、1つの提案をする事にする。
「なあリディア。以前お前は言ったよな? 一人で生きていくのが怖かった。だから俺との繋がりを作る、と。でも考えてみてくれ。俺とお前はそもそも寿命が違うんだ。お前はいつか一人で生きて──」
「そんな事今話してないでしょ!!」
俺の言葉が終わる前にリディアは声を上げると、俺の両肩を掴んで食いつくように顔を近づける。
リディアは完全に怒った顔をしていた。
歯を食いしばり、両目を吊り上げて……その瞳いっぱいに涙を溜めて。
「誰も永遠だなんて言ってない!! ただ、今の、今のあんたが……っ!!」
「違うリディア。そうじゃない。そうじゃないんだ」
俺はリディアと同じように彼女の両肩に手を置いて距離を取ると、レイラのような小さな子供に話しかけるような口調で話す。
「これから先、俺達が一緒にいられる保証はない。お前はレイラとは違い大人だから、俺も本音で言うよ。でも、だからこそ、そうなった時に帰る場所は必要だよ。今のお前は魔人族の集落には帰りにくいだろう。そんな時に俺が死んだら? お前はどこに帰ればいい? 俺はそれがここだと思う。ここはお前にとっての第二の故郷になりうると思う。それは、今日お前とアスラの接し方を見て感じたよ」
2人のじゃれあいを見てほんの少し感じた疎外感。
それはきっと、入り込む余地のない2人の雰囲気に嫉妬していただけなんじゃないかと今は思う。
「ここにいつでも帰れるようにしておくんだ。故郷や、俺にそうしたように」
俺の言葉にリディアはヒクっとシャックリを上げる。
ついに感情が決壊してしまったのか、両目に溜められていた雫が落ちた。
「……で、でも、ここにマーキングしたら……本当に役立たずになるよぅ」
「ならない。俺がいる。俺がいればお前の魔術は発動するじゃないか。それにお前の魔力があれば、俺は何のためらいもなく魔術を使う事が出来る。今までと何ら変わり無い」
「でも、テオドミロが死んじゃったら……! 力の無くなった、あたしじゃ、生きられない……」
「俺が死ねばマーキングは消えるんだろう? そうすれば今まで抑圧された魔術が使えるようになるんじゃないか? それこそ今と変わらないじゃないか。それに、ここの人達ならお前をきっと受け入れてくれる」
「でも、テオドミロが死んだら……あたしは……あたしは……」
「ずっと、ずっと先の話だ。俺が年を取って、寿命で死ぬその時までの。いつかは別れる時がくる。それは否定しない。でも、その時までお前の傍で力になると約束する」
「うぅ……」
ついに泣き出してしまったリディアを胸に抱きながら、俺はこれまでの事、そしてこれからの事を考える。
リディアは弱くなってしまった。
でもそれはこれまでの旅や俺達との出会い、それから兄との再会。
その様々な事が重なって一時的に弱くなってしまっているだけなのだ。
いつかは別れの時が来る。
リディアが本当の意味で強くなった時。
俺の助けが必要なくなった時にその時は来るだろう。
その頃には俺のそばにレイラはいないかもしれない。
ドリスもいないかもしれない。
ひょっとしたら、アスラもこの国からいなくなっているかもしれない。
それでもリディアならば、生きていけると確信していた。
だからこそついた……嘘。
俺は最低な男だ。
ドリスやリディアがいうような‘誰かの為’に動く人間では決してない。
しばらく俺の胸の中で泣いていたリディアだったが、やがて小さな声で「わかったよ」と呟いた。
これでリディアはこれから先どんな事があったとしても、故郷かここのどちらかには必ず戻る事が出来るようになった。
だから、それまでの間は俺がリディアを守るのだ。
いつか戦いが必要のない、暮らしが出来るその日まで。
本来であれば食堂でみんな揃って食べるという話だったのだが、寝たきりだった妹姫がまだ歩く事が出来なかった事と、俺達と一緒に食事をしたがった事から急遽簡易的な食堂として皆が集まった次第であった。
「初めは無理矢理にでも引き剥がして別々の部屋に移すつもりだったのだが、テオドミロ殿のみならずドリスまで手を握っている状態では諦めるしかなくてね」
椀に満たされたスープを口にした後、しみじみと語るのはこの国の王子たるアスラだ。
彼は昨晩俺がこの部屋で寝る事になった経緯を説明してくれていた。
ちなみに、彼が口にした‘ドリス’とは彼の妹の名前であり、普段俺が彼女に対して呼んでいる『ドライアド』ではなく、この『ドリス・サイレント』が彼女の本当の名前だった。
「すっかり寝入ってしまっていた二人を残して皆を部屋に案内して就寝した時は正直もう期待していなかったのだが、朝訪れてみれば何故か髪の色の変わった我が妹が目を覚まし、昨晩連れてきた男と熱い抱擁を交わしているではないか。その時は驚きと喜びはもちろんあったが、目の前の男を叩き切りたくなったのも事実でね」
「いや……今朝の事は本当に申し訳ない……」
うんうんと頷きながら語るアスラに内心ビクビクしながら答える俺に、アスラは右手を上げて「よい」と言う。
「どのような経緯があったかは詳しくは聞かないが、妹を助けてくれたのは事実。しっかり責任を取ってくれるのなら僕から言うことは何もない」
「責任って何よ」
一人納得したように頷くアスラに対して疑問を挟んだのはリディアだった。
彼女は先程まで頬張っていた山菜の衣揚げをングっと飲み込むと、アスラに対してギロッと睨む。
「責任は責任だ。大切な妹を傷物にされた以上、相応の責任を求めるのは兄としての努め」
「傷物になんかしてないでしょっ!」
「いや、別に変な事してないんですけど」
アスラの言葉に俺とリディアの台詞が被る。
どうやら、アスラの中で酷い勘違いが一人歩きしているらしい。
「なら、どうしてドリスの髪と瞳の色が変わっている? どうやって起こしたのか? それが分からない以上僕としては妹と君が特別な行為を──」
「兄様」
どこまでも加速していく兄の暴走を止めたのは妹であるドリスだった。
彼女はまだ固形物を取るのは控えた方がいいだろうという事で、口にしているのは野菜をドロドロに溶かしたスープだ。
「テオドミロ様が私を助けてくれたのは事実ですが、兄様が考えているような事は一切ございません。今朝の行為に関しても、思わず感極まった私がしてしまっていただけで、テオドミロ様は私を受け止めてくれただけです」
「ほう」
アスラは一言零すと腕を組みつつ俺にチラリと視線を向ける。
どうでもいい事だが、アスラの口調が昨日シグルズに対していたものとは随分違う。
ひょっとしたら、こちらが彼の本来の口調で、シグルズにしていたのは対外的なものなのかもしれない。
「ならば、お互いやましい気持ちは一切ない。と。」
「はい。最も、私の方はお慕いしてはおりますが」
「成る程」
妹の言葉にようやく納得したのだろう。
アスラは俺の目をじっと見つめると、真剣な眼差しでこう言った。
「責任を。テオドミロ殿」
「何でそうなるのよ!!」
アスラの言葉に今度こそ本気で激高したらしいリディアが、テーブルを叩きながら立ち上がる。
食事中に行儀が悪い……とも思ったのだが、俺の膝の上で食事をしているレイラの方が10倍行儀が悪かった事もあって口には出さない。
「レイラちゃん。美味しいですか?」
いつの間にかこちらとは関係のない口論を始めたアスラとリディアをよそに、ドリスは微笑みながらレイラに声を掛ける。
そんなドリスに対して、レイラは素直に頷いた。
「うん。おいしい」
「そう。良かった」
食べながら答えるレイラと、それを見て嬉しそうに微笑むドリス。
その様子の何と微笑ましい事か。
既にお互いの頬を引っ張り合いながら、互いの過去の暴露合戦に発展しているアスラとリディアの二人とは大違いだ。
「とても仲が良いですね」
俺がそちらを見ていたからだろう。
ベッドの上のドリスも俺と同じ光景を見ながら声をかけてくる。
「それは俺とレイラの事? それとも、あっちの2人の事?」
「ふふ。ご主人様とレイラちゃんも仲が良いと思いますが、先程のセリフは兄様達に向けて、ですね」
俺の問いにドリスは小声で返してくる。
どうやら、誰かに聞かれている時以外は俺の事を『ご主人様』で通すつもりらしい。
何だか、背中が痒くなるような気分である。何故なら、立場的には彼女の方が俺よりも遥かに上なのだから。
「あの2人はリディアがサイレントで生活していた頃からの友達らしいからね。きっと、俺達ではわからないような絆があるんだと思うよ」
「そうなのでしょうね。あの方とは私は初めてお会いしましたが、兄様からずっとお話では聞いていましたから」
なんの遠慮も感じないリディアの態度を見ながら、俺は2人の喧嘩を何とも複雑な気持ちのまま見つめていた。
そんな俺の様子をドリスも見ていたが、それ以上は何も言ってこなかった。
ちなみに2人の喧嘩は、使用人が食器を片付けに来るまで終わる事は無かった。
「なんか納得いかないんだよね」
「何が?」
ドリスの部屋を後にして、それぞれあてがわれたと言う部屋に向かう廊下の途中で、唐突にそんな事を言ってきたリディアに、俺は問い返す。
今回この城に来た当初の目的は果たした俺達だったが、俺達の旅の目的を聞いたアスラが国境を安全に通過できるよう配慮してくれるとの事で、その準備が整うまでの間この城でゆっくり休んでいいと言ってきてくれた。
更にはキリスティア王国に対して襲撃犯撃退の連絡をしてくれるという事なので、俺たちも素直に好意に甘えることにしたのだ。
国境を無事に抜けて王都までの検問が解除されるなら、わざわざ魔大陸経由で王都に入るよりもずっと近い。
それに、途中にあるクロスロードでまた姉さんに会う事もできるだろう。
そうなれば、無理に急ぐ必要も無くなった為だ。
「アスラの妹の事。あんたとの間に何があったのか知らないけどさ。なーんか『私はテオドミロ様の特別なんです』って態度? それが気に入らない」
唇を尖らせてそんな事を言い出すリディアに、俺は苦笑する。
「何でそれでお前が不満に思うんだよ」
「知らないよ。わからないけど、何だかすごく気に入らないの」
俺の言葉にリディアはやはりプリプリと怒り出す。
昨日は随分と元気が無いようだったが、一晩寝たことで多少は気持ちの整理が出来たのかもしれない。
それとも、アスラとゆっくり話せた事でホッとしたということもあったのか。
胸がちくりと痛む。
俺は一瞬だけ嫌な気持ちになったような気がしたが、隣を歩くリディアの顔を見た所でそんな気持ちもスッと消える。
何だろう。今の変な気分は?
リディアの横顔に視線を向けたまま、俺は右手を自分の左胸に当てる。
さっきからリディアが口にしている‘気に入らない’という気持ち。
それが、アスラとリディアの二人に対して俺が感じているとでも言うのだろうか?
馬鹿馬鹿しい。
そんな風に自分の考えを否定している所で、リディアが俺の方を向く。
相変わらず不機嫌そうなその顔に、俺はいつも通りのリディアを見たような気がした。
「何?」
「いや、何でもないよ」
リディアは一瞬怪訝そうな表情をしたが、すぐに「ふーん」と言って黙ってしまう。
その後はお互い無言でしばらく進んだ所でリディアは足を止めると、1つの扉を指さした。
「そこがあんた達の部屋みたい。昨日その部屋に突っ込まれたのはレイラだけど、どうせあんたら一緒の部屋で寝るつもりなんでしょ?」
「あー……そうかな?」
リディアの言葉に俺は視線を下に向ける。
そこでは俺の服の裾を掴んだレイラが俺を見上げている所だった。
「うん。一緒の部屋にいるよ」
「……相変わらずのシスコンね」
俺達の様子を見た後に何だか嫌そうな顔をしながらそう呟いたリディアに対して、俺は苦笑しながら言い返す。
「こんな小さな子を一人にさせるわけにもいかないだろ」
「昨日はそいつ一人でいたんだけどね。ま、いいわ。あたしの部屋はここだから」
しかしながら俺の言葉にリディアは納得はしなかったようで、頭を掻きながら俺達の部屋のちょうど対面にあるドアに手を掛ける。
「リディア」
そんなリディアの背中が何だか少し小さく見えたような気がして、俺は思わず声を掛ける。
俺からの呼びかけに一瞬ビクッとしたリディアだったが、ドアに手を掛けたそのままの格好で、こちらに顔を向けるでもなく答える。
「何?」
いつも通りの声だった。
しかし、こちらに顔を向けないリディアに対して、何だか先程アスラと共に居た時のリディアの姿とかぶり、俺は言おうとしていた言葉を飲み込んでしまった。
「……いや、何でもない。おやすみ」
「……まだ朝なんだけど」
呆れたようなリディアの言葉に、俺は自分でも何言ってるんだと思いながら、自室のドアに向き直ってドアを開ける。
しかし、服の裾を握っていたレイラの手を取って部屋の中に入るまで、リディアの部屋のドアが閉まる音がする事は無かった。
「何だかリディア怒ってたな」
俺は部屋に入ると設置されたベッドに仰向けに倒れ込みながら思わず呟く。
そんな俺のお腹の上に乗るように、レイラが俺に重なってきた。
「どうしてかな?」
俺の腹の上でモゾモゾと動きながら、結局は俺の首元に顔を突っ込んで匂いを嗅いでいたレイラに尋ねる。
何をこんな小さな子に聞いているのだと思ったが、レイラは意外にも返答してきた。
「しらない」
それは非常に簡潔な一言ではあったが。
「そうだよなー」
「あいつのおこってる理由しらない、けど」
頭の下に両手を回し、天井を見上げた俺の視界に、レイラの顔がニュっと現れると、俺の頬をぺろりと舐めた。
「しらないけど、『ごしゅじんさま』って、なに? お兄ちゃん」
一瞬、レイラの言っている意味が分からなかった。
リディアの怒っている理由を話していたはずなのに、何故かレイラの口から出たのは『ごしゅじんさま』という単語。
どこでそんな単語を覚えてきたんだと言う疑問が湧いたが、その機会に直ぐに思い至った。
『ふふ。ご主人様とレイラちゃんも仲が良いと思いますが、先程のセリフは兄様達に向けて、ですね』
あの時の会話だ。
喧嘩していたアスラとリディアの二人を見ていた時にしていたドリスとの会話。
あの時のドリスは俺の耳元で、さらに小声で囁いたはずだが、獣人族であるリディアの耳は頭頂部にあり、さらにその聴力は人間族の数倍はあるだろう。
あの距離関係ならばその声を拾っていてもおかしくはない。
俺はどう答えようかと頭の中で色々考えるが、結局はうまい言葉が見つからず、そのまま伝える事になる。
「あー、ご主人待ってのはね……レイラが俺に対して使う『お兄ちゃん』みたいな言葉かな」
「お兄ちゃん、ごしゅじんさま?」
「うーん。そうじゃなくて……レイラ、俺の名前分かる?」
「お兄ちゃん」
レイラの即答に、俺は思わず苦笑する。
「俺はテオドミロって言うんだよ。でも、レイラはお兄ちゃんって呼ぶよね?」
「うん」
俺の言葉にレイラは頷く。
今のところわかってるんだか分かっていないんだか分からないが、とりあえず先を続ける。
「じゃあ、問題。リディアは俺の事をなんて呼ぶ?」
俺の問いにレイラは少しだけ嫌な顔をした後、うーんと言いながら考える。
なんというか、私の前であいつの話題を出すなと言わんばかりの態度だな。
リディアも随分と嫌われたものだ。
「あいつは、お兄ちゃんのこと『あんた』って言ってる」
「そう。それが人によっては『ご主人様』になる事もあるんだ」
ちゃんと知識のある人間であれば、人からご主人様と呼ばれるのはどんな状況だと突っ込みを入れられてしまう所だろうが、ここにいるのは俺とレイラの二人だけ。
幸いにもそう言ってくる人間は皆無である。
「わかった」
案の定リディアは頷き、俺にしがみつく。
しかし、今日は朝からいつも以上に接触が多いような気がした。
膝の上に乗せて食事をさせるという行為も、出会って少ししてからしばらくの間は確かにさせていた。
でも、リディアと出会ったあたりからそういった行為は目に見えて減っていったはずなのだ。
リディアがいる手前俺が自重させたという事もあるが、それでも俺の言う事を聞いていたはずなのに、今日の朝はどうしても膝の上に座ると言って聞かなかった。
その時は一晩一人で寝た寂しさからだと思ったのだが……。
「お兄ちゃんは、レイラとずっと一緒だよね?」
そんな事を考えている時に、突然レイラからそんな事を言われて驚く。
今までそんな事を聞かれた事はないし、むしろ、それが当然とばかりに振舞ってきたレイラ。
そのレイラが、俺にそんな事を聞いてくることが信じられなかったのだ。
先の事を考えた事はある。
このままレアンドロを追っていき、レイラの両親を助ける事が出来た時は別れることになるのだろうと漠然と考えた事はある。
しかし、あくまでそれは先の話なのだ。
俺でさえその程度でしか考えた事がない事を、レイラから言われてしまったのだ。
「俺達は……」
だから俺の言葉は濁る。
いつかレイラのお父さんお母さんが見つかったら別れるんだよ。
いつまでも一緒に居られるわけではないんだよ。
言葉にするならそれが現実だ。
しかし、俺の口からその現実を言葉にしてしまう事はどうしても出来なかった。
何故なら、こちらを見つめるレイラの顔がとても真剣なものだったから。
「ずっと一緒だよ。俺達は」
「なら、いい」
そう言って再び俺の首元に顔を埋めるレイラの頭を優しくなでる。
撫でるたびに舞い上がる柔らかな香りは、出会った頃から変わらない日向の匂いだった。
夜になっても眠くならなかったのは昼間に寝てしまったからかもしれない。
深夜にサイレント城の庭を歩きながら、その行為にそんな言い訳をつけてみる。
今は暗くて見えないが、ここサイレントの城と城下町までの距離は遠い。
その境界である堀が今見ることができないのも、辺りが暗いという理由ばかりではない程に。
しかし、その暗闇においてもその庭の見事さはわかるし、何よりも空気が澄み、街明かりの殆どないサイレントの地の夜空は本当に美しい。
空に浮かんだ真円を描いた月も、瞬く星空も今まで目にしてきたどの夜空にも比較できないほどだった。
だからだろうか。
そんな美しい夜空を見上げている1人の少女が、人口の池の傍で座っていた。
漆黒の髪は月明かりに反射して光沢を放ち、横顔から見える真紅の瞳は僅かに輝いている。
その目の輝きは、彼女が魔力を使用している証で、それでも発動していない魔術は彼女にかせられた枷でもある。
「ここの星空は好きなんだ」
少女は……リディアは独り言のように呟く。
だから俺も何も答えずに彼女の隣に腰を下ろすと、同じように空を見上げた。
先程から見ていて、リディアと同じような感想を抱いた星空も、この位置から見るとまた違った顔を見せたような気がした。
「リディアと別れた後にさ」
俺は空を見上げながら独りごちる。
「レイラに言われたんだ。ずっと一緒に居られるよねって」
やはり独り言のように呟いた俺の言葉は、風に流されるように暗闇に溶け込む。
特に返答を期待したものでもない。
さっきのリディアの言葉に俺が答えなかったように、これは独り言でいいのだ。
夜空を見ながら零す愚痴の類でちょうどいい。
「……どうせ、本当の事は言わなかったんでしょ」
しかし、予想に反してリディアは俺の呟きに返してきた。
ただ、その声には朝聞いたような疲労の色を感じたが。
「いや、ずっと一緒にいるって言った」
「それが嘘だって言ってるの」
俺の反論をリディアの一言が断じる。
「あんたいつかあたしに言ったじゃない。レイラの両親を探す為に旅をしてるってさ。どうせあんたの事だからあいつの両親が見つかったら姿を消すつもりなんでしょ?」
「どうしてそう決めつけるんだよ」
「わかるよ。普段のあんたを見ていれば」
リディアは言い終わったあと大きな息を吐いて、視線を池の水面に移したようだった。
横目で見えていたレイラの瞳が消えて、見えるのが綺麗な黒髪のみとなる。
「あいつだけじゃない。あたしだって最近のあんたを見ているとすごく不安になる。いつでもどこでも誰かの為。簡単に死地に飛び込むし、簡単に憑依魔術を使う。あんたは知っているはずでしょう? 人の死を。それから、憑依魔術を使った先に何があるのかを」
その言葉に、俺はサイレントの姫の事を思い出す。
憑依魔術を失敗し、人間では無くなってしまった少女の姿を。
「いつまでも一緒にいられるわけじゃないかもしれない。別れるのはひょっとしたら明日かもしれない。どんなにあんたから『ずっと一緒にいる』何て言われても、信じられないよ。今回の兄さんとの戦いだって、もしも私が魔術を失敗していたらあんたは死んでいたんだよ。レイラなんか気絶から覚めたらあんたが死んでいたかもしれなかったんだよ? 不安にならない方がおかしいよ。それなのに……」
リディアは膝を抱えると、膝の上に額を落とす。
そのせいで表情を見る事は出来なかったが、その声が震えているのはわかった。
「それなのにあいつはなんなの……。自分は特別みたいな顔して。あんたも満更でもない顔して。あいつなんか特別じゃないよ。あんたと魂で繋がっているのはあたしなんだ。あたしだけがあんたがどこにいても見つける事が出来るんだ」
リディアには俺とドリスの関係は話していない。
もしもこの事を話してしまったら、どうしてもドリスが人間ではない事を話してしまう事になってしまうからだ。
だから、この事はアスラはもちろんリディアにも話すわけにはいかなかった。
その行為が余計リディアの不安を煽っているのかもしれないが、こればかりはドリスの為にも俺の心の中に仕舞い続けなければいけない。
それに、リディアと俺の魂が癒着しているのと同じように、今のドリスは俺の守護精霊だ。
森が近くなければ意識を通わせる事が出来なかった今までとは違い、彼女の意識は常に俺と共にある。
リディアが今俺が外に出ている事を知っていたように、今のドリスも俺が外に出ている事に気が付いているだろう。
そういう意味では、俺にとっての二人の距離はほとんど変わらないと言えた。
もっとも、それを口にする事は出来ないが。
「なあリディア。お前この国好きか?」
「……何よ。今はそんな話……」
「頼む。大事な話だ」
俺の頼みにリディアは少し悩んだようだったが、膝に顔を埋めた姿勢のまま答える。
「……好きだよ」
「じゃあ、アスラの事は?」
「嫌いなわけ無いでしょ」
「この国の人達の事はどうだ?」
「みんないい人ばかりだよ」
リディアの返答に俺は満足して頷くと、1つの提案をする事にする。
「なあリディア。以前お前は言ったよな? 一人で生きていくのが怖かった。だから俺との繋がりを作る、と。でも考えてみてくれ。俺とお前はそもそも寿命が違うんだ。お前はいつか一人で生きて──」
「そんな事今話してないでしょ!!」
俺の言葉が終わる前にリディアは声を上げると、俺の両肩を掴んで食いつくように顔を近づける。
リディアは完全に怒った顔をしていた。
歯を食いしばり、両目を吊り上げて……その瞳いっぱいに涙を溜めて。
「誰も永遠だなんて言ってない!! ただ、今の、今のあんたが……っ!!」
「違うリディア。そうじゃない。そうじゃないんだ」
俺はリディアと同じように彼女の両肩に手を置いて距離を取ると、レイラのような小さな子供に話しかけるような口調で話す。
「これから先、俺達が一緒にいられる保証はない。お前はレイラとは違い大人だから、俺も本音で言うよ。でも、だからこそ、そうなった時に帰る場所は必要だよ。今のお前は魔人族の集落には帰りにくいだろう。そんな時に俺が死んだら? お前はどこに帰ればいい? 俺はそれがここだと思う。ここはお前にとっての第二の故郷になりうると思う。それは、今日お前とアスラの接し方を見て感じたよ」
2人のじゃれあいを見てほんの少し感じた疎外感。
それはきっと、入り込む余地のない2人の雰囲気に嫉妬していただけなんじゃないかと今は思う。
「ここにいつでも帰れるようにしておくんだ。故郷や、俺にそうしたように」
俺の言葉にリディアはヒクっとシャックリを上げる。
ついに感情が決壊してしまったのか、両目に溜められていた雫が落ちた。
「……で、でも、ここにマーキングしたら……本当に役立たずになるよぅ」
「ならない。俺がいる。俺がいればお前の魔術は発動するじゃないか。それにお前の魔力があれば、俺は何のためらいもなく魔術を使う事が出来る。今までと何ら変わり無い」
「でも、テオドミロが死んじゃったら……! 力の無くなった、あたしじゃ、生きられない……」
「俺が死ねばマーキングは消えるんだろう? そうすれば今まで抑圧された魔術が使えるようになるんじゃないか? それこそ今と変わらないじゃないか。それに、ここの人達ならお前をきっと受け入れてくれる」
「でも、テオドミロが死んだら……あたしは……あたしは……」
「ずっと、ずっと先の話だ。俺が年を取って、寿命で死ぬその時までの。いつかは別れる時がくる。それは否定しない。でも、その時までお前の傍で力になると約束する」
「うぅ……」
ついに泣き出してしまったリディアを胸に抱きながら、俺はこれまでの事、そしてこれからの事を考える。
リディアは弱くなってしまった。
でもそれはこれまでの旅や俺達との出会い、それから兄との再会。
その様々な事が重なって一時的に弱くなってしまっているだけなのだ。
いつかは別れの時が来る。
リディアが本当の意味で強くなった時。
俺の助けが必要なくなった時にその時は来るだろう。
その頃には俺のそばにレイラはいないかもしれない。
ドリスもいないかもしれない。
ひょっとしたら、アスラもこの国からいなくなっているかもしれない。
それでもリディアならば、生きていけると確信していた。
だからこそついた……嘘。
俺は最低な男だ。
ドリスやリディアがいうような‘誰かの為’に動く人間では決してない。
しばらく俺の胸の中で泣いていたリディアだったが、やがて小さな声で「わかったよ」と呟いた。
これでリディアはこれから先どんな事があったとしても、故郷かここのどちらかには必ず戻る事が出来るようになった。
だから、それまでの間は俺がリディアを守るのだ。
いつか戦いが必要のない、暮らしが出来るその日まで。
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