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第4話 森の中の少女
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いい加減にして欲しい。
それが今の俺の素直な心境だ。
今俺がいるのは真っ白な空間。
本日三度目となる謎空間だ。
壁も床も只々白。景色なんて何一つなく、存在するのは俺と、ひとりの少女のみ。
思えば今日は朝からおかしかった。
普段あまりは夢もみず、みてもすぐに内容なんて忘れてしまうような俺が、立て続けにリアルな夢を見たのだから。
しかも、夢の内容に気を取られて行動した結果、録でもない結果を生み出した。
要するに、俺は怒っていた。
夢に八つ当たりをするという行為自体が不毛な事だとはわかっている。
今回の出来事だって結局は自分が悪いという事もわかっているつもりだ。
でも、そんな簡単な問題ではないだろう?
今回、俺は確かに下手をうった。
考え事をしながら森の中を練り歩き、熊に襲われ死にかけた。
挙句、夜中まで気を失って深夜に帰宅。
両親や村の人達に心配や迷惑をかけ、幼馴染には泣かれる始末。
何一ついい所がない。
それでも、何かに責任を押し付けたかった。
せめて、俺以外の誰かにその一端を担って欲しかった。
俺一人を……責めないで欲しかった。
父さんはすぐに許してくれた。
母さんは無事で良かったと抱きしめてくれた。
村の人達は人騒がせな奴だと笑いながら言ってくれた。
でもあいつは。
フィリスだけは俺を許してくれなかった。
全力で俺を拒絶した。
だからだろうか。
こんな気分になったのは。
こんなモヤモヤした気分だったから、再びこの夢を見たのだろうか。
またしても……この少女が現れたのか。
「なんの用だよ」
不機嫌を隠そうともしない声色で、目の前の少女に話しかける。
これまで波風を立てないように生きていこうと思っていた。
だからこそ、先生から礼儀を含めた一般教養を習ってきた。
俺が攻撃的な言葉を発した事は、ここ何年もなかったのに。
「……」
そんな俺の敵意の篭ったセリフにも、目の前の少女は特に大きな反応を示さない。
ただ、悲しげな表情を浮かべるだけだ。
俺の言葉に傷ついているとでも言うのなら多少は俺の溜飲も下がったのだろうが、生憎今回の彼女は登場当初からずっと不景気な顔のままだった。
まるで俺に失望でもしているように。
「クソッ」
面白くない。
夢の中で。
自分で自分を慰めようとした都合のいい夢の中ですら、俺は俺を責められない。
自分自身が作り上げたスケープゴート。
それを昼間夢見た相手に求めてしまう時点で終わっていた。
「助けて」
「……え?」
鈴の音のような声が聞こえた。
思わず間抜けな声を上げてしまったが、先の声は断じて俺の声ではない。
顔を上げる。
目の前の少女は両手を自分の前で合わせて握り、祈るようなポーズで、俺を見ていた。
その表情は、先ほどと同じ悲哀に満ちたものだったが、どこか縋るような空気を感じた。
「助けてあげて……あの子を」
「あの子? 何を言っているんだ? そもそも、君は俺の……」
予想していなかった事態が起こっている。
夢は深層心理の表れというが、それが本当なら俺の心の奥底は随分と面倒くさい事になっている事請け合いだ。
「時間がない……」
少女の輪郭がぼやける。
何かを伝えようとしているのか?
誰が?
ここは俺の夢だ。なら、俺が俺自身に何かを伝えようとしているのか?
──いや。
「名前!」
「……?」
叫ぶ俺に既に半分以上透けてしまっている少女が首をかしげる。
「名前だよ! 君の名を教えてくれ!」
何故だかわからない。
わからないが、聞いておかなければいけない気がした。
「──、────」
少女が何かを口にする。
しかし、その声は既に現実味を失くし、虚空の空に消えていく。
それでも俺は耳を澄し、目を凝らす。
彼女の全てを逃さぬように。彼女の思いを逃さぬように。
もう、彼女に対する敵意は消えていた。
「私─なま──、────……」
「!!」
勢いよく身を身を起こすと、その動きに合わせるように木製のベッドがぎしりと軋んだような悲鳴を上げる。
辺は真っ暗だった。
いや、暗闇の中にもうっすらとだが、モヤのような光が見える。
もうすぐ朝が来る。
しかし、先程まで白き光の世界にいた俺にとっては漆黒にも等しい暗闇だった。
夢の事ははっきりと思い出せる。
光の世界。
緑の髪の美しい少女。
そして──
「……名前」
少女が、世界が消える最後の瞬間。俺は確かに彼女の名前を聞いていた。
声は聞こえなかった。
しかし、その口は、思いは確かに俺まで届いていたのだ。
俺はベッドから起き上がると、いつもの森に出かける時の服装に着替える。
昨日の夜、父さんからはしばらく森に行く事は禁止にされてしまった。
母さんからもだ。母さんからは泣きながら懇願された。
母さんの気持ちはわからないでもない。
わからないでもないが、この国では14歳である意味での成人を迎える。
父さんはかつての名残と言っていたが、俺が14歳になった日にこの村に伝わる口伝を教えてくれた理由の一つだと思っている。
心配をかけたのは悪かったと思う。
母さんにとっては俺はまだまだ子供だろうから。
でも、俺はここで引き返す事は出来なかった。
少なくとも、‘命の恩人’の願いを無視出来ない位には大人であったと思いたかった。
俺は物音を立てないようにゆっくりと装備を整えると、窓の傍まで移動する。
僅かに薄くなり始めた暗闇に、動く人の姿はない。
窓を開ける。
初夏に差し掛かったばかりの早朝の空気はまだまだ冷たく、部屋の温度を急速に冷やしていくが、返ってそれが自分自身を落ち着ける結果となった。
(帰ってきたら、今度こそ外出禁止になるだろうな)
あるいは、幽閉でもされてしまうかもしれない。
だが、それでいい。
少なくとも、ここで腐ってしまっていたら、一生後悔するだろう。
「行ってきます」
小さく呟き窓枠を飛び越える。
そして、俺は村に溶け込む影の一つとなって、再び森の深淵へと足を踏み入れた。
村の人達に見つかることを恐れて松明も焚かずに森の中を進んでいた俺だったが、1時間も経たないうちに薄らと足元が見える位には明るくなってきていた。
村の人達はまだ活動していないだろう。何しろ、昨日は日付が変わる時間まで起きていたのだ。
ならば、居ない事に気づかれるまではまだ時間がある。それまでの間に多くの距離を稼ぐ必要があった。
足元が見えるようになったことで自然と足は早くなる。
昨日はひどい倦怠感の中での帰路となっていたが、数時間寝たおかげか今は体も軽い。
鈍った頭ではあまり考えることが出来なかったが、今思えばいくつか引っ掛かる事はあったのだ。
リトルベアーの突進の直撃を受けて重症を負った筈なのに、無傷だった事。
あんな夜中に仕事だといって森に入ってきた冒険者。
冒険者の口にした「露払い」の意味。
あの時俺と冒険者がいた場所は何の近くだった?
伝説に残る地形とは言え、冒険者にとって何一つ特のないその場所にどんな用があったのか?
その地形の傍には何があると父さんは言っていた?
そこに住んでいる者はどんな境遇を受ける事が多いと先生は口にしていたか?
考えれば考えるほど嫌な想像が現実味を帯びてくる。
勘違いであって欲しいと願っている自分がいる。
この先を進めば、昨夜俺が冒険者と別れた場所まで行くはずだ。
例えば、そこにはまだ冒険者が野宿していて、昨日の続きを話すのだ。他愛もない、今回の旅の目的を。
大きな洞のある木が見えてくる。
その周りに人影はない。
俺は近くまで寄ると、焚き火の跡に手を触れた。
熱は全く感じない。ここを発ってからもう随分と時間が経っているようだ。
‘真夜中に進まなければならない用事’とはなんなのか。
俺は舌打ちを一つすると、十分な光量に達した森の奥に向かって駆け出した。
竜の爪痕はもうすぐそこだった。
「ん?」
『それ』に気がついたのは、竜の爪痕まであと30分程という場所に差し掛かった頃だった。
一見枯れ草か何かと見間違う栗色の塊。
ただ、それが他の枯れ草と違ったのは、その先っぽに小さな三角の何かが見えたからだ。
例えるなら耳。
確か、村長さんが飼っている猫にあんな感じの耳がついていたような気がする。
急がなければならないのはわかっていた。
わかっていたが、どうしても俺はそれを確かめなければいけないような気がした。
近づくと、それは背の低い藪の根元にニョッキりと生えたキノコか何かのように存在していた。
毛むくじゃらじゃらな茶色い舞茸。獣耳付き。うん、無い。
俺は藪の中に手を突っ込むと、さながら根野菜を引き抜く百姓の如く、ゆっくりと『それ』を引き抜いた。
茶色の毛玉を本体とするなら、その下部分はやはり根っこになるのだろうか?
しかし、その根は実に人間そっくりだった。
そっくりというか、服まで着ている以上人間そのものと言える。
違うとしたらその尻に尻尾が生えているという事くらいか。
初めに発見した毛玉と同じ栗色の尻尾。
それが力を失ったようにシナっと地面を這うように伸びていた。
「獣人族の子供……か?」
藪の反対側からうつ伏せに倒れ込んだのだろう。だから、俺の方からはただの毛玉にしか見えなかった訳だが、こうして見ると耳と尻尾以外は完全に人間の子供だ。
俺はしゃがみこんでその子を仰向けになるようにひっくり返す。
獣人族は初めて見るが間違いないだろう。
年の頃は6~7歳だろうか。獣人族と人間族の見た目の年齢がどれほど違うのかは分からないが、少なくとも見た目は完全な子供である。
顔立ちから見るに、多分女の子だろう。身体的特徴からは……残念ながら男女を判断するには成長が足りないようだ。
ともかく、本来自分のテリトリーからは決して出る事のない獣人族の、それも子供がこんな場所に居る以上やはり何かあったのだ。
俺は持っていた手ぬぐいを水筒の水で濡らすと、少女の顔の泥を拭う。
左手で頭を少し持ち上げ綺麗にしてあげると、見た目は人間の少女そのものである事に驚いた。
確かに頭頂部に耳があるが、帽子か何かで隠してしまえば人間の少女と言っても誰も疑わないだろう。
いや、尻尾も隠す必要はあるだろうが。
とりあえず顔は綺麗になったからいいとして、別の部分も拭こうかと少女の右腕を見て気がついた。
「傷? いや、火傷か?」
俺は少女の頭を膝の上に乗せたあと、力なく下げられた腕を持ち上げる。
近くで見るとはっきりわかる。
それは間違いなく火傷だった。
しかも、ただの火傷ではなく、焼けた切り傷。いや、焼きながら切られたような不思議な火傷だった。
(魔術……か?)
俺はすぐに昨日会った冒険者を思い出す。
彼はあの時俺に向かって魔術を見せた。それも、炎と風をほぼ同時に使った不思議な魔術。
「あれ……か」
あの魔術ならばこのような傷もつくだろう。むしろ、あの魔術しか考えられない。
的中する嫌な予感が、夢の中で会った少女の言葉に被さっていく。
あの時その少女は「あの子を助けて」と言った。
それはこの子供の事を言っているのだろうか? それとも、この先にあるであろう獣人族の住処の誰かなのか?
わからないが、夢のお告げが真実味を帯びてきた以上急がなければならない。
俺はもう一度冷やした手ぬぐいを少女の火傷の上に置く。
すると、今まで意識を失っていた獣人族の少女の両目がカッと見開いた。
金色の瞳は、空を見上げている為か瞳孔が細く伸ばされ、それだけで人間離れした雰囲気を醸し出す。
一度父さんと一緒に森に入った時に狼と対峙した事があるが、その時の狼の瞳そっくりだった。
その瞳が俺を見る。
次に周り。
僅かに首を動かして自分の右腕。
そして、再び俺の方を見上げた時、俺の視線と交差した。
「…………」
「…………」
目が合ってしばらくはきょとんとした表情をしていた彼女だったが、徐々に鼻の頭と眉の間に皺が寄っていくのが見えた。
その様子があまりにもよく知っている女の子の表情の変化に似ていたものだから、思わず見とれてしまった俺だったが、それがまずかった。
「!!~~~ってぇぇぇっ!!」
噛み付かれた。
彼女は傷口に置かれていた俺の手を掴むと、そのまま自分の口に持っていき思いっきり噛み付いたのだ。
その動きがあまりにも滑らかで淀みなかったものだから、実際に痛みが走るまで何をされたかわからなかったほどだった。
「フウゥーーーーッ!」
その犯人の少女は俺から二歩ほど離れた場所に移動し、四つん這いになって威嚇している。
髪の毛と尻尾は逆立ち、さながら怒ったハリネズミだ。
先ほど髪の毛に触れた時には子供特有の柔らかさを感じたというのに、どういう構造になっているのだろう。
何か魔力的な何かが体毛を伝って、硬度が増すのかもしれない。
いや、冗談ではなく、本気でそういう種族もいるような気がする。何しろ、獣人族は俺たち人間族と見た目が近いとは言っても別のルーツの人類なのだから。
とはいえこの状況はまずい。
少なくとも俺は彼女の敵ではないのだから、怒りを収めてもらわないと話にならない。
「ちょっと待ってくれ。まずは俺の話を……」
「フカーーーーーーッ!」
敵意がない事をわかってもらう為に近づいた俺だったが、どうやら逆効果だったらしい。
獣人族の少女は伸ばした俺の右手を自らの爪で引っかいたあと、踵を返して駆け出してしまったのだ。
「えっ? そこで2本足?」
先程まで四つん這いになっていたものだからてっきり4足歩行だと思っていたのだが、どうやら2足歩行だったらしい。
通常の人間と同じように駆け出した獣人族の少女の後をワンテンポ遅れて追いかける。
とりあえず、彼女の後ろを付いていけば獣人族の集落まではたどり着けるだろう。
少女とは言えさすがは獣人族だ。
先程まで気を失っていたというのに、全力で走っている俺よりも僅かに速いらしく、ジワジワ距離が離される。
当然、森での生活に慣れているというのもあるだろうが、俺だって小さな頃から森の民として生き、自分の庭のように生活してきたのだ。
獣人は自分のテリトリーから出る事はない。
今回のようなイレギュラーはあるだろうが、あの少女は竜の爪痕の‘こちら側’に来るのは初めてだろう。
その上であの速度である。
(これが種族の違い? なんて不公平な)
だが、一応俺にも意地がある。
もうすぐ獣人族と人間族の境界線でもある竜の爪痕が現れる。
そこで一気に追いついて捕まえてしまえばいい。
恐らく暴れられるだろうが……。向こう側に何人冒険者がいるかわからない以上、少女一人を帰すわけにはいかなかった。
程なくして視界が開ける。
一旦森が途切れた先にあるのが竜の爪痕と呼ばれる断崖だ。
鋭く切り裂かれたような地形から、遥か昔に古代竜に引き裂かれた。と、伝わっている場所だが、一番離れている場所で10m以上、近い所でも5m以上間隔が離れている崖だ。自然現象以外で発生するようなものでは断じてない。
ちなみに、この場所から見られる竜の爪痕の間隔は8m程。
崖としては近い距離だろうが、人間ではとても自力で渡れるものではない。
そう。‘人間では’。
「嘘ぉ!?」
その距離を彼女は跳んだ。
俺から逃げる速度そのままで崖に突入し、こちらがあっと思う間もなく躊躇なく飛び越えたのだ。
綺麗な放物線を描いて対岸に着地した彼女はまだまだ余裕が有るように、軽やかに体勢を立て直しこちらを振り向いた。
俺はと言うと、ギリギリ崖っぷちで足を止め、対岸を見つめることしかできない。
そんな俺を、少女は何の感情も篭らない視線を投げたあと、そのまま森の奥へと姿を消した。
「や、やばい……!」
このまま彼女を見失ったら獣人族の集落にたどり着くのに時間がかかりすぎてしまう。
そうなれば全てが手遅れになってしまうだろう。
俺は慌ててあたりを見渡すと、右手側、比較的対岸との距離が近い場所で一本の木が崖を跨ぐように倒れているのに気がついた。
随分都合よく倒れているなと思って近づいてみたが、根元あたりに鋭い刃物で切ったような跡が見えた。
どうやら、魔術でこの木を切り倒し、橋代わりに使用した人間がいるらしい。
「……急がなきゃ」
俺は慎重に木の橋を使って対岸に渡ると、獣人族の少女が向かった方向へと走っていった。
全てが手遅れになる前に。
俺の中の想像は、いつしか確信に変わっていた。
異変はすぐに気がついた。
少女の後を追って森に入って少しして、木々の隙間から黒い煙見えたのだ。
煙の発生源にはもう少し距離があるだろう。
しかし、確実に何かが燃えているのだ。
それが森の木か家なのかはわからない。わからないが、それがどちらでもこの森の住人にとっては致命的な事だろう。
森がなくなるか、人がいなくなるかの違いでしかないのだから。
少女の背中はまだ見えない。
嫌な予感が止まらない。
この先にある景色を想像したくない。
しかし……。
森の切れ目。
僅かに開けたその場所で俺が見たものは。
俺が想像した最悪に、限りなく近い光景だった。
燃え上がる民家。
数人の男に組み伏せられ、引き摺られるように運ばれている獣の耳と尾を持つ人々。
そして──
尻尾と髪を逆立て、唸り声を上げる獣人族の少女と。
その対面で、少女に向かって右手の平を向ける冒険者────レアンドロだった。
「……あれ?」
対峙する二人。
先にこちらに気がついたのはレアンドロだった。
右手は少女に向けたまま、驚いたような声を上げた。
「君、昨日の子だよね? おかしいな。どう見ても人間なのに、ひょっとしてここの住人だったの?」
まるで世間話でもするように話しかけてくる男に、俺は奥歯がなるのを自覚した。
「あなたは……何をしているんです?」
「先に僕の質問に答えなよ」
俺の問いには答えず、右手を俺に、左手を少女に向けなおしてレアンドロは声を低くして言ってくる。
「君がこの集落の住人なら、僕は君を拘束しなければならない。でも、君が単にこの場所に迷い込んだだけだというのなら、昨日と同じように見逃してあげるからさ」
「理由を聞いても?」
「これが僕の仕事だから。獣人を捕える。でも、人間はその内容には含まれていない。だから、ほら。早く答えて。君は獣人? それとも人間?」
目の前の男の体から濃密な魔力が集まっているのが‘今なら’わかる。
彼は本気だ。
もしも、俺がここで「獣人だ」と言えば躊躇いなく魔術を放つだろう。大木すら容易く切り裂く、凶悪な力を。
「……人間です」
俺の言葉に、レアンドロはニッコリと微笑む。それが昨日みた笑顔と全く同じで、なのに、昨日見たときは感じなかった凄まじい嫌悪感を味わった。
「そっか。良かった良かった。僕はこう見えて子供好きだから、酷い事したくなかったんだ」
そう言って満足そうに頷くと、俺に向けていた右手を獣人族の少女に再び向ける。
「その子も子供ですよ」
「知ってるよ」
俺の指摘にもレアンドロはそっけない。
「子供なのは見ればわかる。でも……獣人だ」
少女に向ける眼差しは、俺に向けるものとは全く違う。
そこに温かみはまるで無く、仕事と割り切った冷たい目。
対する少女も怯まない。
先程の傷を見るに、彼の魔術を一度は受けているはずだ。
それなのに、怯むどころか威嚇しながら隙を伺っている。
あんなに小さな少女がだ。
俺があの位の年の頃にあんな顔が出来ただろうか。
いや、彼女は目の前で親しい人に暴力を振るわれたのだ。その怒りは……同じ立場にならないとわからないだろう。
一歩踏み出す。
そんな俺の行動に、目の前の冒険者の視線が僅かにこちらに向けられる。
「何のつもり?」
「…………」
無言でもう一歩。
しかし、今度は視線では無く右手がこちらに向けられた。
「人間は捕えても売れないんだ。良い子だから家に帰ってくれないかな」
その言葉で、俺の足はこれ以上前に進まなくなる。
でも、それでも、俺には進まなければいけない理由があった。理由を思い出した。
「その子を……助けてくれませんか?」
レアンドロの視線が冷たくなる。
「僕の言葉が聞こえなかったの? 僕は獣人を捕えるだけ。別に殺すわけじゃない。でも、さっき言ったように人間は売れないんだよ。だから、もしも君がこれ以上邪魔をするっていうのなら──」
目の前の男は少女に向けていた視線を完全に俺の方に向け、今までとは違う、底冷えのする声で言葉を続けた。
「──殺すよ?」
その視線にさらされた時、俺は先日の熊がいかに可愛かったかを実感する。
でも、それだけだ。
あの戦いはお互いが生き残る為だった。
弱肉強食の自然界の摂理に従ったに過ぎない。
でも、目の前の男のやっている事はなんだ?
生きるため?
違う。
己よりも弱い存在を、ただ、自らの至福を肥やすために行っている利己的な行動だ。
「俺はその子を助けてくれと頼まれました」
「へえ。誰に」
「命の恩人です」
俺の言葉に、レアンドロは鼻で笑う
「命を助けておきながら、その相手を命の危険にさらすのか。とんでもないクズだね。そいつは」
「……かもしれませんね」
俺に獣人の少女を託した夢の中の少女。
彼女は俺の力をよくわかっているはずだ。それでも俺にそれを託したのは、‘俺しか頼める人がいなかったから’だ。
元々彼女と話せる人間は少なかった。
先生もよく言っていた。そういった存在はとても希少だと。
でも、話すことが……いや、意思の疎通が出来る人は、決して才能があるからじゃない。
彼女と話すためには、仲良くなる必要があったのだ。
「それでも俺はその子の願いを聞き入れたい。何より、俺はその為の存在だと思い出したから」
父さんの言葉を思い出す。
14歳になったあの日。俺に村の言い伝えを伝えた後に言った言葉を。
──いいかテオ。今日からお前は俺達と同じ、この村を、この森を守るための存在だ。
「俺は村を、この森を守るための存在」
──森に危機が訪れたなら、何を犠牲にしてでも守り通さなければいけない。
「この森に危機が訪れた時、俺は必ずこの森を守る」
──この森には守り神が存在する。かつてはこの村にも姿を見、声を聞くことが出来る人間がいたが、今はいなくなってしまった。
「この森に住む守り神の言葉を俺は信じる」
──しかし、声は聞こえなくても意思はいつまでも繋がっていく。親から子へ。今はもうこの意思を受け取るものも少なくなってしまったが……。
「受け取ったこの‘意思’を俺は信じる」
──テオ。お前がこの森を守るんだ。今でなくてもいい。いつか、今よりももっと強い大人になって、この森を。守護神様を最後まで──
「最後まで! たとえこの場で踏みにじられてしまうとしても、この森に手を出したお前らの行動を許すものか!」
ブッシュナイフとククリナイフ。
「炎の懐刀!」
2本のナイフを引き抜いた瞬間、鋭い声と共にレアンドロの右手から赤い何かが飛び出した。
それを俺は横にステップを踏みながらククリナイフで受け流す……つもりだったが、赤い魔術に当たったククリナイフは、わずかな抵抗と共にその刃を失った。
「なっ!?」
切られた断面が赤くなっている所を見るに熱で焼き切られたのだろう。
俺はそれを見て獣人の少女の火傷を思い出す。恐らく、これがあの男の得意魔術なのだろう。
俺は失ったナイフの柄を男に向かって投げつけるが、レアンドロは軽く首を振ってそれを躱した。
だが、彼は気が付いていなかった。
俺に向けて魔術を放った瞬間、小さな獣が彼に向かって飛びかかっていたのを。
「っ!!っく!」
少女の爪をかろうじて躱すレアンドロ。
しかし、攻撃は当たらなかったが、体勢は崩れた。俺は残ったブッシュナイフを逆手に持ち直し、一気にその距離を詰める。
だが、次の瞬間魔力の大きな膨らみを感じた。
「ファイヤストーム!!」
熱風が迸る。
目に見える程の炎の奔流は、彼の足元からまるで竜巻のように足元から外に向かって広がっていく。
俺の位置からなら逃げれば何とか耐えられるかもしれない。
しかし、俺は見た。
炎の竜巻に向かって飛びかかる一人の少女の姿を。
「よせ!!」
自分の意志とは関係なく体が動いた。
下がりかけていた足をすぐさま反転させ、後ろに向かっていたエネルギーを前方へ。
正に炎の壁に顔を埋めようとしていた所を、腕を掴んで強引に引き寄せた事で食い止めた。
しかし、人一人引っ張り込んだ以上その力は俺に向く。
「があっあああぁぁぁっ!!」
炎の嵐を背に受けて、俺は無様に吹き飛ばされる。
転がる事で何とか背中の炎は消えてくれたが、受けた衝撃は治らない。
荒い呼吸を吐き出しながら起き上がろうとした俺の前に、後ろに手を付いた状態で座り込んでいる獣人族の少女と目が合った。
ひどく驚いた顔をしていた。
恐怖ではない。
俺を信じられないものでも見るような目で見ていた。
強い子だ。本当にそう思う。
何とかこの子を逃がしたかったが、どうやらこれ以上は戦う事が出来そうもないらしい。
後ろから足音が聞こえる。
合わせて剣を引き抜いのだろう。金属をこすり合わせたような甲高い音。
俺は手を伸ばすと、目の前の少女の頭を抱く。
ちょうど彼女の頭に顔が埋まる格好になり、鼻いっぱいに日向の香りがした。
「思い出したよ」
俺たちの後ろに立ち止まり、レアンドロは呟いた。
「この森には守護者がいる。この仕事を受ける時に酒場にいた詩人に聞いた戯言。……戯言だと思っていた事。そうか。君が……いや、君の村の住人達が、この森を守る守護者だったってわけだ」
後ろからの声を聞きながら、俺は左手のブッシュナイフを胸元に持っていく。
ちょうど俺と彼女の真ん中。仮に後ろから突かれても、少女の命が守れるように。
少女はそれを見たのか俺の手をどかそうとするが、俺は右手で彼女の頭を押さえつける。
レアンドロが少女ごと俺を刺殺したと思ってくれれば……。動けない俺にはもはやこんな事しか出来る事はなかった。
「けど、残念だったね」
本当に残念そうな声色でかけられた言葉。
それと同時に背中から胸にかけてまるで焼きごてでも当てられたような異物感が貫通していく。
胸元を見ると、真っ赤な刃が俺の胸から飛び出し、俺と少女の間で構えていたナイフを貫通。
そのまま少女の胸へと吸い込まれていた。
「……え?」
悲鳴もない。
俺も少女も、そのまま崩れ落ちるように倒れ伏す。
ちょうど俺が少女を押し倒すような格好だが、全く動くことが出来ない。
それどころか、痛みすら感じなかった。
「どうした!?」
すると、遠くからこちらの音が聞こえたのだろう。
複数の足音と共に、野太い男の声が背中から聞こえる。
「いや、なんだか人間の子供が迷い込んでいたから、始末したところ」
「……殺したのか?」
「うん。僕の顔も見られたしね。子供とは言え危険だよ」
まだ死んではいない俺は、その会話を聞いていた。
心臓を一突きされたのだ。普通なら即死の筈なのに何故か生きている。
それは目の前の少女も同じらしく、口をパクパクとしながらも呼吸自体は止まっていないようだ。
「それよりも、仕事が増えそうだよ」
「あん?」
「覚えてないかい? ここに来る前に寄った街で聞いた事。この森の守護者の伝説」
ギョッとする。
後ろの男は何を言っているんだ?
仕事が増えると言った。
この男の仕事はなんだった?
「どこかにいるであろう大森林の守護者の一族。もしも現存しているなら、僕らも仕事がやりにくくなってしょうがないでしょ? 何より、今回の事に関しても足が付くきっかけになるかもしれない」
そんな事はない。
今回の事は自分の独断なのだと、言ってやりたかった。
しかし、悲しいことに一言たりとも言葉は出てくれなかった。
「全ての憂いは断つべきだ。この少年の話を信じるならば、その一族はこの先の村に住んでいるらしいからね。少し遠回りになるけど、何、さしたる労力にはならないだろう?」
憂いを断つとは何の事だ。
俺の村に行って何をするつもりなのか。
……いや、本当はわかっている。
ただ認めたくないだけなのだ。
俺のせいで最悪の結果になってしまったという事に。
「そうだな。どの道そこのガキがその村の人間なら、先にやっちまった方がいいんだろうな。そいつを探しに来てここが見つかったらたまらねぇ」
「そういう事」
「所で、もう獣人はいなかったか?」
野太い男の声に、俺の心臓が小さく跳ねる。
もはやいつ止まってもおかしくない状態だが、それでも、せめて俺の命が尽きるまで、この子を取り上げないで欲しかった。
「……いや。いなかったな。居たのはそこで死んでる‘人間の子供二人だけ’さ」
「そうか」
レアンドロの言葉に男どもは納得したのか、それ以上は何も追求しては来なかった。
代わりに、遠くから出発の声がかかり、お互いに声をかけていく。
「出発だ。行くぞ」
「いや、僕はまだやる事があるから、先行っててよ」
「何? なんだ。やることって」
「このままの状態で放っておいたら、いずれ火事になるし後が面倒だろ? 消火がてら後片付けさ」
「そうか。じゃあ、先に行くが、すぐ来いよ」
「嫌だな。僕の足の速さ知ってるでしょ」
違いねぇ。と言い合いながら離れる男たちを見送って、レアンドロは俺たちの元へと近づいてくる。
「地から天へ。天から地へ。大地を濡らせ、スプラッシュレイン」
レアンドロから紡がれたのは魔術の詠唱だった。
本来イメージするだけで具現化出来るのが物質魔術だが、より具体的なイメージを抱きたい時や、即時発動したい時などに詠唱する術者は多い。
このレアンドロも戦いの最中、短いながらも詠唱をしていたのを思い出す。
「さて」
地面から吹き出した地下水があたり一面に降り注ぎ、体が冷え切ってしまう中、首筋に何かが触れた感触がある。
恐らく、レアンドロが触れたのだろうが、特に乱暴にするでもなく、そのまま指を引っ込めた。
「まだかろうじて生きてるね。傷口を焼きながら引き抜いたから、出血もしていないしすぐには死なない。致命傷ではあるから、もうすぐ死ぬけど」
言われて真っ赤に染まった刃を思い出す。あの時焼きごてのようだと感じたが、比喩ではなく、本当に焼きごてだったようだ。
「まだ生きてるうちに言っとくよ」
特に止めを刺すでもなく、レアンドロは続ける。
「僕はどうしようもない悪党だ。獣人達を奴隷として売るだけじゃなく、依頼があれば殺しだってする。今回のように仕事の邪魔になるようならそれこそ子供だって殺す。けどね」
ふう、と息を付く。何かを思い出すように。
「君に言った言葉も嘘じゃない。僕は子供が好きだからね。本当は殺しなんてしたくないんだよ。でも仕方ない。生きる為だ。あの時君が熊を殺して食ったように、僕にとっての仕事はそれと何ら変わり無い。言ってみれば価値観の違いというやつだね」
俺が熊を殺したように……。
初めに俺がレアンドロに戦いを挑んだ時、熊を殺すのは仕方ないと思ったのは確かだ。
それを、この男は自分の行動がそれと同じ事だという。
「だから、チャンスをあげる」
レアンドロはそう言った。
死にゆく者にどんなチャンスがあるというのか。
「初めて君と会った時。君は気絶していたね。初めは間抜けな狩人だと思ったけど、君が僕に挑みかかってきた言葉を聞いて、ふと思ったんだよ。君は言った。『命の恩人に頼まれた』と。初めはなんの事かわからなかったけど、君がこの森の守護者だというなら納得できる部分がある。君……聞こえるんだろう?」
何が。とは思わない。
この男がどこまで理解しているのかはわからないが、考えてみればこの男は魔術師だ。ある程度のことは分かっていても不思議じゃない。
「もし君がもう一度この森の‘神様’の声を聞けたのなら、助けを求めているといい。君はこの森を守ろうとした。結果はご覧の通りだけど」
ご覧の通りとは、失敗したという意味だ。
俺は獣人族も守れず、恐らくこの後こいつらが向かうであろう村の人達を救うことも出来ない。
「森を守れなかった君が果たして神様に助けてもらえるか。もしも助けてもらえたなら。その命を繋ぐことが出来たなら、その時は──」
降り注ぐ水量が少なくなる。
同時に遠ざかる足音。
水音と足音と、距離も相まって聞こえにくくなっていたから……。
「この僕を……殺してくれ」
その言葉もきっと……聞き間違いに違いない。
降りしきっていた水は無くなり、燃え盛っていた炎も消えた。
残ったものは焼けただれたかつての集落と、死にかけた子供が二人。
一人は獣人の娘。
虚ろな目で浅い息を付きながらも、弱々しく俺の服を握っている。
その表情には死相が浮かび、もう長くない事が窺い知れた。
そして、それは俺も同じで、その様子をぼんやりと眺めながら、かろうじて呼吸をしているだけ。
もう呼吸もしたくない。
そんな体力も無くなってきているのだ。
それでも呼吸をやめないのは、止めさせてくれない存在が居る為だ。
本当はずっと気がついていた。
あの時、レアンドロと対峙した時から。
俺の傍に、付かず離れずずっと傍に居ることには気がついていた。
けれど、どうしていいかわからなかった。
使命感のようなものを感じていた事も、父親の言葉を守ろうとした事も事実だ。
でも、その力があまりにも曖昧で。
守って貰う事の意味も、理由もわからなかったから。
でも、今なら……。
「……お願いが……ある」
掠れた声が出た。
あれほどだそうと思っても出せなかった声が。ひょっとしたら、これが消える前の炎というやつなのかもしれない。
「俺は……も、りを……守れな、かった。だから、こ、んな……事を、いう……たちばじゃない、…こと、しって……る」
ぼんやりとした視線の先に足が見えた。
今度は夢じゃない。
現実の中で、見た、少女の素足。
「俺は、残り……カス……で、いい……」
胸の中の少女に目を落とす。
閉じかけた瞳に浅くなった呼吸。
微かに動く手で少女の前髪を触りながら。
「この……子は……お、れ、の……いきた……しょうこ……おれ、まちがって……ない、りゆ…うだ、から……」
俺の手に誰かの手が重なる。
真っ白な肌に小さな手。
しかし、とても暖かい。
「……しにたく……ない」
それは心からの言葉。
でも、それ以上に。
「このこは……もっと、いきる…べき……だ……だって」
だって。
だってこの子には。
「……まだ……りょう、し、んが……いきて…いるん……だから」
暖かい。
暖かな温もりが辺りを包む。
気が付けば、少女の手は俺と獣人の少女の手をお互いに重ねていた。
二人の手を握らせて、その手を両手で包むように、暖かな手が包んでいた。
ごっそりと何かが抜け落ちる感覚がする。
俺は、これが魔力の消費する事から起きる倦怠感だともうわかっていた。
いつの間にか呼吸が楽になる。
胸の痛みがジンジンと疼きだす。
視線を下げると獣人の少女と目が合った。
もはや虚ろではない金色の瞳。
初めて合った時の威嚇するような視線ではなく、何かに縋り付くようなそんな瞳。
よく見ると、その目の端には涙が光っていた。
俺はその涙をソッと拭うと、多少動くようになった首を動かす。
俺たちの傍らにしゃがみ込み、緑色の髪の美しい少女がそこにいた。
彼女がこの森の守り神なのかはわからない。
でも、彼女が俺たちを助けてくれたのは変わらない。
意識が急速に失いそうな感覚。
死にかけた二人を回復させようというのだ。俺の魔力程度では賄いきれないだろう。
それは最初からわかっていたから、彼女に前もって頼んだのだ。残りかすでいい。と。
俺の下の少女が動き出すのと対照的に、俺は力が抜けていく。
それでも、最後に、せめて意識を失う前に言っておかなければならない事があった。
「ありがとう」
暖かな。まるで母親に抱かれているような安心出来る心地のまま。
「ドライアド」
あの時教えてもらった森の少女の名を呼んで。
俺は暖かな温もりの中に沈んでいった。
それが今の俺の素直な心境だ。
今俺がいるのは真っ白な空間。
本日三度目となる謎空間だ。
壁も床も只々白。景色なんて何一つなく、存在するのは俺と、ひとりの少女のみ。
思えば今日は朝からおかしかった。
普段あまりは夢もみず、みてもすぐに内容なんて忘れてしまうような俺が、立て続けにリアルな夢を見たのだから。
しかも、夢の内容に気を取られて行動した結果、録でもない結果を生み出した。
要するに、俺は怒っていた。
夢に八つ当たりをするという行為自体が不毛な事だとはわかっている。
今回の出来事だって結局は自分が悪いという事もわかっているつもりだ。
でも、そんな簡単な問題ではないだろう?
今回、俺は確かに下手をうった。
考え事をしながら森の中を練り歩き、熊に襲われ死にかけた。
挙句、夜中まで気を失って深夜に帰宅。
両親や村の人達に心配や迷惑をかけ、幼馴染には泣かれる始末。
何一ついい所がない。
それでも、何かに責任を押し付けたかった。
せめて、俺以外の誰かにその一端を担って欲しかった。
俺一人を……責めないで欲しかった。
父さんはすぐに許してくれた。
母さんは無事で良かったと抱きしめてくれた。
村の人達は人騒がせな奴だと笑いながら言ってくれた。
でもあいつは。
フィリスだけは俺を許してくれなかった。
全力で俺を拒絶した。
だからだろうか。
こんな気分になったのは。
こんなモヤモヤした気分だったから、再びこの夢を見たのだろうか。
またしても……この少女が現れたのか。
「なんの用だよ」
不機嫌を隠そうともしない声色で、目の前の少女に話しかける。
これまで波風を立てないように生きていこうと思っていた。
だからこそ、先生から礼儀を含めた一般教養を習ってきた。
俺が攻撃的な言葉を発した事は、ここ何年もなかったのに。
「……」
そんな俺の敵意の篭ったセリフにも、目の前の少女は特に大きな反応を示さない。
ただ、悲しげな表情を浮かべるだけだ。
俺の言葉に傷ついているとでも言うのなら多少は俺の溜飲も下がったのだろうが、生憎今回の彼女は登場当初からずっと不景気な顔のままだった。
まるで俺に失望でもしているように。
「クソッ」
面白くない。
夢の中で。
自分で自分を慰めようとした都合のいい夢の中ですら、俺は俺を責められない。
自分自身が作り上げたスケープゴート。
それを昼間夢見た相手に求めてしまう時点で終わっていた。
「助けて」
「……え?」
鈴の音のような声が聞こえた。
思わず間抜けな声を上げてしまったが、先の声は断じて俺の声ではない。
顔を上げる。
目の前の少女は両手を自分の前で合わせて握り、祈るようなポーズで、俺を見ていた。
その表情は、先ほどと同じ悲哀に満ちたものだったが、どこか縋るような空気を感じた。
「助けてあげて……あの子を」
「あの子? 何を言っているんだ? そもそも、君は俺の……」
予想していなかった事態が起こっている。
夢は深層心理の表れというが、それが本当なら俺の心の奥底は随分と面倒くさい事になっている事請け合いだ。
「時間がない……」
少女の輪郭がぼやける。
何かを伝えようとしているのか?
誰が?
ここは俺の夢だ。なら、俺が俺自身に何かを伝えようとしているのか?
──いや。
「名前!」
「……?」
叫ぶ俺に既に半分以上透けてしまっている少女が首をかしげる。
「名前だよ! 君の名を教えてくれ!」
何故だかわからない。
わからないが、聞いておかなければいけない気がした。
「──、────」
少女が何かを口にする。
しかし、その声は既に現実味を失くし、虚空の空に消えていく。
それでも俺は耳を澄し、目を凝らす。
彼女の全てを逃さぬように。彼女の思いを逃さぬように。
もう、彼女に対する敵意は消えていた。
「私─なま──、────……」
「!!」
勢いよく身を身を起こすと、その動きに合わせるように木製のベッドがぎしりと軋んだような悲鳴を上げる。
辺は真っ暗だった。
いや、暗闇の中にもうっすらとだが、モヤのような光が見える。
もうすぐ朝が来る。
しかし、先程まで白き光の世界にいた俺にとっては漆黒にも等しい暗闇だった。
夢の事ははっきりと思い出せる。
光の世界。
緑の髪の美しい少女。
そして──
「……名前」
少女が、世界が消える最後の瞬間。俺は確かに彼女の名前を聞いていた。
声は聞こえなかった。
しかし、その口は、思いは確かに俺まで届いていたのだ。
俺はベッドから起き上がると、いつもの森に出かける時の服装に着替える。
昨日の夜、父さんからはしばらく森に行く事は禁止にされてしまった。
母さんからもだ。母さんからは泣きながら懇願された。
母さんの気持ちはわからないでもない。
わからないでもないが、この国では14歳である意味での成人を迎える。
父さんはかつての名残と言っていたが、俺が14歳になった日にこの村に伝わる口伝を教えてくれた理由の一つだと思っている。
心配をかけたのは悪かったと思う。
母さんにとっては俺はまだまだ子供だろうから。
でも、俺はここで引き返す事は出来なかった。
少なくとも、‘命の恩人’の願いを無視出来ない位には大人であったと思いたかった。
俺は物音を立てないようにゆっくりと装備を整えると、窓の傍まで移動する。
僅かに薄くなり始めた暗闇に、動く人の姿はない。
窓を開ける。
初夏に差し掛かったばかりの早朝の空気はまだまだ冷たく、部屋の温度を急速に冷やしていくが、返ってそれが自分自身を落ち着ける結果となった。
(帰ってきたら、今度こそ外出禁止になるだろうな)
あるいは、幽閉でもされてしまうかもしれない。
だが、それでいい。
少なくとも、ここで腐ってしまっていたら、一生後悔するだろう。
「行ってきます」
小さく呟き窓枠を飛び越える。
そして、俺は村に溶け込む影の一つとなって、再び森の深淵へと足を踏み入れた。
村の人達に見つかることを恐れて松明も焚かずに森の中を進んでいた俺だったが、1時間も経たないうちに薄らと足元が見える位には明るくなってきていた。
村の人達はまだ活動していないだろう。何しろ、昨日は日付が変わる時間まで起きていたのだ。
ならば、居ない事に気づかれるまではまだ時間がある。それまでの間に多くの距離を稼ぐ必要があった。
足元が見えるようになったことで自然と足は早くなる。
昨日はひどい倦怠感の中での帰路となっていたが、数時間寝たおかげか今は体も軽い。
鈍った頭ではあまり考えることが出来なかったが、今思えばいくつか引っ掛かる事はあったのだ。
リトルベアーの突進の直撃を受けて重症を負った筈なのに、無傷だった事。
あんな夜中に仕事だといって森に入ってきた冒険者。
冒険者の口にした「露払い」の意味。
あの時俺と冒険者がいた場所は何の近くだった?
伝説に残る地形とは言え、冒険者にとって何一つ特のないその場所にどんな用があったのか?
その地形の傍には何があると父さんは言っていた?
そこに住んでいる者はどんな境遇を受ける事が多いと先生は口にしていたか?
考えれば考えるほど嫌な想像が現実味を帯びてくる。
勘違いであって欲しいと願っている自分がいる。
この先を進めば、昨夜俺が冒険者と別れた場所まで行くはずだ。
例えば、そこにはまだ冒険者が野宿していて、昨日の続きを話すのだ。他愛もない、今回の旅の目的を。
大きな洞のある木が見えてくる。
その周りに人影はない。
俺は近くまで寄ると、焚き火の跡に手を触れた。
熱は全く感じない。ここを発ってからもう随分と時間が経っているようだ。
‘真夜中に進まなければならない用事’とはなんなのか。
俺は舌打ちを一つすると、十分な光量に達した森の奥に向かって駆け出した。
竜の爪痕はもうすぐそこだった。
「ん?」
『それ』に気がついたのは、竜の爪痕まであと30分程という場所に差し掛かった頃だった。
一見枯れ草か何かと見間違う栗色の塊。
ただ、それが他の枯れ草と違ったのは、その先っぽに小さな三角の何かが見えたからだ。
例えるなら耳。
確か、村長さんが飼っている猫にあんな感じの耳がついていたような気がする。
急がなければならないのはわかっていた。
わかっていたが、どうしても俺はそれを確かめなければいけないような気がした。
近づくと、それは背の低い藪の根元にニョッキりと生えたキノコか何かのように存在していた。
毛むくじゃらじゃらな茶色い舞茸。獣耳付き。うん、無い。
俺は藪の中に手を突っ込むと、さながら根野菜を引き抜く百姓の如く、ゆっくりと『それ』を引き抜いた。
茶色の毛玉を本体とするなら、その下部分はやはり根っこになるのだろうか?
しかし、その根は実に人間そっくりだった。
そっくりというか、服まで着ている以上人間そのものと言える。
違うとしたらその尻に尻尾が生えているという事くらいか。
初めに発見した毛玉と同じ栗色の尻尾。
それが力を失ったようにシナっと地面を這うように伸びていた。
「獣人族の子供……か?」
藪の反対側からうつ伏せに倒れ込んだのだろう。だから、俺の方からはただの毛玉にしか見えなかった訳だが、こうして見ると耳と尻尾以外は完全に人間の子供だ。
俺はしゃがみこんでその子を仰向けになるようにひっくり返す。
獣人族は初めて見るが間違いないだろう。
年の頃は6~7歳だろうか。獣人族と人間族の見た目の年齢がどれほど違うのかは分からないが、少なくとも見た目は完全な子供である。
顔立ちから見るに、多分女の子だろう。身体的特徴からは……残念ながら男女を判断するには成長が足りないようだ。
ともかく、本来自分のテリトリーからは決して出る事のない獣人族の、それも子供がこんな場所に居る以上やはり何かあったのだ。
俺は持っていた手ぬぐいを水筒の水で濡らすと、少女の顔の泥を拭う。
左手で頭を少し持ち上げ綺麗にしてあげると、見た目は人間の少女そのものである事に驚いた。
確かに頭頂部に耳があるが、帽子か何かで隠してしまえば人間の少女と言っても誰も疑わないだろう。
いや、尻尾も隠す必要はあるだろうが。
とりあえず顔は綺麗になったからいいとして、別の部分も拭こうかと少女の右腕を見て気がついた。
「傷? いや、火傷か?」
俺は少女の頭を膝の上に乗せたあと、力なく下げられた腕を持ち上げる。
近くで見るとはっきりわかる。
それは間違いなく火傷だった。
しかも、ただの火傷ではなく、焼けた切り傷。いや、焼きながら切られたような不思議な火傷だった。
(魔術……か?)
俺はすぐに昨日会った冒険者を思い出す。
彼はあの時俺に向かって魔術を見せた。それも、炎と風をほぼ同時に使った不思議な魔術。
「あれ……か」
あの魔術ならばこのような傷もつくだろう。むしろ、あの魔術しか考えられない。
的中する嫌な予感が、夢の中で会った少女の言葉に被さっていく。
あの時その少女は「あの子を助けて」と言った。
それはこの子供の事を言っているのだろうか? それとも、この先にあるであろう獣人族の住処の誰かなのか?
わからないが、夢のお告げが真実味を帯びてきた以上急がなければならない。
俺はもう一度冷やした手ぬぐいを少女の火傷の上に置く。
すると、今まで意識を失っていた獣人族の少女の両目がカッと見開いた。
金色の瞳は、空を見上げている為か瞳孔が細く伸ばされ、それだけで人間離れした雰囲気を醸し出す。
一度父さんと一緒に森に入った時に狼と対峙した事があるが、その時の狼の瞳そっくりだった。
その瞳が俺を見る。
次に周り。
僅かに首を動かして自分の右腕。
そして、再び俺の方を見上げた時、俺の視線と交差した。
「…………」
「…………」
目が合ってしばらくはきょとんとした表情をしていた彼女だったが、徐々に鼻の頭と眉の間に皺が寄っていくのが見えた。
その様子があまりにもよく知っている女の子の表情の変化に似ていたものだから、思わず見とれてしまった俺だったが、それがまずかった。
「!!~~~ってぇぇぇっ!!」
噛み付かれた。
彼女は傷口に置かれていた俺の手を掴むと、そのまま自分の口に持っていき思いっきり噛み付いたのだ。
その動きがあまりにも滑らかで淀みなかったものだから、実際に痛みが走るまで何をされたかわからなかったほどだった。
「フウゥーーーーッ!」
その犯人の少女は俺から二歩ほど離れた場所に移動し、四つん這いになって威嚇している。
髪の毛と尻尾は逆立ち、さながら怒ったハリネズミだ。
先ほど髪の毛に触れた時には子供特有の柔らかさを感じたというのに、どういう構造になっているのだろう。
何か魔力的な何かが体毛を伝って、硬度が増すのかもしれない。
いや、冗談ではなく、本気でそういう種族もいるような気がする。何しろ、獣人族は俺たち人間族と見た目が近いとは言っても別のルーツの人類なのだから。
とはいえこの状況はまずい。
少なくとも俺は彼女の敵ではないのだから、怒りを収めてもらわないと話にならない。
「ちょっと待ってくれ。まずは俺の話を……」
「フカーーーーーーッ!」
敵意がない事をわかってもらう為に近づいた俺だったが、どうやら逆効果だったらしい。
獣人族の少女は伸ばした俺の右手を自らの爪で引っかいたあと、踵を返して駆け出してしまったのだ。
「えっ? そこで2本足?」
先程まで四つん這いになっていたものだからてっきり4足歩行だと思っていたのだが、どうやら2足歩行だったらしい。
通常の人間と同じように駆け出した獣人族の少女の後をワンテンポ遅れて追いかける。
とりあえず、彼女の後ろを付いていけば獣人族の集落まではたどり着けるだろう。
少女とは言えさすがは獣人族だ。
先程まで気を失っていたというのに、全力で走っている俺よりも僅かに速いらしく、ジワジワ距離が離される。
当然、森での生活に慣れているというのもあるだろうが、俺だって小さな頃から森の民として生き、自分の庭のように生活してきたのだ。
獣人は自分のテリトリーから出る事はない。
今回のようなイレギュラーはあるだろうが、あの少女は竜の爪痕の‘こちら側’に来るのは初めてだろう。
その上であの速度である。
(これが種族の違い? なんて不公平な)
だが、一応俺にも意地がある。
もうすぐ獣人族と人間族の境界線でもある竜の爪痕が現れる。
そこで一気に追いついて捕まえてしまえばいい。
恐らく暴れられるだろうが……。向こう側に何人冒険者がいるかわからない以上、少女一人を帰すわけにはいかなかった。
程なくして視界が開ける。
一旦森が途切れた先にあるのが竜の爪痕と呼ばれる断崖だ。
鋭く切り裂かれたような地形から、遥か昔に古代竜に引き裂かれた。と、伝わっている場所だが、一番離れている場所で10m以上、近い所でも5m以上間隔が離れている崖だ。自然現象以外で発生するようなものでは断じてない。
ちなみに、この場所から見られる竜の爪痕の間隔は8m程。
崖としては近い距離だろうが、人間ではとても自力で渡れるものではない。
そう。‘人間では’。
「嘘ぉ!?」
その距離を彼女は跳んだ。
俺から逃げる速度そのままで崖に突入し、こちらがあっと思う間もなく躊躇なく飛び越えたのだ。
綺麗な放物線を描いて対岸に着地した彼女はまだまだ余裕が有るように、軽やかに体勢を立て直しこちらを振り向いた。
俺はと言うと、ギリギリ崖っぷちで足を止め、対岸を見つめることしかできない。
そんな俺を、少女は何の感情も篭らない視線を投げたあと、そのまま森の奥へと姿を消した。
「や、やばい……!」
このまま彼女を見失ったら獣人族の集落にたどり着くのに時間がかかりすぎてしまう。
そうなれば全てが手遅れになってしまうだろう。
俺は慌ててあたりを見渡すと、右手側、比較的対岸との距離が近い場所で一本の木が崖を跨ぐように倒れているのに気がついた。
随分都合よく倒れているなと思って近づいてみたが、根元あたりに鋭い刃物で切ったような跡が見えた。
どうやら、魔術でこの木を切り倒し、橋代わりに使用した人間がいるらしい。
「……急がなきゃ」
俺は慎重に木の橋を使って対岸に渡ると、獣人族の少女が向かった方向へと走っていった。
全てが手遅れになる前に。
俺の中の想像は、いつしか確信に変わっていた。
異変はすぐに気がついた。
少女の後を追って森に入って少しして、木々の隙間から黒い煙見えたのだ。
煙の発生源にはもう少し距離があるだろう。
しかし、確実に何かが燃えているのだ。
それが森の木か家なのかはわからない。わからないが、それがどちらでもこの森の住人にとっては致命的な事だろう。
森がなくなるか、人がいなくなるかの違いでしかないのだから。
少女の背中はまだ見えない。
嫌な予感が止まらない。
この先にある景色を想像したくない。
しかし……。
森の切れ目。
僅かに開けたその場所で俺が見たものは。
俺が想像した最悪に、限りなく近い光景だった。
燃え上がる民家。
数人の男に組み伏せられ、引き摺られるように運ばれている獣の耳と尾を持つ人々。
そして──
尻尾と髪を逆立て、唸り声を上げる獣人族の少女と。
その対面で、少女に向かって右手の平を向ける冒険者────レアンドロだった。
「……あれ?」
対峙する二人。
先にこちらに気がついたのはレアンドロだった。
右手は少女に向けたまま、驚いたような声を上げた。
「君、昨日の子だよね? おかしいな。どう見ても人間なのに、ひょっとしてここの住人だったの?」
まるで世間話でもするように話しかけてくる男に、俺は奥歯がなるのを自覚した。
「あなたは……何をしているんです?」
「先に僕の質問に答えなよ」
俺の問いには答えず、右手を俺に、左手を少女に向けなおしてレアンドロは声を低くして言ってくる。
「君がこの集落の住人なら、僕は君を拘束しなければならない。でも、君が単にこの場所に迷い込んだだけだというのなら、昨日と同じように見逃してあげるからさ」
「理由を聞いても?」
「これが僕の仕事だから。獣人を捕える。でも、人間はその内容には含まれていない。だから、ほら。早く答えて。君は獣人? それとも人間?」
目の前の男の体から濃密な魔力が集まっているのが‘今なら’わかる。
彼は本気だ。
もしも、俺がここで「獣人だ」と言えば躊躇いなく魔術を放つだろう。大木すら容易く切り裂く、凶悪な力を。
「……人間です」
俺の言葉に、レアンドロはニッコリと微笑む。それが昨日みた笑顔と全く同じで、なのに、昨日見たときは感じなかった凄まじい嫌悪感を味わった。
「そっか。良かった良かった。僕はこう見えて子供好きだから、酷い事したくなかったんだ」
そう言って満足そうに頷くと、俺に向けていた右手を獣人族の少女に再び向ける。
「その子も子供ですよ」
「知ってるよ」
俺の指摘にもレアンドロはそっけない。
「子供なのは見ればわかる。でも……獣人だ」
少女に向ける眼差しは、俺に向けるものとは全く違う。
そこに温かみはまるで無く、仕事と割り切った冷たい目。
対する少女も怯まない。
先程の傷を見るに、彼の魔術を一度は受けているはずだ。
それなのに、怯むどころか威嚇しながら隙を伺っている。
あんなに小さな少女がだ。
俺があの位の年の頃にあんな顔が出来ただろうか。
いや、彼女は目の前で親しい人に暴力を振るわれたのだ。その怒りは……同じ立場にならないとわからないだろう。
一歩踏み出す。
そんな俺の行動に、目の前の冒険者の視線が僅かにこちらに向けられる。
「何のつもり?」
「…………」
無言でもう一歩。
しかし、今度は視線では無く右手がこちらに向けられた。
「人間は捕えても売れないんだ。良い子だから家に帰ってくれないかな」
その言葉で、俺の足はこれ以上前に進まなくなる。
でも、それでも、俺には進まなければいけない理由があった。理由を思い出した。
「その子を……助けてくれませんか?」
レアンドロの視線が冷たくなる。
「僕の言葉が聞こえなかったの? 僕は獣人を捕えるだけ。別に殺すわけじゃない。でも、さっき言ったように人間は売れないんだよ。だから、もしも君がこれ以上邪魔をするっていうのなら──」
目の前の男は少女に向けていた視線を完全に俺の方に向け、今までとは違う、底冷えのする声で言葉を続けた。
「──殺すよ?」
その視線にさらされた時、俺は先日の熊がいかに可愛かったかを実感する。
でも、それだけだ。
あの戦いはお互いが生き残る為だった。
弱肉強食の自然界の摂理に従ったに過ぎない。
でも、目の前の男のやっている事はなんだ?
生きるため?
違う。
己よりも弱い存在を、ただ、自らの至福を肥やすために行っている利己的な行動だ。
「俺はその子を助けてくれと頼まれました」
「へえ。誰に」
「命の恩人です」
俺の言葉に、レアンドロは鼻で笑う
「命を助けておきながら、その相手を命の危険にさらすのか。とんでもないクズだね。そいつは」
「……かもしれませんね」
俺に獣人の少女を託した夢の中の少女。
彼女は俺の力をよくわかっているはずだ。それでも俺にそれを託したのは、‘俺しか頼める人がいなかったから’だ。
元々彼女と話せる人間は少なかった。
先生もよく言っていた。そういった存在はとても希少だと。
でも、話すことが……いや、意思の疎通が出来る人は、決して才能があるからじゃない。
彼女と話すためには、仲良くなる必要があったのだ。
「それでも俺はその子の願いを聞き入れたい。何より、俺はその為の存在だと思い出したから」
父さんの言葉を思い出す。
14歳になったあの日。俺に村の言い伝えを伝えた後に言った言葉を。
──いいかテオ。今日からお前は俺達と同じ、この村を、この森を守るための存在だ。
「俺は村を、この森を守るための存在」
──森に危機が訪れたなら、何を犠牲にしてでも守り通さなければいけない。
「この森に危機が訪れた時、俺は必ずこの森を守る」
──この森には守り神が存在する。かつてはこの村にも姿を見、声を聞くことが出来る人間がいたが、今はいなくなってしまった。
「この森に住む守り神の言葉を俺は信じる」
──しかし、声は聞こえなくても意思はいつまでも繋がっていく。親から子へ。今はもうこの意思を受け取るものも少なくなってしまったが……。
「受け取ったこの‘意思’を俺は信じる」
──テオ。お前がこの森を守るんだ。今でなくてもいい。いつか、今よりももっと強い大人になって、この森を。守護神様を最後まで──
「最後まで! たとえこの場で踏みにじられてしまうとしても、この森に手を出したお前らの行動を許すものか!」
ブッシュナイフとククリナイフ。
「炎の懐刀!」
2本のナイフを引き抜いた瞬間、鋭い声と共にレアンドロの右手から赤い何かが飛び出した。
それを俺は横にステップを踏みながらククリナイフで受け流す……つもりだったが、赤い魔術に当たったククリナイフは、わずかな抵抗と共にその刃を失った。
「なっ!?」
切られた断面が赤くなっている所を見るに熱で焼き切られたのだろう。
俺はそれを見て獣人の少女の火傷を思い出す。恐らく、これがあの男の得意魔術なのだろう。
俺は失ったナイフの柄を男に向かって投げつけるが、レアンドロは軽く首を振ってそれを躱した。
だが、彼は気が付いていなかった。
俺に向けて魔術を放った瞬間、小さな獣が彼に向かって飛びかかっていたのを。
「っ!!っく!」
少女の爪をかろうじて躱すレアンドロ。
しかし、攻撃は当たらなかったが、体勢は崩れた。俺は残ったブッシュナイフを逆手に持ち直し、一気にその距離を詰める。
だが、次の瞬間魔力の大きな膨らみを感じた。
「ファイヤストーム!!」
熱風が迸る。
目に見える程の炎の奔流は、彼の足元からまるで竜巻のように足元から外に向かって広がっていく。
俺の位置からなら逃げれば何とか耐えられるかもしれない。
しかし、俺は見た。
炎の竜巻に向かって飛びかかる一人の少女の姿を。
「よせ!!」
自分の意志とは関係なく体が動いた。
下がりかけていた足をすぐさま反転させ、後ろに向かっていたエネルギーを前方へ。
正に炎の壁に顔を埋めようとしていた所を、腕を掴んで強引に引き寄せた事で食い止めた。
しかし、人一人引っ張り込んだ以上その力は俺に向く。
「があっあああぁぁぁっ!!」
炎の嵐を背に受けて、俺は無様に吹き飛ばされる。
転がる事で何とか背中の炎は消えてくれたが、受けた衝撃は治らない。
荒い呼吸を吐き出しながら起き上がろうとした俺の前に、後ろに手を付いた状態で座り込んでいる獣人族の少女と目が合った。
ひどく驚いた顔をしていた。
恐怖ではない。
俺を信じられないものでも見るような目で見ていた。
強い子だ。本当にそう思う。
何とかこの子を逃がしたかったが、どうやらこれ以上は戦う事が出来そうもないらしい。
後ろから足音が聞こえる。
合わせて剣を引き抜いのだろう。金属をこすり合わせたような甲高い音。
俺は手を伸ばすと、目の前の少女の頭を抱く。
ちょうど彼女の頭に顔が埋まる格好になり、鼻いっぱいに日向の香りがした。
「思い出したよ」
俺たちの後ろに立ち止まり、レアンドロは呟いた。
「この森には守護者がいる。この仕事を受ける時に酒場にいた詩人に聞いた戯言。……戯言だと思っていた事。そうか。君が……いや、君の村の住人達が、この森を守る守護者だったってわけだ」
後ろからの声を聞きながら、俺は左手のブッシュナイフを胸元に持っていく。
ちょうど俺と彼女の真ん中。仮に後ろから突かれても、少女の命が守れるように。
少女はそれを見たのか俺の手をどかそうとするが、俺は右手で彼女の頭を押さえつける。
レアンドロが少女ごと俺を刺殺したと思ってくれれば……。動けない俺にはもはやこんな事しか出来る事はなかった。
「けど、残念だったね」
本当に残念そうな声色でかけられた言葉。
それと同時に背中から胸にかけてまるで焼きごてでも当てられたような異物感が貫通していく。
胸元を見ると、真っ赤な刃が俺の胸から飛び出し、俺と少女の間で構えていたナイフを貫通。
そのまま少女の胸へと吸い込まれていた。
「……え?」
悲鳴もない。
俺も少女も、そのまま崩れ落ちるように倒れ伏す。
ちょうど俺が少女を押し倒すような格好だが、全く動くことが出来ない。
それどころか、痛みすら感じなかった。
「どうした!?」
すると、遠くからこちらの音が聞こえたのだろう。
複数の足音と共に、野太い男の声が背中から聞こえる。
「いや、なんだか人間の子供が迷い込んでいたから、始末したところ」
「……殺したのか?」
「うん。僕の顔も見られたしね。子供とは言え危険だよ」
まだ死んではいない俺は、その会話を聞いていた。
心臓を一突きされたのだ。普通なら即死の筈なのに何故か生きている。
それは目の前の少女も同じらしく、口をパクパクとしながらも呼吸自体は止まっていないようだ。
「それよりも、仕事が増えそうだよ」
「あん?」
「覚えてないかい? ここに来る前に寄った街で聞いた事。この森の守護者の伝説」
ギョッとする。
後ろの男は何を言っているんだ?
仕事が増えると言った。
この男の仕事はなんだった?
「どこかにいるであろう大森林の守護者の一族。もしも現存しているなら、僕らも仕事がやりにくくなってしょうがないでしょ? 何より、今回の事に関しても足が付くきっかけになるかもしれない」
そんな事はない。
今回の事は自分の独断なのだと、言ってやりたかった。
しかし、悲しいことに一言たりとも言葉は出てくれなかった。
「全ての憂いは断つべきだ。この少年の話を信じるならば、その一族はこの先の村に住んでいるらしいからね。少し遠回りになるけど、何、さしたる労力にはならないだろう?」
憂いを断つとは何の事だ。
俺の村に行って何をするつもりなのか。
……いや、本当はわかっている。
ただ認めたくないだけなのだ。
俺のせいで最悪の結果になってしまったという事に。
「そうだな。どの道そこのガキがその村の人間なら、先にやっちまった方がいいんだろうな。そいつを探しに来てここが見つかったらたまらねぇ」
「そういう事」
「所で、もう獣人はいなかったか?」
野太い男の声に、俺の心臓が小さく跳ねる。
もはやいつ止まってもおかしくない状態だが、それでも、せめて俺の命が尽きるまで、この子を取り上げないで欲しかった。
「……いや。いなかったな。居たのはそこで死んでる‘人間の子供二人だけ’さ」
「そうか」
レアンドロの言葉に男どもは納得したのか、それ以上は何も追求しては来なかった。
代わりに、遠くから出発の声がかかり、お互いに声をかけていく。
「出発だ。行くぞ」
「いや、僕はまだやる事があるから、先行っててよ」
「何? なんだ。やることって」
「このままの状態で放っておいたら、いずれ火事になるし後が面倒だろ? 消火がてら後片付けさ」
「そうか。じゃあ、先に行くが、すぐ来いよ」
「嫌だな。僕の足の速さ知ってるでしょ」
違いねぇ。と言い合いながら離れる男たちを見送って、レアンドロは俺たちの元へと近づいてくる。
「地から天へ。天から地へ。大地を濡らせ、スプラッシュレイン」
レアンドロから紡がれたのは魔術の詠唱だった。
本来イメージするだけで具現化出来るのが物質魔術だが、より具体的なイメージを抱きたい時や、即時発動したい時などに詠唱する術者は多い。
このレアンドロも戦いの最中、短いながらも詠唱をしていたのを思い出す。
「さて」
地面から吹き出した地下水があたり一面に降り注ぎ、体が冷え切ってしまう中、首筋に何かが触れた感触がある。
恐らく、レアンドロが触れたのだろうが、特に乱暴にするでもなく、そのまま指を引っ込めた。
「まだかろうじて生きてるね。傷口を焼きながら引き抜いたから、出血もしていないしすぐには死なない。致命傷ではあるから、もうすぐ死ぬけど」
言われて真っ赤に染まった刃を思い出す。あの時焼きごてのようだと感じたが、比喩ではなく、本当に焼きごてだったようだ。
「まだ生きてるうちに言っとくよ」
特に止めを刺すでもなく、レアンドロは続ける。
「僕はどうしようもない悪党だ。獣人達を奴隷として売るだけじゃなく、依頼があれば殺しだってする。今回のように仕事の邪魔になるようならそれこそ子供だって殺す。けどね」
ふう、と息を付く。何かを思い出すように。
「君に言った言葉も嘘じゃない。僕は子供が好きだからね。本当は殺しなんてしたくないんだよ。でも仕方ない。生きる為だ。あの時君が熊を殺して食ったように、僕にとっての仕事はそれと何ら変わり無い。言ってみれば価値観の違いというやつだね」
俺が熊を殺したように……。
初めに俺がレアンドロに戦いを挑んだ時、熊を殺すのは仕方ないと思ったのは確かだ。
それを、この男は自分の行動がそれと同じ事だという。
「だから、チャンスをあげる」
レアンドロはそう言った。
死にゆく者にどんなチャンスがあるというのか。
「初めて君と会った時。君は気絶していたね。初めは間抜けな狩人だと思ったけど、君が僕に挑みかかってきた言葉を聞いて、ふと思ったんだよ。君は言った。『命の恩人に頼まれた』と。初めはなんの事かわからなかったけど、君がこの森の守護者だというなら納得できる部分がある。君……聞こえるんだろう?」
何が。とは思わない。
この男がどこまで理解しているのかはわからないが、考えてみればこの男は魔術師だ。ある程度のことは分かっていても不思議じゃない。
「もし君がもう一度この森の‘神様’の声を聞けたのなら、助けを求めているといい。君はこの森を守ろうとした。結果はご覧の通りだけど」
ご覧の通りとは、失敗したという意味だ。
俺は獣人族も守れず、恐らくこの後こいつらが向かうであろう村の人達を救うことも出来ない。
「森を守れなかった君が果たして神様に助けてもらえるか。もしも助けてもらえたなら。その命を繋ぐことが出来たなら、その時は──」
降り注ぐ水量が少なくなる。
同時に遠ざかる足音。
水音と足音と、距離も相まって聞こえにくくなっていたから……。
「この僕を……殺してくれ」
その言葉もきっと……聞き間違いに違いない。
降りしきっていた水は無くなり、燃え盛っていた炎も消えた。
残ったものは焼けただれたかつての集落と、死にかけた子供が二人。
一人は獣人の娘。
虚ろな目で浅い息を付きながらも、弱々しく俺の服を握っている。
その表情には死相が浮かび、もう長くない事が窺い知れた。
そして、それは俺も同じで、その様子をぼんやりと眺めながら、かろうじて呼吸をしているだけ。
もう呼吸もしたくない。
そんな体力も無くなってきているのだ。
それでも呼吸をやめないのは、止めさせてくれない存在が居る為だ。
本当はずっと気がついていた。
あの時、レアンドロと対峙した時から。
俺の傍に、付かず離れずずっと傍に居ることには気がついていた。
けれど、どうしていいかわからなかった。
使命感のようなものを感じていた事も、父親の言葉を守ろうとした事も事実だ。
でも、その力があまりにも曖昧で。
守って貰う事の意味も、理由もわからなかったから。
でも、今なら……。
「……お願いが……ある」
掠れた声が出た。
あれほどだそうと思っても出せなかった声が。ひょっとしたら、これが消える前の炎というやつなのかもしれない。
「俺は……も、りを……守れな、かった。だから、こ、んな……事を、いう……たちばじゃない、…こと、しって……る」
ぼんやりとした視線の先に足が見えた。
今度は夢じゃない。
現実の中で、見た、少女の素足。
「俺は、残り……カス……で、いい……」
胸の中の少女に目を落とす。
閉じかけた瞳に浅くなった呼吸。
微かに動く手で少女の前髪を触りながら。
「この……子は……お、れ、の……いきた……しょうこ……おれ、まちがって……ない、りゆ…うだ、から……」
俺の手に誰かの手が重なる。
真っ白な肌に小さな手。
しかし、とても暖かい。
「……しにたく……ない」
それは心からの言葉。
でも、それ以上に。
「このこは……もっと、いきる…べき……だ……だって」
だって。
だってこの子には。
「……まだ……りょう、し、んが……いきて…いるん……だから」
暖かい。
暖かな温もりが辺りを包む。
気が付けば、少女の手は俺と獣人の少女の手をお互いに重ねていた。
二人の手を握らせて、その手を両手で包むように、暖かな手が包んでいた。
ごっそりと何かが抜け落ちる感覚がする。
俺は、これが魔力の消費する事から起きる倦怠感だともうわかっていた。
いつの間にか呼吸が楽になる。
胸の痛みがジンジンと疼きだす。
視線を下げると獣人の少女と目が合った。
もはや虚ろではない金色の瞳。
初めて合った時の威嚇するような視線ではなく、何かに縋り付くようなそんな瞳。
よく見ると、その目の端には涙が光っていた。
俺はその涙をソッと拭うと、多少動くようになった首を動かす。
俺たちの傍らにしゃがみ込み、緑色の髪の美しい少女がそこにいた。
彼女がこの森の守り神なのかはわからない。
でも、彼女が俺たちを助けてくれたのは変わらない。
意識が急速に失いそうな感覚。
死にかけた二人を回復させようというのだ。俺の魔力程度では賄いきれないだろう。
それは最初からわかっていたから、彼女に前もって頼んだのだ。残りかすでいい。と。
俺の下の少女が動き出すのと対照的に、俺は力が抜けていく。
それでも、最後に、せめて意識を失う前に言っておかなければならない事があった。
「ありがとう」
暖かな。まるで母親に抱かれているような安心出来る心地のまま。
「ドライアド」
あの時教えてもらった森の少女の名を呼んで。
俺は暖かな温もりの中に沈んでいった。
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