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少し様子をうかがうだけなら
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次の日の朝、オーレンは出勤前のナジュアムを引き留めた。
「手を出してください」
どうしてと聞くでもなく、彼は不思議なくらい素直にオーレンに手を差し出す。いつもは警戒心をむき出しにするくせに、ときどきこうしてやけに無防備だから少し困る。自分から声をかけておきながらとまどってしまった。
腕に触れてしまわぬよう慎重にお守りをつけた。瑠璃色に輝く魔石を茶色の糸で編み込んだもので、オーレンの魔力が籠っている。魔石が壊れたとき、持ち主に危険が迫っていることを教えてくれるものだった。
「これ……」
ナジュアムはつぶやいて、こちらが照れくさくなるほど一心にお守りを見つめた。
「その、ようやく作り直したので、持って行ってください。これで多少は安心です」
「安心て? もうヤランもいないんだし、心配し過ぎじゃない?」
「要らないんですか?」
オーレンが手を伸ばすと、ナジュアムは慌てた様子で腕を体のそばに引き寄せた。そして無意識なのかかすかに微笑んで、大切なものに触れるみたいに指先をお守りに這わせた。ドキッとするような仕草のあと、「いる」と子供っぽく口を尖らせるからどうしても笑みがこぼれてしまう。
オーレンはさりげなく口元を隠したが、ナジュアムのほうもどうやら気まずいようで、さっとこちらに背を向け玄関の扉に手をかけた。
肩越しにチラリと振り返る頬が赤い。
「ありがと。行ってくる」
どうやら喜んでもらえたらしい。オーレンも満足して彼の背中を見送った。
ナジュアムはその日も遅くまで仕事をした。オーレンは宣言通り、ナジュアムの帰りに合わせて遅めの食事を用意して待っていてくれるた。
オーレンには悪いが、一緒に食べられるのはやっぱりうれしい。
今日は肉団子をトマトソースで煮込んだものと、ほうれん草のパスタだ。まずはトマトソースをひと匙すくって味をみる。うまみと酸味がギュッと詰まっていて期待値が上がる。
ナジュアムはスプーンの上に肉団子を乗せて、すこし冷ましてから口の中に放り込んだ。それでもまだかなり熱くて、慌てて湯気をほふほふと逃がす羽目になった。
熱いが、すごく美味しい。中までしっかり味が染みていて、軟骨のコリコリした食感がいい。もう一つ食べたいが、これは危険だ。
気持ちを落ち着けるためにもほうれん草のパスタに手を伸ばす。細長いパスタをフォークに巻き付ける。ベーコンの塩味、ほうれん草の苦みをミルクが和らげ、黒コショウの爽やかな辛みが鼻に抜ける。こっちも美味しい。時間が遅いので控えめに食べようと思っていたのに、これでは結局いつも通り食べてしまいそうだ。
「明日からは、少し量を減らしてくれる?」
「どうしてですか? いっぱい働いたんだからいっぱい食べないと。お腹空いたでしょう?」
「まあ、そうなんだけど」
「もうすこし食べます?」
「いや、うーん」
一応抵抗してみたものの、オーレンの食べますよねと言わんばかりの澄んだ笑顔と、食欲には勝てなかった。
あっという間に一週間が過ぎ、週末になった。
オーレンは朝からマルシェに出かけている。いないのはわかっているのだが、なんとなくキッチンを覗いてしまう。
断じて寂しいわけではない。一人には慣れているし、たんに静かすぎて妙に落ち着かないだけだ。
ナジュアムはふらっと食糧庫へ向かった。
ここは、彼が来るまではほとんど空っぽだった。それが今は、棚という棚がいっぱいになっている。売り物もあるし、日々食べて入れ替わっているとはいえ、すごい量だ。
それにしても改めてじっくり見ると、二人で食べる分の保存食は今、八割くらいがトマトが材料だと気づく。いつぞや、なくて困ったとは言われたが、本当にここまで必要なのだろうか。
反対に、売り物の方はトマトソースの用意は少ない。オーレンが言うには「各家庭でこだわりがありますからね」だそうだ。
ずらりとならぶ食料は壮観だが、同時に不安になる。
オーレンに渡したあのお金は、あとどのくらい残っているんだろうか。
ナジュアムはつい考え込む。商売を始めたからには、こっちに落ち着くつもりだろうか。それとも、資金を貯めて本格的に出ていく気か。
考え始めたら、ますます落ち着いて家には居られず、気づけばマルシェのあたりをうろついていた。
帰ろうかと思うのだが、ここまで来てしまったわけだし、遠くからほんの少し様子をうかがうだけなら。などとぐずぐずするうちに、オーレンの姿が見えるころまできてしまった。
彼は女性のお客さんと談笑しているようだった。
まあ、それはそうだろう。なんせオーレンは若くてイイ男だ。周りが放っておくわけがないのだ。ところがそのお客さんは、どうやら何も買わずに行ってしまうようだ。売り手でもないのにナジュアムはムッとしてしまった。売れ行きがどうなのか、こっちの方がハラハラしてしまう。
「今日はどうして声をかけてくれなかったんですか?」
デザートのスモモのタルトを置きながらオーレンが言うので、ナジュアムはギクリとした。食事の最中話題に出なかったから、安心していたのに不意打ちだ。
「え?」
「近くまで来てたでしょう」
どうやらごまかしようはないようだ。はす向かいに座る彼は、少々恨めし気にすら見えた。
「気づいてたんだ」
「そりゃ気づきますよ」
「邪魔しちゃ悪いって思ってさ」
「ナジュアムさんは人目を引くから、つられてお客さんが来たかもしれないじゃないですか」
「人をやらせに使おうっての?」
果たして有効だろうかとか考えてしまったじゃないか。
「いえ、そういう意味じゃなくて」
「客寄せならパニーニでも焼いたら? 一口大に切って試食してもらうとか。温めて、香りを立たせてクラッカーにちょっと乗せるとか。おいしそうな匂いがするとつい立ち止まりたくなるし、味をみればきっと買いたくなるよ」
年長者として助言をしたつもりなのに、オーレンを見れば彼は笑いを堪えている。
「そういえば、よくナジュアムさんがつられてますね」
「んな」
思わず文句のひとつも言ってやりたくなったが、オーレンが何か考え込んでいることに気が付いて、ワインと一緒に飲み込んだ。
「……そうですよね。食べてくれない相手にあの手この手を使ってがんばったことだってあるのに、どうして思い浮かばなかったんだろう」
独り言のように呟いた後、ニコリと笑った。
「ありがとうございます。やってみます」
ナジュアムはあいまいに頷いた。
あの手この手という言葉に気をとられたのだ。
オーレンが、俺が食べさせてあげましょうかとか言って、見知らぬ女の腰を抱いてる姿が容易に想像できてしまった。
でもそれがもし……、と、もっとくだらない妄想をしそうになってナジュアムは慌ててスモモのタルトを引き寄せた。
「手を出してください」
どうしてと聞くでもなく、彼は不思議なくらい素直にオーレンに手を差し出す。いつもは警戒心をむき出しにするくせに、ときどきこうしてやけに無防備だから少し困る。自分から声をかけておきながらとまどってしまった。
腕に触れてしまわぬよう慎重にお守りをつけた。瑠璃色に輝く魔石を茶色の糸で編み込んだもので、オーレンの魔力が籠っている。魔石が壊れたとき、持ち主に危険が迫っていることを教えてくれるものだった。
「これ……」
ナジュアムはつぶやいて、こちらが照れくさくなるほど一心にお守りを見つめた。
「その、ようやく作り直したので、持って行ってください。これで多少は安心です」
「安心て? もうヤランもいないんだし、心配し過ぎじゃない?」
「要らないんですか?」
オーレンが手を伸ばすと、ナジュアムは慌てた様子で腕を体のそばに引き寄せた。そして無意識なのかかすかに微笑んで、大切なものに触れるみたいに指先をお守りに這わせた。ドキッとするような仕草のあと、「いる」と子供っぽく口を尖らせるからどうしても笑みがこぼれてしまう。
オーレンはさりげなく口元を隠したが、ナジュアムのほうもどうやら気まずいようで、さっとこちらに背を向け玄関の扉に手をかけた。
肩越しにチラリと振り返る頬が赤い。
「ありがと。行ってくる」
どうやら喜んでもらえたらしい。オーレンも満足して彼の背中を見送った。
ナジュアムはその日も遅くまで仕事をした。オーレンは宣言通り、ナジュアムの帰りに合わせて遅めの食事を用意して待っていてくれるた。
オーレンには悪いが、一緒に食べられるのはやっぱりうれしい。
今日は肉団子をトマトソースで煮込んだものと、ほうれん草のパスタだ。まずはトマトソースをひと匙すくって味をみる。うまみと酸味がギュッと詰まっていて期待値が上がる。
ナジュアムはスプーンの上に肉団子を乗せて、すこし冷ましてから口の中に放り込んだ。それでもまだかなり熱くて、慌てて湯気をほふほふと逃がす羽目になった。
熱いが、すごく美味しい。中までしっかり味が染みていて、軟骨のコリコリした食感がいい。もう一つ食べたいが、これは危険だ。
気持ちを落ち着けるためにもほうれん草のパスタに手を伸ばす。細長いパスタをフォークに巻き付ける。ベーコンの塩味、ほうれん草の苦みをミルクが和らげ、黒コショウの爽やかな辛みが鼻に抜ける。こっちも美味しい。時間が遅いので控えめに食べようと思っていたのに、これでは結局いつも通り食べてしまいそうだ。
「明日からは、少し量を減らしてくれる?」
「どうしてですか? いっぱい働いたんだからいっぱい食べないと。お腹空いたでしょう?」
「まあ、そうなんだけど」
「もうすこし食べます?」
「いや、うーん」
一応抵抗してみたものの、オーレンの食べますよねと言わんばかりの澄んだ笑顔と、食欲には勝てなかった。
あっという間に一週間が過ぎ、週末になった。
オーレンは朝からマルシェに出かけている。いないのはわかっているのだが、なんとなくキッチンを覗いてしまう。
断じて寂しいわけではない。一人には慣れているし、たんに静かすぎて妙に落ち着かないだけだ。
ナジュアムはふらっと食糧庫へ向かった。
ここは、彼が来るまではほとんど空っぽだった。それが今は、棚という棚がいっぱいになっている。売り物もあるし、日々食べて入れ替わっているとはいえ、すごい量だ。
それにしても改めてじっくり見ると、二人で食べる分の保存食は今、八割くらいがトマトが材料だと気づく。いつぞや、なくて困ったとは言われたが、本当にここまで必要なのだろうか。
反対に、売り物の方はトマトソースの用意は少ない。オーレンが言うには「各家庭でこだわりがありますからね」だそうだ。
ずらりとならぶ食料は壮観だが、同時に不安になる。
オーレンに渡したあのお金は、あとどのくらい残っているんだろうか。
ナジュアムはつい考え込む。商売を始めたからには、こっちに落ち着くつもりだろうか。それとも、資金を貯めて本格的に出ていく気か。
考え始めたら、ますます落ち着いて家には居られず、気づけばマルシェのあたりをうろついていた。
帰ろうかと思うのだが、ここまで来てしまったわけだし、遠くからほんの少し様子をうかがうだけなら。などとぐずぐずするうちに、オーレンの姿が見えるころまできてしまった。
彼は女性のお客さんと談笑しているようだった。
まあ、それはそうだろう。なんせオーレンは若くてイイ男だ。周りが放っておくわけがないのだ。ところがそのお客さんは、どうやら何も買わずに行ってしまうようだ。売り手でもないのにナジュアムはムッとしてしまった。売れ行きがどうなのか、こっちの方がハラハラしてしまう。
「今日はどうして声をかけてくれなかったんですか?」
デザートのスモモのタルトを置きながらオーレンが言うので、ナジュアムはギクリとした。食事の最中話題に出なかったから、安心していたのに不意打ちだ。
「え?」
「近くまで来てたでしょう」
どうやらごまかしようはないようだ。はす向かいに座る彼は、少々恨めし気にすら見えた。
「気づいてたんだ」
「そりゃ気づきますよ」
「邪魔しちゃ悪いって思ってさ」
「ナジュアムさんは人目を引くから、つられてお客さんが来たかもしれないじゃないですか」
「人をやらせに使おうっての?」
果たして有効だろうかとか考えてしまったじゃないか。
「いえ、そういう意味じゃなくて」
「客寄せならパニーニでも焼いたら? 一口大に切って試食してもらうとか。温めて、香りを立たせてクラッカーにちょっと乗せるとか。おいしそうな匂いがするとつい立ち止まりたくなるし、味をみればきっと買いたくなるよ」
年長者として助言をしたつもりなのに、オーレンを見れば彼は笑いを堪えている。
「そういえば、よくナジュアムさんがつられてますね」
「んな」
思わず文句のひとつも言ってやりたくなったが、オーレンが何か考え込んでいることに気が付いて、ワインと一緒に飲み込んだ。
「……そうですよね。食べてくれない相手にあの手この手を使ってがんばったことだってあるのに、どうして思い浮かばなかったんだろう」
独り言のように呟いた後、ニコリと笑った。
「ありがとうございます。やってみます」
ナジュアムはあいまいに頷いた。
あの手この手という言葉に気をとられたのだ。
オーレンが、俺が食べさせてあげましょうかとか言って、見知らぬ女の腰を抱いてる姿が容易に想像できてしまった。
でもそれがもし……、と、もっとくだらない妄想をしそうになってナジュアムは慌ててスモモのタルトを引き寄せた。
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