美味しいだけでは物足りない

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 君が来てくれたから

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 意外なことに、ヤランは素直に帰っていった。ちょっと拍子抜けするくらいだった。
 あんな、子供じみた言葉しか出てこなかったのに。
 ぼんやりしかけたナジュアムは我に返り、オーレンを引っ張って家に入った。玄関の扉を閉めてすぐ、彼の頭を引き寄せて頬を確認する。

「オーレン、怪我は!?」
「これくらい平気ですよ」
「でも、痛かっただろ」
「あんなの、蚊に刺されたようなもんですって。痕だってないでしょう?」
 確かに、赤くなったりもしていないようだ。それでも心配で、ナジュアムはおそるおそる彼の頬をさすった。

 されるがままになっていたオーレンが、お返しとばかりにナジュアムの頬に手を添えたので、ナジュアムはようやく自分が何をしているか自覚して、慌てて飛びのいた。転ぶとでも思ったのか、オーレンはナジュアムの腰に手を添えてそっと支えるような動作をした。
 やたらと近い距離のまま、彼は早口に訪ねてきた。

「ナジュアムさんはどうなんです? 怪我はありませんか? 俺が来る前に、あいつに嫌なことをされませんでしたか。まさかあいつ、普段からナジュアムさんのことを殴ってたんじゃ」
 自分のことより、ナジュアムのほうが心配だというように。

 真剣な表情で覗き込まれて、ナジュアムの脳みそが沸騰しそうになる。正直なところ、ヤランのことなんてどこかに飛んでしまいそうだった。
 
「ナジュアムさん、答えてください」
「え、あ、な、殴られてはいないけど……」
 ナジュアムは口を濁す。どれだけ混乱していようともさすがに言えない。たとえば、酒臭くて嫌だと言っても無理やり口づけられたことだとか、こっちがどれだけ疲れていようと、彼がしたいと思えば無理やりねじ込まれた、だとか。
 絶対言えるわけがない。

 ナジュアムの沈黙をどうとらえたのか、オーレンはますます不信感を募らせているように見える。
 だが、今はそれよりもなにかもっと大事なことがあった気がする。

「そうだ、オーレン! そんなことより、仕事は?」
「いま誤魔化しませんでした?」
「それはオーレンのほうだろ」
「う、はい。そろそろナジュアムさんの帰宅時間かと思って抜けてきました」
 問い詰めれば、オーレンは指をもじもじさせて、目をそらした。
 責任ある大人として今すべきことは、とにかく彼を仕事場に帰すことだ。

「ならすぐ戻って!」
 ナジュアムはビシッと外を指さすが、オーレンはなおもぐずぐずした。
「でも、ナジュアムさんが」
「俺は平気だから」

 いや、違うな。
 ナジュアムは内心で首を振る。彼が来てくれたから、いまこうして平気でいられるんだ。ナジュアムはじっとオーレンを見つめた。
「仕事を抜けてきたのは感心しないけど、だけど、オーレン。来てくれてありがとう。君が来てくれたから、今こうして俺を案じてくれるから、大丈夫って思えるんだ」

 オーレンはぐっと言葉を詰まらせて、やがて観念したように「わかりました」とつぶやいた。


「だったら、せめて俺が戻るまで絶対この家から出ないでくださいね! 鍵に魔法をかけてあるから、あの野郎も入っては来られませんから」
「鍵の魔法? ああ、だから前に来たときも入ってこられなかったのか」
 何気なく呟いて、ふと視線を感じて見上げると、オーレンがすっかり青ざめていた。

「待って、前に来たときって何ですか。聞いてませんが?」
「あ。いや、その……オーレンに余計な心配をかけたくなくて」
「たった今、さらに心配するべき存在なんだって、心に刻みました」
 表情がストンと抜け落ちた顔で言われて、ナジュアムは気まずく目をそらした。
「ごめん、今度から言う」

 オーレンは長い長い溜息をついた。
「鍵は、外側からもかけておくことにしますね」
「え?」

 まさかと思ったが、オーレンが出かけたあと試しにドアノブをひねってみたところ、ビクともしなくなっていた。
「うそ、閉じ込められた?」
 どうやらオーレンの信頼をすっかり失ってしまったらしかった。




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