美味しいだけでは物足りない

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 彼の勤める店へ行く

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 仕事帰りに、オーレンの勤めるレストランへ行った。
 すごく雰囲気のいい店だ。壁は淡い夕焼け雲みたいなオレンジで、布張りの椅子は座り心地がいい。人との距離が近すぎず、落ち着いて飲める。

 ナジュアムはカウンター席の端のほうに通された。出入口や他の席からも微妙に死角になる位置で、それでいて店主と話しやすい、本来な常連客の座るような席だ。
 ナジュアムはそこから、こっそりと立ち働くオーレンの姿を盗み見た。
 こっそりのつもりだったのだが、彼はさり気なくあたりに気を配っていたのだろう。すぐに気づいて歩み寄ってくる。

「なにを召し上がりますか?」
 いつもより、ほんの少し丁寧な物腰で、オーレンがニコリとする。マズい、まだ全然決めてなかった。
「おススメで」
「はい。お待ちください」
 無茶ぶりしたかと思ったが、オーレンはむしろ喜んだ。

 前菜は野菜が中心だった。ナスに綺麗な焼き色を付けたマリネ。キュウリやパプリカのピクルス。それから、イチジクにヤギのチーズを合わせたもの。すこし癖のあるチーズなのだが、オイルがそれをまろやかにしブラックペッパーが爽やかな余韻を残す。ピクルスは、オーレンの作るものよりも酸味がかなり控えめだ。とはいえ、バランスを考えれば悪くない。

 最初の一皿はエンドウ豆のリゾットだ。味付けがシンプルで豆のうま味がしっかり感じられる。好きな味だ。
 メインは舌平目だった。淡白な味がバターの風味とよく合う。付け合わせはほうれん草で、ほのかな苦みのおかげであまりくどく感じない。
 そんな感じで料理は美味しいのだが、ナジュアムは今、ほかのことに気を取られていた。

 ははっと、明るい笑い声が聞こえてくる。
 オーレンが客の女性に柔らかく話しかけていた。なんだか一気に胸焼けしてきた気がする。
 オーレンのバカ野郎。そういう子が好みなのか。脳内で罵ったのが聞こえたみたいなタイミングでオーレンが振り向き、ナジュアムを見て、パッと顔を輝かせた。幼い子供が大好きな相手に向けるような、屈託のない笑顔に見えて、ぐっと喉が詰まりそうになった。
 なんなんだ、その顔は。

 そのとき、ちょうど店のドアが開いたので、ナジュアムはそちらに気を取られたフリをした。
 一見したところ、身なりのいい男だ。だが、酔っぱらっているのか足元がおぼつかない。ナジュアムはあることに気づいて、慌てて顔を引っ込めた。
 顔は見ていないが、ヤランではないかと思ったのだ。
 慌てすぎたせいでかえって目を引いてしまったのか、おそるおそる様子をうかがうと、彼もこっちを見ていた。椅子から身を乗り出すようにして、三白眼気味の目を胡乱げに細めている。

 おまえが出ていけということだろうか。彼に従うようで業腹だが、騒ぎを起こしてオーレンに迷惑をかけたくない。
 ナジュアムが席を立つと、厨房とやり取りしていたオーレンが驚いた様子で近寄ってくる。

「どうしました?」
「ごめん、今日はもう帰るよ」
「けど、デザートがまだ」
「うん、ごめんね」
「送っていきます」
「仕事中だろ」

 気持ちは嬉しかったので、ナジュアムは微笑んだ。
「いいんだ、大丈夫――」

 その時突然、ヤランが下品で不快な笑い声を上げた。店にいた人たちがギョッとした様子でヤランに視線を向ける。
「おい、そこのおまえ! そいつは止めておけ。そいつはな、そのお綺麗な顔で何人も男をたぶらかしているんだ」
 ヤランはナジュアムを指さしせせら笑った。
「……え?」

 ナジュアムは戸惑った。どうしてそんなふうに、あることないこと言うんだろうか。
 けれど思えば時々発作みたいにそういう疑いをもたれてた。
 ヤラン以外は知らないのに。
 怒るよりも悲しくなって、ナジュアムはじっとヤランを見つめた。
 いや、見ていたって彼が改めてくれるなんて思えない、やはり自分が去るのが穏当だろう。

 だがオーレンは、そんなナジュアムを引き留めるように肩に手を置いた。
 そしてヤランの元へ歩み寄り、「お客様」と呼びかけながら腕を掴んで無理やりヤランを立たせる。

「なにをしやがる。俺が誰だかわかっているのか! 俺は貴族なんだぞ!」
「だったら余計、ふるまいには気を付けてください。他の客様にご迷惑ですので」
 オーレンはあくまで笑顔だ。それでも手加減したりはしなかったのだろう。ヤランはぐいぐいと店の外に追いやられていく。オーレンまで外に出ていってしまったので、ナジュアムはとっさに追いかけようとした。すると今度は店主に引き止められる。

 締め出されてなお、ヤランは店の前で騒いだ。
「聞こえねえのか、俺は貴族だ!」
「ナジュアム! てめえこの、裏切り者!」
「出てこいナジュアム!」

 ヤランの叫び声だけが聞こえる。
 裏切者ってなんだ。自分で要らないと言って突き放したくせに。
 ナジュアムはギュッと下唇を噛んだ。
 そもそも、自分たちの関係を漏らすなと言ったのはヤランのはずだった。それをどうして自分でひっくり返してしまうのだろう。

 表が静かになったと思ったら、扉を開けてオーレンが入ってくる。ナジュアムは彼に駆け寄った。
「オーレン!」
 怪我などはしてないように見えるけど、イラついているように見えた。ナジュアムを見て微笑んではくれたけど。
「あいつは」
「お帰りになりました」
 ナジュアムはほっと息を吐く。
 そうとわかればこれ以上店に迷惑をかけるわけにはいかない。

「すみません、お騒がせしました」
「あなたが悪いんじゃない。あの酔っ払いが、おかしなことを言っていただけです」
「……けど」
 どちらにしても、やっぱり帰ろう。
 ナジュアムは店主に頭を下げ、カバンに手を伸ばす。
「送っていきます。まだ近くにいるかもしれないから」
「一人で――」
「送りますから。店長、すこし抜けます!」

 オーレンは譲らなかった。ナジュアムのカバンをサッとひっつかみ、肩を抱くようにして歩き出すから驚いた。
「オーレン、誤解されるから」
 離れようとすると、ますます強く抱き寄せられた。
 確かに彼のぬくもりには、抗いがたいものがった。彼がいなければ店の外で崩れ落ちていたかもしれない。

「ごめんね、オーレン。せっかく誘ってくれたのに、店に迷惑までかけちゃった」
「ナジュアムさんのせいじゃないです。絶対に違います」

 オーレンは繰り返した。

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