美味しいだけでは物足りない

のは

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 妙にお腹が空いてしまう

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 トントントントンと、軽やかな音がする。
 なんの音だっけ。ああ、これは誰かが料理をしてるんだ。ベッドのなかで懐かしい記憶を呼び起こされて、ナジュアムはふわりと微笑んだ。
 食欲をそそる甘い香りまでしてくるようだ。
 そこまで考えて、ナジュアムはハッと身を起こす。

「そうだ、オーレン!」

 妙な成り行きで同居人となった男の姿を求めキッチンをのぞくと、オーレンはエプロンをして腕をまくり、ドキッとするほど真剣な表情でスープの味を見ているところだった。
 額から唇にかけてのラインとか、ぐっと握った腕に浮き出る筋とか、さりげない立ち姿なのにどうにも目を離せない。
 ナジュアムの視線に気づいたのか、彼はくるりとこちらを向いた。そのときにはもう、はじけるような笑顔だ。まぶしすぎて、目がしばしばするような。

「おはようございます、ナジュアムさん! もうすぐ朝ごはんできますよ」
「おはよう。……君は朝から元気だな」
「ナジュアムさんも食べれば元気出ますよ」
 食いしん坊みたいに言われてしまった。

 ナジュアムはいつものように先に身支度を整える。
 バスルームで鏡を覗き込めば寝ぐせが付いていて、それが妙に気恥しかった。
 念入りに櫛を通しスーツ姿で席に着いた時には、野菜とオープンオムレツとレタスのサラダ、厚みのない柔らかそうなパンケーキがテーブルにずらりと並んでいた。追加でオーレンが持ってきたのはオニオンのスープだ。

「多すぎるよ」
「そうでしょうか」
「朝はあんまり食べないんだ。残すのも嫌だし、悪いけど少し減らして」
「わかりました」
 ナジュアムのつけた注文に、オーレンは嫌な顔ひとつしなかった。それで余計気がとがめた。ナジュアムだってヤランのためにずっと料理をしてきたから、そういう些細な一言が意外と傷つくと知っている。
 それに、いつまでも残り物を食べ続けるのは少々気分が萎えることだ。

「……ごめんね、計算して作ってるんだろうに」
 
「いえ、それは大丈夫です。徐々に食べる量を増やしていきましょうね」
「太らせる気?」
「ち、違いますよ!」
 妙に慌てているのが怪しい。けれど、彼の態度を見る限りどうやら悲しんでいるわけでも怒ってるわけでもなさそうだ。

「とにかく食べましょう。冷める前に」
 この意見には賛成だ。いそいそと席に着いた。

 ふわりと湯気の立ちのぼるオニオンスープを舌に乗せると、感じるのは、複数の野菜の風味だ。野菜の皮やハーブの切れ端を使って出汁ブロスをとったのだろう。深みがあって、どこかホッとする味わいだ。
 一口食べたことで、食欲がさらに沸くようだ。

 オープンオムレツはこんがりと綺麗な黄色に焼き上がっている。細かく刻んで混ぜ込んだ葉野菜や玉ネギ、ニンジンがそこに彩りを加え、素朴ながらもいかにも美味しそうだった。一口分に切り取って口に運ぶ。
 あ、鶏肉も入ってたんだ。
 少しばかり驚いた。これはもしや、昨日食べきれなかった分なのでは?
 とはいえトマトソースで味を調えているせいか、残り物という感じはしない。ちょっと悔しいくらいうまくアレンジされている。
 レタスのサラダは瑞々しく、パンケーキはふわりと甘く、添えられたイチゴのジャムは程よい酸味が爽やかだった。
 ぺろりと平らげてしまった。

 そしてふと気づけば、オーレンがまた、満足そうな顔でこちらを見ていた。
 ナジュアムはぐっと喉を詰まらせ、妙なことを言われる前に自分から話題を振った。

「料理人をしてたって言ってたけど、君の料理はずいぶんと家庭的だな」
「最初に料理を習ったのは、祖母からだったんです。そのせいかもしれませんね」
 オーレンはどこか自慢げに言った。実際、祖母に対して愛情や尊敬みたいなものを抱いているのだろう。瞳からそれがあふれだすようで、家族のいないナジュアムには少しまぶしかった。

「もっとこう、塩と油たっぷりの料理もできますよ? 素材を選んでハッキリとした味をつけ、美しく盛り付けて最後の仕上げまで気が抜けないような――」
 ふとオーレンは、スープの味を見る時のような真剣なまなざしになり、両手に乗せた皿を選ぶようなそぶりを見せた。
 彼はいま、頭の中で料理をしているのだろう。
 ちょっといい店で出てくるような、コース料理の類だろうか。興味がないと言えば嘘になるが、今は持て余してしまうだろう。
「俺はこっちのほうがいい」
「よかった。俺も、毎日食べるならこういうほうがいいです。じゃあ、俺は合格ですか?」
「昨日の時点でね」

 ははっと、彼は声を立てて笑った。
 つられてこちらまで楽しい気分にさせるような、あけっぴろげで爽やかな笑顔だ。
「いっぱい食べてくださいね」
 と、どうにもそこに戻ってしまうのは困りものだ。なぜそこまでして人に食べさせたがるのか。

「なるほど、やっぱり君の魂胆は俺を太らせて食べることか」
「だから、違いますって!」
 焦るところが怪しいんだよなと、ナジュアムは少々疑いの目で見てしまった。
 もう彼は居ついてしまったんだし今さらだが、どうにもこちらにとって条件が良すぎる気もする。
 ナジュアムが提供できるのは屋根と食費だけだし、彼の腕前と愛想のよさならすぐにでも、どこかで料理人として雇ってもらえそうだ。こんなところでタダ働きしているのはおかしいんじゃないか。
 あまり、信用しすぎないようにしないと。

「ナジュアムさんは食がほそすぎるから心配なんです」
「食べ過ぎなくらいだよ」
「そんなことないですよ」
 不服そうに口を尖らせたオーレンだが、すぐにパッと笑顔になる。

「お昼はどうしますか? 食べに帰ってきますか?」
「大丈夫。パン屋がくるから」
「それでまた、一口しか食べないわけですね」
 今度はしょんぼりしてしまった。気がさすからそういう顔をしないで欲しい。

「昨日は特に忙しかったんだよ! あと帰るのは無理。留守番しなきゃだから」
「じゃあ届けに行きましょうか」
「そもそも、あまりゆっくり食べる暇がないんだよ。だから届けてもらわなくてもいい」
 オーレンはあきれた様子で口を閉ざし、しばし考え込んだ。
「なら、朝晩にしっかり食べてもらうしかないですね」
「充分食べたって。朝からこんなに満腹で動けるかな」
「平気です。すぐにお腹が空きますよ」

 まるで預言者のように、オーレンは厳かに告げた。
 いや、呪いかな。

 オーレンと暮らし始めて三日もすると、妙に腹が空くようになった。
 ほとんど食べていなかった時よりも、ずっとつらく感じる。
 昼になればチラリと考えてしまう。味気ないパンではなく、オーレンの作った温かい食事が恋しいと。
 急に思い直して食べに帰ったとしても、あの調子ならすぐになにか用意してくれそうだから余計だ。
 留守番として当てにされていなければ、誘惑に負けていたかもしれない。

 帰宅すれば、オーレンが玄関先でおかえりなさいと迎え入れてくれる。それがほっこりと心を温める。彼の顔を見ると、夕食はなんだろうと淡く期待してしまう自分がいる。
 これは本当にマズい。この状況に慣れてしまったら大変なことになる。ナジュアムは時に、せめてもの抵抗を試みる。

「今日は外で飲んでこようかな」
「そろそろ揚げ物なんかも食べられそうかなと思って、今日はアンコウのフリットにしてみたんですが」
「アンコウ!」
 うっかり反応してしまって、慌てて目をそらす。
「飲みたい気分なら、ワインも空けましょうか」
「え、いいの?」
「ピクルスもいい感じに仕上がってますよ。少し酸味の強い方が好きでしょう? それから、リゾットもアンコウで合わせてみました!」
 畳みかけられて、ナジュアムは降参した。

 アンコウのフリットは、外はカリっと中はふわっとしていて、それはもう美味しかった。
 完全敗北だった。
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