ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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1章

出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【10】

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 サトルだけではない。キリカも自分のことを気にしているのは気付いていた。ものすごく申し訳なく思う。特に、昨日の言葉をを気にしている様子のサトルに対しては特に。しかし、今日は誰かに心配されることさえ億劫だった。

 今日は無理だな……とつかさは諦めた。心の整理ができないままに来てしまったのが失敗だったのだと、改めて思う。

「酷くだるいので、これで、上がります」

 まだ何か言おうとしているサトルを遮って、つかさは一礼するとリングから飛び降りた。1mにも満たないリングから飛び降りただけなのに、ふらりとよろめいた。

 よろめいただけだと思った。しかし、足に力が入らなかった。つかさの目の入る視界の中の景色は大きく歪み、オレンジ色の柔らかいゴムマットが敷かれた床から、幾つかの蛍光灯が輝く天井へと、ぐるりと半回転した。その拍子に、後頭部に鈍い痛みが走った。

 サトルとキリカが悲鳴のような声を上げたのが聞こえた。川内の、妙に冷静な鋭い声も聞こえた。しかし、それを意味のある言葉として認識することはできず、さらに、それを遠い世界の出来事のように感じていた。

 いや……急激に現実が遠くなっていった。
 
     *     *     *

 世界がモノトーンに塗りつぶされた不思議な感覚。カンカンカンと鉄の階段を上ってくる音が近づいてくる。つかさは、一人の少女――サトルと別れたばかりのつかさが自分の住むアパートの一室に帰ってくるのを眺めていた。

 大きく大きく深呼吸して呼吸を整えてから、つかさはドアを「ただいま」の言葉とともにゆっくりと開いた。

 つかさの住むアパートは、古い安アパートながらも2LDKで間取りは広い。声をかけたとき、玄関先に男物の革靴が揃えておいてあるのに気づいた。

「この靴は……叔父さんのかな」

 つかさの母親の由美子は今年32歳になる。計算上、つかさのことを16歳で生んだことになる。もうじき、その時の母の年齢と重なる。それが不自然だということに最近ようやく気付いたが、詳しく話を聞くところまでは踏み込めずにいた。

 叔父である幸治は由美子の4歳年下の弟であり、以前住んでいた街でも時折訪れていた。実家からは絶縁状態にあるという由美子と実家とを繋ぐ唯一のパイプだった。絶縁に至った過程とか、実家の家族のことなどについては、つかさはわずかに断片的にしか教えてもらっていなかった。祖父母についてもほとんど聞いたことがないが、祖父はすでに他界しているとは聞いていた。

 叔父の顔を思い出しながら、靴を脱いで上がる。細面で、目つきの鋭い……いや、どちらかといえば目つきの悪い幸治がつかさは苦手だった。常に眉間にしわを寄せたその顔は、いつも怒っているように見えて居心地が悪かった。

 とはいえ、自分の部屋に戻るためにはリビングを通らねばならず、そうすれば嫌でも幸治に挨拶せねばならない。

 玄関を上がって少し廊下がある。廊下の右にトイレと浴室。少し歩いてリビングへの扉がある。リビングに接する二つの部屋がそれぞれ由美子の部屋とつかさの部屋だ。

 意を決してリビングに入る扉のノブに手をかけたとき、中から声が聞こえてきた。

「母さんの具合はどうなの?」

 母の声だ。ということは話している内容はつかさの祖母の話ということになる。祖母の話は、由美子の前では特に厳禁だった。実家から追い出したのも、絶縁を言い渡したのも祖母からだったと、幸治から聞いた。

 返ってきたのは男の――幸治の声だった。

「……あんまりよくはない。もって……多分半年も……」

 その言葉につかさは入ることを躊躇いノブから手を離したが、話の内容には興味があった。聞いてはいけないような気がしつつも、ドアに耳をつけて中の様子をうかがった。

「……ねぇ。会いに行っては行けないかしら。せめて、つかさを祖母に会わせるだけでも……」

 しばらく沈黙。

 それから……。

「……止してくれ。姉さんたちが帰ってきていることだって母さんには話していないんだ。近くにいることを知っただけでも、母さんはどう思うか……」

「……分かっているわ。勘当されるようなことをしたのは私だもの。でも……」

「母さんだって、まだ60歳にもなっていないんだ。今からでも、持ち直さないという希望がないわけじゃない。それに、もしものことがあっても遺産の件で姉さんをないがしろにするようなことはしないよ」

「遺産なんて……」

 またも、沈黙。

 つかさは、これ以上聞くのはやめようとドアから耳を離そうとした。

「ところで……」

 再び中から幸治の声が聞こえてきた。

「あいつがこの街に戻ってきているらしいってのは知っているか? ……俺の友達が見かけたらしいんだ。印象は変わっていたけれど、確かにあいつだったって」
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