ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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1章

出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【9】

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 サトルは甲子園の土をそっと本棚のもとあった場所に置きなおした。この甲子園の土は心の何処かに残っている未練なのか、サトル自身にもよく分からない。しかし、これまで何度も捨てようと思ったのに、未だ捨てられずにいた――。

     *     *     *
 
 翌日――4月20日日曜日。

 昨日とほぼ同じ時刻に、サトルはつかさと顔を合わせた。今日はサトルはスタッフとしての出勤である。鈴木コーチが出てくるのは夜からなので川内とキリカ、サトルでしばらくの間ジムを回すことになる。もちろん、2階には吉野がいて、暇になったら降りてくるが、別に彼女はトレーナーではないので会員と適当に喋っているばかりである。会員の中には運動をしている時間よりもお喋りの時間のほうが多い人もいるが、ちゃんと会費を納めている限りには口を出すようなことではない。他の会員の練習の邪魔になっているようなら、その限りではないが。

 相変わらず一番乗りでジムに入ってきたつかさが「こんにちは」と何だかぎこちない笑みで挨拶をしてきたので、サトルも同じように挨拶を返した。きっとサトルも同じような顔をしている。

 それから約一時間――。他の会員もやってきて賑やかになったが、つかさはその輪の中には入ろうとせず淡々と、黙々と、サンドバッグを叩いている。

「……あの後、つかさちゃんと何かあったの? ……何だか、練習に身が入っていないように見えるんだけれど」

 そう聞いてきたのはキリカだった。何となく不機嫌そうな口調に聞こえる。

「サトルの責で会員さんがいい練習が出来ないようなことは、あってはいけないことだからね」

「無茶苦茶を言うな……」

 言いながら、サンドバッグを叩いたままのつかさの方に目を向ける。

「いいテンポで打てているように見えるけれど」

「リズムはね。でも、パンチに気持ちが入っていないことはバイトの私でも分かるよ」

 つかさに向けていた視線を、それからキリカのほうに戻した。

「じつは、昨日、傷つけるようなことを言ってしまって」

「馬鹿ね。傷つけたのが分かっているのなら、ちゃんと謝ればいいじゃない」

「さっき、謝ったんだよ……でも……」

 サトルは肩を落とした。

「『何かありましたっけ?』 ……って返された。これって、すごく怒っているって言うことだよな」

「たしかに……」

 キリカが顎に手を当てて答えたところで、ラウンドの終わりを告げる電子音が鳴り響く。サトルの視界の端に、サンドバッグを終えてこっちに来る黒いTシャツとハーフパンツ姿のつかさが見えた。タオルで汗を拭きながらだった。こうして見ると、確かにいつもよりも汗の量が少なく見える。

 そのつかさが声をかけてきた。

「サトルさん。ミットを持ってもらっていいですか?」

「え……」

 サトルは少し戸惑ったが、すぐに1ラウンド待つように言った。つかさは小さく頷き、サトルとキリカから離れると、水筒を置いた長テーブルの所に歩いて行った。水筒に口をつけて一口、二口と飲み込んだ後、さっきまでサンドバッグを殴り続けていた16オンスのグローブから手を引き抜いて、バンテージを締め直し始めた。

 その様子を見ていたサトルはキリカにぽんと、肩を叩かれた。

「私は他の会員さんを見るから、君はつかさちゃんのミットを持ってあげて」

「ああ……」

 サトルは離れようとしたが、キリカが肩に置いた手を離さずに、それどころかぐいと引っ張ったので思わずたたらを踏んだ。その拍子に互いの額があたるほどに引き付けられた。

 サトルはキリカが囁くように潜めた声で言った言葉を何とか聞き取れた。

「それに、私が見た感じ……今日のつかさちゃん、サトルじゃなくて川内さんを避けているように見えるわ……」

     *     *     *

「……昨日、何かあったのか? 俺が言ったこと以外で……」

 つかさは慌てて大きく首を左右に振った。ミット打ちが終わった後のリングの上で、サトルが尋ねてきたのに応えてのことだった。

「……じゃあ、体調でも悪いのか? 風邪でもひいたか?」

 つかさはその問いにも、首を左右に振って応えた。

 つかさは自分の拳に残ったミットを叩いた感触が、いつもより軽く、鈍く感じていた。今日はサンドバッグも、ミットも散々な出来だった。距離を間違え、打ち返しをまともにもらってしまったりもした。いつものミットのスピードよりもずっと遅くしてもらって、6分間ようやく打てたような感じだった。

 サトルに心配されても当然だ。
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