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1章
出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【6】
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……ごめん。
サトルがその一言を口にのせるより早く、
「もうすぐに家ですから、送ってもらうのはここまでで結構です。今日は、母も家にいるので、自宅まで送ってもらったら心配されますから。それじゃ、失礼します。また、明日、顔を出しますので」
サトルがコンマ1秒とかからない言葉を発させる隙も作らないほど早口でまくし立てたつかさは、深く一礼して、くるりと背中を向ける。それから、ダッシュで駆けていった。
「……何を言っているんだ。俺は……」
サトルは額を抑えて呻いた。せめてもの救いは、つかさが「また、明日」といった言葉だろうか。明日があれば謝ることも、間違いを正すこともできる。サトルは自分の勝手な考えに内心辟易しながら、元来た道を引き返していった。
* * *
何も考えずに走ったからすぐに息が上がってしまった。全力疾走したのは1分強くらい。4~500mは走っただろうか。足を止めたすぐ目の前には、自分と母親が暮らす安アパートがあった。
……女子ボクシングは競技人口が少ないから……。
不意打ちで投げつけられた言葉を、つかさは完全に掴み損ねた。競技人口が少ないから……自分の夢は価値がない、そう言われた気がして、取り落としてしまった。取り落とした言葉はガラスのように脆く、地面に落ちた瞬間に粉々に砕け散って、自分に突き刺さった。自分の顔面から血が引いていくのがわかった。
同時に、今日のマスで抱いたサトルに対するささやかな敬意は吹き飛んでしまっていた。
サトルが口にした通り、日本において女子ボクシングの競技人口が少ないのは確かだ。
日本の女子のスポーツ人口は決して少なくない。バレー、サッカー、陸上……男子がやっている競技で女子が行っていないスポーツを探すほうが難しい。格闘技系の競技者だって学校などで触れる機会が多い柔道、日本のお家芸のレスリングなど、決して少なくはない。
そんな中で、女子ボクシングの歴史も決して短い方ではないものの、本格的に競技者人口が増えたのは1990年代。非公認の大会や、海外で活躍する選手の出現に伴い、熱も高まっていき、2002年に日本ボクシング連盟が女子を公認し、2007年に日本ボクシングコミッションも女子選手にライセンスを発行することに決めた。数年後に迫る東京でのオリンピック開催にあわせ、国体種目の一つになる予定である(2016年の71回大会より競技種目になっている)。
女子に対して間口が広がっており、多くの世界女子チャンピオンが誕生しており、世間にも認知されてきたとはいえ、やはり直接殴り合いをする競技だから、選手層の厚さは公認された頃からあまり変わっていないのが実情である。もちろん、より一層の活性化のために、様々な試みがなされているが、それでもまだ、日本における女子ボクシングはマイナー競技と言われても仕方ないのが現状である。
しかし、それは決してオリンピックに出場するのが容易であることを意味するわけでも、競技としてのレベルや価値を下げるものではない。――つかさはそう思っていた。しかし、それを口に出すことができず、思わず逃げてきてしまった自分が情けなかった。
それに……息を整えている間に、走って頭に回っていなかった血が自然に回復してくるのがわかった。その言葉は、本当に、自分の夢を、女子ボクシングを貶める言葉だったのか。仮にも、サトルはボクシングジムのスタッフなのだ。
あの言葉は、単に事実を述べたに過ぎない。単に、出場するための有利不利を言ったに過ぎないのではないか。競技人口が少ないからチャンスは沢山あるという意味ではなかったか。
冷静になってきて、その言葉の真意を確かめることもせずに逃げ出したことを、つかさは恥ずかしいと感じていた。
「失礼なことをしちゃった……」
明日、ちゃんと謝ろう……そう思いながら、雨が降ったら滑りそうな、塗料がはがれて錆が露出している鉄製の階段上がっていった。
* * *
自分のアパートに戻ったサトルは小さく息を吐き出した。「何故、あんなことを言ってしまったのだろうか」と帰って来る1時間ほどの間に何度も自問して後悔した。そのため、つかさの家のあたりからアパートまでは30分ほどの道のりにもかかわらず、倍近い時間がかかってしまったのだった。
部屋に入ると肩から下げた鞄を部屋の隅に置いた。年齢のわりに几帳面な性格なので、それなりに掃除は行き届いている……と思う1LDKの部屋だ。
本棚には雑多な本が置かれている。大学で専攻している学問に関係する本も多いが、スタッフとして働くようになってからボクシングとかトレーニングとか、ストレッチとかテーピングとか、そういった関連の本も増えた。逆に漫画は少ない。漫画は近所のネットカフェで週1回まとめ読みするものになって久しい。
それらの本の前に――本棚の上から2段目のスペースに、高さ5cmほどの透明な小瓶が置かれている。その中には土が入っていて、ラベルにはマジックで『甲子園の土』と書かれていた。
サトルがその一言を口にのせるより早く、
「もうすぐに家ですから、送ってもらうのはここまでで結構です。今日は、母も家にいるので、自宅まで送ってもらったら心配されますから。それじゃ、失礼します。また、明日、顔を出しますので」
サトルがコンマ1秒とかからない言葉を発させる隙も作らないほど早口でまくし立てたつかさは、深く一礼して、くるりと背中を向ける。それから、ダッシュで駆けていった。
「……何を言っているんだ。俺は……」
サトルは額を抑えて呻いた。せめてもの救いは、つかさが「また、明日」といった言葉だろうか。明日があれば謝ることも、間違いを正すこともできる。サトルは自分の勝手な考えに内心辟易しながら、元来た道を引き返していった。
* * *
何も考えずに走ったからすぐに息が上がってしまった。全力疾走したのは1分強くらい。4~500mは走っただろうか。足を止めたすぐ目の前には、自分と母親が暮らす安アパートがあった。
……女子ボクシングは競技人口が少ないから……。
不意打ちで投げつけられた言葉を、つかさは完全に掴み損ねた。競技人口が少ないから……自分の夢は価値がない、そう言われた気がして、取り落としてしまった。取り落とした言葉はガラスのように脆く、地面に落ちた瞬間に粉々に砕け散って、自分に突き刺さった。自分の顔面から血が引いていくのがわかった。
同時に、今日のマスで抱いたサトルに対するささやかな敬意は吹き飛んでしまっていた。
サトルが口にした通り、日本において女子ボクシングの競技人口が少ないのは確かだ。
日本の女子のスポーツ人口は決して少なくない。バレー、サッカー、陸上……男子がやっている競技で女子が行っていないスポーツを探すほうが難しい。格闘技系の競技者だって学校などで触れる機会が多い柔道、日本のお家芸のレスリングなど、決して少なくはない。
そんな中で、女子ボクシングの歴史も決して短い方ではないものの、本格的に競技者人口が増えたのは1990年代。非公認の大会や、海外で活躍する選手の出現に伴い、熱も高まっていき、2002年に日本ボクシング連盟が女子を公認し、2007年に日本ボクシングコミッションも女子選手にライセンスを発行することに決めた。数年後に迫る東京でのオリンピック開催にあわせ、国体種目の一つになる予定である(2016年の71回大会より競技種目になっている)。
女子に対して間口が広がっており、多くの世界女子チャンピオンが誕生しており、世間にも認知されてきたとはいえ、やはり直接殴り合いをする競技だから、選手層の厚さは公認された頃からあまり変わっていないのが実情である。もちろん、より一層の活性化のために、様々な試みがなされているが、それでもまだ、日本における女子ボクシングはマイナー競技と言われても仕方ないのが現状である。
しかし、それは決してオリンピックに出場するのが容易であることを意味するわけでも、競技としてのレベルや価値を下げるものではない。――つかさはそう思っていた。しかし、それを口に出すことができず、思わず逃げてきてしまった自分が情けなかった。
それに……息を整えている間に、走って頭に回っていなかった血が自然に回復してくるのがわかった。その言葉は、本当に、自分の夢を、女子ボクシングを貶める言葉だったのか。仮にも、サトルはボクシングジムのスタッフなのだ。
あの言葉は、単に事実を述べたに過ぎない。単に、出場するための有利不利を言ったに過ぎないのではないか。競技人口が少ないからチャンスは沢山あるという意味ではなかったか。
冷静になってきて、その言葉の真意を確かめることもせずに逃げ出したことを、つかさは恥ずかしいと感じていた。
「失礼なことをしちゃった……」
明日、ちゃんと謝ろう……そう思いながら、雨が降ったら滑りそうな、塗料がはがれて錆が露出している鉄製の階段上がっていった。
* * *
自分のアパートに戻ったサトルは小さく息を吐き出した。「何故、あんなことを言ってしまったのだろうか」と帰って来る1時間ほどの間に何度も自問して後悔した。そのため、つかさの家のあたりからアパートまでは30分ほどの道のりにもかかわらず、倍近い時間がかかってしまったのだった。
部屋に入ると肩から下げた鞄を部屋の隅に置いた。年齢のわりに几帳面な性格なので、それなりに掃除は行き届いている……と思う1LDKの部屋だ。
本棚には雑多な本が置かれている。大学で専攻している学問に関係する本も多いが、スタッフとして働くようになってからボクシングとかトレーニングとか、ストレッチとかテーピングとか、そういった関連の本も増えた。逆に漫画は少ない。漫画は近所のネットカフェで週1回まとめ読みするものになって久しい。
それらの本の前に――本棚の上から2段目のスペースに、高さ5cmほどの透明な小瓶が置かれている。その中には土が入っていて、ラベルにはマジックで『甲子園の土』と書かれていた。
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