3 / 48
1章
出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【1】
しおりを挟む
キグレボクシングジムは2階建ての構造になっている。1階は少し広めのスペースになっており、リングが1面設置されている。サンドバッグやボール、全身が映る大鏡など、ボクシングジムにはおなじみの設備が並んでいる。
1階にあるのは、男女の更衣室とシャワー室がそれぞれ設置されている。2階に上がると事務所やスタッフ用の更衣室、会長室などが置かれていて、基本的には練習生は2階には立ち入り禁止である。
さらに、地下室もあり、もう一面のリングが置いてある秘密の練習施設なのだが、手入れはされているが、練習会など特別なとき以外はあまり使われていなかった。会長の子供じみた性格が作った秘密の練習部屋だと、サトルは思っていた。
アルバイトスタッフの清水サトルがスタッフ用の更衣室を出たとき、まだ営業時間にはなっていないはずだった。営業時間は15時から22時30分までだが、それよりもっと早くにスタッフが出勤して入り口の自動扉のロックをはずすので、練習熱心な会員や時間の都合のある会員は開店前から練習を始めていることもある。
部屋を出る直前、更衣室の壁にかけられたカレンダーに目をやった。日めくりのカレンダーの日付はちゃんと今日――4月19日の土曜日に変えられていた。変えたのは、事務員の吉沢由香里だろう。40歳になったばかりの彼女は、ジムの開店当初からの従業員で、保険のことや入退会手続き、ジムホームページの作成に、雑用と、ジム内のあらゆることに精通している。
普段は2階の事務所にいて、会長がいないときはジムの責任者だが、声をかけようと事務所を覗き込むと、そこには姿がなかった。デスクトップパソコンが立ち上がって、まだスクリーンセーバーに切り替わっていなかったので、ここを離れたのはついさっきだろう。
階段を下りていくにしたがって、中の音が聞こえるようになってくる。小気味よくサンドバックを叩く音だ。ずいぶん早いな、と思い、無意識に腕時計を見やろうとして、スタッフルームのロッカーの中に入れてきたのを思い出した。
「こんにちはぁ!」
と、練習場へとつながる扉を横に開きながら声をかけると、中から若い女の声で返事があった。それから少し遅れて、「こんにちは」という声が2つ帰ってくる。
サンドバッグのほうに目をやると、背の低い女の子が一心不乱といった感じでサンドバッグを叩き続けている。サトルが入ってきたことに気づく気配はない。2週間前に入会したばかりの高野つかさだった。ショートカットの可愛らしい女の子で、今年高校生になったばかりの15歳である。
高校入学と時期を同じくして、このF市に引っ越してきたという経緯もあり、キグレボクシングでは、まだ新参者の一人だが、実はボクシング経験は長い。15歳以下の全国大会でも47.5kg以下級で優勝経験がある、という話で期待の新人といった感じだ。
サンドバッグを叩くつかさの方を向いたサトルの目は、同時に、もう一人別の女性を捉えていた。グレーのトレーニングウェア姿のその女性は、サトルの方には背を向けて、つかさが叩くサンドバッグが揺れまわらないように抑えている。
つかさがサンドバックを叩くたびに、黒髪を後ろに束ねたポニーテールが左右に揺れている。身長170cmほどの身長はサトルよりちょっと低いだけで、ジムの女性の中では一番高い。正面に回れば凜とした、という形容詞がぴったりする目鼻立ちがくっきりした綺麗な顔を拝めるだろう。実際、彼女目当てで入会するものも多いのではないかとサトルは内心思っている。
彼女がサトルの同僚のアルバイトスタッフの関キリカである。年齢はサトルよりひとつ年下だが、はっきりした口調に気おされして、サトルの方がついつい敬語で話しかけてしまう関係だったりする。おまけに、キリカはあまり人に遠慮したりすることがないので、サトルに対してもタメ口であり、人によってはキリカのほうが年上だと思っている者もいるほど。しかし、今、練習場に入ったサトルに真っ先に声をかけたのが彼女だったことからも分かるとおり、根は細やかな気配りができる女性である。
練習場の中には彼女らとは別に2人の姿がある。先ほど2階の事務所にはいなかった吉野由香里と、コーチの川内将輝だった。ショートボブの髪形がよく似合う、ネイビーのパンツスーツにストライプシャツをピシッと着こなした吉野。短く刈った髪型に無駄のない筋肉のつき方をした体を黒いトレーナーで覆っている川内。事務員とスポーツマンの一般的なイメージを答えなさい、と言われたら、この2人をイメージすれば多分ほとんど間違いない。……気がする。
川内は数年前にキグレボクシングジムでボクシングを始めた。ジムにスポーツ経験を活かしてトレーナーとして勤務する傍ら修練を積み、腕試しにアマチュアのリングに立っていた。身長185cm、リーチ190cmの体格に加えて、優れたボディバランスとディフェンステクニックで不可触などと呼ばれていた……と聞く。もしも、もっと早くからボクシングを始めていればと、スポーツ記者たちからは惜しまれていたと、木暮会長はしみじみ語っていた。
1階にあるのは、男女の更衣室とシャワー室がそれぞれ設置されている。2階に上がると事務所やスタッフ用の更衣室、会長室などが置かれていて、基本的には練習生は2階には立ち入り禁止である。
さらに、地下室もあり、もう一面のリングが置いてある秘密の練習施設なのだが、手入れはされているが、練習会など特別なとき以外はあまり使われていなかった。会長の子供じみた性格が作った秘密の練習部屋だと、サトルは思っていた。
アルバイトスタッフの清水サトルがスタッフ用の更衣室を出たとき、まだ営業時間にはなっていないはずだった。営業時間は15時から22時30分までだが、それよりもっと早くにスタッフが出勤して入り口の自動扉のロックをはずすので、練習熱心な会員や時間の都合のある会員は開店前から練習を始めていることもある。
部屋を出る直前、更衣室の壁にかけられたカレンダーに目をやった。日めくりのカレンダーの日付はちゃんと今日――4月19日の土曜日に変えられていた。変えたのは、事務員の吉沢由香里だろう。40歳になったばかりの彼女は、ジムの開店当初からの従業員で、保険のことや入退会手続き、ジムホームページの作成に、雑用と、ジム内のあらゆることに精通している。
普段は2階の事務所にいて、会長がいないときはジムの責任者だが、声をかけようと事務所を覗き込むと、そこには姿がなかった。デスクトップパソコンが立ち上がって、まだスクリーンセーバーに切り替わっていなかったので、ここを離れたのはついさっきだろう。
階段を下りていくにしたがって、中の音が聞こえるようになってくる。小気味よくサンドバックを叩く音だ。ずいぶん早いな、と思い、無意識に腕時計を見やろうとして、スタッフルームのロッカーの中に入れてきたのを思い出した。
「こんにちはぁ!」
と、練習場へとつながる扉を横に開きながら声をかけると、中から若い女の声で返事があった。それから少し遅れて、「こんにちは」という声が2つ帰ってくる。
サンドバッグのほうに目をやると、背の低い女の子が一心不乱といった感じでサンドバッグを叩き続けている。サトルが入ってきたことに気づく気配はない。2週間前に入会したばかりの高野つかさだった。ショートカットの可愛らしい女の子で、今年高校生になったばかりの15歳である。
高校入学と時期を同じくして、このF市に引っ越してきたという経緯もあり、キグレボクシングでは、まだ新参者の一人だが、実はボクシング経験は長い。15歳以下の全国大会でも47.5kg以下級で優勝経験がある、という話で期待の新人といった感じだ。
サンドバッグを叩くつかさの方を向いたサトルの目は、同時に、もう一人別の女性を捉えていた。グレーのトレーニングウェア姿のその女性は、サトルの方には背を向けて、つかさが叩くサンドバッグが揺れまわらないように抑えている。
つかさがサンドバックを叩くたびに、黒髪を後ろに束ねたポニーテールが左右に揺れている。身長170cmほどの身長はサトルよりちょっと低いだけで、ジムの女性の中では一番高い。正面に回れば凜とした、という形容詞がぴったりする目鼻立ちがくっきりした綺麗な顔を拝めるだろう。実際、彼女目当てで入会するものも多いのではないかとサトルは内心思っている。
彼女がサトルの同僚のアルバイトスタッフの関キリカである。年齢はサトルよりひとつ年下だが、はっきりした口調に気おされして、サトルの方がついつい敬語で話しかけてしまう関係だったりする。おまけに、キリカはあまり人に遠慮したりすることがないので、サトルに対してもタメ口であり、人によってはキリカのほうが年上だと思っている者もいるほど。しかし、今、練習場に入ったサトルに真っ先に声をかけたのが彼女だったことからも分かるとおり、根は細やかな気配りができる女性である。
練習場の中には彼女らとは別に2人の姿がある。先ほど2階の事務所にはいなかった吉野由香里と、コーチの川内将輝だった。ショートボブの髪形がよく似合う、ネイビーのパンツスーツにストライプシャツをピシッと着こなした吉野。短く刈った髪型に無駄のない筋肉のつき方をした体を黒いトレーナーで覆っている川内。事務員とスポーツマンの一般的なイメージを答えなさい、と言われたら、この2人をイメージすれば多分ほとんど間違いない。……気がする。
川内は数年前にキグレボクシングジムでボクシングを始めた。ジムにスポーツ経験を活かしてトレーナーとして勤務する傍ら修練を積み、腕試しにアマチュアのリングに立っていた。身長185cm、リーチ190cmの体格に加えて、優れたボディバランスとディフェンステクニックで不可触などと呼ばれていた……と聞く。もしも、もっと早くからボクシングを始めていればと、スポーツ記者たちからは惜しまれていたと、木暮会長はしみじみ語っていた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。



隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。

俺の家には学校一の美少女がいる!
ながしょー
青春
※少しですが改稿したものを新しく公開しました。主人公の名前や所々変えています。今後たぶん話が変わっていきます。
今年、入学したばかりの4月。
両親は海外出張のため何年か家を空けることになった。
そのさい、親父からは「同僚にも同い年の女の子がいて、家で一人で留守番させるのは危ないから」ということで一人の女の子と一緒に住むことになった。
その美少女は学校一のモテる女の子。
この先、どうなってしまうのか!?
【完結】カワイイ子猫のつくり方
龍野ゆうき
青春
子猫を助けようとして樹から落下。それだけでも災難なのに、あれ?気が付いたら私…猫になってる!?そんな自分(猫)に手を差し伸べてくれたのは天敵のアイツだった。
無愛想毒舌眼鏡男と獣化主人公の間に生まれる恋?ちょっぴりファンタジーなラブコメ。
かつて僕を振った幼馴染に、お月見をしながら「月が綺麗ですね」と言われた件。それって告白?
久野真一
青春
2021年5月26日。「スーパームーン」と呼ばれる、満月としては1年で最も地球に近づく日。
同時に皆既月食が重なった稀有な日でもある。
社会人一年目の僕、荒木遊真(あらきゆうま)は、
実家のマンションの屋上で物思いにふけっていた。
それもそのはず。かつて、僕を振った、一生の親友を、お月見に誘ってみたのだ。
「せっかくの夜だし、マンションの屋上で、思い出話でもしない?」って。
僕を振った一生の親友の名前は、矢崎久遠(やざきくおん)。
亡くなった彼女のお母さんが、つけた大切な名前。
あの時の告白は応えてもらえなかったけど、今なら、あるいは。
そんな思いを抱えつつ、久遠と共に、かつての僕らについて語りあうことに。
そして、皆既月食の中で、僕は彼女から言われた。「月が綺麗だね」と。
夏目漱石が、I love youの和訳として「月が綺麗ですね」と言ったという逸話は有名だ。
とにかく、月が見えないその中で彼女は僕にそう言ったのだった。
これは、家族愛が強すぎて、恋愛を諦めざるを得なかった、「一生の親友」な久遠。
そして、彼女と一緒に生きてきた僕の一夜の物語。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる