ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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 木暮勇一ゆういちは現役のころ……いや、それよりずっと前から、よく苗字を間違えられた。『こぐれ』ではなく『きぐれ』と読む。

 彼はボクサーだった。高校時代はバンタム級でインターハイを制した。高く固いガードと速いジャブ。脚を使わせると一級品。それがアマチュア時代の評価。

 6回戦から始めても通用すると言われたが、新人王を取りたかったがためにプロのリングでは4回戦からデビューした。しかし、プロの洗礼は厳しかった。デビュー戦と続く2戦目ではダウンをとられて判定負け。圧力をかけて攻められることが苦手で、更に打たれ弱いという弱点を露呈してしまったのだった。

 背水の陣で臨んだ3戦目。相手はコテコテのファイタースタイルだった。足を使うアウトボクシングに徹すればポイント勝ちは固い――そんな考えで組まれたマッチメイクだったが、その日の彼は一つの大きな決意を胸に秘めてリングに上がっていた。その日、彼は決して退かなかった。アマチュアエリートらしいスタイリッシュなボクシングはなりを潜め、愚直に前進していくスタイルに変わっていた。

 そして――プロのリングでの初勝利は3ラウンド2分14秒でのKO勝利だった。木暮は、リングを去るまでに、この試合を含めて4度のKO勝利を収めた。生涯戦績は16戦10勝6敗4KO――。引退するときの日本ランキングは1位。

 敗北の中には新人王トーナメントでの負けや、日本タイトルマッチでのKO負けも含まれる。結局、栄光とも名誉とも関係がないままで、日本タイトル奪取失敗を機に、7年間のプロボクサー生活に終止符を打った。

 リングを去ったのは25歳のとき。ボクサーの寿命は短いのは最初から覚悟の上だ。しかし、実際に辞めてしまうとぽっかりと穴が開いたようになった。遊ぶ事を知らずに生きてきたから、いざそうなってしまうと何をして良いのかわからない。

 身内のツテを使って入社した会社で一生懸命に働いた。10年後に、そこで知り合った取引先の女性と結婚し、子供もできた。男の子だった。容姿は妻に似ていたが、利発――どっちかといえば落ち着きがない性格は自分に似たのだろうと木暮は思っていた。

 ある朝、木暮は髭をそりながら、ふと、手を止めた。鏡の前には、サラリーマン生活十数年を経ても、相変わらずスーツが似合わない男の顔があった。リングから離れて約20年が経とうとしている。

 ……俺は何をしている?

 唐突に、思った。

 今の、サラリーマンの仕事にはやりがいはある。寡黙な彼が滅多に口に出すことはなかったが、今も妻を愛しているし、彼女は妻としての努めもよく果たしてくれて感謝もしている。息子は健康そのものに成長し、もうじき小学2年生になる。これ以上、一体何を望むのか……。

 それでも、今の自分には何かが足りない。無いものねだりと言われてしまえばそれまでかもしれない。しかし、今、自分に足りないものは、自分が自分であるために、絶対不可欠のもののように思えた。そして、逆に言えば――。

「ここにいる俺は、本当に俺か……?」

 何気なく、木暮はぐっと両の拳を握り、肩まで上げた。冗談半分でも何年ぶりかに取ったファイティングポーズだった。そのまま、右の拳をぐっと突き出した。肩を入れ、腰を回し、足をしっかりと踏み込む。ボクシングの花である、右ストレートだ。

 久しぶりに放った右ストレートは、驚くほど遅かった。しかも、打った瞬間、肩から腰にかけてびーんと痛みが走った。そのせいで、しばらく体を元の姿勢に戻すことができなかった。

 自分の衰えを実感しなおすと同時に、自分が忘れていたものを思い出させられた。

 ――肉体への痛みを。

 ボクシングジムを作ろう……。

 その痛みが、彼にそんな考えを芽生えさせた。それは、アイディアとか閃きなどとはとても呼べない思い付き。大抵の人間なら、夜になれば忘れてしまうような代物だった。しかし、木暮の頭はそれだけしか考えられなくなってしまったように、次々といざボクシングジムを開設するために必要なことを次々と頭に思い浮かべた。

 事業を始めるとなれば、先立つものと成功への目算が必要だ。この街は、人口25万人の小都市だ。スポーツジムも、空手の道場も幾つかあることは知っている。しかし、ボクシングのジムは一つもなかった。だからと言って、ボクシング――いや、戦うという行為に夢を抱く若者たちが大勢集まる保証はない。

 しかし、男というものは、いくつになっても強くなりたいという願望を捨てられないものだ。この小さな街であっても、おそらくは何千、何万という男が、強さに渇望しているはずだ。

 きっと上手く行く。行かないはずがない。

 あまり根拠のない確信が、胸の中に固まった……。
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