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4章
思いっきりぶつかって、思いっきり受け止められて【11】
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* * *
サトルがつかさとともにキグレボクシングジムを出たのは、閉店直後のことだった。あたりは暗くなっている。
スパーリングの後、つかさはずっとジムのベンチの上に座らせていた。今日は川内は指導の日ではなかったので、「ちゃんと監視しておくように」と言い残して去ってしまったし、由美子も「幸治とちゃんと話し合いたい」と帰ってしまったが、つかさはダウンをとられたわけだし、もしも調子が悪くなった時に備えて、人の目に付くこの場所に残させたのである。つかさの場合、目を離すと練習を始めかねないので監視も兼ねていた。
練習生たちの練習する姿を見ながら、見るからにうずうずして立ち上がろうとするつかさを、サトルやキリカがベンチの上から動かないように制する。そのたびに、ちょこんと姿勢を正してうなだれるつかさが何だか可愛い。
つかさにとっては苦行のようだっただろう数時間がようやく終わると、今日はダウンを取られたわけでもあるし、サトルがつかさを送っていくことになったのである。
「頭が痛いところはないか? 手が痺れるとかないか?」
ジムを出て、夜道を歩きながら、つかさに尋ねる。今日、何度もした問いかけだった。
「大丈夫ですって」
苦笑いするつかさ。それも今日何度も繰り返しされた返答だった。
「今晩は風呂に入っても湯舟には浸かるな。それから明日、明後日は体育があっても見学させてもらえ。ジムに顔出すのも禁止だ。ロードワークももちろん禁止。ちょっとでもおかしいと感じることがあったら医者に診てもらうこと」
「分かってますって」
「あと、言うまでもないことだが、スパーリングをした日はアルコールは厳禁だ」
「飲みませんっ!」
そんな話をしながら夜道を並んで歩く。以前にもこうやって送って帰ったことがあったとサトルは思い返す。
「君を送って帰るのはこれが3度目だな」
「そうですね。2回目の時は、サトルさんの家で一緒に食事した帰りでした」
「そうだったな」
「あの時は、ご馳走様でした。そういえば、お礼を言っていなかったです。おいしかったです」
「あんなものでよかったら、また作ってやるよ」
つかさは小さく頭を下げた後、ふっと真顔になった。
「初めて送ってもらったときは、とても失礼なことを言われました」
そのときのことを思い出し、サトルは「うっ」と言葉に詰まる。
「……悪かったと思っているよ」
「いえ。事実を言われただけですから。でも、それでも、私は……」
つかさは言葉を止める。それは、本当ならあの時に言いたいことだっただろうが、上手く言葉に出来ないのは本当にもどかしいよなぁと、ぽんとサトルはつかさの頭に手を置いた。
「絶対、オリンピックに行こうな」
「はいっ!」
つかさは、ようやく満面の笑みを浮かべた。久々にこんな顔を見た気がするなと思いながら、サトルはジャケットの胸ポケットから小さな小瓶を取り出した。
サトルが先日買った長い紺色の紐がつけられた、お世辞にも高いものとは言えないコルクで栓をする小瓶である。買ったときは空っぽだったが、今は中身が入っている。
「これを」
と、サトルはつかさの目の前にそれを差し出した。
「……何です?」
「誕生日のプレゼント。16歳、おめでとう」
「はあ……ありがとうございます」
戸惑ったようにお礼を言いながら、つかさは紐の部分を握って小瓶を受け取る。中に入っているのは、何の変哲もない土。
「土……何の土ですか?」
と言ってから、はっと弾かれたようにサトルを見上げた。
「もしかして甲子園の……?」
「スパーが終わった後でさ、会長が何か言おうとしていただろ?」
つかさが問いかけたことには答えず、サトルは問いかけた。
「ええ……タイトルマッチで負けたときの話ですよね」
「ああ。僕らは何度も聞かされているから聞き飽きてしまったけれど、あの時もう少しだけ警戒していればあのパンチをもらわなかったかもしれない。堪えられたかもしれない。もしも、ああしていれば、こうしていれば、勝てていたかもしれない。ベルトを巻いていたかもしれない。酔ったときは特に笑いながら、でも悔しそうな顔をして、そんなことを言っているよ。結果は結果だから受け入れていないわけでもないし、納得していないわけでもない。……でも、どこかに口惜しさは残っているんだろう。時折、その悔しさを思い出して噛みしめる程度には、会長も若いんだよ」
「サトルさんも、ですか?」
ぎくり、とした。口惜しさどころか、未だに受け入れることも納得することもできていない。サトルの中では、あの敗戦が――未だに消化できていない。サトルは、目の前の少女に、それを見透かされたような気がした。
「知ってたのか。調べたのか?」
「キリカさんが教えてくれました」
「そうか……」
また、耳の中に金属バットがボールを捕らえた音がよみがえったような気がした瞬間、その音は、グローブ同士がぶつかり合う音に変わった。そうだ。今は、グラウンドは自分の居場所ではない。今、手に嵌めているものは、グローブという名称は同じでも、全く異なるものだ。昔は、これからずっと、何かしらの形で野球に関わるような気がしていた。しかし今は、ノックを打つ代わりにミットを受けている。
木暮会長は自分の居場所を作った。川内将輝は自分の居場所を自分の力で手に入れた。翻って自分はどうか。自分の居場所はまだ、まだここではない、とサトルは思う。ここを、自分の居場所と言うには、自分はまだ何もやっていなさすぎる。
「……キリカさんも、そうさ」
サトルは言った。
「小学校の頃からテニスをやっていて、中学の頃にはいくつかの大会で好成績を収めて高校でもテニスの有名校に進んで……。ところが1年の時にいわゆるスクハラにあったらしい。部活だけじゃなくて学校もやめて人間不信になって、立ち直るまで1年以上引きこもりをやっていたそうだ」
本人には、俺から聞いたなんて言うなよ、とサトルは付け加える。
「そうだったんですか。ということは、キリカさんは高校中退ですか?」
「いや。引きこもりから脱してから、勉強しなおして別の高校の入学試験を受け直して、今は現役の高校3年生をやっているって聞いている」
「キリカさんみたいな人でも、苦労しているんですね」
「以前、制服姿を見たんだが、制服がかわいそうなくらい似合ってないんだ、これが」
「確かに、キリカさんは背は高いし大人びているし、それが高校の制服を着たらコスプレになっちゃいますね。でも、見てみたいなぁ」
想像したのか、つかさが吹き出した。それにつられてサトルも笑いだす。この場にいないキリカに申し訳なく思いつつも、一度笑い出すと、不思議と止まらなくなった。2人して声を立ててひとしきり笑いあった。
「でもな……」
笑いが収まったサトルが言う。
「……キリカさんは卒業したら、留学するつもりらしい。将来はプロのスポーツトレーナーを目指すと言ってたことがあったよ。日本は、まだ、そういう分野では遅れているからな。アメリカで修業を積みたいらしい」
「立派な目標ですね」
「そうだな。キリカさんは凄く強い。自分で、自分の居場所を作ろうとしている。夢に負けることは決して人生のゲームオーバーじゃない。周りの強い人たちを見て、それに気付いたつもりだけれど、僕にはまだ、負けを力に変えるだけの強さがないんだ」
ぎゅっと、つかさが手のひらに収まる程度のちっぽけな小瓶を握り締めた。
「……それは、僕が自分の力で手に入れた唯一のものだ。自分にも、青春を賭けたものがあったという証拠でもあるし、自分の人生の導でもある」
だから……と、一瞬言葉を区切る。つかさは黙って聞いている。いつの間にか、2人の足は止まっていた。道路を走っていく車のヘッドライトが、2人を照らし出す。
「別に、君に叶わなかった僕の夢を託すとか、背負えとか、言っているわけじゃない。……いずれ、君も、自分で自分の導を見つけるだろう。長い人生の中で、決して乗り越えられないと思わされるような高い壁にぶち当たるときが必ず来る。その時に、自分の進むべき道を示してくれる導は、自分が限界を超えたことがあったという証だけなんだと、僕は思う。……それが見つかったら、僕の導は捨ててしまってくれて構わない」
サトルはもう一度、つかさの頭に手を伸ばした。
「それが、君よりちょっとだけ長く生きている夢に破れた男のちょっとした忠告だよ」
自分の言いたいことがどのくらい伝わったのか、サトルには分からなかった。
「……それが、いつになるか、わかりませんが、きっと代わりにこの中に入れるものを見つけます」
と真顔で返したところを見ると、少しは伝わったのだろう。
「でも、サトルさんだって若いじゃないですか。達観するのも、夢に破れたなんて口にするのも、早すぎると、思いますよ」
「……そうかなぁ」
「そうですよ。……まだ、まだ。若い若い」
再び歩き出したつかさの背を追うように、サトルも歩き出した。迷いながら歩くサトルの前で、つかさは「がんばるぞー」と両腕を突き上げる。
「……よせよな。そんなことを言うなよ」
後ろを歩きながら、サトルは思わず呟いた。
「抱きしめたく、なるだろうが……」
その呟きが聞こえたのか、つかさが振り返り、小首をかしげた。
「何か言いました?」
聞こえなくてよかったとサトルは思う。
「何でもない。遅くなるから急ごう。遅くなって、君のお母さんを心配させたら僕が申し訳ない」
ちょっと歩く速度を上げて、つかさの横に並んだサトルは、20センチ身長が違うから自然につかさを見下ろした。同時にそれは、つかさが自然に見上げる形になった。
「サトルさん……」
「ん?」
そのつかさの瞳が若干潤んでいるような気がして、少しドキリとする。もっとも……サトルのことをつかさは「若い」と言うが、こんなシチュエーションでもラブコメ展開を期待をするような年齢ではなくなってしまった。
「やっぱりサトルさん、“僕”より“俺”のほうが似合ってます」
「ほらな」
「は?」
「いや。一応、客商売だからな。俺は流石にまずいだろう」
つかさのアパートが見えてきた。
「サトルさん」
サトルが足を止めるより先につかさのほうが振り返った。
「ここまでで大丈夫です。……お休みなさい。また、明日」
「あ……ああ。また、明日」
手を振ると駆けて行くつかさの背を、サトルは目で追いつつ思う。彼女にとって、今日はいろんなことがあった一日だった。彼女は今日に満足しただろうか。今日を精一杯生きただろうか。未来というのは、所詮は明日の積み重ねに過ぎない。夢をかなえても、次の瞬間には過去に変わってしまう。
願わくば……今日という日が、明日、後悔する昨日でありませんように。明日という日が、その次の明日に希望を持てる今日となりますように。
とりあえず今は……。
「お休みなさい。いい夢を」
サトルはつかさの姿がアパートの敷地の中に消えて行ったのを確かめると、すっかりと暗くなった空を見上げる。今はまだ5月。日中は大分暖かいものの、季節はまだ春。この時間になると、まだ肌寒い。
「夏には、まだ早いな……」
サトルがつかさとともにキグレボクシングジムを出たのは、閉店直後のことだった。あたりは暗くなっている。
スパーリングの後、つかさはずっとジムのベンチの上に座らせていた。今日は川内は指導の日ではなかったので、「ちゃんと監視しておくように」と言い残して去ってしまったし、由美子も「幸治とちゃんと話し合いたい」と帰ってしまったが、つかさはダウンをとられたわけだし、もしも調子が悪くなった時に備えて、人の目に付くこの場所に残させたのである。つかさの場合、目を離すと練習を始めかねないので監視も兼ねていた。
練習生たちの練習する姿を見ながら、見るからにうずうずして立ち上がろうとするつかさを、サトルやキリカがベンチの上から動かないように制する。そのたびに、ちょこんと姿勢を正してうなだれるつかさが何だか可愛い。
つかさにとっては苦行のようだっただろう数時間がようやく終わると、今日はダウンを取られたわけでもあるし、サトルがつかさを送っていくことになったのである。
「頭が痛いところはないか? 手が痺れるとかないか?」
ジムを出て、夜道を歩きながら、つかさに尋ねる。今日、何度もした問いかけだった。
「大丈夫ですって」
苦笑いするつかさ。それも今日何度も繰り返しされた返答だった。
「今晩は風呂に入っても湯舟には浸かるな。それから明日、明後日は体育があっても見学させてもらえ。ジムに顔出すのも禁止だ。ロードワークももちろん禁止。ちょっとでもおかしいと感じることがあったら医者に診てもらうこと」
「分かってますって」
「あと、言うまでもないことだが、スパーリングをした日はアルコールは厳禁だ」
「飲みませんっ!」
そんな話をしながら夜道を並んで歩く。以前にもこうやって送って帰ったことがあったとサトルは思い返す。
「君を送って帰るのはこれが3度目だな」
「そうですね。2回目の時は、サトルさんの家で一緒に食事した帰りでした」
「そうだったな」
「あの時は、ご馳走様でした。そういえば、お礼を言っていなかったです。おいしかったです」
「あんなものでよかったら、また作ってやるよ」
つかさは小さく頭を下げた後、ふっと真顔になった。
「初めて送ってもらったときは、とても失礼なことを言われました」
そのときのことを思い出し、サトルは「うっ」と言葉に詰まる。
「……悪かったと思っているよ」
「いえ。事実を言われただけですから。でも、それでも、私は……」
つかさは言葉を止める。それは、本当ならあの時に言いたいことだっただろうが、上手く言葉に出来ないのは本当にもどかしいよなぁと、ぽんとサトルはつかさの頭に手を置いた。
「絶対、オリンピックに行こうな」
「はいっ!」
つかさは、ようやく満面の笑みを浮かべた。久々にこんな顔を見た気がするなと思いながら、サトルはジャケットの胸ポケットから小さな小瓶を取り出した。
サトルが先日買った長い紺色の紐がつけられた、お世辞にも高いものとは言えないコルクで栓をする小瓶である。買ったときは空っぽだったが、今は中身が入っている。
「これを」
と、サトルはつかさの目の前にそれを差し出した。
「……何です?」
「誕生日のプレゼント。16歳、おめでとう」
「はあ……ありがとうございます」
戸惑ったようにお礼を言いながら、つかさは紐の部分を握って小瓶を受け取る。中に入っているのは、何の変哲もない土。
「土……何の土ですか?」
と言ってから、はっと弾かれたようにサトルを見上げた。
「もしかして甲子園の……?」
「スパーが終わった後でさ、会長が何か言おうとしていただろ?」
つかさが問いかけたことには答えず、サトルは問いかけた。
「ええ……タイトルマッチで負けたときの話ですよね」
「ああ。僕らは何度も聞かされているから聞き飽きてしまったけれど、あの時もう少しだけ警戒していればあのパンチをもらわなかったかもしれない。堪えられたかもしれない。もしも、ああしていれば、こうしていれば、勝てていたかもしれない。ベルトを巻いていたかもしれない。酔ったときは特に笑いながら、でも悔しそうな顔をして、そんなことを言っているよ。結果は結果だから受け入れていないわけでもないし、納得していないわけでもない。……でも、どこかに口惜しさは残っているんだろう。時折、その悔しさを思い出して噛みしめる程度には、会長も若いんだよ」
「サトルさんも、ですか?」
ぎくり、とした。口惜しさどころか、未だに受け入れることも納得することもできていない。サトルの中では、あの敗戦が――未だに消化できていない。サトルは、目の前の少女に、それを見透かされたような気がした。
「知ってたのか。調べたのか?」
「キリカさんが教えてくれました」
「そうか……」
また、耳の中に金属バットがボールを捕らえた音がよみがえったような気がした瞬間、その音は、グローブ同士がぶつかり合う音に変わった。そうだ。今は、グラウンドは自分の居場所ではない。今、手に嵌めているものは、グローブという名称は同じでも、全く異なるものだ。昔は、これからずっと、何かしらの形で野球に関わるような気がしていた。しかし今は、ノックを打つ代わりにミットを受けている。
木暮会長は自分の居場所を作った。川内将輝は自分の居場所を自分の力で手に入れた。翻って自分はどうか。自分の居場所はまだ、まだここではない、とサトルは思う。ここを、自分の居場所と言うには、自分はまだ何もやっていなさすぎる。
「……キリカさんも、そうさ」
サトルは言った。
「小学校の頃からテニスをやっていて、中学の頃にはいくつかの大会で好成績を収めて高校でもテニスの有名校に進んで……。ところが1年の時にいわゆるスクハラにあったらしい。部活だけじゃなくて学校もやめて人間不信になって、立ち直るまで1年以上引きこもりをやっていたそうだ」
本人には、俺から聞いたなんて言うなよ、とサトルは付け加える。
「そうだったんですか。ということは、キリカさんは高校中退ですか?」
「いや。引きこもりから脱してから、勉強しなおして別の高校の入学試験を受け直して、今は現役の高校3年生をやっているって聞いている」
「キリカさんみたいな人でも、苦労しているんですね」
「以前、制服姿を見たんだが、制服がかわいそうなくらい似合ってないんだ、これが」
「確かに、キリカさんは背は高いし大人びているし、それが高校の制服を着たらコスプレになっちゃいますね。でも、見てみたいなぁ」
想像したのか、つかさが吹き出した。それにつられてサトルも笑いだす。この場にいないキリカに申し訳なく思いつつも、一度笑い出すと、不思議と止まらなくなった。2人して声を立ててひとしきり笑いあった。
「でもな……」
笑いが収まったサトルが言う。
「……キリカさんは卒業したら、留学するつもりらしい。将来はプロのスポーツトレーナーを目指すと言ってたことがあったよ。日本は、まだ、そういう分野では遅れているからな。アメリカで修業を積みたいらしい」
「立派な目標ですね」
「そうだな。キリカさんは凄く強い。自分で、自分の居場所を作ろうとしている。夢に負けることは決して人生のゲームオーバーじゃない。周りの強い人たちを見て、それに気付いたつもりだけれど、僕にはまだ、負けを力に変えるだけの強さがないんだ」
ぎゅっと、つかさが手のひらに収まる程度のちっぽけな小瓶を握り締めた。
「……それは、僕が自分の力で手に入れた唯一のものだ。自分にも、青春を賭けたものがあったという証拠でもあるし、自分の人生の導でもある」
だから……と、一瞬言葉を区切る。つかさは黙って聞いている。いつの間にか、2人の足は止まっていた。道路を走っていく車のヘッドライトが、2人を照らし出す。
「別に、君に叶わなかった僕の夢を託すとか、背負えとか、言っているわけじゃない。……いずれ、君も、自分で自分の導を見つけるだろう。長い人生の中で、決して乗り越えられないと思わされるような高い壁にぶち当たるときが必ず来る。その時に、自分の進むべき道を示してくれる導は、自分が限界を超えたことがあったという証だけなんだと、僕は思う。……それが見つかったら、僕の導は捨ててしまってくれて構わない」
サトルはもう一度、つかさの頭に手を伸ばした。
「それが、君よりちょっとだけ長く生きている夢に破れた男のちょっとした忠告だよ」
自分の言いたいことがどのくらい伝わったのか、サトルには分からなかった。
「……それが、いつになるか、わかりませんが、きっと代わりにこの中に入れるものを見つけます」
と真顔で返したところを見ると、少しは伝わったのだろう。
「でも、サトルさんだって若いじゃないですか。達観するのも、夢に破れたなんて口にするのも、早すぎると、思いますよ」
「……そうかなぁ」
「そうですよ。……まだ、まだ。若い若い」
再び歩き出したつかさの背を追うように、サトルも歩き出した。迷いながら歩くサトルの前で、つかさは「がんばるぞー」と両腕を突き上げる。
「……よせよな。そんなことを言うなよ」
後ろを歩きながら、サトルは思わず呟いた。
「抱きしめたく、なるだろうが……」
その呟きが聞こえたのか、つかさが振り返り、小首をかしげた。
「何か言いました?」
聞こえなくてよかったとサトルは思う。
「何でもない。遅くなるから急ごう。遅くなって、君のお母さんを心配させたら僕が申し訳ない」
ちょっと歩く速度を上げて、つかさの横に並んだサトルは、20センチ身長が違うから自然につかさを見下ろした。同時にそれは、つかさが自然に見上げる形になった。
「サトルさん……」
「ん?」
そのつかさの瞳が若干潤んでいるような気がして、少しドキリとする。もっとも……サトルのことをつかさは「若い」と言うが、こんなシチュエーションでもラブコメ展開を期待をするような年齢ではなくなってしまった。
「やっぱりサトルさん、“僕”より“俺”のほうが似合ってます」
「ほらな」
「は?」
「いや。一応、客商売だからな。俺は流石にまずいだろう」
つかさのアパートが見えてきた。
「サトルさん」
サトルが足を止めるより先につかさのほうが振り返った。
「ここまでで大丈夫です。……お休みなさい。また、明日」
「あ……ああ。また、明日」
手を振ると駆けて行くつかさの背を、サトルは目で追いつつ思う。彼女にとって、今日はいろんなことがあった一日だった。彼女は今日に満足しただろうか。今日を精一杯生きただろうか。未来というのは、所詮は明日の積み重ねに過ぎない。夢をかなえても、次の瞬間には過去に変わってしまう。
願わくば……今日という日が、明日、後悔する昨日でありませんように。明日という日が、その次の明日に希望を持てる今日となりますように。
とりあえず今は……。
「お休みなさい。いい夢を」
サトルはつかさの姿がアパートの敷地の中に消えて行ったのを確かめると、すっかりと暗くなった空を見上げる。今はまだ5月。日中は大分暖かいものの、季節はまだ春。この時間になると、まだ肌寒い。
「夏には、まだ早いな……」
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