ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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4章

思いっきりぶつかって、思いっきり受け止められて【7】

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 ストップウォッチに目を落とすと、1分間のインターバルのうち、50秒が過ぎようとしていた。

「あと10秒です」

 サトルはつかさの口の中にマウスピースを突っ込むと立ち上がった。

「つかさちゃ……」

 サトルが声を掛けようとした瞬間――。

「つかさ! 頑張れっ!」

 由美子の声が響いた。つかさの顔がそっちに向く。そして、握ったグローブを由美子の方に向けた。俺の掛け声なんていらないな……そのやり取りに、意識を奪われた。

「サトルっ! ゴング」

 キリカの鋭い声に、慌ててストップウォッチに目を落とす。ストップウォッチの時間が1分を過ぎたところだった。サトルはリングを飛び降りるとゴングを叩いた。 

     *     *     *

 キリカは、叫んでしまってから思わず口を押えた。声が録画中の映像の中に入ってしまったか。別にそれ自体は、ここまで結構喋っているのだから構わないのではあったけれど、泣き声のような変な声になってしまわなかっただろうかと恥ずかしく思った。

 少し前からこらえ続けていた。口を押えたキリカの指に、頬を伝って落ちてきた雫が当たる。

 ……お前らは、俺の命令に従う奴隷になれなきゃ、ここでテニスを続ける価値なんてないんだよ。

 かつて、自分に投げかけられた屈辱的な言葉が耳の中に蘇る。

 何でよ……。

 何でこんな時に、昔のことを思い出さなきゃいけないの……。

 キリカは唇を噛んで、悪夢のような日々を頭から追い払おうとするが、そうすればそうするほど、色んなことが思い出されてくる。

 ……俺の指示を聞けない奴は、試合に出さないのは当たり前だろ。どんなに強くたって、それよりも大事な“人間性”を養うのが学校の部活動なんだよ。

 ……俺の指示に従えるっている言うのなら、証明して見せろよ。それ、そこに四つん這いになって、3回回ってワンって言ってみな。

 キリカの母校のテニス部は、全国にも名を轟かす有名校だった。キリカもそんな学校に憧れて入学した。そこで、見せつけられた現実。そこは、指導者の英語教諭による独裁的な支配によって作りあげられていた。選手はロボットのようになることを要求され、指導という言葉で屈辱的な行為が繰り返されていた。そして、その行為を、強くなるための試練と生徒たちに刷り込み、巧妙にマインドコントロールが施されていた。

 とはいえ勝ち気だったキリカが、そんな指導者に従うはずがなく、そうするとこの教諭からは試合に出さないだけでなく、ありえないほど大量の雑務を一人押し付けられたり、不当に成績を落とされるなどの報復が加えられた。帰ってきたテストの解答が、明らかに消してあったり、線を一本足して書き直したりして不正解にされていた時は、ここまでやるのかと悔しくて、しかし戦う力のない自分が惨めで泣くよりなかった。

 戦おうと決意したキリカは、ICレコーダーを忍ばせ、教諭の言動を録音し、学校に提出した。

 しかし学校は動かなかった。一介の生徒ではなく、実績ある指導者としての教諭を守るほうを選んだのである。学校は、名門のテニス部の不祥事がマスコミにばれることを恐れて、キリカの訴えは隠蔽された。

 そして、部を辞めたキリカには、いじめという報復が待っていた。物がなくなったり靴がびしょ濡れになっているのが日常になった。トイレで直接的な暴行に及ばれることもたびたびだった。それをやったのは、キリカと同じ目に遭っていたはずの、キリカが助けようとした、同じテニス部の部員たちだった。テニス部の部員たちも、もしも、報復に加わらなかったら次のターゲットになってしまうという恐怖があったのかもしれないし、キリカの行動を自分たちのテニス部を壊そうとする敵対行為と認識し、正義だと思ってやっていたのかもしれない。

 また、キリカの敵になったのは、テニス部員の保護者たちもだった。テニス部と、優秀な指導者である教諭を守るため、キリカは家族ごと様々な攻撃にさらされた。直接、抗議という侮辱や罵声を浴びせられるのみでなく、近所で囁かれるようになった中傷や、帰宅途中のキリカが明らかに誰かに尾行つけられていたり、郵便受けにはカミソリ入りの手紙、鳴りやまない無言電話、ばらまかれる事実無根の怪文書……高校1年生の女の子に、とても耐えられるものではなかった。味方なんていない。自分が守ろうとしたのは何だったのか……。

 追い詰められ絶望を抱えたキリカは、それ以上闘おうという気力も湧かず、部屋から一歩も出られなくなって、学校も辞めた。

 キリカを救ってくれたのは、この場所だった。キリカにとって新しい居場所になってくれた。2つ目の雫がこぼれる前に、ポケットからハンカチを取り出し、そっと拭う。

 それから、リング上の川内に視線を向けた。

 昔のことを思い出し、押しつぶされそうになったときは、川内の顔を思い出す。キリカに、自分の居場所を与えてくれた人だから。

 学校の部活動が外部の目に入りにくい密室になりやすいから指導者と生徒の関係が主従のそれになってしまいやすいとか、スポーツジムがお金を払って来る場所だから指導者との練習生の関係が対等なものであるとか、キリカはそんな単純なものではないと思う。

 しかし、その競技をやってよかったと思えるかどうかは、良い指導者に巡り合えるかどうかなのは、間違っていないと思う。

 ……つかさ。あなたがどういうつもりで今日のスパーリングに臨んだのか、私は知らない。でも、その人は、全力でぶつかっても、ちゃんと全力で受け止めてくれる指導者だよ。

 そんなことを考えていると、ゴングを鳴らしたサトルがこちらに戻って来た。

 サトルの顔つきも、この数日で結構変わったなぁ、と思った。彼の場合、高野つかさという良い練習生に恵まれた。彼女との出会いで、自分の迷いや弱さと向き合うことが出来たのだろう。

 だから、自分の涙は絶対に悟られてはいけないと、キリカは思う。もしも、自分が泣いている顔を見られたら、ここまでの力関係が変わってしまいそうな気がしたから。

     *     *     *

「泣いても笑っても、残り1分強か」

 サトルはキリカの横に戻ると、リングの上での激しい攻防から目が離したくないのに、と思いつつストップウォッチに目を落とした。

 2ラウンド目に入って、互いに手数が増えた。

「……川内さんは左の真っすぐばっかりだね。上下にパンチを散らすわけでもないし、攻撃も結構単調な感じ」

「川内コーチのレベルでパンチを散らして、コンビネーションを絡ませながらやったら、つかさでも近づくこともできずに、一方的に終わってしまうからな」

 キリカが見たままを口にすると、サトルが解説する。

「それが証拠に、つかさが川内さんの懐に入ってコンビネーションを入れる場面も増えてる」

「確かに……ジャブをかいくぐって、中に入って高速コンビネーション……。全部ガードされているけれど」

 パンパンパンッとグローブがぶつかり合う小気味の良い音が響く。しかし、川内の防御の前に、つかさのパンチはあと一つ、届かない。

 時間は無情だった。1秒、また1秒と、刻々と時間は過ぎていく。それなのに、崩れない。崩せない。

 ……せめて一発。

 サトルが両手を組んで祈るが、逆につかさのガードの上から放たれた川内の右ストレートがつかさを一気にサトルの目の前の赤コーナーに追いやる。

 間髪入れずに追撃の右がつかさに襲い掛かる。

 それは、偶然か。

 あるいは狙ったものだったのか。

 川内の右は、赤コーナーに突き立てられていた。そこに、つかさの姿はない。つかさはとっさに膝を曲げて垂直に上体を下げて川内のパンチをかわしていたのだ。

 そして、サトルは気付いた。

 川内がつかさの姿を視界から見失ったこと。

「いけえぇっ!」

 サトルは思わず叫んだ。叫んでから、ストップウォッチに視線を滑らせる。残り30秒を切ったところだった。

 無防備になった川内の顎をめがけて、つかさの右アッパーが放たれる。

 瞬間――。

 サトルの目に写る世界のすべてがスローモーションに変わった。 

 見失ったと思ったのは錯覚だったか。それとも、習練で身につけた反射神経がそれを可能にしたのか。それともただの勘だったのか。

 川内の左に力がこもったのが分かった。

 つかさの右アッパーは止まらない。つかさの渾身のアッパーカットに対して、川内のショートフックがカウンターで放たれる。

 つかさの白いグローブより先に、川内の黒いグローブの方が彼女の顎先をかすめた。日本刀でスパッと切ったような、というような表現がしっくりくるような、コンパクトで無駄のないショートフックだった。その分、早く相手に届いたのだ。

 切って落とされた。

 そんなふうに見えた。

 つかさが尻餅をつく。そのまま、後ろに倒れた。丁度赤コーナーに背中を預けて寄り掛かったような体勢。

 カウントをとろうとした木暮会長が両腕を交差させた。
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