ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

文字の大きさ
上 下
36 / 48
3章

一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【8】

しおりを挟む
 サトルにとっては一つのことが確かめられただけで充分だった。川内将輝は高野つかさの父親ではなかった。つかさが殴りたいと言っていた相手は、全くの別人だった。どこで、そんな間違いが起きたのかは別として、つかさがその拳に怒りや憎しみを乗せるべき相手は、川内ではないということが明らかになったのだ。

 だとすれば、今度のスパーリングは止めるべきなのかもしれない。

 父娘の話だと思えばこそ、サトルはつかさのスパーリングの手助けをしようと思ったのだ。その前提が崩れてしまえば、今度のスパーリングに何の意味があるというのか。ただの危険なゲームになってしまうだけではないのか。

 一瞬、そんなことを考えたサトルは――由美子の顔を見て「何を馬鹿なことを」と呟いた。

 さっきまで、つかさのパンチを受け続けてきたサトルには、何となくだけれど分かっていた。彼女の拳に、怒りだの、憎しみだの、そんな負の感情など乗っていなかった。つかさは純粋に楽しんで拳を振るっていた。

 つかさにとっては、今度のスパーリングの意味は自分の生まれのこととは、すでに別次元のこととなっているのかもしれない。純粋に、努力の成果を試したい。どうして、そんな心境の変化を得たのかは分からないが、そんなふうに、彼女の拳は語っていたような気がした。

 意味なんてものは、闘う本人ではない自分が決めるものではないよなぁ、とサトルは思う。

「5月11日はお暇でしょうか?」

 サトルは、その日付を口にした。

「その日は、つかさの誕生日です……最近、つかさが何かを隠しているような雰囲気がありました。その日は、何か特別なことがある日なのでしょうか?」

「その日……」

 サトルは詳細は告げずに、

「ジムは15時からですが、その日は14時より前には人が来ます。その頃にジムに来てください。見てもらいたいものがあるんです」

 勝手なことをしているという自覚はあった。身内であっても、あまり他人の目に触れさせるべきものではないかもしれない。つかさも他人の目に晒されたくはないかもしれない。でも、この戦いはきっと見てもらった方がいいと思った。

     *     *     *

 5月11日の日曜日を迎えた。

 この日を迎えるまでの10日にも満たない日々は、駆け足であっという間に過ぎたようにも思えるし、ようやくと感じるほど長かったようにも思える。それだけ濃密だったともいえるかもしれないし、色々なことを考えすぎた数日間だったともいえる。

 長期連休が終わり、つかさは4月の一時期が嘘のように毎日のように毎日のようにジムに通っていた。毎日のようにサンドバッグを叩き、ボールをかわして、何キロも走っていた。

 その様子を近くで見て、時にはミットを受けていたサトルには、つかさの様子は練習熱心なんてつまらない言葉で形容することはできないように思えた。一心不乱にサンドバッグを撃ち続けるその背中に、声をかけるのもためらわれるほどだった。
 
 何といっても、相手はつかさが今持っているものを全て絞り出したとしても到底及ばない相手なのだ。ここまでやれば大丈夫。これだけやったから大丈夫。それがない相手なのだ。

 ボクサーとしての血を濃くしていくための練習。

 何かの漫画に出てくた台詞を思い出した。ひたすら自分を追い込み続けるように、殴り続け、走り続ける。そうやって、一介の女子高生から、ボクサーへと変化していく。サトルから見てもオーバーワークに感じる場面も、危うさを感じる場面あったが、どうしても「やめろ」とは言えなかった。

 ひたすらに、がむしゃらに自分を追い込んでいく鬼気迫るつかさの背中を見ながら、「不安を振り払うために」そんな気持ちで練習をしたことが、かつての自分にもあったことを、今更ながらサトルは思い出す。

 しかし、練習をすればするほど、不安が増大し、自分が誤ったことをしているのではないかという思考の悪循環に陥ってしまうこともよくあったことも思い出す。格上と呼ばれる、明らかな実力差のある相手との試合を控え時はそうだった。

 ただ、身体を動かし続けなければ気が済まない。例えば、過食症の患者が食べては吐いてを繰り返すような、それに似た精神状態に、今のつかさはあるのかもしれない。

 昔の自分と照らし合わせ、声をかけたい衝動に駆られた。「……少し前の自分を思い出せよ」と。

 この間はできていたじゃないか。純粋に楽しめばいいんだ。余計なことを考えずに。そう肩を叩いてやりたかった。恐怖とか、不安とか、負の感情に打ち勝てるのは、それだけのような気がした。

 でも、つかさがそんなふうに恐怖を覚えるのは彼女が強いからだ。弱いものは、いざ殴られるまでその実力差に気付かない。不安を払うことが出来るのは、膨大な練習だけ。それも事実だ。つかさは今、川内将輝という相手と闘う前に、己の中の強敵と戦っている。そして、その答えは、つかさ自身が見つけなければいけない。

 ……自分は、無茶なことをつかさに要求してしまったのかもしれない。

 サトルにできるのは、その日が来るまで、つかさが怪我をしないように祈ることだけだった。何事もなく、その日を迎えるまで、この一日が過ぎることを祈るだけだった。

 祈りが通じたのか……。

 表面上は何事もなく、5月11日の昼を迎えたのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

将棋部の眼鏡美少女を抱いた

junk
青春
将棋部の青春恋愛ストーリーです

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)

チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。 主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。 ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。 しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。 その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。 「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」 これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。

俺の家には学校一の美少女がいる!

ながしょー
青春
※少しですが改稿したものを新しく公開しました。主人公の名前や所々変えています。今後たぶん話が変わっていきます。 今年、入学したばかりの4月。 両親は海外出張のため何年か家を空けることになった。 そのさい、親父からは「同僚にも同い年の女の子がいて、家で一人で留守番させるのは危ないから」ということで一人の女の子と一緒に住むことになった。 その美少女は学校一のモテる女の子。 この先、どうなってしまうのか!?

【完結】カワイイ子猫のつくり方

龍野ゆうき
青春
子猫を助けようとして樹から落下。それだけでも災難なのに、あれ?気が付いたら私…猫になってる!?そんな自分(猫)に手を差し伸べてくれたのは天敵のアイツだった。 無愛想毒舌眼鏡男と獣化主人公の間に生まれる恋?ちょっぴりファンタジーなラブコメ。

かつて僕を振った幼馴染に、お月見をしながら「月が綺麗ですね」と言われた件。それって告白?

久野真一
青春
 2021年5月26日。「スーパームーン」と呼ばれる、満月としては1年で最も地球に近づく日。  同時に皆既月食が重なった稀有な日でもある。  社会人一年目の僕、荒木遊真(あらきゆうま)は、  実家のマンションの屋上で物思いにふけっていた。  それもそのはず。かつて、僕を振った、一生の親友を、お月見に誘ってみたのだ。  「せっかくの夜だし、マンションの屋上で、思い出話でもしない?」って。  僕を振った一生の親友の名前は、矢崎久遠(やざきくおん)。  亡くなった彼女のお母さんが、つけた大切な名前。  あの時の告白は応えてもらえなかったけど、今なら、あるいは。  そんな思いを抱えつつ、久遠と共に、かつての僕らについて語りあうことに。  そして、皆既月食の中で、僕は彼女から言われた。「月が綺麗だね」と。  夏目漱石が、I love youの和訳として「月が綺麗ですね」と言ったという逸話は有名だ。  とにかく、月が見えないその中で彼女は僕にそう言ったのだった。  これは、家族愛が強すぎて、恋愛を諦めざるを得なかった、「一生の親友」な久遠。  そして、彼女と一緒に生きてきた僕の一夜の物語。

CHERRY GAME

星海はるか
青春
誘拐されたボーイフレンドを救出するため少女はゲームに立ち向かう

処理中です...