ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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3章

一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【7】

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 堕ろすという言葉が異様にリアルに聞こえた。由美子の抱える、一口では言い表せないドロドロとした感情が、一瞬微かに吹き出したように感じた。今の由美子はつかさのことを愛していているからこそ、彼女はここにいる。でも、その時は――つかさがお腹の中に宿っていたことを知った時の彼女は、厄介にも思っていただろうし、憎しみすら感じていたのだろう。

「私は、遠い親戚の所に預けられ、そこであの子を産みました。予定ではつかさはそのままその親戚の養子になり、私は一年浪人して高校生になるはずでした。私も納得したはずだったのに、いざ出産が近づくと、手放すことなんてできなかった。私は……出産した後仕事を探して……中卒で本当に厳しかったけれど、何とかつかさをあの年齢まで育てることができました」

 中卒で、そうそう実入りがよく、安定した職があるものとは思えない。その僅かな言葉の中に、彼女が背負い込んだ黒い過去や、苦労が忍ばれた。

「すみません。別に苦労話をしたかったわけではないんです」

 その苦労を、娘にはさせたくない、と思う気持ち自体は分からないでもない。相手が、娘にそんな苦労をさせるような人間ではないのか、見定めたいと思う気持ちも分からないではない。そして、その相手に、一言釘を刺しておきたかった気持ちも、理解はできる。たとえ自分の恥を晒してでも。

 あるいは、アンタのような苦労知らずの人間に何がわかるのか、とでも言いたいのかもしれない、ともサトルは思った。

「……僕は」

 サトルは何か言わなければと思って声を上げかけたが、続くべき言葉を見つけることができなかった。「自分とつかさには何の関わりもない」そう言ってしまえばそれまでで、でも、それは何かが違うようにも思えた。

 言葉が止まってしまったので、確かめておきたかったことをサトルは口にした。

「彼女の……つかささんの父親は、川内将輝ではないのですか?」

 由美子は大きく眼を開いた。

「どうして……その名前を?」

 この反応からすると、由美子は川内がつかさと同じジムにいることは知らないようだ。

「本人からはっきりと聞いたわけではないですが、多分、つかささんは、自分の父親を川内さんだと思っています。週刊誌の記事などで」

「あれは……」

「今の話から、つかささんの父親は川内さんではないことは分かりました。……でもそれなら、なぜ、そんなことになってしまったのですか?」

 コーヒーカップに視線を落したままだった由美子が顔を上げた。先ほどまでの強い意志の籠った口調とはうって変わり、その顔には、今にも泣き出しそうな少女のような、弱々しい女性の表情が張り付いていた。

「……将輝君とは、家も数件隣りで親同士も中が良く、いわゆる幼馴染でした。周りからは公認カップルなんて冷やかされることもありましたが、当人同士の間に、そのようなことは何一つありませんでした。内心、私はそんな風に言われるのを――決して彼のことを嫌っていたわけではないですが鬱陶しく感じていましたし、向こうにもそんな意識はなかったはずです。彼は当時は陸上ばかりでしたから、女の子のことなんて考えている暇もなかったんじゃないかしら」

 由美子の語り口は、照れ隠しなのか、昔を懐かしんでいるのか、微かな笑いを含んだものだった。そう言えば、さっき、交際相手の大学生のことを、「スタイリッシュで楽しいことを知っている人だと思っていた」と言っていた。その当時はそれが本心だっただろう。お洒落に興味なく一つのことに打ち込んでいる人間のことは、あの年代の女の子にとっては野暮ったいだけで、好意の対象になるなど頭の中では考えもしないのなのかもしれない。

「中学校でいい成績を上げた将輝君は東京の高校からスカウトされて中学を卒業したら東京に行ってしまいました」

 一瞬自分のお腹の辺りに視線に落とした由美子は、再び視線をサトルに向けた。

「私は、妊娠が両親にバレて、卒業直前に県外の親戚の所にやられました。それからのことは全て、私の両親とあの人……つかさの父親の実家とで話し合いになったので詳しくは分かりません。ただ、相手はかなりの資産家でしたので、体面を重んじ、養育費や慰謝料として相応のお金を支払う代わりに認知はしない。そういう結論になったのだと思います。良くも悪くも、あの子に学費などのことで苦労させることのない程度のお金は渡されました」

 言葉を、語るのではなく吐き出すような話し方だった。金を受け取った事実を、忌まわしく思っているのだろうと、サトルは思った。そう思うと同時に、多分そのお金に手をつけたのだろうな、とも思った。手をつけたくはなくとも、女の子を一人、何の不自由もなく生活させるためには相応の金が必要なのは想像に難くはない。そこに葛藤がなかったはずがないだろうと、と漠然と思った。それがどれほどのものだったのかは、人の親になったことのないサトルには、到底、理解できないことだった。

 だから、由美子の内心を考えるのは、もうやめることにした。
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