ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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3章

一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【4】

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 自分の拳にもバンテージを巻き終えたサトルは同じようにシャドーを始めた。

 確かに、つかさのスピードは速い。

 技術もあるかもしれない。

 しかし、体格が違いすぎる。川内の上背はサトルよりも10㎝も高い。つかさと比べたら30㎝以上の差だ。その上、男女での筋肉量の差。それを技術で補おうにも、控えめに考えて技術が同等と考えたとき、その差をひっくり返せる要素は何もなくなる。

 もっとも、川内にしてもそれは分かっているだろうから、全力で迎え撃つとは思わない。多分、それなりに力をセーブして、手数も減らして、見た目にはいい勝負をしたように見える程度にはつかさに善戦をさせるだろう。

 川内がどんな気分でこのスパーリングを受けたのかも分からない。以前サトルに言っていた言葉を思い出す。

 ――俺は父親じゃないし、お前は兄貴じゃないんだ。

 つかさが、どんな思いでこのスパーリングに臨もうとしているか、川内は知る由もないだろう。ただ単に、少し勉強をさせてやろうという感覚で、スパーリングをするつもりなのだろう。

 しかし、そんなのはつかさの望みではない筈だ。

「いまさらだけれど、今戦っても、勝ち目どころか、川内トレーナーに一泡吹かせることもできないぞ」

「……そういうのは度外視すればいいんです。ただ、全力でぶつかれれば」

 シャドーを続けながらつかさは言った。

「俺はそういう考えは好きじゃない」

 サトルも、シャドーのリズムを一つ上げてそれに答えた。

「努力した人間が全員成功するとは限らない。なぜなら、一定のレベルにある人間は、皆、相応の努力をしているからだ。……努力しても成功しない人間は、結局のところ努力する方向が間違っているか、ただ頑張っているだけ、なんだ」

 それからしばらく2人で並んでシャドーを続けていたが、

「……速さと低さ」

 と呟くようにつかさが言った。

「川内トレーナーに一泡吹かせようと思ったら、そこを磨くしかないと思います」

「そうか……」

 ちゃんと、どうやって戦おうか、彼女なりに考えていたみたいだ。それを聞いたサトルは、さてどんなミットをもってやろうかと考え、小さくほくそ笑んだ。

     *     *     *

 その日の練習を切り上げたのは、昼を過ぎ夕方にはまだ早いというくらいの時間だった。

「じゃ、きょうはここまで」

 とサトルは言ってトレーナーの袖口で汗を拭った。

 つかさは両足に手を置いてゼイゼイと荒い呼吸を続けた。

「このドS」

「……そういうこと言える元気があるなら、明日は3割増しでもよさそうだな」

 激しい出入りと横への動き――スピードで攪乱かくらんしながら、背の低さを活かして懐に潜り込み、下からボディ、あわよくば顎を狙う。小兵のセオリーといえる戦術だが、サトルにはそれしか活路を見出せなかった。

 しかし、それを実行しようとしたらスタミナの消耗は半端ではない。ましてや、あれだけ体格差がある相手となると、プレッシャーをはねのけ、実行できる覚悟も必要だった。

 実戦さながらに、あえてプレッシャーをかけながら、決して足を止めさせずにミットを続けさせた。決して足を止めないように。決して、川内という存在自体に心が折れてしまわないように。最後まで戦えるように。

 トレーナーってのは、因果な商売だよなぁ、とサトルはミットにつかさの重いパンチを受けながら思った。自分にはできないことを、選手に求めなくてはならない。自分には行けなかった場所に、選手を導かなくてはならない。

 ……だからこそ、選手を信じ続けなくてはいけない。彼女ならできると信じてパンチを受け止め続けなくてはいけない。そしてつかさは、期待に応えて、サトルから見てもきついだろうと思える練習に最後までついてきた。

 そんなつかさを、ついつい自分に重ねる。

 高校時代の野球部の監督や、木暮会長、川内コーチに鈴木コーチの顔が思い浮かぶ。期待をされて、でもその期待を裏切り続けてきたという自覚はある。自分には何が足りなかったのか。

 つかさとは何が違っていたか……。

「サトルさんの辞書には遠慮とか手加減という単語はないの?」

 ようやく息が収まってきたのか、つかさの呼吸が穏やかになってきた。同時に軽口を叩ける元気も戻ってきたようだった。サトルはそんなつかさの軽口に、軽口で返す。

「ちゃんとあるよ。ただ、相手を選ぶだけで」

「あんだとぉ」

 目をむいて、キぃーっと可愛くない笑みを見せたつかさの頭に掌をのせ、ぽんぽんと叩いて、それからくしゃくしゃと撫でた。

「ちょ……っとぉ」

 つかさは乱れた髪を手櫛で直しながら、頬を膨らませた。

「汗でべたべたになった髪を触らないでよ」

 思っていたよりも多かった汗の量にサトルは苦笑しながら、

「キツかったのなら、明日は練習量を少し減らそうか?」

 と言った。

 それに対して、つかさは即答した。
 
「結構!」

 さっきよりもさらに大きく頬をふくらませ、片手を開いて突き付けてきた。

「5割増しでも全然OK!」

「そうか」

 サトルはニヤリと笑い、

「明日はもっと徹底的にしごいてやるから」

「このドS」

 と再び繰り返してから、つかさは体を起こした。

「そこのトイレで着替えして帰りますから」

「ああ。更衣室のある場所があればよかったんだけれど、申し訳ない」

「いえいえ。サトルさんに練習に付き合ってもらえて助かりました。それじゃ、また明日」

 と手を上げて、つかさは去っていった。颯爽さっそうとか凛としたという単語が良く似合う後ろ姿だった。サトルはその背に声をかける。

「ちゃんと、マッサージしておけよ」

 その声につかさは手を上げて応じた。
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