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3章
一度逃げ出した人間だから伝えられることもきっとある【1】
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「……まだ来ていないか。まぁ、2時過ぎくらいって約束だったし、昔は俺の方が時間にルーズだったからなぁ」
腕時計を見ると2時5分前だった。
見上げた空は青く澄み渡っている。それでいて、気温は高くもなく低くもなく。空気もそんなに乾いていないが、湿気はそんなに高くない。スポーツをするには絶好の環境だ。
「梓の奴、相変わらず俺が遅れてくると思っているんだろうなぁ……」
連絡先を教えたのは、自分と梓の共通の友人だと思ったのだが、サトルにはその心当たりがなかった。ところが、連絡先を教えたのはサトルの母親だと、電話向こうの梓は言った。梓と母親の間に面識はないはずだったが、修一のほうは時折サトルの家に来ていたので顔を合わせたことがある。
「兄さんの妹と言ったら、簡単に教えてくれましたよ」
「あぁ……そう」
サトルの母親はやや天然が混じっているというか世間知らずなところがあるので、周囲にサトルや朱美の他人には言ってもらいたくないようなことを簡単に喋ってしまうようなところがある。息子(と娘)の個人情報? プライバシー? ナニソレ美味しいの? みたいな人なので、電話番号を聞き出すくらいそんなに難しくはないだろう……と、なぜ思い至らなかったのか。
「朱美ちゃんに会ったときに、携帯電話の番号を聞いておけばよかったんですが、うっかり聞きそびれてしまって。後日、ご自宅に連絡して教えてもらったんです」
電話の向こう側からそう答える声を聴きながら、何だか足元からひっくり返されたような気分になった。
近況の話を少しだけして――それでも、中学を卒業してから一番たくさん話しただろう――午後から会う約束をして、電話を切った。
待ち合わせの場所は、市内を流れる河川にかかる大橋の近くだった。河原にはグラウンドが整備されていて、待ち合わせにした河川敷から一望できた。今日も、晴天の下で地元リトルリーグのユニフォームを着た小学生たちが白球を追いかけている。人数は20人ほどだろうか。指導者らしい大人が3人と、保護者らしい大人が数人。
ここは、サトルにとっては忘れがたい場所でもあった。
なぜなら彼らは、サトルの後輩たちだからだ。かつてサトルも、選手の一人としてあの輪の中に加わっていた。将来の夢はプロ野球選手と屈託なく語っていたのを思い出す。
「……何でこんな場所を待ち合わせ場所に」
ここはサトルにとっては思い出したくもない場所でもある。かつて語った夢に背を向けたサトルにとっては、目の前の少年たちの姿は眩しすぎた。
目を逸らそうとして、その中で子供たちにノックをするコーチの姿になんとなく見覚えがあるのに気づいた。帽子を被っているし遠目だから人相は分からない。しかし、バットの振りや体の使い方に見覚えがあるような気がしたのだった。
「……修一?」
中学高校と付き合ってきた友人の名を口にする。
「……何で?」
「兄は高校を卒業してすぐに就職して、それからは地元の草野球のチームに関わる程度だったんですが、しばらく前から、以前リトルリーグでお世話になったコーチの誘いがあって子供たちに野球を教えているんです」
後ろから、聞き覚えのある女の声がした。
サトルは振り返り、その顔を確かめる。
「久しぶ……り?」
「お久しぶりです」
頭を下げた女性の印象が、知っている昔のそれとあまりに違っていて、本当に同一人物かと戸惑った。しかし梓の下げた頭を上げる一瞬、顎が上向く昔からの癖が、変わってなかったのを見て、なぜかサトルはふふっと声を立てて笑ってしまう。
「何が可笑しいんですか?」
「いや……」
きょとん、とする梓に、理由は分からないがこみ上げてくる笑いをこらえきれなくなったサトルは両手で口元を押さえた。なんだか、こんなどうでもいいことで笑っていると、高校時代に戻ったようで懐かしく感じた。実際にはあれから3年。振り返れば後悔だってたくさんあり、何よりあの頃に戻ることなど決してできはしないのだけれど。
梓はといえば「もう……」と憮然としたような表情で頬を膨らませていたが、すぐに表情を緩めた。
「髪、染めたんだな」
「似合いませんか?」
梓は頭をゆすって明るい茶色の長い髪をさらりとなびかせた。以前の、いかにも体育会系の雰囲気の……良くも悪くも地味だった女の子の姿しか記憶になかったが、数年ぶりに会う梓は少し背も伸びて、やや垢抜けた雰囲気をまとった女性に変わっていた。いつピアスホールを開けたのか、彼女の耳には当時はしていなかった銀色の月を模ったピアスが、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
サトルは小さく首を左右に振って答えてから、
「すっかり大学生だな」
「ほんの2か月前まで高校生ですよ」
その口調に、高校時代を懐かしむような含みを感じなかったので、大学生活は楽しいんだろうな、と思う。自分の人生を謳歌している梓が眩しく感じられて、思わず目を細めた。
「で……俺をこんなところに呼んだのは旧交を温める為?」
腕時計を見ると2時5分前だった。
見上げた空は青く澄み渡っている。それでいて、気温は高くもなく低くもなく。空気もそんなに乾いていないが、湿気はそんなに高くない。スポーツをするには絶好の環境だ。
「梓の奴、相変わらず俺が遅れてくると思っているんだろうなぁ……」
連絡先を教えたのは、自分と梓の共通の友人だと思ったのだが、サトルにはその心当たりがなかった。ところが、連絡先を教えたのはサトルの母親だと、電話向こうの梓は言った。梓と母親の間に面識はないはずだったが、修一のほうは時折サトルの家に来ていたので顔を合わせたことがある。
「兄さんの妹と言ったら、簡単に教えてくれましたよ」
「あぁ……そう」
サトルの母親はやや天然が混じっているというか世間知らずなところがあるので、周囲にサトルや朱美の他人には言ってもらいたくないようなことを簡単に喋ってしまうようなところがある。息子(と娘)の個人情報? プライバシー? ナニソレ美味しいの? みたいな人なので、電話番号を聞き出すくらいそんなに難しくはないだろう……と、なぜ思い至らなかったのか。
「朱美ちゃんに会ったときに、携帯電話の番号を聞いておけばよかったんですが、うっかり聞きそびれてしまって。後日、ご自宅に連絡して教えてもらったんです」
電話の向こう側からそう答える声を聴きながら、何だか足元からひっくり返されたような気分になった。
近況の話を少しだけして――それでも、中学を卒業してから一番たくさん話しただろう――午後から会う約束をして、電話を切った。
待ち合わせの場所は、市内を流れる河川にかかる大橋の近くだった。河原にはグラウンドが整備されていて、待ち合わせにした河川敷から一望できた。今日も、晴天の下で地元リトルリーグのユニフォームを着た小学生たちが白球を追いかけている。人数は20人ほどだろうか。指導者らしい大人が3人と、保護者らしい大人が数人。
ここは、サトルにとっては忘れがたい場所でもあった。
なぜなら彼らは、サトルの後輩たちだからだ。かつてサトルも、選手の一人としてあの輪の中に加わっていた。将来の夢はプロ野球選手と屈託なく語っていたのを思い出す。
「……何でこんな場所を待ち合わせ場所に」
ここはサトルにとっては思い出したくもない場所でもある。かつて語った夢に背を向けたサトルにとっては、目の前の少年たちの姿は眩しすぎた。
目を逸らそうとして、その中で子供たちにノックをするコーチの姿になんとなく見覚えがあるのに気づいた。帽子を被っているし遠目だから人相は分からない。しかし、バットの振りや体の使い方に見覚えがあるような気がしたのだった。
「……修一?」
中学高校と付き合ってきた友人の名を口にする。
「……何で?」
「兄は高校を卒業してすぐに就職して、それからは地元の草野球のチームに関わる程度だったんですが、しばらく前から、以前リトルリーグでお世話になったコーチの誘いがあって子供たちに野球を教えているんです」
後ろから、聞き覚えのある女の声がした。
サトルは振り返り、その顔を確かめる。
「久しぶ……り?」
「お久しぶりです」
頭を下げた女性の印象が、知っている昔のそれとあまりに違っていて、本当に同一人物かと戸惑った。しかし梓の下げた頭を上げる一瞬、顎が上向く昔からの癖が、変わってなかったのを見て、なぜかサトルはふふっと声を立てて笑ってしまう。
「何が可笑しいんですか?」
「いや……」
きょとん、とする梓に、理由は分からないがこみ上げてくる笑いをこらえきれなくなったサトルは両手で口元を押さえた。なんだか、こんなどうでもいいことで笑っていると、高校時代に戻ったようで懐かしく感じた。実際にはあれから3年。振り返れば後悔だってたくさんあり、何よりあの頃に戻ることなど決してできはしないのだけれど。
梓はといえば「もう……」と憮然としたような表情で頬を膨らませていたが、すぐに表情を緩めた。
「髪、染めたんだな」
「似合いませんか?」
梓は頭をゆすって明るい茶色の長い髪をさらりとなびかせた。以前の、いかにも体育会系の雰囲気の……良くも悪くも地味だった女の子の姿しか記憶になかったが、数年ぶりに会う梓は少し背も伸びて、やや垢抜けた雰囲気をまとった女性に変わっていた。いつピアスホールを開けたのか、彼女の耳には当時はしていなかった銀色の月を模ったピアスが、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
サトルは小さく首を左右に振って答えてから、
「すっかり大学生だな」
「ほんの2か月前まで高校生ですよ」
その口調に、高校時代を懐かしむような含みを感じなかったので、大学生活は楽しいんだろうな、と思う。自分の人生を謳歌している梓が眩しく感じられて、思わず目を細めた。
「で……俺をこんなところに呼んだのは旧交を温める為?」
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