ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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2章

知りたいことが知りたくはなかったことと同じだったとき【4】

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「どうした? まだ何か分からないところがある?」

「いえ……サトルさんって、ひょっとして甲子園に行ったんですか? 本棚に、『甲子園の土』って書いた瓶が置いてあったから……」

 本当に見られたくなかった物の方はちゃんと見られていたようだった。

「ああ……」

 否定することも出来なかったのでサトルはあいまいに頷く。

「5年前、俺が2年生のときだ。初戦で惨敗だったけれどな」

 サトルにとってそれは思い出したくもない思い出のはずだった。それなのに、その頃のことを話題に上げた途端に、5年前に戻ったような錯覚を覚え、厳しい練習や試合の高揚感、仲間たちとの馬鹿みたいに笑いあったことなどが様々脳裏に蘇ってくる不思議。サトルは、自分のことを語る一人称が、無意識にあの当時のように“俺”になってしまったことに気付いて思わず口元に手をやった。一瞬目をつむってから、

「僕らからすれば苦い思い出だよ」

 その言葉を、サトルは自分自身に言い聞かせようとするように言った。

 あの敗北は自分にとって惨めで辛い思い出。そう思い込もうとしている自分がいることを、サトルは気づいてはいなかった。一生に一度しか来ない17歳の夏の、良き思い出だった……などと思ってはいけないと、サトルは自分自身に思い込ませてきた。

 あの日のあの試合に価値を見出してしまったら、自分の手で投げ捨ててしまった18歳の夏は何だったのか。

「いえいえ。甲子園の土を踏めただけでも凄いですよ」

 つかさのその言葉に裏は感じられない。素直に賞賛の目を向けてくるつかさを見ながら、本当にいい子だな、とサトルは思う。今の時代、昔の試合の結果を調べるくらい簡単なことだ。結果を知れば今彼女が抱いている感嘆の念も失望に変わるだろう。

 いや……つかさなら、それでも「頑張ったことに意味がないことなどない」と、今のような裏のない瞳で言うのかもしれない。もしそんなことを言われたら、自分は自分を許せなくなるかもしれないとサトルは思う。あの日は、忌むべき日でなければならないのだ。蔑まれるべき日でなければならないのだ。あの日を、価値のない日と捉えることで、自分は辛さから乗り越えてきたのだから。

「……とりあえず、僕はキッチンにいるから、終わったら声をかけてくれ」

「はい……すみません」

 逃げ込むように2畳ほどのキッチンに入ってから腕時計に目をやった。

「19時過ぎてる……か」

 夕食のことを考えなくては。コンビニにでも行って弁当を買ってこようか、と考えてから、それも面倒くさいな……と思い直す。

「何か作るか」

 輪をかけて面倒くさい気もするが、と思いながら冷蔵庫を開いた。

「しまったな……買い物に行っていなかったから……」

 帰りにコンビニに寄るつもりだったのにと、誰も聞いていないのに言い訳をしながら、空に近い冷蔵庫の中にかろうじて残っていたハムと卵とバターを取り出す。冷凍庫からミックスベジタブルを取り出して袋を開く。これで、調味料と卵を除いて冷蔵庫の中身はほとんどなくなってしまった。

「……炒飯にするか」

 別に普段から料理をするわけでもないので、簡単に作れそうなものを考えて、そう決めた。キッチンの隅の米びつから米を1合とりだそうとして、部屋にいるつかさの顔を思い出した。

「……一応、あいつの分も作っておこうか。食べなかったら、明日、自分で食べればいいんだし」

 そう決めて、米は2合にした。米を用意してから、戸棚からコンソメを取り出し、ついでに塩と胡椒を用意する。

 まずは、米を研いで、ざるにとってざざっと水気を切る。それを何度か繰り返した後、ハムの封を開いて1cm角くらいの大きさに切ってから卵を二つ割って手早く溶いた。かたかたと菜箸で卵を溶くリズミカルな音が自分の耳の中でしばらく反響した。

 材料の下準備が終わったら、フライパンを取り出して火にかける。

「……さて、始めますか」

 一連の準備を終えて、切ったバターをフライパンに乗せた。バターがあっという間に液体に変わり広がっていく。
 ミックスベジタブルとハムと米を順々に入れて弱火で炒め始めてから、つかさは米の硬さの好みはどうだろうか、と考える。もともとサトルは硬いほうが好きなので自分の好みに合わせることにした。

 そうこうしている間に、キッチンいっぱいに香ばしい匂いが広がっていく。

「おっと……換気扇、換気扇」

 サトルが換気扇のスイッチを入れると、ブーンという羽根の回る低い音が響き始めた。

 それからしばらくの時間が過ぎた――。

「よし、こんなもんか」

「すみません。終わりました……」

 サトルが炒飯とそれを作るのに余ったものを放り込んだだけのコンソメスープとが作り上げられたのは、つかさがひょいと顔を出したのとほぼ同時だった。
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