ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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1章

出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【12】

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 ぎゅっと拳を握り締める。握りこんだ拳をじっと見つめる。あれから時を経て、自分の拳は、ずっと硬くなった。腕も、男の子みたいに……とまではいかないまでも太くなった。苦しい修練によって私は強くなった――少なからずそう思えるようになった。

 自分が手に入れた力で、自分と母親を捨てた父親を一発殴りつけてやりたい……その思いで始めたボクシングだったのに……。

 よりによって……。

 机に両手をついて唇を噛むつかさを、つかさは遠くから見つめていたが、急に背中から引っ張られ、遠ざかっていった。

     *     *     *

 つかさの狭かった視界が広がっていき、目の中に強い光が飛び込んできた。蛍光灯の光だった。さっきまで夢で見ていた世界が遠くになっていく不思議な感覚。しかし、それは決して遠くに去って行った世界でも、遥か彼方に過ぎ去っていった遠い過去の出来事でもなかった。

 昨日、つかさが経験した出来事の一部始終だった。

「……気持ち悪い」

 つかさは呟いた。それは、今現在の自分の体調もそうだったし、夢で昨日の経験を反芻してしまったためでもあった。

「だったら、もう少し寝ていなさい」

 横から女の声が聞こえた。キリカよりずっと年上の女の声。最初に来たときに入会届の用紙をくれた40代の女性事務員だと気付いた瞬間、はっと目が覚めた。

「ここは……」

「2階の事務所よ。何かあったときのためにベッドが置いてあるのはここしかないのでね。……あなたは倒れたの。田淵さんがいてくれて本当に良かったわ」

 田淵さん、というのはここから徒歩10分ほどのところにある総合病院の医師である。医師にも体力が必要と、やってきては1時間ほどミットとサンドバッグを叩いて帰っていく。確か40歳になったばかりのひょろっとした背の高い男性である。いかにも理系の顔立ちでシャープな眼鏡がよく似合っている、見た目は優秀そうなお医者さんだ。

「お礼を言わなきゃ……」

「まだ下で練習をしているけれど……もうちょっと横になっていたほうがいいと思うわよ」

「……そうします」

 と答えたのは腹筋運動の要領で体を起こそうとした瞬間に、頭がくらんだからだった。軽い吐き気や、軽い頭痛もある。自分は思っているより重症なようだ、とつかさは思った。

「昨日は夜更かしをしたの?」

 尋ねてきた吉野に、

「……夜更かしは……いえ、でも昨夜はあまり眠れなかったです……」
 
「田淵先生からの伝言よ。睡眠不足で負荷の大きい運動をするのは、とても危ないから注意しなさいって」

「気を付けます」
 
 体調管理はスポーツをする上での基礎中の基礎。改めてそれを深く考えて注意することを考えたい――ところだったけれど、やっぱり別の――さっきの夢で改めて思い出された昨日の出来事ことばかりに気が向いてしまう。

「……ところで、誰がここまで運んできてくれたんですか?」

「キリカよ」

 さらりと即答したその言葉を、嘘だな、とつかさは思った。キリカもスポーツ経験はあったようだけれど、女の腕力では50㎏近い自分を抱えて運ぶのは難しいだろう。運んでくれたのは、サトルか川内あたりだろう。あるいは2人がかりか……。男に運ばれたということをごまかそうとしてくれたのだろうということは理解できるものの、今回は正直に答えてほしかったと思った。

 川内さんだったらいいな……となんとなく思った。つかさには父親に抱きしめられた経験も、抱えられた経験も、背負ってもらった経験も、思い出の中にさえない。川内が父親だったら、それは多分、初めてのことだ。

 確かめたいと、無性に思った――。



 その日からしばらく、つかさはジムに顔を出さなくなった……。
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