ボックスアウト~リングサイドより愛をこめて~

弐式

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1章

出会いは喜ばしいことばかりではないこともある【11】

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「あいつ?」

「あいつだよ。つかさの父親の……」

 その言葉につかさは大きく目を見開き、ドアにつけた右耳に神経を集中させた。心臓の鼓動が、さっきとは違う意味で高鳴る。

「誰のことを……言っているのよ」

 由美子の声が震えた。その声に、激昂した幸治の声が被さる。

「あいつに決まっているだろ! 川内将輝! 姉ちゃんを妊娠させて、一人で逃げた卑怯者――」

「やめて!」

 由美子が強い口調で遮る。

「将輝君にはこっちに戻ってから一度も会っていないわ。戻っていることさえ知らなかったもの。何より……つかさには、余計なことは言わないで」

「……つかさには何も言わないけれどさ。……まさか姉ちゃん、よりを戻すつもりで帰ってきたんじゃないだろうな……」

「本当に、今、どこにいるのかさえ知らないわよ……。今となっては関係ない人よ……」

 そこまで聞いてつかさは耳を離した。母がこれほど怯えたように話すのは初めて聞いたような気がする。シングルマザーとしての気負いの為か、いつも彼女は強気に振舞う。それだけ、つかさの父親の話は、彼女にとって禁忌なのだろう。

 ……。

 つかさは、息を潜めてそろそろと後ずさっていった。時間を逆回転させるように後ろ向きで靴を履き、極力音を立てないように気をつけながら扉を閉めた。鉄の階段を上がって来た時とは逆に抜き足差し足で下りて行き、逃げるように道路まで出たところでようやく一息ついた。

「とんでもないことを聞いちゃった……」

 父親の名前を聞いたのは初めてだった。だがそれ以上に驚いたのは、同姓同名の知り合いがいたからだった。確かに、つかさが知っている河内将輝はよくよく考えると母と同い年だ。

「まさか……川内コーチが?」

 道路の脇で呟いてへたり込む。その横を、黒い乗用車がクラクションを鳴らして通り過ぎて行ったけれど、そのことにさえ気付かなかった。

 頭の中が混乱して、どうしていいかわからなかった。頭が冷えるまでは帰りたくなかったけれど、引っ越してきたばかりで転がり込めるような友人はいなかった。胸のポケットから小さな手帳を取り出してパラパラとめくった。その中には、ジムで友達になった少し年上の女性スタッフの携帯電話の番号が控えられていたが、今はまだジムにいるはずだし、ジムに戻れば川内と顔を合わせることになってしまうのでそれもできなかった。

 結局つかさは、しばらく電柱の陰に身を隠すようにして、叔父が帰るのを待つしかなかった。それから15分ほど経って、辺りがかなり暗くなり、かなり肌寒く感じるころになって幸治が家を出て行った。

 それを確かめてからつかさは家の中に入っていった。「ただいま」と冷静さを装った声は不自然に思われなかっただろうか。「おかえり」と返ってきた母の声に動揺が含まれているような気がしたのは気のせいだろうか。

 つかさは台所にいる母の顔を見ずに部屋の中に逃げ込んだ。……心臓がバクバクする。息が詰まる。空気が足りない……。

 部屋の窓を大きく開く。水色のカーテンが大きくなびいた。窓の向こうの空は真っ暗だった。目を凝らすと今のつかさの胸中そのままに、雲に覆われて今にも土砂降りの雨が降ってきそうに真っ黒だった。

「……」

 不意に、机の上の写真盾に目が向いた。何枚かの写真が飾られている。中学校を卒業した時に、前の学校のクラスメートと撮影した卒業の記念写真や、つかさがアンダージュニアの大会で優勝したときの写真も含まれている。

 つかさは一枚の写真盾に手を伸ばした。飾っている写真の中で、その写真にだけつかさが写っていなかった。その中には今のつかさより少し若い、つかさによく似た少女が、少し年上に見える男の子と写っている写真だった。男のほうは背が高く、少し大人びた印象を受ける。しかし、大学生ではない――高校生だろうと漠然と思っていた。

 よくよく見ると、確かに川内によく似ていた。今の川内とは全体的な印象は変わってしまっているかもしれないが目元の印象とか顎の形とか、特徴は残っているような気がする。同じ人間だと確信を持てる特徴を見つけようと考えたが、これといった特徴を思い出すことが出来ず肩を落とした。
 
 ……その人が、あなたのお父さんよ。

 名前は告げられずにそう言われて写真を渡されたのはつかさがとても幼いときだった。事情があって遠くに行ってしまった……その時言われたことを、その時は信じた。きっとそうではないのだろうと、思うようになったのはこの4年くらいだ。母に無理を言ってボクシングを始めたのはその頃からだった。

 この写真はつかさにとって宝物なのか、それとも指名手配犯の手配写真なのか。それはつかさ自身にもよく分からないまま、毎日”父親”の顔を見続けていた。
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