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【1章】晶乃と彩智

36.春の海

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 いくら小柄な少年だったとはいえ、目の前にいればその姿が見えなくなるはずもない。晶乃が駆け寄ると、海の中に少年の頭が浮いているのが見えた。波に振り回される少年が必死に海面に顔を出しながら手を伸ばしている。

 晶乃も手を伸ばす。それほど遠くはない、手が届く距離だったが、折悪く、大きな波が押し寄せてきた。晶乃の視界が真っ白に染まる。思わず目を瞑った晶乃は、大きなバケツいっぱいの海水が至近距離からぶつけられたような衝撃を受けて、手を引っ込めてしまう。

 もう一度目を開けた時、少年の姿はもうそこにはなかった。

 岩場から海の中に飛び込んだ時に躊躇いがなかったと言えば嘘になる。相手はついさっき知り合ったばかりの子供で、自分が身を挺して助ける義理はない相手だ。それでも、晶乃は足を踏み出していた。理由は、年上の責任感とか、見殺しにしたら罪悪感が残るとか、後になればいくらでも見つかるのだろう。しかし、少なくとも飛び込んだ瞬間に考えていたことを、後になって言葉にしろと言われても多分難しい。

 春の海の水は冷たいはずだが、晶乃は感じなかった。鼻につくはずの潮の匂いも何も感じない。水に濡れた制服が体にまとわりつく気持ち悪さと動きづらさが他の感覚を消してしまったのかもしれない。何とか目に力を込めて少年の姿を探す。少し沈んだ状態の少年はすぐに見つかった。幸い足はまだつく。力を込めて、少年の頭を海面から引き上げた。

 あ……あ……。

 少年の口から息が漏れる音が聞こえて、少しほっとする。呼吸が出来ている証拠だ。しかし、次の瞬間、はっと意識を取り戻した少年が晶乃にしがみついてきた。溺れる者は藁をも掴む――なんてことわざが思い浮かんだ。溺れた者はパニック状態になっているので、引き摺られて救助者も溺れてしまう二重遭難についての知識は晶乃にもあったため、努めて冷静にいなければという意識が働いた。

 子供とはいえ全力でしがみついくる上に、水を吸った服が体の自由を奪う。それでも、何とか片手で海面からわずかに頂点を覗かせている岩を掴むことが出来た。さっきまで晶乃たちがいた場所まで、ほんの1mほどなのに、それがとても遠い。

「掴まって」

 と彩智が手を伸ばしてくる。晶乃もその手を掴もうと手を伸ばすも届かない。もう30cmあれば……。

「これを!」

 一旦手を引っ込めた彩智が投げて寄越したのはカメラのボディの部分。今度は掴めた。薄く細いネックストラップがもってくれることを祈りつつ手繰りながら、ようやく彩智の足元の岩を掴むことが出来た。

 同時に少年を岩に掴まらせ、自分も岩に掴まる。体からおもりが外れた感じで、ほっと息をつく。

 その後は少年を晶乃がお尻を押し上げながら、少年の兄2人と彩智の3人で引き揚げる。

 少年が岩の上に無事あがったことを確認して、ほっと胸をなでおろした。安心したのか、泣き声が聞こえてきた。

「君たちは早く帰って着替えしてお風呂沸かしてあったかくして薬飲んで寝てなさい。晶乃も早く上がって。風邪を引いちゃうよ」

 素早く少年たちを返した彩智は、次に晶乃に手を差し出してきたが、「大丈夫、大丈夫」と晶乃は岩に指をかける。まがりなりにもスポーツクライミングの経験者である。他人の手を借りてよじ登ったとあっては沽券に関わる。

 その時、彩智が肩から下げているカメラに何気なく目をやった。

「彩智……カメラ」

「ん?」

 カメラを見た彩智も「あっ」と声を上げた。フィルムが入る部分の裏ブタがいっぱいに開いた状態になっていた。彩智が「しまった!」と声を上げた。

「さっきフィルムを取り出そうとして開いたんだった!」

「そうだ。フィルムは大丈夫?」

「無い……多分、さっき、落としたんだ」

「諦めないで。足下には落ちてない?」

 しゃがんだ彩智の姿が、岩の下の晶乃からは見えなくなった。しばらくしてから、

「ダメだ……見つからない。海に落ちたんじゃ、どうしようもないよ。晶乃も早く上がってきて」

 諦めた声が頭の上から聞こえてきた。それを聞いて、迷わず再び海中に頭を突っ込んだ。

「ちょっと! 晶乃! 何やっているんだよ! 早く上がってきてって!」

 悲鳴のような彩智の声が、海の中でもやたらと響いて聴こえた。しかし、見つかるまでは絶対に上がるもんか、と妙な意地を張って、海底の岩の隙間に目を凝らした。
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