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山登り~マーキュリー

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 マーキュリーと名付けられた男は、しゃがんで登山靴の紐をきつく締めなおした。この町の山に登るために新しく買った靴はピカピカで、汚れなど一つもついていない。彼が登山を終え家に着く頃には、新品の登山靴は山の土にまみれているに違いない。そんな登山靴の汚れをていねいに落としながら、登ってきた山を懐かしく思う。それもまたマーキュリーの楽しみの一つだ。
 立ち上がると、リュックのショルダーストラップとチェストストラップを調整し、ヒップベルトを腰に巻いた。(よし!準備OK!)彼は、そう心の中で呟いた。
 が言ったように、道に迷うことなく山に登ることができそうだ。なぜなら、真っすぐ道の向こうに山がそびえているからだ。とても高く、美しい山が見える。これなら地図など必要ない。マーキュリーは歩き始めた。
 歩き出してマーキュリーはすぐにあることに気付いた。リュックの中には、汗をかいたときの着替えやタオル、食料や水筒を入れたのだが、その重さをまったく感じない。(おかしいな、いつもと何だか違うぞ)
 彼は立ち止まり、背中のリュックを下ろすと、再び腰を下ろして、リュックを開け、中をのぞきこんだ。(僕が荷物を入れ忘れるはずはない。何度も確かめたんだから)着替えや食料水筒は、間違いなくリュックの中に入っていた。彼はそれらを一つ一つ取り出し、重さを確認した。着替えや食料、水筒には確かに重かった。(僕はどうかしたのだろうか? この町が地図に載っていなくても、ここは地球だ。ものに重さがないなんてことあるわけないのに)彼は苦笑いをすると、それらをリュックに戻した。(嬉しさのあまり、リュックの重さを感じなかったのだろう)彼はリュックを背負うと、山に歩き出した。
 やはりリュックの重さを感じない。変だとは思ったが、マーキュリーはそのことを深く考えないことにした。(登山の大敵は荷物の重さだ、それがないなんてラッキーじゃないか。僕はついているんだよ)彼は自分にそう言い聞かせた。
 しばらくして、マーキュリーは登山口に到着した。
(気分がとてもいい、それにかなりの距離を歩いてきたが、疲れを全く感じない。それどころか山に登る力が、歩き始めの頃より増しているような気がする。声は頂上からの景色は世界一だと言った。よし!頂上目指してもぼるぞ!)
 リュックから折り畳み式のトレッキングポールを取り出し、登りに備える。一歩マーキュリーは頂上に向かった。
 山は途中、岩場やくさり場などがあって、マーキュリーはそれらを一つ一つ攻略していった。(思っていたより頂上に向かうのが難しい。けれど山登りはそこが面白いのだ)
 見たこともない山の植物にマーキュリーは何度か足を止めた。登っては休み。また登っては休んでいるうちに、いつの間にか水筒の水がなくなってしまった。慌てることはない。急いで水場を見つけなくても、水はすぐ手に入るはずだ。「目を閉じ、願いなさい」と声は言っていた。マーキュリーは目を閉じ、(水筒に水を入れてくれ)と願った。一、二、三、四、五、何だかカチャカチャという音が聞こえる。彼は我慢できずに瞼を少しだけ開いた。(あっ!)その叫びはマーキュリーの心の中で大きく広がった。
 八、九、十、マーキュリーが目を開け、水筒の中をのぞきこむと、確かに水が入っていた。
(よかった。僕が瞼を開けたことは誰にも見られていない。ルールは破ったかもしれないが、僕が罰を受けることはないだろう。心配しなくてもいい。でも、僕が目にしたあれは、いったい何なのだろう?)
 マーキュリーは水筒に口をつけ、水をぐいぐいと二口飲むと、また登り始めた。
 時間はどのくらいかかったのだろうか? マーキュリーはとうとうその山の頂上に立った。リュックを下ろし、顔や首の汗をタオルでふき取り、ふもとに見える町を眺めた。町の向こうに海も見える。声が言うように確かに頂上からの眺めは素晴らしかった。この世界一の景色に向かって、マーキュリーははどうしてもしたいことがあった。山登りならみんなすること。それは口に手を当て、思いきり「ヤッホー」と叫ぶことだ。
 彼は我慢できずに思いきり「ヤッホー」と大きく叫んでみた。ところが聞こえてくるはずのこだまが、いくら待っても返ってこなこなかった。マーキュリーは自分が聞き逃したのだと思った。もう一度「ヤッホー」と叫んでみたが、やはりこだまは返ってこなかった。何度繰り返してもこだまは返らない。
(こだまが返ってこないなんて、どうしてだろう?)
 マーキュリーはしばらく頂上の景色を楽しんでから下山を始めた。足も痛くなければ疲れもない。不思議な山登りにマーキュリーは首を少し傾けた。
(この山は今まで登った山の中で一番かもしれない。登山は本当に楽しい……。でも何かが足りない。そしてどこか変だ。誰も住んでいない町なので、登山の途中人に会うことはなかった。それはわかる。ところが、山なのに小動物に会うことがなかったし、鳥も飛んでいなかった。熊には会いたくないが、タヌキやキツネ、リスなんかがいてもいいんじゃないのか? ここは山なんだぞ)
 そして、マーキュリーは身を潜めている何かにずっと見張られているような感じがしていた。
(何者かの氷のような冷たい視線の先に自分がいる。刃物の刃を渡ってきたような目線はぶれずにやってくる。冷たい目は、僕を冷凍庫の奥に押し込めようとする。それは気分のいいものではない)
 マーキュリーと名付けられた男はそう思った。
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