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第五話
【32】
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雨は降り続いている。
揺らぐ水桶を抱えながら、リヴィは足早に暗がりの廊下を進む。靴底と擦れた木板が、急かすように音を鳴らしては、うるさく軋んでいた。
(どうか。どうか死なないで。)
片目を差し出したってかまわない。両手を失ったっていい。生きてほしい。目の前からいなくならないで欲しい。そう願いながら、廊下の角を曲がる。
不意に、視界に人影が入った。ぶつかる手前でなんとか足を留めて、その影を見やる。
「……。」
リヴィは僅かに目を細めた。
「ウォンが倒れたってな。」
一体、どこから聞きつけて来たのか。嫌味な笑みを携えたギルダンが立っている。
「死にそうなんだってな。」
いちいち、癪に障る。目障りで鬱陶しい。こんな男が、ウォーブラを傷つける。この程度の男が、ウォーブラを見下げる。決して許せるような相手ではないが、今は構っている暇はない。時間が惜しい。
無視して横を通り抜けるか否か。
「このまま死んでくれりゃいいのにな。」
ぼそりと耳に言葉が落ちた。自分の内側にひやりと氷の粒が落下したような心地がして、気が付けばギルダンの頭部すれすれに蹴りこんでいた。
「そんな怖い顔するなよ。冗談だよ。」
嗤う。
頭部に蹴りこんでやらなかったことを今まさに後悔した。この目障りなクズの頭に当ててやればよかった。二度と、そんなふざけた言葉を口にできないように。
「……殺して、やろうか。」
低い声で言うと、ギルダンは引きつった笑みを浮かべたが、すぐに一歩、こちらへ踏み込んできた。
「リリと似た顔で言われると、結構クるなぁ。」
ぐっと顔を近づけて、口元を歪め笑う。
「なぁ? リリの兄ちゃん。」
ギルダンはざらついた指先をリヴィの眼前に突き付けた。
「!」
反射的にリヴィは身を引いた。動揺していた思考に突き付けられた指先が、過去の恐怖を想起させるのは簡単だ。父が振り上げた拳。父が吐き捨てた言葉。父が自分を見下ろす、呆れと怒りの視線。全ての恐怖と苦痛の記憶を、その一瞬の動作に引きずり出されてしまう。
恐怖に揺らいだ水が足元にぶちまけられた。遅れて、手から滑り落ちた桶が音を立てて、そのうちに伏した。
「お前さぁ、父親に憎まれてたんだってな。」
嗤う。
「役立たずの後継ぎだって。」
嗤う。
「翼なしの恥さらしだって、みんなから言われてたんだろ?」
醜く歪む、目元。
「だったら、なんだ。」
「はは、へへへへ……なぁ、お前、こういうの苦手だろ!」
勢いよく振り上げた手。空っぽの水桶が、残った水滴を散らしながら、リヴィの眼前に影を落とす。大きな影。振り下ろされる情景。知っている。こうやってぶつけられる痛みを知っている。
怒りと憎悪。激情と衝動の末路。
過去と目の前の事象が重なって、混ざって、判断がつかなくなる。
「――――――!」
ガ、と鈍い音が響いて、鈍い衝撃が思考を打ち付けた。
――お前の、せいだ。
低い声。お前のせいでこんなことになったと何度も何度も打ち付けられる。父の声が反響して響く。
「こないだはよくも、俺をコケにしてくれたなぁ!」
足、腹、腕。二回、三回。脇腹、背中、肩。五回。十回。十七回。
三十二回目で、頭を踏みつけられた。
「何でお前が生きてんだよ。」
靴底に圧がかかる。
「兄貴なら、リリをすくえたんじゃないのかよ。何とか言えよオラ!」
「リリは……。」
ガッ。
言葉は踏みつけられた。リヴィは浅く息をしながら、ぼんやりと見上げる。目の前にいるのは、誰だろう。今回は、何回数えれば終わるだろう。
「あんなに可愛くて綺麗でさ。他の女みたいにキャンキャン喚かなくて、落ち着いててさ。もうさ、死ねよ。」
あと、何回。
「お前も、ウォンも、死ねよ。」
「ウォン……。」
リヴィは目を見開いた。
目の前にいるのは父じゃ、ない。
リヴィは、もう一度踏みつけようと浮くギルダンの片足を掴んで引き倒した。起き上がりざまにそのまま組み敷いて、ギルダンの腕を固める。
「……三十三回だ。今、お前が痛みをくれた数。」
冷然。リヴィは目の前の男を見下げた。先ほどまで愉悦を浮かべていた頬が、分かりやすく引きつっているのが目に見えた。醜い。汚い。
「ま、待てよ。俺はリリの婿になる予定で、救うはずだったんだ。救うために努力してたんだ。」
汚らわしい。
ギルダンは怯えながら、懇願するようにこちらを見上げてきた。
「もういい。俺は急いでいる。」
この言葉に、明らかにほっと安堵した様子を見せるギルダンを、リヴィは無音のまま見つめていた。少しだけ拘束する手を緩めてやると、やつは自分の身の安全を確信したように笑う。
(――ああ、)
醜い。
(こういう、男か。)
おもむろに、リヴィはギルダンの肩に手を添える。そして、次に鳴った音は、先ほどの殴打とは比べ物にならないほど緩やかで、くぐもった音だった。
ゴキュ。
「な――――――――ああああああああああああああああああッ!」
ギルダンの絶叫を、リヴィはなおも冷たく見下ろしていた。
「あああああああッんで、なんでなんで! 関節が……っ外れ……!」
「……ありがとう。救う予定でいてくれて。そのために無駄な努力をしてくれて。」
ギルダンの耳元で柔らかく囁いた。
「お前なんなんだよ! 何で笑ってんだよ!」
目の前の男が喚くほどに、心の内で中で鋭利な殺意が縁取られていく。
「お前の自尊心のためにウォンを傷つけておいてどの口が救うだと。何よりも大事なウォンを踏みにじって貶めたくせに。」
これは怒りだ。
「そのくだらない口から、どれだけくだらない言葉を吐き出せば気が済む。」
ウォーブラを傷つける言葉なんて言えないように、いっそのことこいつの口を潰してしまおうか。ウォーブラを見下げて映す醜い目だって、突き付ける指先だって、全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部――――――――――これ以上ないほどに、すりつぶして、しまおうか。
「悪かった! 悪かった。ウォンを悪く言ったことも、アサヒってやつを犯そうとしたことも、お前を殴ったことも!」
うるさい、男だ。
「ぎゃああああああああああああ!」
骨を折る音の方が、よほど静かだ。リヴィは息をついた。いよいよ目の前の男を見ていることに嫌気がさして、最後に片足を軽くねじり折っておく。
もう喚き声も聞き飽きた。
ギルダンを乱雑に捨てて立ち上がる。水桶を持ち上げるが、あいにく水はほとんど残っていない。もう一度汲みにいかなければならない。
「おい、待てよ。まさかこのまま放っていくのか。腕も、足も折れてんだぞ……?」
そこまで説明しなければ分からないのか、とリヴィは落胆を重ねる。少しだけ視線を投げて、ぞんざいに答えた。
「お前はウォーブラを傷つけても、そのままでいたのだろう?」
「な―――――――っ!」
こいつに幸福の可能性を与えないように、殺してやったっていい。本当は、ウォーブラがもう傷つくことのないように、殺して、存在を消してしまいたい。だが、
「ウォンは優しいから、きっとお前に同情する。自分のせいでギルダンはこうなったんだと、傲慢に自分を責める。」
このままギルダンが死ねば、ウォーブラの中に忘れられない疵として、深く刻まれることになる。
「だから。」
これは最後の通告だ。ギルダンに次はない。次など与えるものか。その時は、容赦などしない。
冷然と、リヴィは言葉を突き付けた。
「俺だけは、決してお前を許さない。」
ウォーブラを貶め傷つけるクズは、生きて地獄を見ればいい。
あらゆる苦痛の中で、もがいて、足掻いて、くだらない希望に縋って、惨めにその命を晒して。
そうしてウォーブラの目が届かないところで。
――――死ね。
揺らぐ水桶を抱えながら、リヴィは足早に暗がりの廊下を進む。靴底と擦れた木板が、急かすように音を鳴らしては、うるさく軋んでいた。
(どうか。どうか死なないで。)
片目を差し出したってかまわない。両手を失ったっていい。生きてほしい。目の前からいなくならないで欲しい。そう願いながら、廊下の角を曲がる。
不意に、視界に人影が入った。ぶつかる手前でなんとか足を留めて、その影を見やる。
「……。」
リヴィは僅かに目を細めた。
「ウォンが倒れたってな。」
一体、どこから聞きつけて来たのか。嫌味な笑みを携えたギルダンが立っている。
「死にそうなんだってな。」
いちいち、癪に障る。目障りで鬱陶しい。こんな男が、ウォーブラを傷つける。この程度の男が、ウォーブラを見下げる。決して許せるような相手ではないが、今は構っている暇はない。時間が惜しい。
無視して横を通り抜けるか否か。
「このまま死んでくれりゃいいのにな。」
ぼそりと耳に言葉が落ちた。自分の内側にひやりと氷の粒が落下したような心地がして、気が付けばギルダンの頭部すれすれに蹴りこんでいた。
「そんな怖い顔するなよ。冗談だよ。」
嗤う。
頭部に蹴りこんでやらなかったことを今まさに後悔した。この目障りなクズの頭に当ててやればよかった。二度と、そんなふざけた言葉を口にできないように。
「……殺して、やろうか。」
低い声で言うと、ギルダンは引きつった笑みを浮かべたが、すぐに一歩、こちらへ踏み込んできた。
「リリと似た顔で言われると、結構クるなぁ。」
ぐっと顔を近づけて、口元を歪め笑う。
「なぁ? リリの兄ちゃん。」
ギルダンはざらついた指先をリヴィの眼前に突き付けた。
「!」
反射的にリヴィは身を引いた。動揺していた思考に突き付けられた指先が、過去の恐怖を想起させるのは簡単だ。父が振り上げた拳。父が吐き捨てた言葉。父が自分を見下ろす、呆れと怒りの視線。全ての恐怖と苦痛の記憶を、その一瞬の動作に引きずり出されてしまう。
恐怖に揺らいだ水が足元にぶちまけられた。遅れて、手から滑り落ちた桶が音を立てて、そのうちに伏した。
「お前さぁ、父親に憎まれてたんだってな。」
嗤う。
「役立たずの後継ぎだって。」
嗤う。
「翼なしの恥さらしだって、みんなから言われてたんだろ?」
醜く歪む、目元。
「だったら、なんだ。」
「はは、へへへへ……なぁ、お前、こういうの苦手だろ!」
勢いよく振り上げた手。空っぽの水桶が、残った水滴を散らしながら、リヴィの眼前に影を落とす。大きな影。振り下ろされる情景。知っている。こうやってぶつけられる痛みを知っている。
怒りと憎悪。激情と衝動の末路。
過去と目の前の事象が重なって、混ざって、判断がつかなくなる。
「――――――!」
ガ、と鈍い音が響いて、鈍い衝撃が思考を打ち付けた。
――お前の、せいだ。
低い声。お前のせいでこんなことになったと何度も何度も打ち付けられる。父の声が反響して響く。
「こないだはよくも、俺をコケにしてくれたなぁ!」
足、腹、腕。二回、三回。脇腹、背中、肩。五回。十回。十七回。
三十二回目で、頭を踏みつけられた。
「何でお前が生きてんだよ。」
靴底に圧がかかる。
「兄貴なら、リリをすくえたんじゃないのかよ。何とか言えよオラ!」
「リリは……。」
ガッ。
言葉は踏みつけられた。リヴィは浅く息をしながら、ぼんやりと見上げる。目の前にいるのは、誰だろう。今回は、何回数えれば終わるだろう。
「あんなに可愛くて綺麗でさ。他の女みたいにキャンキャン喚かなくて、落ち着いててさ。もうさ、死ねよ。」
あと、何回。
「お前も、ウォンも、死ねよ。」
「ウォン……。」
リヴィは目を見開いた。
目の前にいるのは父じゃ、ない。
リヴィは、もう一度踏みつけようと浮くギルダンの片足を掴んで引き倒した。起き上がりざまにそのまま組み敷いて、ギルダンの腕を固める。
「……三十三回だ。今、お前が痛みをくれた数。」
冷然。リヴィは目の前の男を見下げた。先ほどまで愉悦を浮かべていた頬が、分かりやすく引きつっているのが目に見えた。醜い。汚い。
「ま、待てよ。俺はリリの婿になる予定で、救うはずだったんだ。救うために努力してたんだ。」
汚らわしい。
ギルダンは怯えながら、懇願するようにこちらを見上げてきた。
「もういい。俺は急いでいる。」
この言葉に、明らかにほっと安堵した様子を見せるギルダンを、リヴィは無音のまま見つめていた。少しだけ拘束する手を緩めてやると、やつは自分の身の安全を確信したように笑う。
(――ああ、)
醜い。
(こういう、男か。)
おもむろに、リヴィはギルダンの肩に手を添える。そして、次に鳴った音は、先ほどの殴打とは比べ物にならないほど緩やかで、くぐもった音だった。
ゴキュ。
「な――――――――ああああああああああああああああああッ!」
ギルダンの絶叫を、リヴィはなおも冷たく見下ろしていた。
「あああああああッんで、なんでなんで! 関節が……っ外れ……!」
「……ありがとう。救う予定でいてくれて。そのために無駄な努力をしてくれて。」
ギルダンの耳元で柔らかく囁いた。
「お前なんなんだよ! 何で笑ってんだよ!」
目の前の男が喚くほどに、心の内で中で鋭利な殺意が縁取られていく。
「お前の自尊心のためにウォンを傷つけておいてどの口が救うだと。何よりも大事なウォンを踏みにじって貶めたくせに。」
これは怒りだ。
「そのくだらない口から、どれだけくだらない言葉を吐き出せば気が済む。」
ウォーブラを傷つける言葉なんて言えないように、いっそのことこいつの口を潰してしまおうか。ウォーブラを見下げて映す醜い目だって、突き付ける指先だって、全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部――――――――――これ以上ないほどに、すりつぶして、しまおうか。
「悪かった! 悪かった。ウォンを悪く言ったことも、アサヒってやつを犯そうとしたことも、お前を殴ったことも!」
うるさい、男だ。
「ぎゃああああああああああああ!」
骨を折る音の方が、よほど静かだ。リヴィは息をついた。いよいよ目の前の男を見ていることに嫌気がさして、最後に片足を軽くねじり折っておく。
もう喚き声も聞き飽きた。
ギルダンを乱雑に捨てて立ち上がる。水桶を持ち上げるが、あいにく水はほとんど残っていない。もう一度汲みにいかなければならない。
「おい、待てよ。まさかこのまま放っていくのか。腕も、足も折れてんだぞ……?」
そこまで説明しなければ分からないのか、とリヴィは落胆を重ねる。少しだけ視線を投げて、ぞんざいに答えた。
「お前はウォーブラを傷つけても、そのままでいたのだろう?」
「な―――――――っ!」
こいつに幸福の可能性を与えないように、殺してやったっていい。本当は、ウォーブラがもう傷つくことのないように、殺して、存在を消してしまいたい。だが、
「ウォンは優しいから、きっとお前に同情する。自分のせいでギルダンはこうなったんだと、傲慢に自分を責める。」
このままギルダンが死ねば、ウォーブラの中に忘れられない疵として、深く刻まれることになる。
「だから。」
これは最後の通告だ。ギルダンに次はない。次など与えるものか。その時は、容赦などしない。
冷然と、リヴィは言葉を突き付けた。
「俺だけは、決してお前を許さない。」
ウォーブラを貶め傷つけるクズは、生きて地獄を見ればいい。
あらゆる苦痛の中で、もがいて、足掻いて、くだらない希望に縋って、惨めにその命を晒して。
そうしてウォーブラの目が届かないところで。
――――死ね。
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