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第三話
【22】by Asahi
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【22】by Asahi
もうすぐ、織国との国境に着く。
まだ空が暗いころに、私は天幕の裏で新しい包帯を肩に巻いた。明け方は随分と冷えるが、リヴィが寝ている天幕のなかで取り換えるわけにもいかなかった。
傷はそう深くはないものの、そこ三日で治るほどのものでもない。幸いは、私が妖魔の血を浴びようが、噛まれようが、それこそ、酷い瘴気の中に放り込まれたとしても、白亜化しないことだった。
けれど死なないわけじゃない。食べるものがなければいずれ死ぬ。血を流しすぎれば私の意志も役に立たない。私は、ただの人間だ。
ウォーブラは、妖魔が何なのか知らなかった。
知るはずもないか、と自嘲気味に笑う。大体の人間は、白亜化の中で死に至る。妖魔になるなんてそうあることじゃないから、知ることもないだろう。そもそも、妖魔なんてそうそう出会うものじゃない。
「……あんな顔を、させてしまった。」
いつも飄々と笑っているウォーブラが、あの時だけは酷く怯えたように目を見開いていた。どう伝えたら、一番良かったのだろうか。
あれからウォーブラは、私に触れない。
彼の調子はいつもと変わらず、ただ私に気軽に触れないだけ。たったそれだけのことが、寂しい。
「さみ、しい……?」
私は目を見開いて、自分の口元に触れた。
寂しい、なんて思ったのだろうか。私が?
空が明るく白んでいく中で、私の思考も白日に晒されていくようだった。背中に陽光が差し込んで、さらさらと揺れる。
ウォーブラの傷ついたような表情が、消えない。思い出すたびに喉元がくぅと狭くなる心地がして、苦しいと感じる。胸元を強く握りしめるほど、うずくまった宝石が明滅するようだった。
「アサヒ、あなた……。」
「!」
私は咄嗟に外套を引き寄せた。ドッ、ドッ、ドッ、と胸元が大きく脈打つ。空いた片手は、腰もとの短剣に自然と伸びていた。
「ミオレさん、おはようございます。お早いですね。」
努めて平静に、いつも通りを装って声をかけた。
「何か御用でしょうか。」
ミオレが草を踏んで、一歩近づく。私は短剣の柄を握った。
「わたし……お父様から聞いたことがあるの。」
ミオレの静かな声が、やけに明瞭に届く。
「その方は陽の光のような恐ろしい輝きを持ちながらも、目を逸らすこともできない美しさだったと。アサヒ……いえ、アサヒ様。あなたはもしかして皇国でお生まれになった……。」
「まさか。」
私は笑った。
「ミオレさん。それは勘違いです。」
「ですが!」
「ミオレさん。」
もう一度、笑みを崩さないままにミオレの名を呼んだ。今度は少し低い声だった。
「あなたが僕をどのようにお考えか存じ上げませんが、そのお言葉のひとつひとつが、貴女の身の上を表すことをお忘れなきよう。」
ミオレは足と留めて、ぐ、と口元を引き結んだ。彼女には、私が何者だったか、見当がついているのだろう。それは同時に、彼女がどこの身分かを示していることに他ならない。
元より、彼女の所作は平民のそれとはまるで違う。いくら装ったところで、身体に染みついた動作の基本は存在している。
「ごめんなさい。わたしは勘違いをしていたのね。……あなたの笑みがあまりに優しいものだから、それが親しみだと思っていたわ。だって私を見るあなたには、欲望も妬みも、そんな類の感情はないもの。だから……ただ、初めから何の期待もなかった。そういうことなのね。」
彼女はひとり納得するように話して、肩を落とした。それから顔を上げると、困ったように笑う。
「何でもないわ。アサヒ、ひとつだけ伺っても?」
「お答えできるものでしたら。」
「あなたはどうして……旅を、冒険者になったの。」
私は静かに目を伏せた。
「僕は、心を捨てられなかった。」
自分の全てを、他人に預けてしまう選択肢だってあった。そうすれば、今も柔いベッドの上で、焚き出された香の匂いにまどろみながら、とうとうと愛されていたのだろう。命の危険もなく、人と接することに怯えることもなく堂々と歩き、外の恐ろしさも知らずに、安寧に浸っていられたのだろう。
けれど、私はそれをしなかった。できなかった。
「ミオレさん、貴女がそうだったように。」
「! 気づいていたの。わたしとオリオのこと。」
「それとなく、ですが。兄妹ではないのだろうなと。」
「……ではあなたも、好きな殿方がいらしたの? それは、ウォーブラ? だからそのお立場も何もかも捨てて、冒険者に。」
「まさか。」
困ったように笑うしかなかった。それはあまりにも早合点だ。
「そうだったら、良かったのかもしれません。」
静かに、息を逃がして。
「僕はまだ、彼らの仲間になって二か月も経っていないんです。」
誰かを好きになって飛び出したのなら、それは大変ながらも素敵なことなのだろう。誰かを信じたいと思えて、心を寄せることができて。それ以外何もいらない、なんてどこかの書物に綴ってあったような、夢物語。
「けれど、ウォーブラはあなたを抱き寄せて口づけをしたわ。それはつまり。」
「――つまり? 口づけに、何の意味があるというのです。」
自分でも驚くような低い声に、しんと朝の静寂が滲んだ。けれど、ミオレは胸元で手のひらを握ると息を呑んで、一歩前に出たようだった。
「意味はあるわ! 好きな人と交わす口づけは尊いものよ。」
凛と輝く瞳は真っすぐで、私には眩しい。いたたまれなくなって、私は視線をそっとずらした。
一瞬だって彼からの好意を期待した私の浅ましさを、温かさに心の全てを預けてしまいそうになった愚かしさを、見抜かれてしまいそうで。
「ウォーブラには好きな女性がいます。その感情は、僕には計り知れないほど深いものです。それに……好意を寄せていなくても口づけをすることは簡単だ。」
そう、あの時の彼が私を認識したのは、口づけの後だった。意図的でないそれに、どれほどの意味があるのか。何を望むことがあるのだろうか。あれはただの、事故だ。
「この話はこれまでにしましょう。」
私はすっと顔を上げて、いつものように笑った。
いつだって生きているのは、現実だ。
夢物語もおとぎ話も、ないのだから。
もうすぐ、織国との国境に着く。
まだ空が暗いころに、私は天幕の裏で新しい包帯を肩に巻いた。明け方は随分と冷えるが、リヴィが寝ている天幕のなかで取り換えるわけにもいかなかった。
傷はそう深くはないものの、そこ三日で治るほどのものでもない。幸いは、私が妖魔の血を浴びようが、噛まれようが、それこそ、酷い瘴気の中に放り込まれたとしても、白亜化しないことだった。
けれど死なないわけじゃない。食べるものがなければいずれ死ぬ。血を流しすぎれば私の意志も役に立たない。私は、ただの人間だ。
ウォーブラは、妖魔が何なのか知らなかった。
知るはずもないか、と自嘲気味に笑う。大体の人間は、白亜化の中で死に至る。妖魔になるなんてそうあることじゃないから、知ることもないだろう。そもそも、妖魔なんてそうそう出会うものじゃない。
「……あんな顔を、させてしまった。」
いつも飄々と笑っているウォーブラが、あの時だけは酷く怯えたように目を見開いていた。どう伝えたら、一番良かったのだろうか。
あれからウォーブラは、私に触れない。
彼の調子はいつもと変わらず、ただ私に気軽に触れないだけ。たったそれだけのことが、寂しい。
「さみ、しい……?」
私は目を見開いて、自分の口元に触れた。
寂しい、なんて思ったのだろうか。私が?
空が明るく白んでいく中で、私の思考も白日に晒されていくようだった。背中に陽光が差し込んで、さらさらと揺れる。
ウォーブラの傷ついたような表情が、消えない。思い出すたびに喉元がくぅと狭くなる心地がして、苦しいと感じる。胸元を強く握りしめるほど、うずくまった宝石が明滅するようだった。
「アサヒ、あなた……。」
「!」
私は咄嗟に外套を引き寄せた。ドッ、ドッ、ドッ、と胸元が大きく脈打つ。空いた片手は、腰もとの短剣に自然と伸びていた。
「ミオレさん、おはようございます。お早いですね。」
努めて平静に、いつも通りを装って声をかけた。
「何か御用でしょうか。」
ミオレが草を踏んで、一歩近づく。私は短剣の柄を握った。
「わたし……お父様から聞いたことがあるの。」
ミオレの静かな声が、やけに明瞭に届く。
「その方は陽の光のような恐ろしい輝きを持ちながらも、目を逸らすこともできない美しさだったと。アサヒ……いえ、アサヒ様。あなたはもしかして皇国でお生まれになった……。」
「まさか。」
私は笑った。
「ミオレさん。それは勘違いです。」
「ですが!」
「ミオレさん。」
もう一度、笑みを崩さないままにミオレの名を呼んだ。今度は少し低い声だった。
「あなたが僕をどのようにお考えか存じ上げませんが、そのお言葉のひとつひとつが、貴女の身の上を表すことをお忘れなきよう。」
ミオレは足と留めて、ぐ、と口元を引き結んだ。彼女には、私が何者だったか、見当がついているのだろう。それは同時に、彼女がどこの身分かを示していることに他ならない。
元より、彼女の所作は平民のそれとはまるで違う。いくら装ったところで、身体に染みついた動作の基本は存在している。
「ごめんなさい。わたしは勘違いをしていたのね。……あなたの笑みがあまりに優しいものだから、それが親しみだと思っていたわ。だって私を見るあなたには、欲望も妬みも、そんな類の感情はないもの。だから……ただ、初めから何の期待もなかった。そういうことなのね。」
彼女はひとり納得するように話して、肩を落とした。それから顔を上げると、困ったように笑う。
「何でもないわ。アサヒ、ひとつだけ伺っても?」
「お答えできるものでしたら。」
「あなたはどうして……旅を、冒険者になったの。」
私は静かに目を伏せた。
「僕は、心を捨てられなかった。」
自分の全てを、他人に預けてしまう選択肢だってあった。そうすれば、今も柔いベッドの上で、焚き出された香の匂いにまどろみながら、とうとうと愛されていたのだろう。命の危険もなく、人と接することに怯えることもなく堂々と歩き、外の恐ろしさも知らずに、安寧に浸っていられたのだろう。
けれど、私はそれをしなかった。できなかった。
「ミオレさん、貴女がそうだったように。」
「! 気づいていたの。わたしとオリオのこと。」
「それとなく、ですが。兄妹ではないのだろうなと。」
「……ではあなたも、好きな殿方がいらしたの? それは、ウォーブラ? だからそのお立場も何もかも捨てて、冒険者に。」
「まさか。」
困ったように笑うしかなかった。それはあまりにも早合点だ。
「そうだったら、良かったのかもしれません。」
静かに、息を逃がして。
「僕はまだ、彼らの仲間になって二か月も経っていないんです。」
誰かを好きになって飛び出したのなら、それは大変ながらも素敵なことなのだろう。誰かを信じたいと思えて、心を寄せることができて。それ以外何もいらない、なんてどこかの書物に綴ってあったような、夢物語。
「けれど、ウォーブラはあなたを抱き寄せて口づけをしたわ。それはつまり。」
「――つまり? 口づけに、何の意味があるというのです。」
自分でも驚くような低い声に、しんと朝の静寂が滲んだ。けれど、ミオレは胸元で手のひらを握ると息を呑んで、一歩前に出たようだった。
「意味はあるわ! 好きな人と交わす口づけは尊いものよ。」
凛と輝く瞳は真っすぐで、私には眩しい。いたたまれなくなって、私は視線をそっとずらした。
一瞬だって彼からの好意を期待した私の浅ましさを、温かさに心の全てを預けてしまいそうになった愚かしさを、見抜かれてしまいそうで。
「ウォーブラには好きな女性がいます。その感情は、僕には計り知れないほど深いものです。それに……好意を寄せていなくても口づけをすることは簡単だ。」
そう、あの時の彼が私を認識したのは、口づけの後だった。意図的でないそれに、どれほどの意味があるのか。何を望むことがあるのだろうか。あれはただの、事故だ。
「この話はこれまでにしましょう。」
私はすっと顔を上げて、いつものように笑った。
いつだって生きているのは、現実だ。
夢物語もおとぎ話も、ないのだから。
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