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第四章
(五)ウジ虫
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黒影はバーカウンターの前を足早に抜け、夢心地をみせるその空間から半ば逃げるように、冷たい夜風が吹きすさぶ中空廊下へ出た。
冷え切った中空廊下を、ツカツカと歩く。ひとつ足を踏みだすごとに、髪は乱れ、腹の底から、どこからともなく、ふつふつと苛立たしさが沸き上がってくるようだ。
――どうして笑いかける。
――どうして気に掛ける。
――どうしてあたりまえのように、媚びへつらう!
彼らの行動のなにもかもが気にくわないわけではない。
強く踏んだガラス板を一瞥する。ただ、途方もなく、夜の鮮やかな街が広がっている。美しい。奇麗だ。それもわかる。理解できる。多少なりとも感じるものは確かにある。
だが、それだけだ。
知識として、事実の表面をなぞるていどの理解だけで、実感はともなわない。
感じて当然の喜びも。満たされるような幸福感も――どれも、この心の内側から生まれ出ることは、ない。
ゆえに、返せない。
ふと足を止める。黒影は夜景を遠く見渡した。白く靄がかかるような、生臭いにおいが沸き立っている。濃密な瘴気だ。それがこの上空にまで届いているということは――、
「おあつらえ向きだな」
自嘲。
敵が、湧いている。この夜景の闇に紛れて、有象無象にウジ虫が這い出てきている。
丁度いい。
「殺す!」
刹那、黒影は手すりからひと息に上空へ躍りでた。遅れて背中をかすめたのはソウの声だ。ツナギのポケットから鍵をつまんで、投げ返す。そのときにはもう、声は遠く届かない。下から吹きあがる風が、重い髪をおびただしくまき上げる。風圧が耳を塞ぎ犯す。
垂直に落ちてゆく。担いでいた大太刀の柄に手をかける。真下で響く羽音を、抜刀と共に回し斬ると、黒い刀身に夜景の色の粒が鮮烈に走り抜けた。パラサイトモスの鱗粉を払い、ふたつに分かれた胴体の片方を踏んで跳びあがる。壁面を駆け下り、合間の配管をとび越えて、悠々と踊る翅を、斬る。斬る。斬る。
殺す。
錆び腐ったような生臭い香りがする。嗚呼、汚い。
ひだのように重なった、ぶよぶよとやわい白蛾たる魔種の腹を裂く。弱い。
生命を黒い刃で凌辱する。くだらない。
ぞんざいに詰めこまれたおもちゃ箱のような街並みが視界を埋めるように迫ると、下水道の蓋から溢れるように、みっちりと、太いウジ虫が頭を振っているのが見えた。いくらかは坂道を赤子のようにたどたどしく上り、いくらかは細い路地をもじもじと幼気に這いずり、そしてそれらのどれもが、鋸刃のような硬い顎で、柱、手すり、階段、魔鉱灯――あらゆる金属に、齧りつく。
人もいくらか喰われたのだろう。顔もわからないがらんどうの死体が、ぼろきれのように打ち捨てられているのが見えた。
大太刀を走らせ、集合住宅の屋上へ不格好にのせられた貯水タンクを斬り放つ。圧力とともに弾けた激流が路地のウジ虫を攫い、ひとまとめに硬い壁面へぶつかって派手に潰れた。
「死に腐れ!」
鉄柱を蹴り、魔鉱灯に足を掛けて落下の衝撃を逃がしながら、真横へ跳ぶ。勢いのまま壁面を水平に走り抜け、路地上の群れを一太刀でまとめて裂く。群れを見つけては、ひと息で斬り伏せる。ここまでの順路は覚えていない。数もかぞえていない。敵がいれば斬る。刃を振りぬく。上空を飛ぶ成体がいれば、飛び上がり、ひさし、ベランダの鉄柵、壁――そして、上空へ抜けて、両断する。
やわい。弱い。
肌に触れる虫どもの体液はどろりと生臭く、ひどく不快だ。
不快でしかない。
それでも刃を持ちつづけるのは、たりないからだ。
生きている実感がたりない。ずっと咽喉が渇いているような飢えばかりが奥底を掻いている。いくら唾を飲みこんでも、痰がへばりついているようだ。この身もなにもかもが血腥い赤に淀み、白と黒に汚され続けているような気持ちの悪さがある。この思考はとうに、理性の形と意義を見つけられなくなって久しい。
世界の美しさが、なんだという。
他人の温かさが、なにを救ってくれる?
地面に降り立つ。どこから湧いたのか、醜く膨れあがったウジ虫が次から次へとこの皮と骨ばかりの身体へとびついてくる。
ぺたぺた、ぺとぺと。
ぺたぺた、ぺとぺと。
ぎちぎちと左右に開く、虫の咀嚼顎。
上あごの裏から、ぬるりと落ちた銀色の唾液が、露出した肩口に触れる。
どうしてか、それが兄の細い銀糸の髪のひと房に思えた。
「ワタシの――、」
いらだたしい。
「なにもかもを喰えるものなら、意地汚く喰い荒らしてみろ! このウジ虫共!」
拳をぶちこみ、そのまま石積の壁に殴りつける。
生命を、潰す。そのうちに、ビクビクと痙攣する顎から、赤く腐ったような体液が醜く溢れた。
「暴食と呼ばれるなら、死んでも食え」
内側でぐちゃぐちゃにまみれた拳をいっそう捻じこむ。
が、ソレはあまりにもあっけなく息絶えた。
「端から期待などしていなかったが……所詮、人がつけた言葉が独り歩きしただけのウジ虫か」
脈動が消え失せた虫をうち捨てる。
満たされることは、ない。
「黒影、こんなところにいた」
取りこぼしていた数匹を仕留めながら、遅れてソウが駆け寄ってきた。
「急にとび降りるんだもん。びっくりしちゃった」
怪我はないかと訊ねてくるソウに、舌打ちを返す。心配など毛ほどもしていないくせに、さぞ心配そうな表情を浮かべ、とうぜんのように訊ねてくる。
「このていどで死ぬとでも?」
大太刀の切っ先をかるくはらって、峰を肩口に担ぐ、背を向けて歩きはじめると、ソウは早足で追いかけてきた。となりに並び、
「そうじゃなくてさ。ナギさんが言ってたでしょ。白の境界線は瘴気が濃いから、いつも通りにいかないって」
と、杞憂を口にする。
「それがどうした」
じろりと睨むと、ソウは曲刀を背中の鞘におさめながら言った。
「君がいまと同じように身勝手に特攻すれば、この先、全員が死の危険にさらされることになる」
「弱いヤツは死ねばいい。仮にキサマが死ねば、そのていどのゴミ以下だったというだけだ。そのまま野垂れ死ね」
通り道に転がっているのは、死にかけの虫だった。踵で踏み潰して、先へゆく。
その死骸を踏まないようにまたいで、ソウはついてきた。
「俺が言いたいのは、もう少し周りのことを考えて行動してほしいってことなんだよ。君が取りこぼした魔物の始末をするのは俺だ。けど、それも限界がある」
――わずらわしい。
「なら」大太刀の柄を握りなおす。頭上で窓ガラスが内から押し出されるように、割れ弾けた。砕けたガラスとともに、ぷっくりと太った無数のウジ虫が、滝のように降ってくる。黒影はソウの頭上を通すように、刀身を大きく回して、なにもかも斬りとばした。
「ワタシがすべて斬る!」
「そういう話をしてるんじゃない!」
ソウは死に絶えた虫の群れと、汚れ腐った街を遠く見回した。
「君が行動した結果が、周りにどんな影響を与えるのかをちゃんと理解して、そのうえで協力してほしいんだよ」
澄んだ蒼穹の瞳が、真っすぐにこちらを見つめてくる。
「君にとって楽しくはないかもしれない。けど、必要なことなんだ」
「ならばキサマがもっと強くなれ」
とびこんできた気配を片手でわし掴む。
「ワタシが他に目移りしないほどに」
やわく汚い虫の首を握り、ソウの眼前へつきだす。
「キサマから目も心もなにもかも――それこそ、片時さえも惜しんで、離れがたくなるほどに」
「……強さだけで解決できるなら、俺はすなおにうなずいたかもしれないね」
ソウはつきだされた虫には一瞥もくれずに、こちらを真っすぐに睨みすえた。それから、どこか諦めたように目を伏せると、
「君は強い。それは事実だ」
息をついた。
すぐ横を通り抜ける彼の背中を、視線だけで追う。
「けど、」おもむろに足を止める。――りん、と鈴の音が鳴く。
ソウはツギハギの、狭く、歪な夜空を見上げた。鈴の音をなだめるように、傷だらけの手のひらでそっと、猫の面をなでる。
魔鉱灯に群れた白蛾の翅が、灯りを遮ったひとひらの間。一瞬の空白をたずさえた彼の横顔へ、夜闇が触れた。ばちん、とちから任せに捩じ切ったような不快な破裂音が耳を刺す。作られた灯りが消える。魔鉱灯の先端にとりつけられていた魔鉱石が、喰われたらしかった。
やがて、所在をうしなった虫どもは、いくつものかしましい羽音をこれでもかと打ち鳴らし、あちらこちらと方々に散っていく。そのくせ、次の灯りを見つけた瞬間、縋るように、あるいは歓喜の舞でも踊るかのごとく、新しい餌へ次々と飛びついた。そうしてまたひとつ、夜が腐り落ちる。
「俺には強さだけで生きられるような道なんて、なかったんだよ」
呼吸に付随して吐き出されただけの、ひどくなおざりな感懐は、次の餌をさがしまわる白蛾の波にかき消されてしまった。
――りん。
赤黒く汚れたはきだめの中で、愛らしい鈴の音がなる。
ソウはふりむいた。「なんてね」彼はくちもとに微笑をたたえていて、ややこまったように眉じりを下げていた。それから、はにかむように頬をわずかにかいて「俺は君のことも心配なんだよ。あんまり無茶してほしくないんだ」と、言ってのける。
「じゃあ俺は、ほかに逃げ遅れた人がいないか、向こうの方を確認してくるよ」
なんの気なしに、手すりをとびこえると、ソウは細い裏路地に降りて行った。
泰然と去る背中を睨んで、手元をにぎり潰す。骸をうち捨てる。虫の生臭い赤錆色が跳ね、頬を汚した。乱暴にぬぐう。頭を大きく振って背を向ける。血だまりが音をたてて波立つ。飛沫がさらに地面を汚す。奥歯を噛む。ぎりと不快な音が響く。
弱いウジ虫なら、死ねばいい。
冷え切った中空廊下を、ツカツカと歩く。ひとつ足を踏みだすごとに、髪は乱れ、腹の底から、どこからともなく、ふつふつと苛立たしさが沸き上がってくるようだ。
――どうして笑いかける。
――どうして気に掛ける。
――どうしてあたりまえのように、媚びへつらう!
彼らの行動のなにもかもが気にくわないわけではない。
強く踏んだガラス板を一瞥する。ただ、途方もなく、夜の鮮やかな街が広がっている。美しい。奇麗だ。それもわかる。理解できる。多少なりとも感じるものは確かにある。
だが、それだけだ。
知識として、事実の表面をなぞるていどの理解だけで、実感はともなわない。
感じて当然の喜びも。満たされるような幸福感も――どれも、この心の内側から生まれ出ることは、ない。
ゆえに、返せない。
ふと足を止める。黒影は夜景を遠く見渡した。白く靄がかかるような、生臭いにおいが沸き立っている。濃密な瘴気だ。それがこの上空にまで届いているということは――、
「おあつらえ向きだな」
自嘲。
敵が、湧いている。この夜景の闇に紛れて、有象無象にウジ虫が這い出てきている。
丁度いい。
「殺す!」
刹那、黒影は手すりからひと息に上空へ躍りでた。遅れて背中をかすめたのはソウの声だ。ツナギのポケットから鍵をつまんで、投げ返す。そのときにはもう、声は遠く届かない。下から吹きあがる風が、重い髪をおびただしくまき上げる。風圧が耳を塞ぎ犯す。
垂直に落ちてゆく。担いでいた大太刀の柄に手をかける。真下で響く羽音を、抜刀と共に回し斬ると、黒い刀身に夜景の色の粒が鮮烈に走り抜けた。パラサイトモスの鱗粉を払い、ふたつに分かれた胴体の片方を踏んで跳びあがる。壁面を駆け下り、合間の配管をとび越えて、悠々と踊る翅を、斬る。斬る。斬る。
殺す。
錆び腐ったような生臭い香りがする。嗚呼、汚い。
ひだのように重なった、ぶよぶよとやわい白蛾たる魔種の腹を裂く。弱い。
生命を黒い刃で凌辱する。くだらない。
ぞんざいに詰めこまれたおもちゃ箱のような街並みが視界を埋めるように迫ると、下水道の蓋から溢れるように、みっちりと、太いウジ虫が頭を振っているのが見えた。いくらかは坂道を赤子のようにたどたどしく上り、いくらかは細い路地をもじもじと幼気に這いずり、そしてそれらのどれもが、鋸刃のような硬い顎で、柱、手すり、階段、魔鉱灯――あらゆる金属に、齧りつく。
人もいくらか喰われたのだろう。顔もわからないがらんどうの死体が、ぼろきれのように打ち捨てられているのが見えた。
大太刀を走らせ、集合住宅の屋上へ不格好にのせられた貯水タンクを斬り放つ。圧力とともに弾けた激流が路地のウジ虫を攫い、ひとまとめに硬い壁面へぶつかって派手に潰れた。
「死に腐れ!」
鉄柱を蹴り、魔鉱灯に足を掛けて落下の衝撃を逃がしながら、真横へ跳ぶ。勢いのまま壁面を水平に走り抜け、路地上の群れを一太刀でまとめて裂く。群れを見つけては、ひと息で斬り伏せる。ここまでの順路は覚えていない。数もかぞえていない。敵がいれば斬る。刃を振りぬく。上空を飛ぶ成体がいれば、飛び上がり、ひさし、ベランダの鉄柵、壁――そして、上空へ抜けて、両断する。
やわい。弱い。
肌に触れる虫どもの体液はどろりと生臭く、ひどく不快だ。
不快でしかない。
それでも刃を持ちつづけるのは、たりないからだ。
生きている実感がたりない。ずっと咽喉が渇いているような飢えばかりが奥底を掻いている。いくら唾を飲みこんでも、痰がへばりついているようだ。この身もなにもかもが血腥い赤に淀み、白と黒に汚され続けているような気持ちの悪さがある。この思考はとうに、理性の形と意義を見つけられなくなって久しい。
世界の美しさが、なんだという。
他人の温かさが、なにを救ってくれる?
地面に降り立つ。どこから湧いたのか、醜く膨れあがったウジ虫が次から次へとこの皮と骨ばかりの身体へとびついてくる。
ぺたぺた、ぺとぺと。
ぺたぺた、ぺとぺと。
ぎちぎちと左右に開く、虫の咀嚼顎。
上あごの裏から、ぬるりと落ちた銀色の唾液が、露出した肩口に触れる。
どうしてか、それが兄の細い銀糸の髪のひと房に思えた。
「ワタシの――、」
いらだたしい。
「なにもかもを喰えるものなら、意地汚く喰い荒らしてみろ! このウジ虫共!」
拳をぶちこみ、そのまま石積の壁に殴りつける。
生命を、潰す。そのうちに、ビクビクと痙攣する顎から、赤く腐ったような体液が醜く溢れた。
「暴食と呼ばれるなら、死んでも食え」
内側でぐちゃぐちゃにまみれた拳をいっそう捻じこむ。
が、ソレはあまりにもあっけなく息絶えた。
「端から期待などしていなかったが……所詮、人がつけた言葉が独り歩きしただけのウジ虫か」
脈動が消え失せた虫をうち捨てる。
満たされることは、ない。
「黒影、こんなところにいた」
取りこぼしていた数匹を仕留めながら、遅れてソウが駆け寄ってきた。
「急にとび降りるんだもん。びっくりしちゃった」
怪我はないかと訊ねてくるソウに、舌打ちを返す。心配など毛ほどもしていないくせに、さぞ心配そうな表情を浮かべ、とうぜんのように訊ねてくる。
「このていどで死ぬとでも?」
大太刀の切っ先をかるくはらって、峰を肩口に担ぐ、背を向けて歩きはじめると、ソウは早足で追いかけてきた。となりに並び、
「そうじゃなくてさ。ナギさんが言ってたでしょ。白の境界線は瘴気が濃いから、いつも通りにいかないって」
と、杞憂を口にする。
「それがどうした」
じろりと睨むと、ソウは曲刀を背中の鞘におさめながら言った。
「君がいまと同じように身勝手に特攻すれば、この先、全員が死の危険にさらされることになる」
「弱いヤツは死ねばいい。仮にキサマが死ねば、そのていどのゴミ以下だったというだけだ。そのまま野垂れ死ね」
通り道に転がっているのは、死にかけの虫だった。踵で踏み潰して、先へゆく。
その死骸を踏まないようにまたいで、ソウはついてきた。
「俺が言いたいのは、もう少し周りのことを考えて行動してほしいってことなんだよ。君が取りこぼした魔物の始末をするのは俺だ。けど、それも限界がある」
――わずらわしい。
「なら」大太刀の柄を握りなおす。頭上で窓ガラスが内から押し出されるように、割れ弾けた。砕けたガラスとともに、ぷっくりと太った無数のウジ虫が、滝のように降ってくる。黒影はソウの頭上を通すように、刀身を大きく回して、なにもかも斬りとばした。
「ワタシがすべて斬る!」
「そういう話をしてるんじゃない!」
ソウは死に絶えた虫の群れと、汚れ腐った街を遠く見回した。
「君が行動した結果が、周りにどんな影響を与えるのかをちゃんと理解して、そのうえで協力してほしいんだよ」
澄んだ蒼穹の瞳が、真っすぐにこちらを見つめてくる。
「君にとって楽しくはないかもしれない。けど、必要なことなんだ」
「ならばキサマがもっと強くなれ」
とびこんできた気配を片手でわし掴む。
「ワタシが他に目移りしないほどに」
やわく汚い虫の首を握り、ソウの眼前へつきだす。
「キサマから目も心もなにもかも――それこそ、片時さえも惜しんで、離れがたくなるほどに」
「……強さだけで解決できるなら、俺はすなおにうなずいたかもしれないね」
ソウはつきだされた虫には一瞥もくれずに、こちらを真っすぐに睨みすえた。それから、どこか諦めたように目を伏せると、
「君は強い。それは事実だ」
息をついた。
すぐ横を通り抜ける彼の背中を、視線だけで追う。
「けど、」おもむろに足を止める。――りん、と鈴の音が鳴く。
ソウはツギハギの、狭く、歪な夜空を見上げた。鈴の音をなだめるように、傷だらけの手のひらでそっと、猫の面をなでる。
魔鉱灯に群れた白蛾の翅が、灯りを遮ったひとひらの間。一瞬の空白をたずさえた彼の横顔へ、夜闇が触れた。ばちん、とちから任せに捩じ切ったような不快な破裂音が耳を刺す。作られた灯りが消える。魔鉱灯の先端にとりつけられていた魔鉱石が、喰われたらしかった。
やがて、所在をうしなった虫どもは、いくつものかしましい羽音をこれでもかと打ち鳴らし、あちらこちらと方々に散っていく。そのくせ、次の灯りを見つけた瞬間、縋るように、あるいは歓喜の舞でも踊るかのごとく、新しい餌へ次々と飛びついた。そうしてまたひとつ、夜が腐り落ちる。
「俺には強さだけで生きられるような道なんて、なかったんだよ」
呼吸に付随して吐き出されただけの、ひどくなおざりな感懐は、次の餌をさがしまわる白蛾の波にかき消されてしまった。
――りん。
赤黒く汚れたはきだめの中で、愛らしい鈴の音がなる。
ソウはふりむいた。「なんてね」彼はくちもとに微笑をたたえていて、ややこまったように眉じりを下げていた。それから、はにかむように頬をわずかにかいて「俺は君のことも心配なんだよ。あんまり無茶してほしくないんだ」と、言ってのける。
「じゃあ俺は、ほかに逃げ遅れた人がいないか、向こうの方を確認してくるよ」
なんの気なしに、手すりをとびこえると、ソウは細い裏路地に降りて行った。
泰然と去る背中を睨んで、手元をにぎり潰す。骸をうち捨てる。虫の生臭い赤錆色が跳ね、頬を汚した。乱暴にぬぐう。頭を大きく振って背を向ける。血だまりが音をたてて波立つ。飛沫がさらに地面を汚す。奥歯を噛む。ぎりと不快な音が響く。
弱いウジ虫なら、死ねばいい。
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