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第四章
(四)光の粒
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蜘蛛の横糸のような髪が、耳元に垂れた。
肩口を擦って、まとわりつくように、するりと零れる。いくつも垂れこめたとき、ようやく頭上を覆う影を見上げた。
そこには、自分と同じような、真っ黒なふたつの眼が、ねっとりとこちらを覗きこんでいる。目の形も、よく似ている。だがその男の瞳は、いつも下まぶたにちからが入っていて、自分以外のなにもかもを、汚らしいと言わんばかりに見下げているようだった。
なによりもちがうのは、黒く濁りきった泥のような目をふちどっている毛色が、白銀である、ということだ。
――私がお前に望むものを与えてあげよう。
男の声は、広く大きく響いて、幾重にも反響する低さと、聴くだけで身がすくむような、不安定な鈍い揺らめきをたずさえている。
それはたとえば、楽団が紡ぐ演奏の中でも、最低音域を奏でる大きな弦楽器のようで、彼がひとつ言葉をこぼすたびに、こちらの指先から骨のなかまで、重低音に支配されていくような、そんな心地がした。
――おいで。私の大切な妹。たった一人の、大事な家族。
おそらく、優しく微笑んでいるつもりなのだろう。しかし、左右が不ぞろいに吊り上がる笑みは、慈しみなどという、およそ尊いであろう形の微笑みとは、似ても似つかない。
――お前の髪は黒くて美しいね。大切にしなくては。
泥のようなこの髪を、ひどく愛おしそうにすくっては、指に絡め、男は鼻先を近づけた。すぅと馨しそうに深く息を吸って、頬を寄せ、くちづけをおとす。
度し難い。
否、理解しようというのが、どだい無理な話だ。
なぜなら、この男は出会う前から、ひどく壊れている。親の愛を知らず、社会からつま弾きにされ、なにもかもから拒絶され――、
――私だけが、お前を愛せるんだよ。
――愛しい妹よ。
愛を語る。
――……。
ふ、とまぶたを開く。どうやらすこし、まどろんでいたらしい。
黒影は大太刀を抱えたまま、寝台に腰かけていた。枯れた細枝のような指先で、前髪をすくってかき上げるようにはらう。
この街での退屈な夜は、これで三日目になる。
だが、じきに戦いは始まる。早ければ今日。あるいは明日。それとも明後日か。パラサイトモスの幼虫が這い出てくるのを、待っている。地面を這うばかり、気味の悪い幼虫の腹の中身に興味はないが、退屈を無為に食いつぶすよりは余程良い。
大太刀の鞘へ、わずかに額を押しつけた。
ふつふつと、衝動が湧く。
焦燥が、内側を掻く。
まだ、もう少し、まだ、もう少し、まだ――おもむろに、四角く切り取られた窓外を見やった。
空には満月が浮かんでいた。
もう、すぐそこだ。
バベットウィアーの宿は、ここから見える都市型集合住宅と同じように、小さく同じ形の部屋が階層ごとにずらりと並び、それが縦に高く――数十階と積み上げられている。その中で一般客用の区画、旅人・冒険者用の区画と分けられ、それにならってラウンジや入口も明確に分けている。
たとえば、一般客用の玄関は大通りに面した間口の広い豪華なもので、冒険者に向けられた入口は、検問所から歩いて来たときに、目に入りやすい、一段低い道路に面した、いわば地下ともいえる場所に設けられている。
高低差に富み、複雑に入り組んだこの街のどこを基準にして地下、地上、あるいは階層をどのように数えるべきかは、甚だ疑問だが。
「黒影」
ノックのあとに、室内へ足を運び入れたソウ。彼の、初夏の日差しが似合うような声が、黒影を呼んだ。返事をする前にすこし間をあけ、言葉のつづきを待つ。もし、諸連絡だけなら、ソウはすぐに言うからだ。しかし、つづく言葉はない。だとすると、こちらになにか要望があるのだろう。
ようやく、
「なんだ」
と低い声を返すと、
「これから、酒場に行くんだけど、君も来る?」
ソウは澄んだ蒼色の眼差しに黒影を映して、そんなふうに微笑んだ。
おおかた、パラサイトモスの情報収集だろうが……いちいち見目の麗しさが眩しい。さらりと流れる金の髪は、陽光に触れた秋口の稲穂のように輝かしく、日焼けのない肌はなめらか。くちもとも血色がよく、つやつやとしている。
「ん」
ソウはわずかに首をかしげた。こちらのようすをうかがっているらしい。
人の多い酒場に行くのはいささか気が滅入るが、切れてしまった独り酒用の追加も欲しかったところだ。立ちあがって、大太刀を担ぎなおす。
しぶしぶ客室を出る。鍵をかけて、それはツナギのポケットに入れた。
先に部屋を出たソウは、数歩先のところで待っていた。
こぶしひとつぶんほど背丈が高いその姿は、いつ見ても背筋が美しく伸びている。細身で威圧感こそないものの、妙に泰然としていて、あいかわらず隙がない。ならび歩くのは癪だったが、どうやってもゆく先は同じだ。どこを歩いても人の視線を集めるこの見目麗しい男のとなりは、たいそう居心地が悪かった。
ほら見ろ、すれちがった誰もがソウのことを、ほうと見つめ惚けている。そのうえ、目が合ったら、花すらとろけ落ちてしまいそうな微笑をたずさえるものだから、あの従業員は、耳まで真っ赤にして息をとめた。向こうの女戦士は武器をとり落としたことにも気がつかず、口をあけたまま意識を失っている。あちらの渋い紳士は、わずかに一歩を踏みだした瞬間、ハッと我に返ったように壁へ頭を打ちつけると、節くれた分厚い両手でしおらしく顔をおおって、頭を振って逃げだした。
(この男は、美貌で人を殺しかねんな)
黒影は、長いため息をこぼした。
眉間にシワを寄せたまま、しかたなく、黙々ととなりを歩く。ソウはこちらに歩幅を合わせているらしかった。それもまた、無性に腹が立ってしかたがない。
廊下のつきあたりでナギとおち合い、それから三人そろって自動昇降機に乗った。
ナギが魔幽大陸の言葉で行きたい階層を伝えると、階層案内人は快い笑顔と共に自動昇降機のパネルを慣れたように操作する。
駆動音はとても小さい。身体にかかる圧力も少なく、それほど不快感がないのは、この街の魔鉱技術が高い証拠だろう。
魔鉱技術――それは、失われた古の魔導技術から生まれた、現代の叡智だ。いわば、枝葉の先にある果実とでもいえようか。
魔鉱技術が、太古のそれと大きくちがう点は、ふたつある。
ひとつは、魔鉱石を動力源として使用していること。
ふたつめは、特別な才能を必要とせず、特殊な技能もいらず、また使用に際して専門的な知識も不要。ごくごく簡単な操作方法さえ覚えてしまえば、ものによっては子どもでも使える革新的なもの。つまり、比較的安全で、かつ多くの人間があつかえる代物、というわけだ。
先進国ではあたりまえになりつつある魔鉱列車や魔鉱船。この自動昇降機、もっと身近なものを挙げるなら、魔鉱灯が魔鉱技術のいい例だろう。
黒影は、大陸と隔てられた魔幽大陸でも魔鉱技術が発展していることに驚いていた。
しかしながら、技術的な面を考慮しても、本来不要なはずの階層案内人がいるのは、自動昇降機がまだそれほど普及していないからだろう。
そこまで考えて、黒影は一度まぶたを閉じた。
自動昇降機がぐんと上がる。魔狩協会本部にも自動昇降機はあるから、いまさら驚くほどの感覚ではない。とはいえ、上昇していくときにかかる圧力は、やはり奇妙なものだった。あとどれほど乗っていればこの退屈は終わるだろうか。黒影はまた、目を開けた。
瞬間、パッと視界がひらけた。
「!」
思わず目を瞠る。
ガラス張りの分厚い壁の向こうに、密集したバベットウィアーの高い街灯りが広がっている。まるで光を編んだような光景だ。宵闇のなかで、無数の光の粒が高く連なって、向こうから、こちらまで。星空を間近に見ているようだった。
「うわぁ……奇麗だね」
ソウの瞳が大きくひらかれて、夜景のきらめきを映した。
この男は夜景まで似合うのか。なかばあきれながら、その横顔を眺める。
――本当に、文句のつけようもない美形だ。
成人しているかどうかくらいの幼い面差しのなかで、たおやかな眦が、凛と跳ねた形をしている。目じりがよく見えるせいだろうか。横顔は、すこし大人びて見える。それでも、せいぜい二十歳がいいところだ。
「冒険者用のラウンジは地下だろう。なぜ上へあがる」
言及する。対して、答えたのはナギだ。
「バベットウィアーの夜景は、魔幽大陸ではドリミアルに次いで美しいと言われているのですよ。せっかく来たんですから、見ないなんて、もったいないじゃないですか」
ナギは指を立てて、温良と笑った。そのためにわざわざ上がった、というのか。
息をついて、壁ぎわに身を寄せる。
「バベットウィアーの高層建築の多くは、複合型施設となっているのですよ。ひとつの建物で衣食住が揃うことはさながら、なんと地下では、生活廃棄物を利用したエネルギーの生成なども行っているんだとか。これこそまさに、魔幽大陸で発展した技術の結晶とも言えるでしょう。そしてさらにすばらしいのは――……」
いつも通り始まったナギのうんちくに耳を傾けているうちに、自動昇降機はゆるやかに停止した。おもむろに扉が開く。
「ついたよ」ソウが微笑んで、こちらに手をさし出してきた。
「なんのまねだ」
一瞥して、眉根を寄せると、ソウは「まぁ、そういう反応になるよね」と苦笑し、手をひっこめる。
彼はこともなげに「ついてきて」と昇降機から降りると、真紅の天鵞絨が敷かれた廊下を悠揚と歩きはじめた。ナギが跳ねるようにその後をついてゆくのを眺めてから、ややあって、しかたなくあとを追う。この大陸の言葉が話せない以上、ナギがいなければ、どのみち元の階層には戻れない。
今までよりもやや重厚な鉄扉の前で立ち止まると、彼はふりかえった。
「ここだよ」
言葉と共に、扉が開かれる。
夜の匂いがした。
襟足をさらうように大きく天風が吹き抜ける。まばたきをする。目を見ひらく。轟、と空を抜ける風の音がする。
一面の、光の粒。
「空が近い」
思わず手を伸ばすように、足を一歩、二歩と踏みだした。中空廊下の足元はガラス張りになっていて、ずっと下方の煌めきさえ透過している。まるで、空を歩いているかのようだ。手すりに触れ、身を乗りだすように見渡した。
「存外、大きい街だな」
昼間、密集し入り組んだ路地を三人で歩いていたときは、窮屈で矮小なものとばかり思っていた。それが、こうして見渡すと驚くほど遠くまで広がっている。
「だよね。昇降機の中から見るよりも、近くて、すごく大きく感じる」
ソウが微笑んだ。
「海のようだ」黒影は言葉をこぼした。
「海?」
「昔、叔父が幼いワタシをひき連れ、遠乗りで、夜明け前の漁港を見に行ったことがある。それらは魔鉱灯をいくつもぶら提げ、遠い海の上で揺られていた。曰く、特定の種の魚を集めて獲っているのだと」
海を見たのは、その時が初めてだった。暗く吸いこまれそうな波間の上で、美しく揺らめく漁船の灯りを鮮烈に覚えている。当時、それがなんなのかも、なんのために叔父がそれを見せたのかも、わからなかった。今でも、よくわからない。それを訊ねる前に、叔父も両親と同じように、亡くなってしまったからだ。
実際には手が届かないというのに、とても近く感じられた海は、かように美しかった。
――とはいえ、ずいぶんと幼いころの記憶だ。両親の顔さえまともに覚えていないのだから、この記憶さえ、およそ曖昧で、あてにならないだろう。きっと、無意味に美化されていることだろう。
だが、どうしてか、ずっと覚えている。
「すてきな思い出だね」
やわらかなソウの声が、ゆるやかにほどけた。
夜景もほどほどに、黒影はそのまま展望スペースへと連れられた。
展望台専用のラウンジを抜けた先にある、すこし奥まった、静かな窓ぎわの席。うながされ、やわらかなソファへ腰をおちつける。
やや低いガラステーブルは、天板の底が波うっているらしかった。水紋のような光の模様が大理石のタイルへ透過し、魔鉱灯の揺らめきに合わせて繊細に波立っている。
あらかじめ用意されているグラスと、カトラリー。そしてテーブル中央には、釣鐘状のすりガラスでおおい隠されたなにかがある。
「なんだこれは」
まぁまぁ、とこちらの疑義をさらりと流して、ソウは向かいに座った。すぐそばに控えていた給仕が、黒影、そしてナギの前に置かれたグラスへ白ワインをそそぐ。ソウの前には炭酸水が運ばれた。ころあいを見計らって、給仕がテーブルの中央に用意されていた釣鐘型の覆いをゆっくりと持ちあげる。
ふわり。
甘い香りが、豊かに広がった。
皿の中央では、精細な彩りが、小さなきらめきをまたたかせていた。ごくごく小さな、しかし繊細で美しいケーキが、宝石のように並び輝いている。ひとつは、ガーネットのように深く燃える幻想的な真紅と、夕暮れの温度を。ひとつはベリーの艶めきをなめらかにたくわえた、花園のごとき色彩を。あるいは――、
「君にとっては、退屈しのぎにもならないかもしれないけど」
彼の瞳のように、怜悧に、どこまでも澄み渡る、たおやかな蒼穹のような。
ソウは小さく笑う。彼はナギと視線を合わせうなずいた。
それから二人はこちらを向いて、
「「お誕生日おめでとう」」
と言う。
「……は?」
つい、眉根を寄せてしまった。
この反応に、ソウはややこまったように失笑している。
「誕生日……けっきょく教えてもらえなかったけど、せっかくなら、なにかしたいよねって、ナギさんと話していたんだよ」
「黒影ちゃんはあんまり食べないので、ごちそういっぱいでやったぁ! なんて難しいでしょうし。かといって、本を贈るにも、道中だと荷物になっちゃいますよね、とか」
ひきつぐように言ったナギに、ソウがうなずき返す。
「喜んでもらえるかはさておき、ちょっとは退屈しのぎになるかと思って」
(――……嗚呼、)
黒影は視線を伏せた。
ナギがグラスを持ちあげる。ソウもまた、持ちあげて、わずかにこちらへ傾ける。
黒影は、指先でグラスの持ち手をつまんだ。
(おそらく、)
やわらかな音をたてて、たがいのグラスは軽く触れた。
(幸福と、呼ぶべきなのだろうな)
芳醇な香りを、静謐に呑み下して。
自らの心の機微を、黒影は茫漠と見つめていた。
「もしかして、お祝いされるの、嫌いだった?」
食べ終わったころに、ソウ気遣わしげに、こちらをうかがい見た。
それはおそらく、黒影が大した反応――たとえば、バーカウンターで酒を嗜み、となりの男に触れながら、嬌笑と恋情を示す女や、あるいは、差し出された指輪を前に、透明な涙をこぼして幸福に満たされる女のような、およそ喜ばしいといった感情――を、見せないからだろう。
「嫌いではない」答える。
そして言う。
「……だが」
言いよどむ。
言いよどんでしまった。
息をつく。
告げる。
「ワタシには不要だ。二度としてくれるな」
言いきって、一度、まぶたを閉じる。
脳裏に描かれるのは、香りのよいグラスワインと、繊細に咲き輝いたひと口大のケーキ。
そして、ラウンジよりすこし離れた窓ぎわに用意された、静かな席。
それらの時間と空間は、黒影という個人の好みや性質を鑑みたうえで、相応の時間と思考を重ね、彼らが準備した結果だ。
理解はできる。
だが、返すことができない。
まぶたをひらく。からになった皿を一瞥して、立ちあがる。
享受してしまった事実を前に、わずかな棘が、喉の奥をちくちくと刺した。
「馳走になった」
それだけ伝えて、背を向ける。
すこしでも早くこの空間からはなれて、独りになりたかった。
「黒影どうしたの。もしかして具合悪い? 無理させちゃった?」
気遣いが、わずらわしい。
「くろか――、」
「部屋に戻る」食い気味に遮って、なかば強引に話を打ち切った。
嗚呼、不快だ。
肩口を擦って、まとわりつくように、するりと零れる。いくつも垂れこめたとき、ようやく頭上を覆う影を見上げた。
そこには、自分と同じような、真っ黒なふたつの眼が、ねっとりとこちらを覗きこんでいる。目の形も、よく似ている。だがその男の瞳は、いつも下まぶたにちからが入っていて、自分以外のなにもかもを、汚らしいと言わんばかりに見下げているようだった。
なによりもちがうのは、黒く濁りきった泥のような目をふちどっている毛色が、白銀である、ということだ。
――私がお前に望むものを与えてあげよう。
男の声は、広く大きく響いて、幾重にも反響する低さと、聴くだけで身がすくむような、不安定な鈍い揺らめきをたずさえている。
それはたとえば、楽団が紡ぐ演奏の中でも、最低音域を奏でる大きな弦楽器のようで、彼がひとつ言葉をこぼすたびに、こちらの指先から骨のなかまで、重低音に支配されていくような、そんな心地がした。
――おいで。私の大切な妹。たった一人の、大事な家族。
おそらく、優しく微笑んでいるつもりなのだろう。しかし、左右が不ぞろいに吊り上がる笑みは、慈しみなどという、およそ尊いであろう形の微笑みとは、似ても似つかない。
――お前の髪は黒くて美しいね。大切にしなくては。
泥のようなこの髪を、ひどく愛おしそうにすくっては、指に絡め、男は鼻先を近づけた。すぅと馨しそうに深く息を吸って、頬を寄せ、くちづけをおとす。
度し難い。
否、理解しようというのが、どだい無理な話だ。
なぜなら、この男は出会う前から、ひどく壊れている。親の愛を知らず、社会からつま弾きにされ、なにもかもから拒絶され――、
――私だけが、お前を愛せるんだよ。
――愛しい妹よ。
愛を語る。
――……。
ふ、とまぶたを開く。どうやらすこし、まどろんでいたらしい。
黒影は大太刀を抱えたまま、寝台に腰かけていた。枯れた細枝のような指先で、前髪をすくってかき上げるようにはらう。
この街での退屈な夜は、これで三日目になる。
だが、じきに戦いは始まる。早ければ今日。あるいは明日。それとも明後日か。パラサイトモスの幼虫が這い出てくるのを、待っている。地面を這うばかり、気味の悪い幼虫の腹の中身に興味はないが、退屈を無為に食いつぶすよりは余程良い。
大太刀の鞘へ、わずかに額を押しつけた。
ふつふつと、衝動が湧く。
焦燥が、内側を掻く。
まだ、もう少し、まだ、もう少し、まだ――おもむろに、四角く切り取られた窓外を見やった。
空には満月が浮かんでいた。
もう、すぐそこだ。
バベットウィアーの宿は、ここから見える都市型集合住宅と同じように、小さく同じ形の部屋が階層ごとにずらりと並び、それが縦に高く――数十階と積み上げられている。その中で一般客用の区画、旅人・冒険者用の区画と分けられ、それにならってラウンジや入口も明確に分けている。
たとえば、一般客用の玄関は大通りに面した間口の広い豪華なもので、冒険者に向けられた入口は、検問所から歩いて来たときに、目に入りやすい、一段低い道路に面した、いわば地下ともいえる場所に設けられている。
高低差に富み、複雑に入り組んだこの街のどこを基準にして地下、地上、あるいは階層をどのように数えるべきかは、甚だ疑問だが。
「黒影」
ノックのあとに、室内へ足を運び入れたソウ。彼の、初夏の日差しが似合うような声が、黒影を呼んだ。返事をする前にすこし間をあけ、言葉のつづきを待つ。もし、諸連絡だけなら、ソウはすぐに言うからだ。しかし、つづく言葉はない。だとすると、こちらになにか要望があるのだろう。
ようやく、
「なんだ」
と低い声を返すと、
「これから、酒場に行くんだけど、君も来る?」
ソウは澄んだ蒼色の眼差しに黒影を映して、そんなふうに微笑んだ。
おおかた、パラサイトモスの情報収集だろうが……いちいち見目の麗しさが眩しい。さらりと流れる金の髪は、陽光に触れた秋口の稲穂のように輝かしく、日焼けのない肌はなめらか。くちもとも血色がよく、つやつやとしている。
「ん」
ソウはわずかに首をかしげた。こちらのようすをうかがっているらしい。
人の多い酒場に行くのはいささか気が滅入るが、切れてしまった独り酒用の追加も欲しかったところだ。立ちあがって、大太刀を担ぎなおす。
しぶしぶ客室を出る。鍵をかけて、それはツナギのポケットに入れた。
先に部屋を出たソウは、数歩先のところで待っていた。
こぶしひとつぶんほど背丈が高いその姿は、いつ見ても背筋が美しく伸びている。細身で威圧感こそないものの、妙に泰然としていて、あいかわらず隙がない。ならび歩くのは癪だったが、どうやってもゆく先は同じだ。どこを歩いても人の視線を集めるこの見目麗しい男のとなりは、たいそう居心地が悪かった。
ほら見ろ、すれちがった誰もがソウのことを、ほうと見つめ惚けている。そのうえ、目が合ったら、花すらとろけ落ちてしまいそうな微笑をたずさえるものだから、あの従業員は、耳まで真っ赤にして息をとめた。向こうの女戦士は武器をとり落としたことにも気がつかず、口をあけたまま意識を失っている。あちらの渋い紳士は、わずかに一歩を踏みだした瞬間、ハッと我に返ったように壁へ頭を打ちつけると、節くれた分厚い両手でしおらしく顔をおおって、頭を振って逃げだした。
(この男は、美貌で人を殺しかねんな)
黒影は、長いため息をこぼした。
眉間にシワを寄せたまま、しかたなく、黙々ととなりを歩く。ソウはこちらに歩幅を合わせているらしかった。それもまた、無性に腹が立ってしかたがない。
廊下のつきあたりでナギとおち合い、それから三人そろって自動昇降機に乗った。
ナギが魔幽大陸の言葉で行きたい階層を伝えると、階層案内人は快い笑顔と共に自動昇降機のパネルを慣れたように操作する。
駆動音はとても小さい。身体にかかる圧力も少なく、それほど不快感がないのは、この街の魔鉱技術が高い証拠だろう。
魔鉱技術――それは、失われた古の魔導技術から生まれた、現代の叡智だ。いわば、枝葉の先にある果実とでもいえようか。
魔鉱技術が、太古のそれと大きくちがう点は、ふたつある。
ひとつは、魔鉱石を動力源として使用していること。
ふたつめは、特別な才能を必要とせず、特殊な技能もいらず、また使用に際して専門的な知識も不要。ごくごく簡単な操作方法さえ覚えてしまえば、ものによっては子どもでも使える革新的なもの。つまり、比較的安全で、かつ多くの人間があつかえる代物、というわけだ。
先進国ではあたりまえになりつつある魔鉱列車や魔鉱船。この自動昇降機、もっと身近なものを挙げるなら、魔鉱灯が魔鉱技術のいい例だろう。
黒影は、大陸と隔てられた魔幽大陸でも魔鉱技術が発展していることに驚いていた。
しかしながら、技術的な面を考慮しても、本来不要なはずの階層案内人がいるのは、自動昇降機がまだそれほど普及していないからだろう。
そこまで考えて、黒影は一度まぶたを閉じた。
自動昇降機がぐんと上がる。魔狩協会本部にも自動昇降機はあるから、いまさら驚くほどの感覚ではない。とはいえ、上昇していくときにかかる圧力は、やはり奇妙なものだった。あとどれほど乗っていればこの退屈は終わるだろうか。黒影はまた、目を開けた。
瞬間、パッと視界がひらけた。
「!」
思わず目を瞠る。
ガラス張りの分厚い壁の向こうに、密集したバベットウィアーの高い街灯りが広がっている。まるで光を編んだような光景だ。宵闇のなかで、無数の光の粒が高く連なって、向こうから、こちらまで。星空を間近に見ているようだった。
「うわぁ……奇麗だね」
ソウの瞳が大きくひらかれて、夜景のきらめきを映した。
この男は夜景まで似合うのか。なかばあきれながら、その横顔を眺める。
――本当に、文句のつけようもない美形だ。
成人しているかどうかくらいの幼い面差しのなかで、たおやかな眦が、凛と跳ねた形をしている。目じりがよく見えるせいだろうか。横顔は、すこし大人びて見える。それでも、せいぜい二十歳がいいところだ。
「冒険者用のラウンジは地下だろう。なぜ上へあがる」
言及する。対して、答えたのはナギだ。
「バベットウィアーの夜景は、魔幽大陸ではドリミアルに次いで美しいと言われているのですよ。せっかく来たんですから、見ないなんて、もったいないじゃないですか」
ナギは指を立てて、温良と笑った。そのためにわざわざ上がった、というのか。
息をついて、壁ぎわに身を寄せる。
「バベットウィアーの高層建築の多くは、複合型施設となっているのですよ。ひとつの建物で衣食住が揃うことはさながら、なんと地下では、生活廃棄物を利用したエネルギーの生成なども行っているんだとか。これこそまさに、魔幽大陸で発展した技術の結晶とも言えるでしょう。そしてさらにすばらしいのは――……」
いつも通り始まったナギのうんちくに耳を傾けているうちに、自動昇降機はゆるやかに停止した。おもむろに扉が開く。
「ついたよ」ソウが微笑んで、こちらに手をさし出してきた。
「なんのまねだ」
一瞥して、眉根を寄せると、ソウは「まぁ、そういう反応になるよね」と苦笑し、手をひっこめる。
彼はこともなげに「ついてきて」と昇降機から降りると、真紅の天鵞絨が敷かれた廊下を悠揚と歩きはじめた。ナギが跳ねるようにその後をついてゆくのを眺めてから、ややあって、しかたなくあとを追う。この大陸の言葉が話せない以上、ナギがいなければ、どのみち元の階層には戻れない。
今までよりもやや重厚な鉄扉の前で立ち止まると、彼はふりかえった。
「ここだよ」
言葉と共に、扉が開かれる。
夜の匂いがした。
襟足をさらうように大きく天風が吹き抜ける。まばたきをする。目を見ひらく。轟、と空を抜ける風の音がする。
一面の、光の粒。
「空が近い」
思わず手を伸ばすように、足を一歩、二歩と踏みだした。中空廊下の足元はガラス張りになっていて、ずっと下方の煌めきさえ透過している。まるで、空を歩いているかのようだ。手すりに触れ、身を乗りだすように見渡した。
「存外、大きい街だな」
昼間、密集し入り組んだ路地を三人で歩いていたときは、窮屈で矮小なものとばかり思っていた。それが、こうして見渡すと驚くほど遠くまで広がっている。
「だよね。昇降機の中から見るよりも、近くて、すごく大きく感じる」
ソウが微笑んだ。
「海のようだ」黒影は言葉をこぼした。
「海?」
「昔、叔父が幼いワタシをひき連れ、遠乗りで、夜明け前の漁港を見に行ったことがある。それらは魔鉱灯をいくつもぶら提げ、遠い海の上で揺られていた。曰く、特定の種の魚を集めて獲っているのだと」
海を見たのは、その時が初めてだった。暗く吸いこまれそうな波間の上で、美しく揺らめく漁船の灯りを鮮烈に覚えている。当時、それがなんなのかも、なんのために叔父がそれを見せたのかも、わからなかった。今でも、よくわからない。それを訊ねる前に、叔父も両親と同じように、亡くなってしまったからだ。
実際には手が届かないというのに、とても近く感じられた海は、かように美しかった。
――とはいえ、ずいぶんと幼いころの記憶だ。両親の顔さえまともに覚えていないのだから、この記憶さえ、およそ曖昧で、あてにならないだろう。きっと、無意味に美化されていることだろう。
だが、どうしてか、ずっと覚えている。
「すてきな思い出だね」
やわらかなソウの声が、ゆるやかにほどけた。
夜景もほどほどに、黒影はそのまま展望スペースへと連れられた。
展望台専用のラウンジを抜けた先にある、すこし奥まった、静かな窓ぎわの席。うながされ、やわらかなソファへ腰をおちつける。
やや低いガラステーブルは、天板の底が波うっているらしかった。水紋のような光の模様が大理石のタイルへ透過し、魔鉱灯の揺らめきに合わせて繊細に波立っている。
あらかじめ用意されているグラスと、カトラリー。そしてテーブル中央には、釣鐘状のすりガラスでおおい隠されたなにかがある。
「なんだこれは」
まぁまぁ、とこちらの疑義をさらりと流して、ソウは向かいに座った。すぐそばに控えていた給仕が、黒影、そしてナギの前に置かれたグラスへ白ワインをそそぐ。ソウの前には炭酸水が運ばれた。ころあいを見計らって、給仕がテーブルの中央に用意されていた釣鐘型の覆いをゆっくりと持ちあげる。
ふわり。
甘い香りが、豊かに広がった。
皿の中央では、精細な彩りが、小さなきらめきをまたたかせていた。ごくごく小さな、しかし繊細で美しいケーキが、宝石のように並び輝いている。ひとつは、ガーネットのように深く燃える幻想的な真紅と、夕暮れの温度を。ひとつはベリーの艶めきをなめらかにたくわえた、花園のごとき色彩を。あるいは――、
「君にとっては、退屈しのぎにもならないかもしれないけど」
彼の瞳のように、怜悧に、どこまでも澄み渡る、たおやかな蒼穹のような。
ソウは小さく笑う。彼はナギと視線を合わせうなずいた。
それから二人はこちらを向いて、
「「お誕生日おめでとう」」
と言う。
「……は?」
つい、眉根を寄せてしまった。
この反応に、ソウはややこまったように失笑している。
「誕生日……けっきょく教えてもらえなかったけど、せっかくなら、なにかしたいよねって、ナギさんと話していたんだよ」
「黒影ちゃんはあんまり食べないので、ごちそういっぱいでやったぁ! なんて難しいでしょうし。かといって、本を贈るにも、道中だと荷物になっちゃいますよね、とか」
ひきつぐように言ったナギに、ソウがうなずき返す。
「喜んでもらえるかはさておき、ちょっとは退屈しのぎになるかと思って」
(――……嗚呼、)
黒影は視線を伏せた。
ナギがグラスを持ちあげる。ソウもまた、持ちあげて、わずかにこちらへ傾ける。
黒影は、指先でグラスの持ち手をつまんだ。
(おそらく、)
やわらかな音をたてて、たがいのグラスは軽く触れた。
(幸福と、呼ぶべきなのだろうな)
芳醇な香りを、静謐に呑み下して。
自らの心の機微を、黒影は茫漠と見つめていた。
「もしかして、お祝いされるの、嫌いだった?」
食べ終わったころに、ソウ気遣わしげに、こちらをうかがい見た。
それはおそらく、黒影が大した反応――たとえば、バーカウンターで酒を嗜み、となりの男に触れながら、嬌笑と恋情を示す女や、あるいは、差し出された指輪を前に、透明な涙をこぼして幸福に満たされる女のような、およそ喜ばしいといった感情――を、見せないからだろう。
「嫌いではない」答える。
そして言う。
「……だが」
言いよどむ。
言いよどんでしまった。
息をつく。
告げる。
「ワタシには不要だ。二度としてくれるな」
言いきって、一度、まぶたを閉じる。
脳裏に描かれるのは、香りのよいグラスワインと、繊細に咲き輝いたひと口大のケーキ。
そして、ラウンジよりすこし離れた窓ぎわに用意された、静かな席。
それらの時間と空間は、黒影という個人の好みや性質を鑑みたうえで、相応の時間と思考を重ね、彼らが準備した結果だ。
理解はできる。
だが、返すことができない。
まぶたをひらく。からになった皿を一瞥して、立ちあがる。
享受してしまった事実を前に、わずかな棘が、喉の奥をちくちくと刺した。
「馳走になった」
それだけ伝えて、背を向ける。
すこしでも早くこの空間からはなれて、独りになりたかった。
「黒影どうしたの。もしかして具合悪い? 無理させちゃった?」
気遣いが、わずらわしい。
「くろか――、」
「部屋に戻る」食い気味に遮って、なかば強引に話を打ち切った。
嗚呼、不快だ。
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