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第三章
(五)夜明け
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「んー……」
ソウは小さくうなって、頭をわずかに揺らした。ひたいにごりごりとなにがかたいものが擦れるが、とがってはいない。すこし、温かい。ちょうどいい位置をさがして、すこしの間ぐりぐりと頭を動かしたが、そのうちにおちついて、また眠った。
鳥のさえずりが聞こえる。
温かみのあるしっとりとした香りが心地よい。包みこむような重みはあるものの、甘くはない。たとえるなら、春の陽ざしをいっぱいに浴びた犬の背へ顔をうずめたときのような……それでいて、ほのかにせっけんの香りのような清潔感が、ふわりとただよう。
朝の光を肌に感じながら、じっと包まれていると、身体のはしっこからほどけて、胸の奥のもっと深いどこかさえ、安息に満たされていくような気がした。
最近にしてはめずらしく、ゆるやかで贅沢な朝だ。せっかくだから、夢見ごこちのまま、もう少しまどろんでいたい。とろりと息をすう。
(ああ、この匂いはよくないな。心地がよくて、ずっと寝てしまう)
ソウは顔をうずめたまま、小さく息をはいた。
(ご飯の準備を……仕事行かなきゃ……)
起きなければ、と考えるものの、思考がうわすべりして消えてゆく。
やらなければいけないことはなんだっただろう。
(ああ、ちがう。今は魔幽大陸にいて……俺は、帰らなきゃいけなくて……)
ソウは触れている鼓動に頬をすりよせた。
さらりとした触り心地がほどよくなじむ。そのまま手のひらをすべらせると、薄くやわらかな手触りの奥に、骨ばった凹凸が感じられ――……、
「ん?」
まぶたを開く。眼前は白い。
「んん?」
おもむろに、自分の手を引き寄せる。すると指先にゆるりと絡まっていた黒い髪が重たくこぼれ、ちいさく静かな音をたてた。
横たわったまま、そっと視線をめぐらせる。眼前にあるのは、静謐に閉ざされた切れ長の瞳。目じりの長いまつげは、いつもよりもぐっと精細に見える。鼻筋はすっと通っていて、唇は薄く小さい。この温かな香りは、黒影のものらしい。
そこでようやく、ソウは自分が置かれている状況を認識した。
ここは、黒影の腕の中だ。
彼女の腕のなかに、自分はいる。
「ひ!」
とび起きて身を引く。瞬間、壁に後頭部をぶつけ、ゴッ、と鈍い音と衝撃が脳へ響きふるえた。
「痛っつう……」
後頭部を押さえてうずくまり、数十秒。
「なんなんだよもう……びっくりした……」
ぶつけた頭をさすりながら、ひとまず身体を起こして胡坐をかく。心臓に悪いな、と息をついて、寝るまえの記憶を探り――、
「……」
ソウは頭をかかえた。まだ眠ったままの黒影を半眼で見やって、さらにため息を重ねる。
(十歳以上も年下の女の子にあやされるとか……大人としてどうなんだ……いや、たしかに彼女も成人してはいるんだけども、そういう話じゃなくて……)
きまりが悪い思いをかかえたまま、ソウは黒影の寝顔をながめた。
熟睡しているからか、それとも差しこんだ朝のまばゆい光のせいか、いつもよりも顔色は良く見える。常日頃、眉間に寄っているシワはみられず、寝顔は想像していたよりも安らかだ。
(静かだなぁ。さっきは死んでるのかと思っちゃった)
薄い肩がわずかに上下しているから、息はしているらしい。
わずかに動いた彼女の指先――その爪のなめらかな曲線へ、ソウの視線は向いた。枯れ枝のような指先の色艶は浅く白けていて、健康状態が良くないことは見てとれる。しかし、意外にも爪の先は綺麗に整えられていた。
(爪の形は縦長なんだ)
黒影といえば、いつも、長く伸び落ちた艶のない髪を引きずり、斜にかまえた立ちかたをしていて、飾り気のない細身のツナギに、地味な大太刀がひと振り。口をひらけば辛辣な暴言か拒絶――、そんな凶暴で無骨なようすばかり印象づいていたものから、整えられた爪の曲線美ひとつに、思わず感心してしまった。
と、切れ長の瞳が、ゆるやかにひらいた。
「あ……えーっと、おはよう?」
笑みを浮かべながら、首をかたむける。
黒影は、じぃっと、こちらを凝視した。
「あの、大丈夫?」
刹那。
長い髪を跳ね上げるようにとび起きた彼女は、真っ黒な瞳をこれでもかと見開くと同時に硬直した。視線が左右に振れる。室内を見渡す。そしてまたソウを見つめて――、
「ああ、」
いつも通りの、黒いまなざしへ戻った。
肩の力を抜いて、一度うなだれるように頭を振り、片手でわずらわしそうに前髪をかき上げる。「寝てしまったか」と一言。それから、ずいぶんと長いため息をこぼした。
「よく眠れたみたいだね。顔色、いつもより良く見えるよ」
今一度毛布にくるまった黒影は眉間にシワを深く刻み「おかげさまでな」皮肉をこめるように言った。彼女はスッと立ちあがり、音もなく歩くと、干していたツナギに触れた。どうやら、乾いているかどうかを確認したらしい。
そしておもむろにふりかえり、こちらを見つめた。
「なに?」
恬然と首をかしげる。対して黒影は視線をそのままに、薄い唇をひらいた。
「……寒いと、ソレは縮むのだな」
沈黙と空白。
そして一瞬の、思考停止。
「――――ッ!」
「実物を見たのは初めてだ」
服をとりながら、黒影は変わらない表情で、しかしやや関心したように言った。
「淡々と言わないでくれるかな!」
「とっとと服を着ろ。風邪をひくぞ」
「そういう話じゃない!」
こちらに投げこまれた服を急いで着こんでから、首元の金具を留る。
「ともかく」
ソウは自身の失態をごまかすように咳ばらいをした。
「成人して間もない女の子が、そういう……いや、君がなんであれ、他人の局部をまじまじと観察するのはやめなさい。君だって不躾に見られるのは嫌でしょうが」
室内に架け渡していた麻縄も手早くまとめて棚に置き、使用した薪ストーブの掃除もひと通り済ませてしまう。
ツナギのコンシールファスナーを襟もとまで閉じた黒影は、髪をひとまとめにしてはらうと、視線をぐるりと動かしておもむろに大太刀を担ぎ――、ややあって「ああ」となにか納得したようにうなずいた。
「以降は事前に許可をとる。これでかまわんか」
「そういう問題じゃないし俺は絶対に許可しないからな!」
ソウの言葉に、黒影はやや眉根を寄せ、口をへの字に曲げた。
「つまらなさそうな顔しない! じゃあ聞くけど、もし俺が見せてって言ったら君はどうするつもりなのさ」
「踏み殺す」
「矛盾がすぎるよ!」
ソウは叫んでから、頭をかかえ、長いため息とともに肩を大きく落とした。
「もう本当に色々、どうかと思う……」
ソウは小さくうなって、頭をわずかに揺らした。ひたいにごりごりとなにがかたいものが擦れるが、とがってはいない。すこし、温かい。ちょうどいい位置をさがして、すこしの間ぐりぐりと頭を動かしたが、そのうちにおちついて、また眠った。
鳥のさえずりが聞こえる。
温かみのあるしっとりとした香りが心地よい。包みこむような重みはあるものの、甘くはない。たとえるなら、春の陽ざしをいっぱいに浴びた犬の背へ顔をうずめたときのような……それでいて、ほのかにせっけんの香りのような清潔感が、ふわりとただよう。
朝の光を肌に感じながら、じっと包まれていると、身体のはしっこからほどけて、胸の奥のもっと深いどこかさえ、安息に満たされていくような気がした。
最近にしてはめずらしく、ゆるやかで贅沢な朝だ。せっかくだから、夢見ごこちのまま、もう少しまどろんでいたい。とろりと息をすう。
(ああ、この匂いはよくないな。心地がよくて、ずっと寝てしまう)
ソウは顔をうずめたまま、小さく息をはいた。
(ご飯の準備を……仕事行かなきゃ……)
起きなければ、と考えるものの、思考がうわすべりして消えてゆく。
やらなければいけないことはなんだっただろう。
(ああ、ちがう。今は魔幽大陸にいて……俺は、帰らなきゃいけなくて……)
ソウは触れている鼓動に頬をすりよせた。
さらりとした触り心地がほどよくなじむ。そのまま手のひらをすべらせると、薄くやわらかな手触りの奥に、骨ばった凹凸が感じられ――……、
「ん?」
まぶたを開く。眼前は白い。
「んん?」
おもむろに、自分の手を引き寄せる。すると指先にゆるりと絡まっていた黒い髪が重たくこぼれ、ちいさく静かな音をたてた。
横たわったまま、そっと視線をめぐらせる。眼前にあるのは、静謐に閉ざされた切れ長の瞳。目じりの長いまつげは、いつもよりもぐっと精細に見える。鼻筋はすっと通っていて、唇は薄く小さい。この温かな香りは、黒影のものらしい。
そこでようやく、ソウは自分が置かれている状況を認識した。
ここは、黒影の腕の中だ。
彼女の腕のなかに、自分はいる。
「ひ!」
とび起きて身を引く。瞬間、壁に後頭部をぶつけ、ゴッ、と鈍い音と衝撃が脳へ響きふるえた。
「痛っつう……」
後頭部を押さえてうずくまり、数十秒。
「なんなんだよもう……びっくりした……」
ぶつけた頭をさすりながら、ひとまず身体を起こして胡坐をかく。心臓に悪いな、と息をついて、寝るまえの記憶を探り――、
「……」
ソウは頭をかかえた。まだ眠ったままの黒影を半眼で見やって、さらにため息を重ねる。
(十歳以上も年下の女の子にあやされるとか……大人としてどうなんだ……いや、たしかに彼女も成人してはいるんだけども、そういう話じゃなくて……)
きまりが悪い思いをかかえたまま、ソウは黒影の寝顔をながめた。
熟睡しているからか、それとも差しこんだ朝のまばゆい光のせいか、いつもよりも顔色は良く見える。常日頃、眉間に寄っているシワはみられず、寝顔は想像していたよりも安らかだ。
(静かだなぁ。さっきは死んでるのかと思っちゃった)
薄い肩がわずかに上下しているから、息はしているらしい。
わずかに動いた彼女の指先――その爪のなめらかな曲線へ、ソウの視線は向いた。枯れ枝のような指先の色艶は浅く白けていて、健康状態が良くないことは見てとれる。しかし、意外にも爪の先は綺麗に整えられていた。
(爪の形は縦長なんだ)
黒影といえば、いつも、長く伸び落ちた艶のない髪を引きずり、斜にかまえた立ちかたをしていて、飾り気のない細身のツナギに、地味な大太刀がひと振り。口をひらけば辛辣な暴言か拒絶――、そんな凶暴で無骨なようすばかり印象づいていたものから、整えられた爪の曲線美ひとつに、思わず感心してしまった。
と、切れ長の瞳が、ゆるやかにひらいた。
「あ……えーっと、おはよう?」
笑みを浮かべながら、首をかたむける。
黒影は、じぃっと、こちらを凝視した。
「あの、大丈夫?」
刹那。
長い髪を跳ね上げるようにとび起きた彼女は、真っ黒な瞳をこれでもかと見開くと同時に硬直した。視線が左右に振れる。室内を見渡す。そしてまたソウを見つめて――、
「ああ、」
いつも通りの、黒いまなざしへ戻った。
肩の力を抜いて、一度うなだれるように頭を振り、片手でわずらわしそうに前髪をかき上げる。「寝てしまったか」と一言。それから、ずいぶんと長いため息をこぼした。
「よく眠れたみたいだね。顔色、いつもより良く見えるよ」
今一度毛布にくるまった黒影は眉間にシワを深く刻み「おかげさまでな」皮肉をこめるように言った。彼女はスッと立ちあがり、音もなく歩くと、干していたツナギに触れた。どうやら、乾いているかどうかを確認したらしい。
そしておもむろにふりかえり、こちらを見つめた。
「なに?」
恬然と首をかしげる。対して黒影は視線をそのままに、薄い唇をひらいた。
「……寒いと、ソレは縮むのだな」
沈黙と空白。
そして一瞬の、思考停止。
「――――ッ!」
「実物を見たのは初めてだ」
服をとりながら、黒影は変わらない表情で、しかしやや関心したように言った。
「淡々と言わないでくれるかな!」
「とっとと服を着ろ。風邪をひくぞ」
「そういう話じゃない!」
こちらに投げこまれた服を急いで着こんでから、首元の金具を留る。
「ともかく」
ソウは自身の失態をごまかすように咳ばらいをした。
「成人して間もない女の子が、そういう……いや、君がなんであれ、他人の局部をまじまじと観察するのはやめなさい。君だって不躾に見られるのは嫌でしょうが」
室内に架け渡していた麻縄も手早くまとめて棚に置き、使用した薪ストーブの掃除もひと通り済ませてしまう。
ツナギのコンシールファスナーを襟もとまで閉じた黒影は、髪をひとまとめにしてはらうと、視線をぐるりと動かしておもむろに大太刀を担ぎ――、ややあって「ああ」となにか納得したようにうなずいた。
「以降は事前に許可をとる。これでかまわんか」
「そういう問題じゃないし俺は絶対に許可しないからな!」
ソウの言葉に、黒影はやや眉根を寄せ、口をへの字に曲げた。
「つまらなさそうな顔しない! じゃあ聞くけど、もし俺が見せてって言ったら君はどうするつもりなのさ」
「踏み殺す」
「矛盾がすぎるよ!」
ソウは叫んでから、頭をかかえ、長いため息とともに肩を大きく落とした。
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