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第三章

(四)滔々

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 色がわからない。白がまちがい。そうだ白はまちがっている。白だけが悪い。白が。白色が。白が、ぜんぶ悪い。わからない。色がわからない。どうして。なんで。ちがう。ずれている。なにが。ぜんぶ。どこからまちがった。なにがいけなかった。
 うわすべりしてゆく。

 たぶんこれは、感情だ。

「おい!」
 鼓膜を破りそうなほどの大声に、視界が明滅した。白に、黒に、湾曲して、ねじれて、また白くなって、ちかちか、ちかちかと、痛いぐらいにまたたく。
「ぇ、あ……?」
「息をしろ馬鹿者!」

――息? 息って、どうするんだっけ。

 ききかえそうとしたが、うまく声にならなかった。代わりに、笛の音のようなか細い音が通り抜ける。けれどその音もよくわからない。音が遠い。自分だけ遠い世界に隔離されてしまったみたいに、なにもかもが、わからない。

――あれ、おかしい。うまく、いかない。
――おかしい? ああ、うん。おかしい。おかしいのは俺だ。俺がおかしいから、おかしい。

 そのときだ。
 ぐいとちから強く引きよせられ、次いでなにかに包まれる。骨ばった肌がソウの頬に触れたとき、それがやわく脈動していることに気がついた。
 耳鳴りが淡く沈む。
 自分の不可解な呼吸音ばかりがやかましく打ちつけていた聴覚に、ゆるやかな呼吸の音が混ざり、そのうちに規則的な心音で満たされた。

――トン、トン、トン。

 背中に温かさが触れるごとに、ソウは身体の境界をとりもどしていく感覚を覚えた。荒波に呑まれるように湾曲していた視界もそのうちに凪いで、やがてほどけるように色がもどってくる。
(息ができる……)
 ようやく自分の身体が現実におちついたころ。ふと、頭のてっぺんで、つむじを分けるように黒影の声が響いた。
「おちついたか」
「……ああ、うん、ごめん。いろいろ思いだしちゃって、混乱した」
 ソウは薄い肌に額をうずめるように、細く息をこぼした。情けない。こんな醜態を、まだ成人して一年も経っていない子になだめられるなんて。
「俺さ、他人の唇が苦手なんだ」
 息とともにぽつりと漏れた自分の言葉にはたと気づいて、ソウは口を閉ざした。
 しかし沈黙が長く続くほど、ふれあった肌の温度を生々しく感じてしまう。咽喉のどのずっと奥が軋んで、身体が硬く閉ざされていく。
 再びふるえそうになった指先にするりと手を重ね、それからやわく身体を離したのは黒影だった。
「つまらん話をしてやる。子守歌、というにはいささか具合のよくない話だが」
 キサマの雑多な思考を休めるには十二分だろう、と黒影は言った。彼女はごろりとあおむけになって、暗い天井をつまらなさそうに見あげる。
「ワタシが六歳のころ、両親は流行り病で亡くなった。今となってはろくに両親の顔も思いだせん。もとよりそこまでかかわりなどなかったが……思いだせるとすれば、せいぜい乳母の顔くらいだ。
 ただ、可愛がられてはいたのだろうな。まるで着せ替え人形のようだ、といつも思っていた。都合が良ければ褒められる。愛とやらを体現した宝物、とでもいうようなこの命は、気持ちの悪いただの副産物だ」
 まるで他人事のように、黒影は滔々とうとうと話した。言葉ほどの侮蔑が含まれているようすはなく、とくべつに過去をみ嫌っているような素振そぶりも見られない。
 おちついた静かな声色は、夜を満たす海の波間のようだ。女性にしては低く、よどみのある声。冷たい、というほどではないが、温かいわけではない。鋭利ではない黒影の音は心地がいい。
「ワタシは両親が亡くなってから、遠くに住む兄にひきとられた。
 兄は蜘蛛の横糸のような、銀色に光る髪をしていたから、うんと赤子のころに捨てられ、そのまま誰に名付けられることもなく育ったらしい。どのように生きてきたのかはワタシも知らん。兄はそういったたぐいのことを、わざわざ他人に語ってきかせるような人間ではなかったからだ。
 ただ、初めて兄の姿をみたとき、これが家族に捨てられ、周囲からうとまれ、愛に飢えた人間の末路か、と、漠然とさとった。それほどに、兄は最初から壊れていた。兄は社会を憎み、周りの人間を矮小なものと決めつけることで、自分を守っているようだった。
 さて、兄は初めてできたワタシをたいそう可愛がったが、どうにもことに満足しているらしかった。ワタシは兄を見つめていたが、兄は妹という概念に愛をそそいでいるだけだった。
 兄妹というには些かイビツな、家族ごっこのような関係だ。それでも、寄るのないワタシには、他にこれほど都合の良い居場所などなかった。だから、酔狂すいきょうな兄妹ごっこにつきあってやろう、と思ったわけだ。
 それから、たいした希望も未来もない新しい生活が始まった。
 不気味な兄のいる研究室はいつも暗く湿気ていた。その空間で息をするほどに、肺にカビが生えるのではないかと、よく疑ったものだ。研究に没頭する兄はワタシに対してさほど興味もなければ、他にろくな遊び相手もいない。ひどく退屈ではあったが、しかし、ひと時の感情を満たしてくれるものは見つけた。兄の書庫だ。理解しがたいものばかりだったが、知恵がつくうちにそれらも理解できるようになり、楽しみのひとつになったわけだ」
 いつになく饒舌じょうぜつな彼女は、終始落ち着いている。敵意もなければ、狂喜ににじむようすでもない。もしかすると、これが本来の黒影なのだろうか。ふたたび眠気が混ざってきたころあいに、ふとそんなことを考えるも、すぐに否定した。
 どれが本来、ということはない。敵を前に過激に笑う彼女も、侮蔑をにじませる表情もまた、黒影だ。現に彼女は、ライのことを家畜呼ばわりし、嘲笑あざわらった。
 いま目の前で静かに言葉を紡ぐ彼女のようすもまた、ひとつの側面であって、それだけを都合よく見ようものなら、あとで痛い目をみる。
「――ワタシは、名を呼ばれた覚えがない」
 おもむろに沈んだ声をきいて、ソウは目をみはった。
 言葉を紡いだ薄い唇が、長いまつげの先が、ほんのわずかだけ、寂しそうに見えたからだ。
 息をついて、黒影は一度まぶたを閉じた。
 それがただの思案なのか、もの思いにふける表情なのか、それとも、もっと別の――たとえば、人間らしく感傷に浸るという――ものなのかは、知るよしもない。
 長いまつげの先が、しずかにあがった。ひらかれたまぶたの奥には、依然として変わらない黒色があるだけだ。
「……皮肉なことに、ほどなくしてワタシもまた流行り病に伏せた。しくも両親の命を奪ったものと、同じ病だ」
「それってもしかして……」
「ああ、瘴気症だ。そのころにようやく瘴気症に効く薬が開発されたが、実用化にいたるまでにまだ半年ほど必要だったわけだ。瘴気症は早ければ発症して数時間もしないうちに白亜化が始まり、そのうちに死ぬ」
 そういう病だ、と黒影は嘆息した。
「ワタシは幾日も生死の境をさまよったが、幸い白亜化にはいたらず、一命をとりとめた。研究のために医術を学んでいた兄の対処も功をそうしたのだろうな」
「その身体は、瘴気症の後遺症?」
「ああ。医者の見立てでは、ワタシは二十歳まで生きられないらしい。むしろ、十五の成人をむかえられただけでも奇跡だと」
 黒影は肯定した。
「どうして、そんなことを話してくれるの」
「今のキサマなら、いつものような気色の悪い、安い同情などしないだろう、と判断したまでだ。ただの気まぐれにすぎん」
「ひとつ訊いてもいいかな」
 なんだ、とわずらわしそうな声が返ってきた。
 その調子に安堵を覚えてしまうのは、きっと黒影がこちらになにも期待していないからなのだろう。
「戦いのなかで、君はとても楽しそうに見える。それはどうして?」
「……先ほど、生死の境を彷徨さまよったと言っただろう。朦朧もうろうとして、延々と続くような苦痛にさいなまれるなかで、ワタシは初めて生きているのだと実感した。
 笑いかけられようとも、愛をそそがれようとも、すべてうわすべりして霧散していくようなうつろばかりの世界に色があると知った。ワタシは生きたいと強く願った。
 せいへの渇望。死への恐怖。それらに付随ふずいする感情思考と感覚が、ワタシという存在を証明している。それを感じる瞬間だけ、ワタシはどこまでも満たされる」
「……わからないな」
「理解されようなど思わん。……どうせ短い命だ。湿気た世界でのうのうと死にながら生きるより、痛烈で何よりも鮮やかな本能のなかで死にたい。最後までワタシは生きていたい」
「こういうのは失礼かと思うんだけど、ちょっとだけうらやましいな」
 ソウはまどろみのなかで、ぽつりと言った。
「そんなふうに強く生きられる君が、ほんのすこしうらやましい」

――ほかに守るモノのない君が。
――自分でいられて、そうあるように進める君が。

 ぼんやりとした思考に溶けこむように、声だけが響いた。
「……ワタシはあさましい欲望を、底なしに喰らっているだけだ」
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