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第二章
(九)足音
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音がきこえる。
いつも音をきいている。
うなるような重低音。反響する鉄の硬い音。下の酒場で飲む粗野な男どもの、煩雑な声。サイドテーブルでカタカタとふるえる水差しが、すこしうるさい。黒影は寝台の上に腰かけたまま、眉間のシワをいっそう深くした。
足音がきこえる。数はひとつ。
薄く片目をひらいて、見えない扉の向こうを見やった。淡々としながらも、どこか刺すようにピリピリと張りつめるこの気配は、ソウだ。
ここ数日間、ソウがナギとともにこの冒険者の宿の一階――併設されている酒場へ降りていることは、黒影も知っている。魔導武具の調整が終わるまでの間、ナギの情報収集につきあっているらしい。しかし、いずれの日も、ソウが酒を飲んで戻ってくることはなかった。魔幽大陸の言葉をすこしでも覚えておきたいのだと、そんな話をしていたような気もするが――、なんにせよ、生真面目なヤツだ。
時計の針を見やると、今夜はいつもより遅い時間を示していた。
あの見た目だ。威圧感もなければ、周囲から軽視もされよう。面倒な輩に捕まったか、それともナギの長話を延々と聞かされたか。どのみち、あまり興味もないことだが。
廊下を歩いてくるひとつの気配に、黒影は違和感を覚えた。彼の足音はいつも規則的で軽快。隙がなく、単調としているはずだ。しかし、今夜はどこかどろりと遅く、重い。特徴的な鈴の音も不規則だ。――コンコン、扉が叩かれる。いつも返答はしないのだから、そのうちに入ってくるだろう。
黒影はまぶたを閉じた。
しかしいつまでたっても扉はひらかれない。壁向こうにじっと気配があるのがわずらわしく、いらだってきた。たえきれず寝台から降りて、ツカツカと扉へ向かって歩きながら、抱えていた大太刀を背中に担ぎ、そしてドアノブを乱暴につかんで回しひいた。
瞬間、開いた扉からなだれこむようにもたれかかってきたのは、黒影よりも拳ひとつぶん背丈の高い、ソウだった。
「なっ……んだキサマ!」おもわず床へ投げ倒す。「叩っ斬るぞ!」
「っつぅ……乱暴……」
彼はのそりと身体を起こして、ぶつけた頭をさすった。それから猫のように、くぁ、とあくびをまぜて、上半身を揺らす。
「ううん、なんか、ふわふわしてて……ああ、黒影か。元気だね」
ちからがあまりはいらないのか、頭をさすっていた腕はすぐにだらりと下げられた。
ふわりと香った匂いに、黒影は眉根をよせる。
「酒を呑んだのか」
「ん~……」ソウはあいまいにうなずいた。
誰になにを勧められても、美人な女どもにかこまれても、下戸だ飲めない飲まないの一点張りだった男が、いったいどんな心変わりをしたというのか。
「なにを飲んだ」
「一番、辛いの」
この店で一番辛いものといえば、水瑠地方から仕入れられたという地酒だ。喉に触れると咽るほど辛く、食道が焼けるほどに熱をおびる。その度数は、ふだん酒を飲まない者が気まぐれに手をだすようなものではない。
いつまでも立ちあがらないソウに肩をさしだして、立ちあがる。細身だとはいえ、百八十センチメートルを超える成人男性だ。重くないわけがなかった。すこしよろめくが、どうにか歩けそうだ。
「どれくらい飲んだ」
「わかんない」
黒影は眉間のシワを深くした。ソウは食事の好き嫌いを基本的に見せないものの、刺激のある味を好んで食べることはない。すくなくとも、今まで見てきた中では、そうだった。だというのに、このバカは、辛い酒をどれほど飲んだかわからなくなるほど飲んだと、そう言っているのか。
「水は飲んだのか」
「んー……」ソウは黒影の首もとへ顔をうずめるように、頭をかたむけて、悩んだようだった。察しはついていたが、このようすでは水もまともに飲んでいないのだろう。
あきれた。
「この阿呆め」
息をついて、ソウを寝台へ放りだし、黒影はサイドテーブルの水差しに手を伸ばした。
そのときに、ちょうど背後でこもるような声が、ぽつりと響いた。
「辛くて、ちょっと安心したんだ」
黒影は片眉をぴくりとはねあげた。グラスへ水をそそいでふりかえると、ソウは寝台に腰かけたまま、膝を抱えるようにうずくまっている。
「水を飲め。身体に障る」
ぼんやりと顔を上げたソウの眼前に、水をつきだす。彼はすこしの間ぼんやりとしていたが、意図を理解したのか、にへら、とふやけた笑みをうかべると「ありがとう」と、傷だらけの手で受けとった。彼はややあって、ゆっくりとグラスをかたむけ、水を飲みはじめた。
そのようすを確認してから、黒影はてきとうな桶を寝台の近くに置いて、大太刀を壁に立てかけた。ひとりぶんの距離をあけて、となりへ腰かける。
「意外とやさしいね」
「酒は安心を買うものではない。吞まれるな」
「はは、君もまともなこと言うんだ」
「叩っ斬るぞ」
軽口が言えるならまだ大丈夫だろうが――もし酒に弱い体質で、急性の中毒症状でも出たらどうするつもりだったのか。死んでしまえば殺しあいすらできないというのに、この男は。
「空きっ腹に入れるな。酒の飲み方も知らん阿呆め」
「――……」
ソウの動きが軋んで、止まった。その沈黙こそ、彼を雄弁に語っている。
「すこし痩せたろう」
「そうかな?」
グラスの水は、ほんのすこしだけ揺れている。
黒影は足を組んだまま頬杖をつき、ソウを見やった。
「自己犠牲は美徳にならんぞ」
「……大規模討伐作戦の話?」
ソウはすまし顔で、グラスに口をつけた。
「最善手を選択しただけだよ。必要なときに必要な犠牲を払うのは、あたりまえでしょ」
いとも簡単に、そして軽く言いきった。
(自分を犠牲にすることが前提の最善手すら、あたりまえと言ってのけるか)
利口そうな蒼色は、微々ともふるえていない。
ソウはまつげを伏せるように、またグラスをかたむけた。彼の手には、薄紅色の火傷痕がある。手のひらから枝分かれして広がる火傷痕を見れば、多くの古い魔狩は言うだろう。男の勲章だ、と。そして、彼の美貌にあてられ、かつその半生を知る者は、深く同情し、また放ってはおかないだろう。
だが。
だが、その火傷痕は醜いことに変わりはない。このイビツさを抱えながら――同時にそれらを自らの印象操作のために利用し――あたりまえに、あたりまえを装う気色の悪いヤツ。それがソウという男だ。
「キサマが思うよりもずっと、ワタシは、ソウという人間を見つめている」
「なに、それ」ソウは軽く笑ったものの、視線はうつむいたままだ。彼は、こちらの視線をさえぎるように、さらりとこぼれた横髪をそっと耳にかけなおした。
「八重歯が思いのほか鋭いことも、髪の生えぎわに、目立たない白髪がひとふさ混ざっていることも」
「よく見てるね」
「それから、左耳の裏にほくろがある」
「え、嘘。そんなのあるの」
ソウはおどろいたように左耳をおさえて、こちらに丸い瞳を向けた。
「嘘だと思うなら教えてやろうか?」
顔をよせて、ささやく。すると、彼はとっさに上半身を引いた。ほんの一瞬だけ、すました鼻筋にシワが寄ったかと思うと、見開いた蒼色の瞳が、警戒をおりまぜてこちらを凝視する。
「ふふ、」
興がのった。
とっさに振りはらおうとして、留めたのだろう。彼の不自然に浮いた片手を、とる。するりと絡めるようにたどる。ざらりと凹凸のある荒れた手から、手首。そして袖のしわをなぞって、左耳へ。
「ここだ。ここにある」
ふぅと息を吹きかけると、ソウの肩がびくりとはねた。触れあった身体の境界線から、彼の身体がこわばる感触がありありと伝わってくる。かすかにふるえていることを悟らせまいと、さらに身を硬くしているらしかった。
常日頃、涼しい顔をしてキレイに笑うヤツが、こんなふうに青ざめて身をふるわせるさまは、見ていて面白い。
「だから、やめてって」
鋭くなる視線を隠すように、ソウは顔をそらした。逃げるように揺れる蒼穹の瞳の微細な瞳孔の変化は、存外よく見える。
黒影は淡々と彼を見さげた。ほほの曲線も、肌つやも、くちびるの冷めたみずみずしさも――毎日見ているのだから。
ここ数日、いつもより顔色が悪いことも、きまって食後になにかと理由をつけてそれとなく立ち上がることも、そのあとにやや青ざめた色をしていることも。それでいて、あたりまえに笑っていることも、――――知らないとでも?
「……キサマ、まともに食べていないだろう」
「食べてるよ。見てるでしょう」
「ああ、だがほとんど吐きもどしている。ちがうか?」
「……」ソウはおしだまった。
「酔いはさめたか」
「そう思うなら、この手をはなして」
努めて冷静な声だった。
フンと鼻を鳴らし、言われたとおりソウの手を放りなげ、次いで彼の肩口を靴底で蹴った。捨てるように寝台へ転がして、そのまま組み敷く。片手からこぼれたグラスがシーツに水を散らす。耳を刺すような不快な音を立てて硬い床へ割れ落ちた。
「なんのつもり? また蹴りとばされたいの」
「――は、」
おもわず、笑みがこぼれてしまった。
そうだ。この殺気のにじむような眼こそ、ソウという人間の、本性のひとかけらだ。普段はまるで見られない、けほども感じられない。うすら寒いソウという人間の感情の一端。
知っている。ごく自然に笑うこの男の瞳は、常日頃、大した変化を見せることがない。
誰もが騙される。この美貌に。その誑しこむような表情とたち振る舞いに。
だからこそ、
「……理解しがたい」
「それはおたがいさまでしょ」
「なぜそうまでして、キサマは自分を殺す。弱みを隠す。他者からの否定が怖い、というなら本心を隠すのも道理がいく。諍いが面倒だというのなら、その場に合わせて笑うのも腑に落ちる。しかし、自らを護るというには、キサマの一連の行動も重ね続ける労力も、いささか常軌を逸している」
「大事な家族がいるからだよ」
「またそれか。ただの引きこもりの職なしだろうに。そこまでして飼う価値があるとは思えん」
ソウの目じりが鋭く尖った。
「それは俺が決めることでアンタには関係ない。そうやって簡単に俺たちの絆を……重ねてきた時間を、否定しないでくれるかな?」
口調はやわらかいが、声色がわずかに低い。膨張した袋がはじけとぶ直前のようなふるえかたをしている。
「それからさ、飼うって、なに? 家族は愛玩動物じゃない。言いかたがあまりにも悪すぎるよ」
――家族?
家族。
家族。
ああ、家族か。
は、と彼の言葉を嗤う。
「家族家族家族家族家族家族家族! まるで清く正しいとでも言いたげだな。家族だから大切。家族だから愛しい? 家族の絆? ああ寒い気色が悪い吐き気がする」
低く吐き捨てる。
「事実だろうが。成人しても職なしで家事も掃除もできない引きこもりの能無しで他者へ依存し続けている存在を 愛玩動物 以外になんと言う? 家族の絆だ? キサマの家族至上主義もここまでくれば呪いだな。
知っているか? 一説によれば、絆という言葉は、もともと家畜をつなげておくための綱を意味するそうだ。ああそうだ、家畜と呼んでやろう。キサマの弟は生存競争から保護された家畜だ。
弟はキサマに依存することで、なにもないキサマに生存の目的と生きがいを与える。キサマは家畜へ身も心も尽くすことで、その美しい絆とやらに陶酔しているわけだ。その対価として、弟は大した飢えも知らず餌を与えられのうのうと息をする。そういう共依存のバカげた関係だ」
ソウがほんのわずかに目を見ひらいた。
そして次の瞬間、割れたガラスの先のように瞳が鋭く細められたかと思うと、彼のやわらかな唇から怜悧に、冷徹な声で、しかし腹の底から沸きたつなにかが堰を切ったように吐き出された。
「君のひねくれた思想もたいがいだね。事情も知らないくせに饒舌に語って恥ずかしくないの? ああ、そういうのが趣味なのかな。ごめんね、そこまで考えがおよばなかったよ。
それで、なんて返せば満足かな。怒ってみせようか? 君の思想をていねいに端から端まで否定してあげようか? 君がおかしいのは今に始まったことじゃないけれど、人の弟を家畜呼ばわりなんてずいぶんだね。
俺と弟の関係を身勝手に妄想するのはかまわない。でもそれをおしつけないでくれる? ――それにさ、そうやってかってな妄想をおしつけて否定されても、俺は、はいそうですか。どうぞご勝手にとしか返せないんだよね。もし弟を否定すれば俺が逆上して殺しあいができるとでも思ってるなら、それもただの妄想だ。ああ、けど、怒ってないわけじゃないよ。それは俺を否定したからじゃない。君が俺の弟をばかにしたからだ。
もう一度言ってあげるよ。なにも知らないくせに的外れな否定を得意げにして、恥ずかしくないの? 君がしていることはあくまでも自分語りにすぎない。君が語る言葉は君そのものだ」
たがいに視線をいっさいそらさないまま――、寝台の上で数十秒。
こぼれた水は、シーツに深い影を落としたまま、色褪せていた。
「もういいよ」
さきに折れたのはソウだ。それまで抵抗を見せていた両の腕からもすっかり力が抜け、投げやりに視線をはずして息をついた。どこか食傷気味に薄く言葉を紡ぐ。
「こんなことをしたって、時間の無駄じゃないか。折り合いが悪いことはおたがいにわかってるんだから、こういう無駄な諍いはやめようよ」
「……キサマ、そのうち死ぬぞ」
「人間なんてそのうち死ぬでしょ」
ソウはぞんざいに言った。
こちらを押しのけて身体を起こし、
「ひどいこと言ってごめん。もうお酒は飲まないよ」
背を向けるように寝台から降り、立ちあがる。スッと背筋を伸ばし、身なりを整える。ややあって、ソウはふりむかないままに言った。
「すこし、頭を冷やしてくるね」
外套を羽織ることもなく、ソウはそのまま部屋をあとにした。
「……くだらん」
薄暗くしんと静まりかえった室内は、しかし、街の音でいささかうるさい。わずらわしい前髪をはらって、寝台の上で座りなおす。足を組んで、またすぐに組みかえて、頬杖をついて、窓外を見やる。
いらだたしい。
あの投げやりな態度が、どうにも癪にさわる。
折れればいいだろうと舐め腐っているような、こちらをひとつも見ない瞳。
それが、気にくわない。
「いいかげん出てきたらどうだ」
低い声を投げると、口をあけた扉の向こうで、わずかに空気が揺れた。ややあって、亜麻色の髪がひょっこりと顔をのぞかせる。
「キサマも気づいていたんだろう。あの馬鹿者は、ここ数日ろくに飯を食えていない」
「だからって、あんなケンカします?」
彼はこまったように眉根を下げた。
あきれたように、廊下の向こうを見やって、それから室内へ。向かいの寝台に腰かけると、三つ編みをほどいて櫛を入れる。
「もうちょっと優しくしてあげてくださいよ。俺にだって、人の心を軽くするのには限界があるんですから」
「同情など腹の足しにもならん」
くだらない説教を一蹴するように視線をそらす。
向かいから聞こえてきた、ため息にもならない小さな息づかいを、黒影はそのまま聞きながした。
いつも音をきいている。
うなるような重低音。反響する鉄の硬い音。下の酒場で飲む粗野な男どもの、煩雑な声。サイドテーブルでカタカタとふるえる水差しが、すこしうるさい。黒影は寝台の上に腰かけたまま、眉間のシワをいっそう深くした。
足音がきこえる。数はひとつ。
薄く片目をひらいて、見えない扉の向こうを見やった。淡々としながらも、どこか刺すようにピリピリと張りつめるこの気配は、ソウだ。
ここ数日間、ソウがナギとともにこの冒険者の宿の一階――併設されている酒場へ降りていることは、黒影も知っている。魔導武具の調整が終わるまでの間、ナギの情報収集につきあっているらしい。しかし、いずれの日も、ソウが酒を飲んで戻ってくることはなかった。魔幽大陸の言葉をすこしでも覚えておきたいのだと、そんな話をしていたような気もするが――、なんにせよ、生真面目なヤツだ。
時計の針を見やると、今夜はいつもより遅い時間を示していた。
あの見た目だ。威圧感もなければ、周囲から軽視もされよう。面倒な輩に捕まったか、それともナギの長話を延々と聞かされたか。どのみち、あまり興味もないことだが。
廊下を歩いてくるひとつの気配に、黒影は違和感を覚えた。彼の足音はいつも規則的で軽快。隙がなく、単調としているはずだ。しかし、今夜はどこかどろりと遅く、重い。特徴的な鈴の音も不規則だ。――コンコン、扉が叩かれる。いつも返答はしないのだから、そのうちに入ってくるだろう。
黒影はまぶたを閉じた。
しかしいつまでたっても扉はひらかれない。壁向こうにじっと気配があるのがわずらわしく、いらだってきた。たえきれず寝台から降りて、ツカツカと扉へ向かって歩きながら、抱えていた大太刀を背中に担ぎ、そしてドアノブを乱暴につかんで回しひいた。
瞬間、開いた扉からなだれこむようにもたれかかってきたのは、黒影よりも拳ひとつぶん背丈の高い、ソウだった。
「なっ……んだキサマ!」おもわず床へ投げ倒す。「叩っ斬るぞ!」
「っつぅ……乱暴……」
彼はのそりと身体を起こして、ぶつけた頭をさすった。それから猫のように、くぁ、とあくびをまぜて、上半身を揺らす。
「ううん、なんか、ふわふわしてて……ああ、黒影か。元気だね」
ちからがあまりはいらないのか、頭をさすっていた腕はすぐにだらりと下げられた。
ふわりと香った匂いに、黒影は眉根をよせる。
「酒を呑んだのか」
「ん~……」ソウはあいまいにうなずいた。
誰になにを勧められても、美人な女どもにかこまれても、下戸だ飲めない飲まないの一点張りだった男が、いったいどんな心変わりをしたというのか。
「なにを飲んだ」
「一番、辛いの」
この店で一番辛いものといえば、水瑠地方から仕入れられたという地酒だ。喉に触れると咽るほど辛く、食道が焼けるほどに熱をおびる。その度数は、ふだん酒を飲まない者が気まぐれに手をだすようなものではない。
いつまでも立ちあがらないソウに肩をさしだして、立ちあがる。細身だとはいえ、百八十センチメートルを超える成人男性だ。重くないわけがなかった。すこしよろめくが、どうにか歩けそうだ。
「どれくらい飲んだ」
「わかんない」
黒影は眉間のシワを深くした。ソウは食事の好き嫌いを基本的に見せないものの、刺激のある味を好んで食べることはない。すくなくとも、今まで見てきた中では、そうだった。だというのに、このバカは、辛い酒をどれほど飲んだかわからなくなるほど飲んだと、そう言っているのか。
「水は飲んだのか」
「んー……」ソウは黒影の首もとへ顔をうずめるように、頭をかたむけて、悩んだようだった。察しはついていたが、このようすでは水もまともに飲んでいないのだろう。
あきれた。
「この阿呆め」
息をついて、ソウを寝台へ放りだし、黒影はサイドテーブルの水差しに手を伸ばした。
そのときに、ちょうど背後でこもるような声が、ぽつりと響いた。
「辛くて、ちょっと安心したんだ」
黒影は片眉をぴくりとはねあげた。グラスへ水をそそいでふりかえると、ソウは寝台に腰かけたまま、膝を抱えるようにうずくまっている。
「水を飲め。身体に障る」
ぼんやりと顔を上げたソウの眼前に、水をつきだす。彼はすこしの間ぼんやりとしていたが、意図を理解したのか、にへら、とふやけた笑みをうかべると「ありがとう」と、傷だらけの手で受けとった。彼はややあって、ゆっくりとグラスをかたむけ、水を飲みはじめた。
そのようすを確認してから、黒影はてきとうな桶を寝台の近くに置いて、大太刀を壁に立てかけた。ひとりぶんの距離をあけて、となりへ腰かける。
「意外とやさしいね」
「酒は安心を買うものではない。吞まれるな」
「はは、君もまともなこと言うんだ」
「叩っ斬るぞ」
軽口が言えるならまだ大丈夫だろうが――もし酒に弱い体質で、急性の中毒症状でも出たらどうするつもりだったのか。死んでしまえば殺しあいすらできないというのに、この男は。
「空きっ腹に入れるな。酒の飲み方も知らん阿呆め」
「――……」
ソウの動きが軋んで、止まった。その沈黙こそ、彼を雄弁に語っている。
「すこし痩せたろう」
「そうかな?」
グラスの水は、ほんのすこしだけ揺れている。
黒影は足を組んだまま頬杖をつき、ソウを見やった。
「自己犠牲は美徳にならんぞ」
「……大規模討伐作戦の話?」
ソウはすまし顔で、グラスに口をつけた。
「最善手を選択しただけだよ。必要なときに必要な犠牲を払うのは、あたりまえでしょ」
いとも簡単に、そして軽く言いきった。
(自分を犠牲にすることが前提の最善手すら、あたりまえと言ってのけるか)
利口そうな蒼色は、微々ともふるえていない。
ソウはまつげを伏せるように、またグラスをかたむけた。彼の手には、薄紅色の火傷痕がある。手のひらから枝分かれして広がる火傷痕を見れば、多くの古い魔狩は言うだろう。男の勲章だ、と。そして、彼の美貌にあてられ、かつその半生を知る者は、深く同情し、また放ってはおかないだろう。
だが。
だが、その火傷痕は醜いことに変わりはない。このイビツさを抱えながら――同時にそれらを自らの印象操作のために利用し――あたりまえに、あたりまえを装う気色の悪いヤツ。それがソウという男だ。
「キサマが思うよりもずっと、ワタシは、ソウという人間を見つめている」
「なに、それ」ソウは軽く笑ったものの、視線はうつむいたままだ。彼は、こちらの視線をさえぎるように、さらりとこぼれた横髪をそっと耳にかけなおした。
「八重歯が思いのほか鋭いことも、髪の生えぎわに、目立たない白髪がひとふさ混ざっていることも」
「よく見てるね」
「それから、左耳の裏にほくろがある」
「え、嘘。そんなのあるの」
ソウはおどろいたように左耳をおさえて、こちらに丸い瞳を向けた。
「嘘だと思うなら教えてやろうか?」
顔をよせて、ささやく。すると、彼はとっさに上半身を引いた。ほんの一瞬だけ、すました鼻筋にシワが寄ったかと思うと、見開いた蒼色の瞳が、警戒をおりまぜてこちらを凝視する。
「ふふ、」
興がのった。
とっさに振りはらおうとして、留めたのだろう。彼の不自然に浮いた片手を、とる。するりと絡めるようにたどる。ざらりと凹凸のある荒れた手から、手首。そして袖のしわをなぞって、左耳へ。
「ここだ。ここにある」
ふぅと息を吹きかけると、ソウの肩がびくりとはねた。触れあった身体の境界線から、彼の身体がこわばる感触がありありと伝わってくる。かすかにふるえていることを悟らせまいと、さらに身を硬くしているらしかった。
常日頃、涼しい顔をしてキレイに笑うヤツが、こんなふうに青ざめて身をふるわせるさまは、見ていて面白い。
「だから、やめてって」
鋭くなる視線を隠すように、ソウは顔をそらした。逃げるように揺れる蒼穹の瞳の微細な瞳孔の変化は、存外よく見える。
黒影は淡々と彼を見さげた。ほほの曲線も、肌つやも、くちびるの冷めたみずみずしさも――毎日見ているのだから。
ここ数日、いつもより顔色が悪いことも、きまって食後になにかと理由をつけてそれとなく立ち上がることも、そのあとにやや青ざめた色をしていることも。それでいて、あたりまえに笑っていることも、――――知らないとでも?
「……キサマ、まともに食べていないだろう」
「食べてるよ。見てるでしょう」
「ああ、だがほとんど吐きもどしている。ちがうか?」
「……」ソウはおしだまった。
「酔いはさめたか」
「そう思うなら、この手をはなして」
努めて冷静な声だった。
フンと鼻を鳴らし、言われたとおりソウの手を放りなげ、次いで彼の肩口を靴底で蹴った。捨てるように寝台へ転がして、そのまま組み敷く。片手からこぼれたグラスがシーツに水を散らす。耳を刺すような不快な音を立てて硬い床へ割れ落ちた。
「なんのつもり? また蹴りとばされたいの」
「――は、」
おもわず、笑みがこぼれてしまった。
そうだ。この殺気のにじむような眼こそ、ソウという人間の、本性のひとかけらだ。普段はまるで見られない、けほども感じられない。うすら寒いソウという人間の感情の一端。
知っている。ごく自然に笑うこの男の瞳は、常日頃、大した変化を見せることがない。
誰もが騙される。この美貌に。その誑しこむような表情とたち振る舞いに。
だからこそ、
「……理解しがたい」
「それはおたがいさまでしょ」
「なぜそうまでして、キサマは自分を殺す。弱みを隠す。他者からの否定が怖い、というなら本心を隠すのも道理がいく。諍いが面倒だというのなら、その場に合わせて笑うのも腑に落ちる。しかし、自らを護るというには、キサマの一連の行動も重ね続ける労力も、いささか常軌を逸している」
「大事な家族がいるからだよ」
「またそれか。ただの引きこもりの職なしだろうに。そこまでして飼う価値があるとは思えん」
ソウの目じりが鋭く尖った。
「それは俺が決めることでアンタには関係ない。そうやって簡単に俺たちの絆を……重ねてきた時間を、否定しないでくれるかな?」
口調はやわらかいが、声色がわずかに低い。膨張した袋がはじけとぶ直前のようなふるえかたをしている。
「それからさ、飼うって、なに? 家族は愛玩動物じゃない。言いかたがあまりにも悪すぎるよ」
――家族?
家族。
家族。
ああ、家族か。
は、と彼の言葉を嗤う。
「家族家族家族家族家族家族家族! まるで清く正しいとでも言いたげだな。家族だから大切。家族だから愛しい? 家族の絆? ああ寒い気色が悪い吐き気がする」
低く吐き捨てる。
「事実だろうが。成人しても職なしで家事も掃除もできない引きこもりの能無しで他者へ依存し続けている存在を 愛玩動物 以外になんと言う? 家族の絆だ? キサマの家族至上主義もここまでくれば呪いだな。
知っているか? 一説によれば、絆という言葉は、もともと家畜をつなげておくための綱を意味するそうだ。ああそうだ、家畜と呼んでやろう。キサマの弟は生存競争から保護された家畜だ。
弟はキサマに依存することで、なにもないキサマに生存の目的と生きがいを与える。キサマは家畜へ身も心も尽くすことで、その美しい絆とやらに陶酔しているわけだ。その対価として、弟は大した飢えも知らず餌を与えられのうのうと息をする。そういう共依存のバカげた関係だ」
ソウがほんのわずかに目を見ひらいた。
そして次の瞬間、割れたガラスの先のように瞳が鋭く細められたかと思うと、彼のやわらかな唇から怜悧に、冷徹な声で、しかし腹の底から沸きたつなにかが堰を切ったように吐き出された。
「君のひねくれた思想もたいがいだね。事情も知らないくせに饒舌に語って恥ずかしくないの? ああ、そういうのが趣味なのかな。ごめんね、そこまで考えがおよばなかったよ。
それで、なんて返せば満足かな。怒ってみせようか? 君の思想をていねいに端から端まで否定してあげようか? 君がおかしいのは今に始まったことじゃないけれど、人の弟を家畜呼ばわりなんてずいぶんだね。
俺と弟の関係を身勝手に妄想するのはかまわない。でもそれをおしつけないでくれる? ――それにさ、そうやってかってな妄想をおしつけて否定されても、俺は、はいそうですか。どうぞご勝手にとしか返せないんだよね。もし弟を否定すれば俺が逆上して殺しあいができるとでも思ってるなら、それもただの妄想だ。ああ、けど、怒ってないわけじゃないよ。それは俺を否定したからじゃない。君が俺の弟をばかにしたからだ。
もう一度言ってあげるよ。なにも知らないくせに的外れな否定を得意げにして、恥ずかしくないの? 君がしていることはあくまでも自分語りにすぎない。君が語る言葉は君そのものだ」
たがいに視線をいっさいそらさないまま――、寝台の上で数十秒。
こぼれた水は、シーツに深い影を落としたまま、色褪せていた。
「もういいよ」
さきに折れたのはソウだ。それまで抵抗を見せていた両の腕からもすっかり力が抜け、投げやりに視線をはずして息をついた。どこか食傷気味に薄く言葉を紡ぐ。
「こんなことをしたって、時間の無駄じゃないか。折り合いが悪いことはおたがいにわかってるんだから、こういう無駄な諍いはやめようよ」
「……キサマ、そのうち死ぬぞ」
「人間なんてそのうち死ぬでしょ」
ソウはぞんざいに言った。
こちらを押しのけて身体を起こし、
「ひどいこと言ってごめん。もうお酒は飲まないよ」
背を向けるように寝台から降り、立ちあがる。スッと背筋を伸ばし、身なりを整える。ややあって、ソウはふりむかないままに言った。
「すこし、頭を冷やしてくるね」
外套を羽織ることもなく、ソウはそのまま部屋をあとにした。
「……くだらん」
薄暗くしんと静まりかえった室内は、しかし、街の音でいささかうるさい。わずらわしい前髪をはらって、寝台の上で座りなおす。足を組んで、またすぐに組みかえて、頬杖をついて、窓外を見やる。
いらだたしい。
あの投げやりな態度が、どうにも癪にさわる。
折れればいいだろうと舐め腐っているような、こちらをひとつも見ない瞳。
それが、気にくわない。
「いいかげん出てきたらどうだ」
低い声を投げると、口をあけた扉の向こうで、わずかに空気が揺れた。ややあって、亜麻色の髪がひょっこりと顔をのぞかせる。
「キサマも気づいていたんだろう。あの馬鹿者は、ここ数日ろくに飯を食えていない」
「だからって、あんなケンカします?」
彼はこまったように眉根を下げた。
あきれたように、廊下の向こうを見やって、それから室内へ。向かいの寝台に腰かけると、三つ編みをほどいて櫛を入れる。
「もうちょっと優しくしてあげてくださいよ。俺にだって、人の心を軽くするのには限界があるんですから」
「同情など腹の足しにもならん」
くだらない説教を一蹴するように視線をそらす。
向かいから聞こえてきた、ため息にもならない小さな息づかいを、黒影はそのまま聞きながした。
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