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第二章

(三)「ナギは、ナギだと思います」

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「黒影さんは、気難しい方なのですね」
 黒影の背中を見送ったナギが、なんの気なしに言った。ソウは苦笑する。
「そうみたい。俺の態度が嫌みたいなんだけど」
「気遣いができるということは、ソウさんの良いところですよ」
「ありがとう」
 ソウは肩をすくめ、それから暗い夜の森を見やった。
「けど、大丈夫かな」
「大丈夫だと思いますよ。そんなに遠くには行かないはずです」
 翡翠色の瞳がソウを安心させるように、温和に微笑んだ。
「ここ数日ソウさんが寝ているあいだにも、黒影さんは外を歩くことがありました。けれど、どの日も靴に泥はついていなかったんです。だから、樹から降りているわけではないと思います」
「そっか」ソウはうなずいた。
 思いかえせば、街の宴でも、黒影はにぎわいから離れたところに独りでいて、ここ数日でさえ、自分から積極的に他人と関わろうとするようすは見られなかった。
「独りになりたかったのかな」
 つい過干渉になってしまったことを反省する。
「つい癖であれこれ声をかけちゃうんだけど、すこし気をつけないとなぁ。よけいなお世話だったのかも」
「あるていどなら、そのうち黒影さんも慣れてくれますよ」
「だと良いけど」
 こまったように笑みをかえして、ソウは座った。


 ――……。
 ふ、とソウはまぶたをひらいた。ぼんやりとした翡翠色が広がっている。夢だろうか。まぶたを閉じる。またすこし目をひらく。翡翠色の洞の天井をぼうっと眺めていると、それ自体が淡く発光しているのだと気がついた。
 いつのまに自分は寝てしまったのだろう。そろそろ起きて、見張りを交代しなければならない。
 けだるい身体で寝返りをうったところで、亜麻色のふわふわとした色が、携帯照明具ランタンの灯りに美しく透けているのがみえた。ナギは手元の書物に、なめらかな筆運びでなにかを書きつけている。
 妙だな、とぼんやり考える。彼の横顔はどこか利発そうな印象を受ける。もちろん、愚鈍ではないことは知っているし、博識ぶりもまのあたりにしていたものの、彼がふだん見せている横顔はいつも楽しそうで、まるで子どもみたいに次から次へと色んなものに興味をしめし、自慢げに教えてくれる。おだやかな大人の姿をしていて、それでいて、純真無垢な子どものように――。
 しずかな口もとが、ちいさく、なにかつぶやいた。ソウは聴きとることができなかった。
 すこしのあいだ、なにかを考えあぐねるように指先で黒曜石のピアスに触れていたが、一度まばたきをすると、次に翡翠色の茫洋とした瞳が映したのは、黒紫の紋様と、手元の書物だった。
 白紙に万年筆をすべらせるナギの左手には、黒紫の紋様。厳然と刻まれているソレはやはり、大輪の花が一輪、豊かに咲きひらいているようだ。そして同時に、途方もない時間を折りかさねてきたような、樹木の年輪層にも見まがう。
「あれ、ソウさん」
 こちらの視線に気づいたナギが、ぱっと顔を上げた。
「もうすこし寝ていても大丈夫ですよ」
 混じりけのない、すなおな気遣いの声は、いつも通り温良としている。わずかに重心を傾けるさまにあわせて、横髪がゆるやかに垂れる。すこし尖った耳が見えて、黒曜石のピアスがきらりと輝いた。
「ナギさんってさ、何者なの?」
 起きぬけの思考で、つい口からでた言葉だった。目もとをこすって、鈍い身体をどうにか起こし、大きくあくびをする。まだ眠い。ナギの言葉に甘えて、もうすこし寝てしまおうか、なんて、どこか他人事のように考える。
「疑ってるわけじゃなくて、素朴な疑問」
 両腕を大きく上げて背中を伸ばし、ソウは身体の感覚をもどすようにゆっくりと呼吸をした。
「言いたくなかったら、それでいいんだけど。どのみち魔幽まゆう大陸を抜けるには、ナギさんの協力が必要だし」
 うつぶせになるように両手を地面につけて、ぐっと上半身を伸ばし、ふぅと脱力。また大きく伸ばす。それをいくらかくりかえし、徐々に思考も明瞭としてきたところで、ようやく、触れてはいけないことを訊いてしまっただろうか、と思いいたる。
「ごめんナギさん。俺よけいなこと言っ――……」
「ナギは、ナギだと思います」
 それは、つくろいでも、焦りでもなく、ただその言葉そのものだった。
「ナギは、亡霊のようなものです。だから、もし、ある日とつぜんいなくなっても、さがさなくていいです。最初からそういうものだったと思ってください」
「それってどういう」言いかけて、ソウは閉口した。
 ナギがあいまいに笑ったからだ。こまったように眉根を下げて、左手の黒紫の紋様へ触れる。ナギはそっと視線を伏せた。
「ナギも、わかりません。だから、こういうふうにしか言えなくて……ごめんなさい」
「自分のことがわからないの?」
 ナギはまた、あいまいな表情を見せた。
「だから、ずっと、ナギは旅をしています」
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