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第一章
(三)取引
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魔幽大陸には、魔狩協会がない。
それはつまり、魔狩の身分証明書はここで役に立たないということだ。保障もなければ協会からの支援も得られない。それだけならまだ良い、とソウは思えた。手元には武器がある。冒険者の仕事をしたことはないが、魔狩と同じように魔種討伐の仕事もあると聞く。それがどれくらいの報酬になるかはわからないが、食いつなぐ糧にはなるだろう。
「十年に一度、か」
固い寝台に身を投げだすように寝ころんで、猫面を顔にあてた。
「俺、帰れるのかな」
ぽつりともれた声は、たいした抑揚もないままうわすべりして、誰にぶつかることもなく消えていった。緊張で硬くなった身体をほぐすように、長く息を吐く。深く息を吸って、細く均一に吐いて。それを何回かくりかえした。
(ライ、ちゃんとご飯食べてるかな。家事はともかく、元気でいてくれたら……)
――……。
弟が、泣いている。
――大丈夫。俺がいるよ。
すると弟は不安そうにこちらを見あげた。
泣きはらしたまぶたがぷっくりと赤くなっている。
どうしてみんな笑うの、と弟は言った。
――それは、みんながなにも知らないからだ。
どうしてみんな、悪く言うの、と弟は言った。
――それは、みんな不安だからだ。理不尽な不安を解消するために怒りをぶつけたくて、だからもっともらしい理由がほしいんだ。
どうして、どうして、どうして。弟が泣きながらいくつも問いかけてくる。
――どうして、お兄ちゃんは泣かないの。
まっすぐに向けられた怒りは、いまでもずっと胸の奥でひりついている。
「おい」
地を這うような声が耳に届いて、ソウは慌ててとび起きた。そのひょうしに、猫の面が竹板の床に落ちて、りんと鈴が鳴る。同時に抜いた片刃曲刀は、黒影の蹴りに軽くはらわれた。
「な、に……。驚かせないで」
「かってに動揺しているのはキサマだ」
あきれたようにこちらを見下げているのは、真っ白な面長の顔だ。
どうやら、寝ぼけてしまっていたらしい。警戒心から、とっさに斬りつけてしまった。いつも出張のときは、協会が用意した個室で寝ることが多く、あまり他人が入るような場所で休んだりしないせいだろう。
「ごめん。急に攻撃して」
「謝罪などいらん」
黒影は背中を向けて、ドカリと向かいの寝台へ腰かけた。寝台がかたい音を立てて大きく軋む。二段ベッドが対面するだけのせまい室内は、簡素な壁にへだてられているだけで、どこかで誰かが笑っている声も、部屋の外を歩く気配も、輪郭をなぞるようにはっきりと感じられた。
この宿泊施設は、一般的に〈冒険者の宿〉と呼ばれる場所らしい。より正しくいうなら、冒険者組合が運営する依頼仲介所に併設された宿泊施設。
最初にソウたちが入ったテラスの共用スペースが依頼仲介所も兼ねている、というのは、さきほどナギから聞いたばかりだ。
本来ならソウや黒影のような魔狩はこういった施設を利用することはないが、魔狩協会の支援を受けられない以上しかたがない。
「もどりましたぁ」
ゆるやかで明るい声が、扉を勢いよく開く。どうやら、ナギには入室前に扉を叩く、といった習慣はないらしい。
「ナギさん」
立ちあがろうとすると、ナギは「あ、そのままでいいですよ」とさしとめ、両手に抱えた包みを、順番に手渡してくれた。
「お二人は魔狩ですし、さっきのこともありますからね。ほかの冒険者と一緒にご飯をするのは、気がすすまないかな、と思って。包んでもらいました」
「別に毛嫌いしてるわけじゃないんだけどね」
ソウは苦笑しながら、ありがとう、と包みを受けとった。温かい。触れた感触に、ほっと安堵する。飢えるほどお腹が減っていたわけではないが、ずいぶんと久しい感じがしたからだ。
「それはわかってるんですけど、冒険者と魔狩って仲良くないじゃないですか。冒険者って縄張り意識強いですし」
宿場町に着くまでの道すがら、ナギにはこちらの事情を話し、また、周辺地域の事情も簡単に聞いていた。
この数週間、周辺地域では、魔種の集団暴走が頻発しており、ナギは日銭を稼ぐために、冒険者の依頼仲介所でその調査依頼を受けていたそうだ。
「まぁ、ナギも冒険者なわけじゃないんですけどね」
冒険者は、魔狩のように規定の試験を受ける必要もなく、名乗ればその日から冒険者になれるらしい。だからこそ、ナギのような旅人でも、それこそソウのような魔狩でもこういった施設を制約なく利用できる、という話だった。
一攫千金を狙える。好きな仕事を受けて、自分の尺度で動くことができるという点においては、比較的自由度の高い職業だ。しかし、冒険者組合と提携する宿屋や依頼仲介所こそあれど、彼らには生活の保障があるわけではない。
冒険者にとって、充実した保障と一定の給与が得られる魔狩が、わざわざ縄張りに来るのはあまりいい気分でもない、というのはソウも知っていた。それは、しばしば、魔種討伐という分野で、獲物のとりあいになるからだ。――とはいえ。魔幽大陸の住人は、魔狩そのものを認知していないため、あまりこういったことも関係ないのだろう。
ナギは間のびした口調とともに、指を三本立てた。
「とりあえず、三泊ほどとっています。お二人がナギと同じ部屋なのはごめんなさい。ナギもそれほど手持ちがないので……」
「ううん。親切にしてくれてありがとう」
ソウの言葉に、ナギはあっけらかんと笑った。ソウのとなりへ腰かけるなり、さっそく包みを開いて大きな握り飯にかぶりつく。
向かいの黒影も、枯れ枝のような指先で包みのはしを触り、てきとうにひらいて、小さく食んだようだった。それらを見てから、ソウも同じように包みをひらく。ひとくち。握りたての温かなご飯の甘味が、噛むほどに口の中で広がった。
ソウが知っている米粒よりも、ずっと細長い形で、味もちがう。何か香辛料などで香りづけをしているのだろうか。すっと鼻に抜けるような香りがする。
「それにしても大変でしたねぇ。〈転移魔導門〉にまきこまれて、こんなへんぴな場所にとばされちゃうなんて」
口のはしっこについたご飯粒を舌先でぺろりととったナギは、共感を示すようにうなずいた。
「けれど、お二人は運がいい。今年はちょうど、魔幽大陸と水瑠地方をへだてる瘴気の霧が晴れる年です」
「本当」
ソウは前のめりになって、明るい声で訊ねた。
ナギが朗らかにうなずく。
「約二ヶ月後。瘴気の霧が晴れると、そこから数ヶ月の間、〈白の境界線〉を行き来できるようになります」
「白の境界線? ごめん。魔幽大陸のことはよく知らないんだ。教えてもらえたら嬉しいな」
ナギは得意げにうなずいた。左手の指を立てて中空に地図を描くようにすべらせる。そのたびに、赤い宝石の装飾が特徴的な、金色の腕輪がきらりと輝いた。
「〈白の境界線〉とは、魔幽大陸と水瑠地方を隔てる、瘴気の霧が満たされる森、街道、遺跡などをふくめた地帯のことです。瘴気に侵されて白亜化、あるいは魔化した生態系によって、瘴気の霧が晴れても一面の白色が大陸の北から南まで続くことから、そのように呼ばれています」
「ナギさんは博識だね。ありがとう」
「えへへ、それほどでもぉ」
ナギは後頭部をかいてはにかんだ。
「それで、確認なんですけど」
食べ終えたころを見はからって、ナギはやわらかな声を差しこんだ。
「お二人は魔狩で、故郷に帰るのが目的。けれど寄る辺もなく金銭も心もとない。そしてなにより、言語の壁がある。ナギの認識は合っていますか?」
こちらがうなずいたのを確認して、ナギはさらに言葉を続ける。
「でしたら、しばらく冒険者として仕事を受けることをお勧めします。魔種討伐の依頼なら、魔狩とやっていることはそう変わらないはずですし」
提案を受けて、ソウは、ちらと黒影を見やった。あいかわらず機嫌が悪そうな表情で脚を組んだまま黙っている。なにを考えているのかはわからないが――ひとまず、ナギとの話を進めてもいいだろう。
「基本的に魔狩は副業が禁止されているんだ」
ソウは言った。
「けど、この状況じゃしかたないし。一時的に冒険者として生活費を稼ぐことも、本部には許してもらえると思う。あくまでも、魔幽大陸を抜けるまで、の話だけど」
つまらなさそうに口を閉ざしている黒影を横目に、ソウは話へ切りこんだ。
「で、本題。ナギさんは俺たちを使いたいのかなって、俺はそう認識したんだけど」
ナギは翡翠色の目を丸くした。
「話が早くて助かります」
言いながら、ナギの手は、寝台の上に置かれた上製本に触れた。なんの変哲もない……むしろ装飾が控えめだからだろう。その左手の紋様が、やけに浮きだって目につく。
「ナギはただの旅人です。できれば、あまり魔種と戦いたくありません。なので、護衛をしてほしいんです」
「目的地は?」
「お二人と同じ。ひとまず魔幽大陸を抜けるまで、です。つまり、三人で依頼を受けながらお金を稼いで、魔幽大陸の出入り口、流国まで向かう。依頼で得た報酬は均等に割ってもいいですし、ナギはご飯とか、必要ぶんいただくかたちでもかまいません」
「俺たちがナギさんを守るかわりに、ナギさんが通訳や宿泊施設の手配をしてくれる、そういうことだね」
ナギは朗らかにうなずいた。
「願ったり叶ったりだけど、ひとつだけ、いい?」
「なんでしょう?」
「……俺は生きて帰ることが目的だから、万一に……本当にどうしても、ナギさんか自分の命を選ばなきゃいけない状況になったら、たぶん自分を選ぶことになる」
「命を懸けてまで守ってほしいとは思いません」
ナギは即答する。それから、くちもとへ左手のひとさし指を近づけるしぐさとともにゆるやかに微笑んだ。
「こう言うと、すこし冷たい言いかたになっちゃいますけど、おたがい利用できる範囲で、いい関係で旅をしませんか?」
差しだされた右手を、ソウは握りかえした。
「よろしく。ナギさん」
温かい。
ナギのその手は、愛嬌のある表情よりもずっと厚く、包みこむようなやわらかさをそなえていた。父の手とも、母の手ともちがう。
旅人の手だ。
それはつまり、魔狩の身分証明書はここで役に立たないということだ。保障もなければ協会からの支援も得られない。それだけならまだ良い、とソウは思えた。手元には武器がある。冒険者の仕事をしたことはないが、魔狩と同じように魔種討伐の仕事もあると聞く。それがどれくらいの報酬になるかはわからないが、食いつなぐ糧にはなるだろう。
「十年に一度、か」
固い寝台に身を投げだすように寝ころんで、猫面を顔にあてた。
「俺、帰れるのかな」
ぽつりともれた声は、たいした抑揚もないままうわすべりして、誰にぶつかることもなく消えていった。緊張で硬くなった身体をほぐすように、長く息を吐く。深く息を吸って、細く均一に吐いて。それを何回かくりかえした。
(ライ、ちゃんとご飯食べてるかな。家事はともかく、元気でいてくれたら……)
――……。
弟が、泣いている。
――大丈夫。俺がいるよ。
すると弟は不安そうにこちらを見あげた。
泣きはらしたまぶたがぷっくりと赤くなっている。
どうしてみんな笑うの、と弟は言った。
――それは、みんながなにも知らないからだ。
どうしてみんな、悪く言うの、と弟は言った。
――それは、みんな不安だからだ。理不尽な不安を解消するために怒りをぶつけたくて、だからもっともらしい理由がほしいんだ。
どうして、どうして、どうして。弟が泣きながらいくつも問いかけてくる。
――どうして、お兄ちゃんは泣かないの。
まっすぐに向けられた怒りは、いまでもずっと胸の奥でひりついている。
「おい」
地を這うような声が耳に届いて、ソウは慌ててとび起きた。そのひょうしに、猫の面が竹板の床に落ちて、りんと鈴が鳴る。同時に抜いた片刃曲刀は、黒影の蹴りに軽くはらわれた。
「な、に……。驚かせないで」
「かってに動揺しているのはキサマだ」
あきれたようにこちらを見下げているのは、真っ白な面長の顔だ。
どうやら、寝ぼけてしまっていたらしい。警戒心から、とっさに斬りつけてしまった。いつも出張のときは、協会が用意した個室で寝ることが多く、あまり他人が入るような場所で休んだりしないせいだろう。
「ごめん。急に攻撃して」
「謝罪などいらん」
黒影は背中を向けて、ドカリと向かいの寝台へ腰かけた。寝台がかたい音を立てて大きく軋む。二段ベッドが対面するだけのせまい室内は、簡素な壁にへだてられているだけで、どこかで誰かが笑っている声も、部屋の外を歩く気配も、輪郭をなぞるようにはっきりと感じられた。
この宿泊施設は、一般的に〈冒険者の宿〉と呼ばれる場所らしい。より正しくいうなら、冒険者組合が運営する依頼仲介所に併設された宿泊施設。
最初にソウたちが入ったテラスの共用スペースが依頼仲介所も兼ねている、というのは、さきほどナギから聞いたばかりだ。
本来ならソウや黒影のような魔狩はこういった施設を利用することはないが、魔狩協会の支援を受けられない以上しかたがない。
「もどりましたぁ」
ゆるやかで明るい声が、扉を勢いよく開く。どうやら、ナギには入室前に扉を叩く、といった習慣はないらしい。
「ナギさん」
立ちあがろうとすると、ナギは「あ、そのままでいいですよ」とさしとめ、両手に抱えた包みを、順番に手渡してくれた。
「お二人は魔狩ですし、さっきのこともありますからね。ほかの冒険者と一緒にご飯をするのは、気がすすまないかな、と思って。包んでもらいました」
「別に毛嫌いしてるわけじゃないんだけどね」
ソウは苦笑しながら、ありがとう、と包みを受けとった。温かい。触れた感触に、ほっと安堵する。飢えるほどお腹が減っていたわけではないが、ずいぶんと久しい感じがしたからだ。
「それはわかってるんですけど、冒険者と魔狩って仲良くないじゃないですか。冒険者って縄張り意識強いですし」
宿場町に着くまでの道すがら、ナギにはこちらの事情を話し、また、周辺地域の事情も簡単に聞いていた。
この数週間、周辺地域では、魔種の集団暴走が頻発しており、ナギは日銭を稼ぐために、冒険者の依頼仲介所でその調査依頼を受けていたそうだ。
「まぁ、ナギも冒険者なわけじゃないんですけどね」
冒険者は、魔狩のように規定の試験を受ける必要もなく、名乗ればその日から冒険者になれるらしい。だからこそ、ナギのような旅人でも、それこそソウのような魔狩でもこういった施設を制約なく利用できる、という話だった。
一攫千金を狙える。好きな仕事を受けて、自分の尺度で動くことができるという点においては、比較的自由度の高い職業だ。しかし、冒険者組合と提携する宿屋や依頼仲介所こそあれど、彼らには生活の保障があるわけではない。
冒険者にとって、充実した保障と一定の給与が得られる魔狩が、わざわざ縄張りに来るのはあまりいい気分でもない、というのはソウも知っていた。それは、しばしば、魔種討伐という分野で、獲物のとりあいになるからだ。――とはいえ。魔幽大陸の住人は、魔狩そのものを認知していないため、あまりこういったことも関係ないのだろう。
ナギは間のびした口調とともに、指を三本立てた。
「とりあえず、三泊ほどとっています。お二人がナギと同じ部屋なのはごめんなさい。ナギもそれほど手持ちがないので……」
「ううん。親切にしてくれてありがとう」
ソウの言葉に、ナギはあっけらかんと笑った。ソウのとなりへ腰かけるなり、さっそく包みを開いて大きな握り飯にかぶりつく。
向かいの黒影も、枯れ枝のような指先で包みのはしを触り、てきとうにひらいて、小さく食んだようだった。それらを見てから、ソウも同じように包みをひらく。ひとくち。握りたての温かなご飯の甘味が、噛むほどに口の中で広がった。
ソウが知っている米粒よりも、ずっと細長い形で、味もちがう。何か香辛料などで香りづけをしているのだろうか。すっと鼻に抜けるような香りがする。
「それにしても大変でしたねぇ。〈転移魔導門〉にまきこまれて、こんなへんぴな場所にとばされちゃうなんて」
口のはしっこについたご飯粒を舌先でぺろりととったナギは、共感を示すようにうなずいた。
「けれど、お二人は運がいい。今年はちょうど、魔幽大陸と水瑠地方をへだてる瘴気の霧が晴れる年です」
「本当」
ソウは前のめりになって、明るい声で訊ねた。
ナギが朗らかにうなずく。
「約二ヶ月後。瘴気の霧が晴れると、そこから数ヶ月の間、〈白の境界線〉を行き来できるようになります」
「白の境界線? ごめん。魔幽大陸のことはよく知らないんだ。教えてもらえたら嬉しいな」
ナギは得意げにうなずいた。左手の指を立てて中空に地図を描くようにすべらせる。そのたびに、赤い宝石の装飾が特徴的な、金色の腕輪がきらりと輝いた。
「〈白の境界線〉とは、魔幽大陸と水瑠地方を隔てる、瘴気の霧が満たされる森、街道、遺跡などをふくめた地帯のことです。瘴気に侵されて白亜化、あるいは魔化した生態系によって、瘴気の霧が晴れても一面の白色が大陸の北から南まで続くことから、そのように呼ばれています」
「ナギさんは博識だね。ありがとう」
「えへへ、それほどでもぉ」
ナギは後頭部をかいてはにかんだ。
「それで、確認なんですけど」
食べ終えたころを見はからって、ナギはやわらかな声を差しこんだ。
「お二人は魔狩で、故郷に帰るのが目的。けれど寄る辺もなく金銭も心もとない。そしてなにより、言語の壁がある。ナギの認識は合っていますか?」
こちらがうなずいたのを確認して、ナギはさらに言葉を続ける。
「でしたら、しばらく冒険者として仕事を受けることをお勧めします。魔種討伐の依頼なら、魔狩とやっていることはそう変わらないはずですし」
提案を受けて、ソウは、ちらと黒影を見やった。あいかわらず機嫌が悪そうな表情で脚を組んだまま黙っている。なにを考えているのかはわからないが――ひとまず、ナギとの話を進めてもいいだろう。
「基本的に魔狩は副業が禁止されているんだ」
ソウは言った。
「けど、この状況じゃしかたないし。一時的に冒険者として生活費を稼ぐことも、本部には許してもらえると思う。あくまでも、魔幽大陸を抜けるまで、の話だけど」
つまらなさそうに口を閉ざしている黒影を横目に、ソウは話へ切りこんだ。
「で、本題。ナギさんは俺たちを使いたいのかなって、俺はそう認識したんだけど」
ナギは翡翠色の目を丸くした。
「話が早くて助かります」
言いながら、ナギの手は、寝台の上に置かれた上製本に触れた。なんの変哲もない……むしろ装飾が控えめだからだろう。その左手の紋様が、やけに浮きだって目につく。
「ナギはただの旅人です。できれば、あまり魔種と戦いたくありません。なので、護衛をしてほしいんです」
「目的地は?」
「お二人と同じ。ひとまず魔幽大陸を抜けるまで、です。つまり、三人で依頼を受けながらお金を稼いで、魔幽大陸の出入り口、流国まで向かう。依頼で得た報酬は均等に割ってもいいですし、ナギはご飯とか、必要ぶんいただくかたちでもかまいません」
「俺たちがナギさんを守るかわりに、ナギさんが通訳や宿泊施設の手配をしてくれる、そういうことだね」
ナギは朗らかにうなずいた。
「願ったり叶ったりだけど、ひとつだけ、いい?」
「なんでしょう?」
「……俺は生きて帰ることが目的だから、万一に……本当にどうしても、ナギさんか自分の命を選ばなきゃいけない状況になったら、たぶん自分を選ぶことになる」
「命を懸けてまで守ってほしいとは思いません」
ナギは即答する。それから、くちもとへ左手のひとさし指を近づけるしぐさとともにゆるやかに微笑んだ。
「こう言うと、すこし冷たい言いかたになっちゃいますけど、おたがい利用できる範囲で、いい関係で旅をしませんか?」
差しだされた右手を、ソウは握りかえした。
「よろしく。ナギさん」
温かい。
ナギのその手は、愛嬌のある表情よりもずっと厚く、包みこむようなやわらかさをそなえていた。父の手とも、母の手ともちがう。
旅人の手だ。
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