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第一章

(一)殺しあいの約束

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「ソウ」
 春の日差しのような温かい声。ソウはふりかえった。
 そこには、自分と同じ色をした瞳があった。たしかな恩愛をやどした蒼穹。微笑んでいたのは、母だった。
「母さん。どうしたの?」
「あなたの好きなアップルパイが焼けたの。おいで。ライといっしょに食べよう」
「うん。ありがとう。俺、母さんのアップルパイ好きだな」
「ふふ。ありがとう」
 母さんの手は、赤く荒れていた。いつも、家の水仕事を一生懸命にしているからだ。腕は細くて奇麗。だから、本当はこの手だって、同じようになめらかで、奇麗だったのだろう。
「明後日はソウの誕生日でしょ。十五歳で成人だものね。いっぱいごちそう準備するから」
「母さん、俺、魔狩試験合格したよ」
 立ち止まった母の手をとって、ソウは言った。
「俺、がんばるから。魔狩なら毎月安定してお金が入るし、ライを学校に行かせてあげられる。だから……」
 母は喜んでくれると思っていた。
「……ありがとう。ソウ」
 くちもとに微笑をたずさえた母さん。その表情は、どこか悲しそうだった。
「だから……俺……」
 言いたかったことが、喉の奥でつっかえる。伏し目がちな母の視線は、父が亡くなってからいっそう増えた。
重ねた手のひらを、憂うように眺め、母はごめんね、と小さく謝った。
 ちがうんだ。そうじゃなくて。

――ねぇ、母さん、笑って。


***


 湿気ている。苔むした匂いの中で、水の音がする。
 ここは、どこだ?

「目覚めたか。猫面ねこかぶり
「!」
 視界にとびこんだ蒼白い顔。
 おどろきのあまり危うく蹴りこみそうになったものの、ソウはどうにかとどめた。
 真っ白な顔に据えられた三日月のような鋭い形に包まれた三白眼が、こちらをぎょろりと見下ろしている。
 目の前にいる人間――気配が感じられないため、まるで化物でも見ているような心地だが――の黒い瞳は暗くよどんでいて、目もとには濃いくまがくっきりと浮かんでいる。長く垂れる髪は影のように艶がなく伸びおちていて、痩せた身体をぴったりと包む衣服も、ひたすらに黒い。まるで、影のようだ。
「驚いた」
 魔導武具を拾って背中へまわしながら、ソウは身体を起こした。
 周辺を見回しながら、落ちていた猫面を拾い、赤い組み紐を腰のベルトループに結んで固定する。聞きなれた鈴の音がして、ソウは身体のちからをわずかにゆるめた。
「君は誰? ここがどこか知っているの?」
 暗い室内……のようにも思えたが、遺跡だろうか。ソウの記憶にあるイグラーシャ遺跡とはずいぶんとようすがちがう。装飾に凝っていて重厚なイグラーシャにくらべると、ここは質素で地味な印象だ。そのかわりとでもいうように、壁面、床、あらゆるところに蔦が這い絡まっている。暗く湿気ていて、どこか不気味だ。
「知らん。ワタシも気づいたらここにいた」
「なら同じだね。状況を整理して、周辺を調べよう」
「驚いた、というわりには冷静だな。泣きわめくのを期待していたが」
 まさか、とソウは苦笑した。
「これでも動揺はしてるんだ。ただ、わかることが少なすぎてわめきようもないだけだよ」
 黒影は痩せた腕を組んだまま、いぶかるように髪を揺らした。
「キサマ、動けるのか。死にていだったくせに。ずいぶん頑丈だな」
「君こそ、雷撃を受けて立ってるなんて信じられないな」
 よどんだ瞳と視線がぶつかる。数秒の沈黙を満たす、腹の底をさぐりあうような緊迫感。ひりつくような殺意が、肌に触れる。
 ソウは息をついた。別にこんなことがしたいわけではない。
 あらためて黒影に向きなおり、笑みとともに片手をさしだした。
「俺は〈迅雷〉のソウ。ランクはBで、担当は憂国うれいぐに。君は?」
 一瞥いちべつされただけの片手に返ってきたのは不躾ぶしつけな舌打ちだけで、どうやら名前も教えてもらえないらしい。警戒されているというよりは、嫌われているのだろうか。黒影は沸然と口をへの字に曲げたままでいる。
 なんにせよ、好意的でないというのは、訊くよりも明らかだった。
「黒影……で、いいのかな? 俺の目が覚めるまで待っててくれたんだね。ありがとう」
「なれ合いはいらん。帰る」
 否定しないということは、この呼称でかまわないということだろうか。
 さっと背を向けた黒影の背中を、ソウは追いかけた。
 大太刀を背負った細い身体に、重く垂れこめる艶のない黒い髪。やはり、引きずるほどに長い。黒影が長い足で一歩進むごとに、ずる、ずるりと石畳をこすっていく。
「帰るって、どうやって。知らない場所なんでしょ?」
 となりへならぶ。黒影の背丈はソウよりもこぶしひとつぶんほど低いようだった。多少、意外ではあったものの、それでも一七〇センチメートルは超えるだろう。
「知らん」
 細く尖る横顔は、変わらず険しい。不健康、という言葉がしっくりとくる削げた頬をしていて、立襟に包まれた首も筋張っていて肉がない。背負う大太刀の大きさに対して、黒影の手首のほうがずっと細く見える。――こんな腕で、あんな強大な魔種を相手にしていたなんて。
「とにかく、歩きながらでいいから君の見たことを教えてよ。俺、途中で意識失っちゃったから、なにも覚えてないんだ」
 き、と切れ長の瞳が、鋭利に睨みあげてくる。わずらわしい、と二度目の舌打ち。乱雑に視線をはずして、黒影は足を速める。ブーツの踵が、石畳みを固く打ちならした。
「遺跡の〈転移型魔導門〉が展開した。大方、魔獣の体内に残っていた魔素まそでも吸って起動したのだろう」
「魔導門……魔導文明の遺物か。向こうから来れたなら、もう一回通れたりしないかと思ったけど」
「それができるならとっくにもどっている。ワタシたちでは起動・転移に必要な魔素量を確保できない。それこそ、ダイオウルフのような上位亜種でなければ」
 つんとした黒影の態度に、ソウは「それもそうだね」とうなずいた。
 上位相当の魔種に出会うことはまずない。仮に見つけたとしても、それだけ強大魔種をたった二人で相手にするのはあまりにも危険すぎる。ソウの雷撃でダイオウルフにとどめを刺すことができたのは、他の魔狩たちの活躍によってダイオウルフの体力の多くが消耗していたからだ。
 どのみち、そこ一日二日で帰れそうにはない。その事実は、むしろソウを冷静にさせた。
 まずは、自分たちがどこに転移したのかの把握とあわせて、食料や水の確保が最優先だ。
 そして、ここが転移型魔導門でつながっていた場所――つまり、ダイオウルフの出どころとするならば、ほかの魔種がいることを前提にして動いたほうがいい。魔導門がある時点で魔導時代の遺跡だということも明らかで、だとすれば、その時代につくられた、罠などの防衛装置があることも念頭に置くべきだろう。
 そこまで考えてから、ソウは口をひらいた。
「黒影。協力して帰ろう。一人じゃ危険だ」
「断る。キサマは独りで野垂れ死ね」
「それはできない。生きて帰りたいんだ。ねぇ、頼むよ」
 両手を合わせて、ね、ね? と黒影に頼みこむ。すると黒影は眉じりを片方、鋭くはねあげた。
「生きて帰りたい、だと? キサマ正気か?」
「正気もなにも、あたりまえだよ。故郷に家族を残してるんだ」
 黒影は、はん、と小馬鹿にするように笑った。
「家族、家族。うすら寒いな」
「なにが言いたいの?」ソウは眉根を寄せた。
「アホらしい、と言っているんだ。キサマの言葉は寒気がする。気持ちが悪い」
「君が俺を馬鹿にするのはかまわないけど……まぁいいよ。こんな言いあいをしてもしかたがない」
 一度まぶたを閉じて、眉間に寄ったシワをなだめる。おそらく、黒影とは価値観がちがいすぎる。おたがいの主張をするだけでは、平行線のままで話が進まない。かといって、この状況で単独行動するのは無謀だ。知っている情報を共有して、協力しながら慎重に解決を探るのが妥当だろうか。
 それに、とソウはつけたした。
「俺は君のように強くない。さっきの戦いの傷もある。治るまで思うように戦えない。だから助けてほしいんだ。ちからになってほしい。んだ」
 じろり。黒影の視線がこちらに向いた。
 瞬間。
 耳を割るような、刃の打つ音。曲刀の柄をにぎるソウの手に、ビリビリと激しいしびれが波打った。つきつけられた黒い刀身に、あとわずかで首を飛ばされるところだった。
気配はまるでなかった。殺気は太刀筋とほぼ同時。一瞬でも反応が遅れていたら、まちがいなく殺されていただろう。
 いきなり斬りかかってくるなんて――、なにを考えているのか、まるで理解できない。
「君はさっきから、なんなの?」
「殺しあえ。そうしたらバカなキサマを助けてやる」
「言ってることがめちゃくちゃだよ」
 殺しあえばどちらかが死ぬ。もっとも、こちらに勝機はないが……ともかく、死んでしまったら協力もなにも、やりようがない。そもそも魔狩同士の戦闘は禁止されていて、破れば免許剥奪の可能性もある。おたがいにいいことなんてない。
「言っただろ。生きて帰らなきゃならないって。殺しあうなら、せめてその後にして」
 冷や汗とともに、動揺を呑みくだしてこぼした言葉だった。
「――ああ」
 ニィィ、黒影のくちはしが、つりあがる。まずった、と理解したのは、その黒くよどんだ瞳が、細く歓喜に満ちたときだ。
「いいだろう。助けてやる」
 ねっとりと歪むくちもと。大きく笑う白い頬が、表情の変化に合わせて深い影をつくる。
「故郷に戻った折に、キサマはワタシと殺しあう」
 く、と彩度の低い顔が鼻先に近づいて、さらに口角を上げた。
「約束だ」
「……わかった。それでいい。それでいいから、離れて」
 ソウは半歩引きながら、距離をとるように黒影の口もとをさえぎった。総毛だった背中がぞわぞわと騒ぎたてる。
「ふん」
 おそらく、こちらのいい加減な言いかたが気にくわなかったのだろう。黒影は眉間にシワを刻んで、不服そうに腕を組んだ。――かたちはどうあれ、ひとまず黒影の協力を得られそうだ。
 曲刀を収めながら、ソウは息をついた。
「とにかく、飲み水と食料の確保が先……」
 言いかけて、ばっと顔を上げる。すぐ石柱の影へ身を隠し、息をひそめる。
 嫌な気配がする。
 なにかが近づいてくる。
 相反して、大太刀をかまえたのは黒影だった。
(こいつ、本当に狂ってるな)
 内心冷や汗を流しながら、ソウはこちらに近づいてくる気配をさぐった。
 魔種とはちがう、今までに感じたことのない異様な圧迫感がゆるやかにせまってくる。意識的に呼吸をしなければ、息を忘れて窒息ちっそくしてしまいそうだ。
 その気配がしはじめてからすこし経ったころに、足音が聞こえた。

 コツ、コツ。
 コツ、コツ。

 感覚は一定。子どものように早い歩幅ではない。数はひとつ。二足歩行で、獣のような息づかいなどは聞こえない。
 ……冒険者、だろうか。だが、遺跡に一人でもぐる冒険者はそう多くはない。さらにいえば、この妙な威圧感の理由がわからない。へたに動くのは得策ではない。瘴気のたぐいは感じられないが――もし、これが魔族まぞくだとしたら。
 ソウは曲刀の柄に触れながら、目をみはる。魔狩の本分は魔種を狩ることにあるが、ひとつだけ例外がある。それは相手が魔族だった場合だ。

〈万一に魔族に遭遇した場合、その場からの撤退を最優先とする。〉

 これは魔狩の誰もが徹底して教えこまれることだ。
 魔種の中でも上位存在であり、かつて大陸の文明を滅ぼした世界の脅威。魔族と呼ばれるそれは、高度な知性と暴虐の力を持つ、もっとも邪悪で危険な存在だ。歴史書では、暗黒時代末期に〈暁の英雄〉が〈雪果ての魔王〉を討ち倒したことで、あらゆる魔族は大陸から消え、人類は存続したとされている。

 もっとも、ソウは魔狩としてそれなりに仕事をこなしてきたが魔族に出会ったためしはなく、書物と一般教養ていどにしか、その存在を知らない、というのが実際のところだ。
「……」
 ソウは奥歯をぎりと噛んだ。
 気配が、近づいてくる。
 呼吸ごと押しつぶされそうだ。
 つきあたりの角で、靴音が響く。
 不安定に揺れる灯りが、蔦の蔓延はびこる壁面を、床を、照らす。
 影が不気味に伸びて、靴音に合わせてゆら、ゆら、と不安定に揺れ動く。
「ふふ、」
 黒影が細く笑みをこぼした。
 もう、すぐそこだ。

――コツ、コツ、コツ。

 その姿がついぞあらわになる、その瞬間。
「うひゃあ!」
 ガ、という鈍い音。瓦礫につまずき、ビタンと地面に潰れる青年の姿。遅れて、亜麻色のふわふわとした髪が、はらりと地面についた。
「……あ゙?」
 大太刀を振りあげたままの黒影が、口角を下げた。まるで虫けらでも見下げるように、大太刀の腹を、転んだ人物の首筋へぺちぺちと叩きつける。
「なんだキサマ。ふざけているのか。立て。戦え。ワタシを楽しませろ。おい聞いているのかこの愚図。なにか言え殺すぞ」
「ひゃあああああああごめんなさいごめんなさい! ナギはただの旅人なので! やめて殺気怖いのでやめてぇぇぇぇぇ!」
 その人物はひしゃげたまま、両手を合わせて懇願した。その瞬間に、いままで感じていた恐ろしいほどの威圧感はすっかり消えてしまった。
(なんだ、この人……)
 ソウは警戒を解かないままに、その青年をよくよく観察した。
 涙目で身体を起こした青年は、緩やかな旅装束をまとっている。魔狩のように魔種との戦いを想定した武具は身に着けていない。一般的な背負い袋と、丈夫なブーツ。腰元にさげたナイフも、とくべつ目立つようなものではない。まさに、旅人というのが正しいような姿だ。しいていうなら、旅をするには不便そうな長い髪が、らしくない。春に見るたんぽぽの綿毛のような、やわらかな髪。亜麻色のそれは、ゆるやかな三つ編みにまとめられ、毛先は腰元まで垂れていた。
「ごめんなさい。ナギ、ここに人がいるなんて思わなかったんです。ごめんなさい」
 目もとをぬぐう左手の紋様が、ふと目についた。紫を深くしたような色あいで、大輪の花のようにも、樹木の年輪のようにも見まがう、美しくもまがまがしい紋様だ。
 それを見た瞬間、妙な胸騒ぎが、ソウの中でやかましく広がった。容易に触れてはならないような恐怖が、見つめるほどににじんでいく。
 まるで、生存本能が警鐘を鳴らしているように。
 つとめて冷静に。ソウは気弱に泣く青年をなだめた。
「おちついて。君はナギっていうの? 俺はソウ。魔狩なんだ」
「ま、魔狩……?」
 ぼんやりとした翡翠ひすい色のまなざしがこちらを見上げた。鼻を赤くして泣きじゃくる青年は、思っていたよりも整った顔立ちで、愛嬌がある。
 亜麻色の髪が揺れた。青年が首をかしげたからだ。
「おかしいですね。ここは、魔幽まゆう大陸だから、魔狩協会なんてないのに」
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