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序章
(二)出立の日
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ソウの父親は、魔狩だった。
憂国の南方、それも沿岸部に生まれた陽気な伊達男で、体格に恵まれちからも強く、そして魔狩になれるほどの教養をそなえていた。その動機といえば、女性にもてはやされるためという、いかにも父らしい単純なものだったが、軽薄で浮気性かと問われれば、ソウは首を横に振っただろう。ソウは、父が母を深く愛していたことも、そして息子であるソウとライのこともまた深く、そして真っすぐに愛してくれたことも、十二分に知っていたからだ。
世界を脅かす〈白色〉の魔種と戦う父の背を見て育ったソウは幼少から魔狩に必要な知識や技術をたくわえていくことになり、結果的に、ソウ自身も魔狩となったのはごく自然な流れだった。
不幸は両親が早くに他界したことだったが、その頃にはすでに魔狩として手に職があり、幸い、憂国の南方には父方の親戚がいた。家族四人で暮らした北方の家をはなれるのは寂しかったが、幼い弟と二人、叔母のいる田舎町へ引っ越した。
それから十数年もの間、なだらかな丘陵地帯が美しいこの町で暮らしつづけている。
ソウがライと暮らしている一軒家は、都市からやや離れた田舎にある。二階建ての納屋を改築して住居にしたもので、外装は重厚な石造り、内装は漆喰の灰白色に暖色のフロアタイルで、重厚な梁が趣深い。
家族四人で暮らしていた北方の家と比べるとずいぶんこぢんまりとしているが、兄弟二人で暮らすことにとりたてて不便はなかった。
梁と同じ色をした壁掛け時計は、いつもよりも早い時間を示している。
ことことと沸きたつ鍋のフタをひらくと、ふわり。やさしい香りに満たされる。これはヤギのミルクをたっぷりと使ったスープで、野菜嫌いな弟がゆいいつ、野菜を食べてくれる。母が残してくれたレシピだった。
ソウはそれを、底からゆっくりと混ぜて、ほんの少しだけすくい、小皿へたらした。息を吹きかけて、すこし冷ましてからくちもとへ。出汁に使った肉のうま味と野菜の甘さが、ミルクの温かさに包まれてそっと広がる。
「うん、いい味」
壁かけの時計を見る。家を出るまでにあと一時間もない。いつもならもうすこし遅い時間でもかまわないが、今日はちがった。
「つくりおき、これだけ用意しておけば大丈夫だよね」
さっと洗いものをすませてから、エプロンをはずし、端と端がぴったりと合うように軽くたたんでハンガーへかける。
「まさか急に、緊急招集がかかるなんてなぁ」
昨晩、ソウの元に魔狩協会から届いたのは、緊急要請を示す〈赤紙〉という書状だった。
魔狩協会から仕事が一方的に与えられるのはいつものことだが、〈赤紙〉はいつもの仕事とちがい〈拒否ができず、かつ迅速に対応する必要がある緊急案件〉だ。
魔狩になってから今までの間、ソウの元に赤紙が下ったのは、一回しかない。それも後方待機のみで、前線の部隊に配属されたわけではない。
「今回は部隊配属、か……。ランクBになった時点でいつかは来るだろうと思ってたけど」
ソウは息をついて、赤紙を戸棚に置いた。部隊配属、ということはすなわち、前線での戦いを意味する。人員は現地で発表されるため詳しいことはわからないが……。
ソウはけっして、戦いを望んでいるわけではなかった。
ほかにもっと良い条件で、命の危険などなく生計を立てる手段があれば、ソウは、きっとそれを選んでいただろう。しかし、今のところ魔狩以外にいい条件の仕事はない。能力に応じて、毎月一定額の給与があり、医療費の補助や死亡保険なども充実している。万が一に自分が死んだとしても、金銭面的に、弟が仕事を見つけるまでの当面の暮らしは心配ない。
「おはよー」
寝ぼけ眼でリビングにのろのろと入ってきたのはソウの弟、ライだ。おはよう、とあいさつをかえして、顔を洗ってくるようにうながす。
そのあいだに、冷蔵庫から瓶詰のチョコレートスプレッド、そしてミルクを取りだした。ミルクはコップにそそいで、温めなおしていたパンと一緒にテーブルへはこび、カウンターからカトラリーを出してならべる。ソウは先に朝食をすませてしまったので、用意するのは一人分だけだ。
リビングを彩る香りにふと視線を向ける。やわらかな春の香りは、黄色い小花をたっぷりとたくわえたギンヨウアカシアだ。銀色をおびた羽のような葉が特徴で、花言葉は「感謝」。憂国では春の祝日に、身近な女性へ日頃の感謝をこめて花を贈る習慣がある。ソウもそれにならって、毎年お世話になっている人たちに小さな花束を作って贈っている。そのときに、すこし端切れができてしまうのだが、そのまま捨てるのもしのびなく、こうして飾っている。
「思いだしたうちに水、かえておかなきゃね」
ソウはガラス細工の繊細な花瓶を手に取って、台所へはこんだ。と、そこでつい思いだし笑いをしてしまう。この花瓶は、三日ほど前に市場で弟が選んだものだ。毎年この時期だけだからと適当なコップに花を挿していたら、とうとうしびれを切らした弟が「花瓶を買おう」と言いだした。それもけっこうな勢いで「兄貴はそういうところがぞんざいすぎる」と怒られたあげく「だから恋人ができないんだ」となんら関係ないことまでまくしたてられた。
ちなみに、当の本人は、ソウだけに市場へ行かせる腹積もりだったらしい。ソウはそれを見こしたうえで、あれこれと説得し、どうにか兄弟二人で市場へ出かけた。ソウはこのことが嬉しかった。ライは母が亡くなってからずっと、家に引きこもっていたからだ。
ソウは新鮮な水を花瓶へたっぷりとそそぎ、ギンヨウアカシアの茎を洗って挿した。
昔はこの家にも花瓶があった。しかし数年前に母の遺品を整理していた時に、うっかり割ってしまい、その後も仕事に家事掃除と、日常に追われてついつい後回しにしてしまったが、結果的にこうして弟と出かけるきっかけになったのだから、それはそれでよかったのかもしれない。
ソウはカウンターに、ギンヨウアカシアを飾った。
ライが選んだ花瓶は、思うよりずっと家になじんでいる。
きっと、自分が出張で家を空けている間に、花は枯れてしまうだろうな、と、ソウはひとりでに苦笑した。弟が毎朝花瓶の水を替える姿は、あまり想像がつかない。
「兄貴、今日早いね。どうしたの」
顔を洗ってきてもまだ眠いのか、くぁ、と猫のように大きくあくびを混ぜて、ライがリビングテーブルの椅子へだらりと腰かけた。
「赤紙が届いたんだよ。今日から一週間くらい俺いないから、ちゃんとご飯食べてね」
「うんうん……え、嘘」
「本当。叔母さんには、ようすを見にきてくれるように頼んでおいたから、なにかこまったら相談してね。食べたお皿は台所にはこんで、一日に一回は着替えをして清潔に。メモは残してるけど、洗濯のしかたがわからなかったら叔母さんにきくんだよ。それからつくり置きしたおかずは……」
「待って待って待って、え、無理。兄貴、いないと死んじゃう」
ソウの言葉をさえぎって、ライは青ざめた顔で腰にすがりついてきた。
「大丈夫。なにも無理に働けとは言ってないんだから。ね?」
「やだやだ無理無理無理嘘でしょ待って兄貴おれの生活力のなさ知ってるでしょ壊滅的なのねぇ無理助けてどうすればいいの無理だよおおおおおおお」
「ああごめん、俺そろそろ出るから。ちゃんと鍵しめてね」
「兄貴ィィィィィィィィィィイイイイ!」
ごねる弟をほどほどにあしらいながら、ソウは出かける支度を始めた。仕事用の下衣に着替え、いつも通りサスペンダーの留め具を腰元にとりつけ、右の太腿の武器携帯用革鞘にナイフを差しこんだ。青色の上着を着用し、襟元の金具を留める。ベルトを締めて、戸棚へ手を伸ばした。天板にはソウの手のひらほどの大きさの家族写真が飾ってある。
それは十五年以上も前、まだ父が生きていたときに、魔導技術による映像記録装置で撮ったものだ。ライはつかまり立ちがようやくできはじめた頃で、ソウは魔狩になるために勉強と訓練を必死に重ねていた時期だった。
写真の中では、まだ幼い自分が、それよりももっと幼い弟を膝に抱いて、それを温かくかこむように父母が座っている。母はひかえめに笑う内気な人だったが、その表情は穏やかで幸福に満ちている。ソウもまた、明るい未来を信じて疑わないように、瞳を輝かせていた。
あと数年もすれば、写真の中で豪快に笑う父の年齢に追いつく。それくらいの時間が、過ぎてしまった。しかし、ソウはこのときの父のように子どもを育てているわけでもなければ、そもそも結婚すらしていない。相手だっていない。
父の年齢に追いついたところで、自分が誰かと家庭を築いている姿はまるで想像できないな、とソウは苦笑を浮かべた。
写真の横に置いていた赤紙とハンカチを懐にさしこんで、さらにお面を手に取った。りん、と鈴の音が鳴る。猫の顔を造形した面の右耳には、小さな鈴がついていて、これが揺れるたびに、りんりんと軽やかで愛らしい音が響く。
母が祝いにとくれたお面に、父が拵えてくれた八打ちの赤い紐を通しているこれは、ソウの宝物だ。仕事へ出かける時は、いつもこれを持っていく。
ものの数秒で面紐をベルトループへ結び、そこから背中に二刀一対の片刃曲刀を背負う。昨日のうちに準備をしていた旅用の背負い袋を肩にさげ、外套を羽織った。
玄関まで足をはこぶと、遅れて弟がついてくる。といっても、やはり外が怖いのか、いつも、ずいぶん手前で止まってしまうのだが。
「兄貴、早く帰ってきてね」
「あたりまえだろ。それじゃあいってきます」
涙目のライに、ソウはいつも通り、安心させるような笑みをうかべて、家を出た。
できるだけ早く帰れたらいいな、とそんなことを考えた。
側道から見渡せるなだらかな丘陵地帯は今、みずみずしい緑一色だ。幾度となく見てきた光景に今さら感慨もないが、ソウはこの色がひといきに変わる秋口が毎年の楽しみだった。
葡萄畑の側道を歩いて南に向かっていると、二軒先の町長の玄関口が見えた。手前の畑で、朝早くから野菜を収穫しているのは町長の奥さんだ。鈴の音に気がついたのか、ふりむくなり、彼女は快活な笑みを見せてくれた。
「あら、ソウ君。おはよう」
「おはようございます。先日はお野菜ありがとうございました」
「いいのよ」
奥さんは目じりに細かいシワをたずさえて、手のひらを上下に振った。
「そうそう、お土産でもらったお菓子、きのう家族でいただいたわ。甘い砂糖の衣をかんだら、中のアーモンドの香ばしさがはじけて、夫も娘も、もう美味しいって、とっても目を輝かせていたのよ」
「それはよかった。旦那さんも甘いものがお好きだとおっしゃっていたので、喜んでいただけて嬉しいです」
ソウは微笑んだ。
「それにしても、今日はいちだんと早いのねぇ」
「じつは、仕事で緊急招集がかかってしまいまして。一週間ほど留守に」
「まぁ、先週も出張だったのに、それは大変」奥さんは、それから気遣うように首をかしげ、片手を頬にそえた。「弟さんは大丈夫なの?」
「叔母さんにお願いしてきたので、大丈夫だと思うんですけど……」
「弟さんも元気になったら、ソウくんも楽になるのにねぇ」
彼女にたいして、ソウはとくになにをいうこともせず、ただ、こまったような笑みをうかべるだけにとどめた。
「わたしも気にかけておくから、安心していってらっしゃい」
目じりにやわらかな小じわをたずさえて、奥さんは笑った。
「いつもすみません。ありがとうございます」
それから話もほどほどに、ソウはあいさつをすませてまた南に向かった。その先でも、いくらか知り合いに声をかけられたソウは、そのたびに簡単なあいさつをした。おはようございます、ありがとうございます、お願いします――……。
人と関わることが苦手なライのことだ。きっと、こまったことがあっても、誰かを頼るまでにさんざん悩んで、けっきょく独りとじこもってしまうだろう。だからこそ、弟を気にかけてくれる人は、一人でも多いほうがいい。
南広場につくと、そこには魔狩協会が手配した乗合馬車があった。懐中時計をとりだして時間を確認する。ちょうどいい時間だ。
御者にかるくあいさつをして乗りこむと、ソウは扉に近い座席へ腰かけ、背もたれに自重をあずけて息をついた。ここから先は半日ほど移動して、都市部から魔鉱列車に乗り、そこから二日ほどかけて任務地である沙国へ移動する。
いつも地元で日ごとの仕事をこなしているソウにとっては、長い旅路だ。やがて馬のいななきが耳に届き、御者が、ソウをふくめた乗員らに声をかけた。ほかの魔狩もすでに乗車していた。見たことはあるが、名前は知らない。
なれない振動とともに、乗合馬車は進みはじめた。
ソウはまぶたを閉じる。朝が早かったぶん、すこしでも寝ておきたかったからだ。
――緊急招集なんてやめてほしいよなぁ。
――ねぇ、聞いた? ほら、ランクSの噂。
――そういえば皇国の神子様、ご懐妊なさったって。
わずかにまぶたをひらくと、なじみのある風景が遠くなっていくのが見える。遼遠と広がる青空に浮かぶ真っ白な雲が、ひとつだけ千切れた。
ソウは腰元の猫面にそれとなく触れる。
馬車が揺れるたびに鈴の音がせわしなく鳴るものだから、他の人にとってはうるさいだろうと思い、そっと手のひらで包んで音を隠した。
憂国の南方、それも沿岸部に生まれた陽気な伊達男で、体格に恵まれちからも強く、そして魔狩になれるほどの教養をそなえていた。その動機といえば、女性にもてはやされるためという、いかにも父らしい単純なものだったが、軽薄で浮気性かと問われれば、ソウは首を横に振っただろう。ソウは、父が母を深く愛していたことも、そして息子であるソウとライのこともまた深く、そして真っすぐに愛してくれたことも、十二分に知っていたからだ。
世界を脅かす〈白色〉の魔種と戦う父の背を見て育ったソウは幼少から魔狩に必要な知識や技術をたくわえていくことになり、結果的に、ソウ自身も魔狩となったのはごく自然な流れだった。
不幸は両親が早くに他界したことだったが、その頃にはすでに魔狩として手に職があり、幸い、憂国の南方には父方の親戚がいた。家族四人で暮らした北方の家をはなれるのは寂しかったが、幼い弟と二人、叔母のいる田舎町へ引っ越した。
それから十数年もの間、なだらかな丘陵地帯が美しいこの町で暮らしつづけている。
ソウがライと暮らしている一軒家は、都市からやや離れた田舎にある。二階建ての納屋を改築して住居にしたもので、外装は重厚な石造り、内装は漆喰の灰白色に暖色のフロアタイルで、重厚な梁が趣深い。
家族四人で暮らしていた北方の家と比べるとずいぶんこぢんまりとしているが、兄弟二人で暮らすことにとりたてて不便はなかった。
梁と同じ色をした壁掛け時計は、いつもよりも早い時間を示している。
ことことと沸きたつ鍋のフタをひらくと、ふわり。やさしい香りに満たされる。これはヤギのミルクをたっぷりと使ったスープで、野菜嫌いな弟がゆいいつ、野菜を食べてくれる。母が残してくれたレシピだった。
ソウはそれを、底からゆっくりと混ぜて、ほんの少しだけすくい、小皿へたらした。息を吹きかけて、すこし冷ましてからくちもとへ。出汁に使った肉のうま味と野菜の甘さが、ミルクの温かさに包まれてそっと広がる。
「うん、いい味」
壁かけの時計を見る。家を出るまでにあと一時間もない。いつもならもうすこし遅い時間でもかまわないが、今日はちがった。
「つくりおき、これだけ用意しておけば大丈夫だよね」
さっと洗いものをすませてから、エプロンをはずし、端と端がぴったりと合うように軽くたたんでハンガーへかける。
「まさか急に、緊急招集がかかるなんてなぁ」
昨晩、ソウの元に魔狩協会から届いたのは、緊急要請を示す〈赤紙〉という書状だった。
魔狩協会から仕事が一方的に与えられるのはいつものことだが、〈赤紙〉はいつもの仕事とちがい〈拒否ができず、かつ迅速に対応する必要がある緊急案件〉だ。
魔狩になってから今までの間、ソウの元に赤紙が下ったのは、一回しかない。それも後方待機のみで、前線の部隊に配属されたわけではない。
「今回は部隊配属、か……。ランクBになった時点でいつかは来るだろうと思ってたけど」
ソウは息をついて、赤紙を戸棚に置いた。部隊配属、ということはすなわち、前線での戦いを意味する。人員は現地で発表されるため詳しいことはわからないが……。
ソウはけっして、戦いを望んでいるわけではなかった。
ほかにもっと良い条件で、命の危険などなく生計を立てる手段があれば、ソウは、きっとそれを選んでいただろう。しかし、今のところ魔狩以外にいい条件の仕事はない。能力に応じて、毎月一定額の給与があり、医療費の補助や死亡保険なども充実している。万が一に自分が死んだとしても、金銭面的に、弟が仕事を見つけるまでの当面の暮らしは心配ない。
「おはよー」
寝ぼけ眼でリビングにのろのろと入ってきたのはソウの弟、ライだ。おはよう、とあいさつをかえして、顔を洗ってくるようにうながす。
そのあいだに、冷蔵庫から瓶詰のチョコレートスプレッド、そしてミルクを取りだした。ミルクはコップにそそいで、温めなおしていたパンと一緒にテーブルへはこび、カウンターからカトラリーを出してならべる。ソウは先に朝食をすませてしまったので、用意するのは一人分だけだ。
リビングを彩る香りにふと視線を向ける。やわらかな春の香りは、黄色い小花をたっぷりとたくわえたギンヨウアカシアだ。銀色をおびた羽のような葉が特徴で、花言葉は「感謝」。憂国では春の祝日に、身近な女性へ日頃の感謝をこめて花を贈る習慣がある。ソウもそれにならって、毎年お世話になっている人たちに小さな花束を作って贈っている。そのときに、すこし端切れができてしまうのだが、そのまま捨てるのもしのびなく、こうして飾っている。
「思いだしたうちに水、かえておかなきゃね」
ソウはガラス細工の繊細な花瓶を手に取って、台所へはこんだ。と、そこでつい思いだし笑いをしてしまう。この花瓶は、三日ほど前に市場で弟が選んだものだ。毎年この時期だけだからと適当なコップに花を挿していたら、とうとうしびれを切らした弟が「花瓶を買おう」と言いだした。それもけっこうな勢いで「兄貴はそういうところがぞんざいすぎる」と怒られたあげく「だから恋人ができないんだ」となんら関係ないことまでまくしたてられた。
ちなみに、当の本人は、ソウだけに市場へ行かせる腹積もりだったらしい。ソウはそれを見こしたうえで、あれこれと説得し、どうにか兄弟二人で市場へ出かけた。ソウはこのことが嬉しかった。ライは母が亡くなってからずっと、家に引きこもっていたからだ。
ソウは新鮮な水を花瓶へたっぷりとそそぎ、ギンヨウアカシアの茎を洗って挿した。
昔はこの家にも花瓶があった。しかし数年前に母の遺品を整理していた時に、うっかり割ってしまい、その後も仕事に家事掃除と、日常に追われてついつい後回しにしてしまったが、結果的にこうして弟と出かけるきっかけになったのだから、それはそれでよかったのかもしれない。
ソウはカウンターに、ギンヨウアカシアを飾った。
ライが選んだ花瓶は、思うよりずっと家になじんでいる。
きっと、自分が出張で家を空けている間に、花は枯れてしまうだろうな、と、ソウはひとりでに苦笑した。弟が毎朝花瓶の水を替える姿は、あまり想像がつかない。
「兄貴、今日早いね。どうしたの」
顔を洗ってきてもまだ眠いのか、くぁ、と猫のように大きくあくびを混ぜて、ライがリビングテーブルの椅子へだらりと腰かけた。
「赤紙が届いたんだよ。今日から一週間くらい俺いないから、ちゃんとご飯食べてね」
「うんうん……え、嘘」
「本当。叔母さんには、ようすを見にきてくれるように頼んでおいたから、なにかこまったら相談してね。食べたお皿は台所にはこんで、一日に一回は着替えをして清潔に。メモは残してるけど、洗濯のしかたがわからなかったら叔母さんにきくんだよ。それからつくり置きしたおかずは……」
「待って待って待って、え、無理。兄貴、いないと死んじゃう」
ソウの言葉をさえぎって、ライは青ざめた顔で腰にすがりついてきた。
「大丈夫。なにも無理に働けとは言ってないんだから。ね?」
「やだやだ無理無理無理嘘でしょ待って兄貴おれの生活力のなさ知ってるでしょ壊滅的なのねぇ無理助けてどうすればいいの無理だよおおおおおおお」
「ああごめん、俺そろそろ出るから。ちゃんと鍵しめてね」
「兄貴ィィィィィィィィィィイイイイ!」
ごねる弟をほどほどにあしらいながら、ソウは出かける支度を始めた。仕事用の下衣に着替え、いつも通りサスペンダーの留め具を腰元にとりつけ、右の太腿の武器携帯用革鞘にナイフを差しこんだ。青色の上着を着用し、襟元の金具を留める。ベルトを締めて、戸棚へ手を伸ばした。天板にはソウの手のひらほどの大きさの家族写真が飾ってある。
それは十五年以上も前、まだ父が生きていたときに、魔導技術による映像記録装置で撮ったものだ。ライはつかまり立ちがようやくできはじめた頃で、ソウは魔狩になるために勉強と訓練を必死に重ねていた時期だった。
写真の中では、まだ幼い自分が、それよりももっと幼い弟を膝に抱いて、それを温かくかこむように父母が座っている。母はひかえめに笑う内気な人だったが、その表情は穏やかで幸福に満ちている。ソウもまた、明るい未来を信じて疑わないように、瞳を輝かせていた。
あと数年もすれば、写真の中で豪快に笑う父の年齢に追いつく。それくらいの時間が、過ぎてしまった。しかし、ソウはこのときの父のように子どもを育てているわけでもなければ、そもそも結婚すらしていない。相手だっていない。
父の年齢に追いついたところで、自分が誰かと家庭を築いている姿はまるで想像できないな、とソウは苦笑を浮かべた。
写真の横に置いていた赤紙とハンカチを懐にさしこんで、さらにお面を手に取った。りん、と鈴の音が鳴る。猫の顔を造形した面の右耳には、小さな鈴がついていて、これが揺れるたびに、りんりんと軽やかで愛らしい音が響く。
母が祝いにとくれたお面に、父が拵えてくれた八打ちの赤い紐を通しているこれは、ソウの宝物だ。仕事へ出かける時は、いつもこれを持っていく。
ものの数秒で面紐をベルトループへ結び、そこから背中に二刀一対の片刃曲刀を背負う。昨日のうちに準備をしていた旅用の背負い袋を肩にさげ、外套を羽織った。
玄関まで足をはこぶと、遅れて弟がついてくる。といっても、やはり外が怖いのか、いつも、ずいぶん手前で止まってしまうのだが。
「兄貴、早く帰ってきてね」
「あたりまえだろ。それじゃあいってきます」
涙目のライに、ソウはいつも通り、安心させるような笑みをうかべて、家を出た。
できるだけ早く帰れたらいいな、とそんなことを考えた。
側道から見渡せるなだらかな丘陵地帯は今、みずみずしい緑一色だ。幾度となく見てきた光景に今さら感慨もないが、ソウはこの色がひといきに変わる秋口が毎年の楽しみだった。
葡萄畑の側道を歩いて南に向かっていると、二軒先の町長の玄関口が見えた。手前の畑で、朝早くから野菜を収穫しているのは町長の奥さんだ。鈴の音に気がついたのか、ふりむくなり、彼女は快活な笑みを見せてくれた。
「あら、ソウ君。おはよう」
「おはようございます。先日はお野菜ありがとうございました」
「いいのよ」
奥さんは目じりに細かいシワをたずさえて、手のひらを上下に振った。
「そうそう、お土産でもらったお菓子、きのう家族でいただいたわ。甘い砂糖の衣をかんだら、中のアーモンドの香ばしさがはじけて、夫も娘も、もう美味しいって、とっても目を輝かせていたのよ」
「それはよかった。旦那さんも甘いものがお好きだとおっしゃっていたので、喜んでいただけて嬉しいです」
ソウは微笑んだ。
「それにしても、今日はいちだんと早いのねぇ」
「じつは、仕事で緊急招集がかかってしまいまして。一週間ほど留守に」
「まぁ、先週も出張だったのに、それは大変」奥さんは、それから気遣うように首をかしげ、片手を頬にそえた。「弟さんは大丈夫なの?」
「叔母さんにお願いしてきたので、大丈夫だと思うんですけど……」
「弟さんも元気になったら、ソウくんも楽になるのにねぇ」
彼女にたいして、ソウはとくになにをいうこともせず、ただ、こまったような笑みをうかべるだけにとどめた。
「わたしも気にかけておくから、安心していってらっしゃい」
目じりにやわらかな小じわをたずさえて、奥さんは笑った。
「いつもすみません。ありがとうございます」
それから話もほどほどに、ソウはあいさつをすませてまた南に向かった。その先でも、いくらか知り合いに声をかけられたソウは、そのたびに簡単なあいさつをした。おはようございます、ありがとうございます、お願いします――……。
人と関わることが苦手なライのことだ。きっと、こまったことがあっても、誰かを頼るまでにさんざん悩んで、けっきょく独りとじこもってしまうだろう。だからこそ、弟を気にかけてくれる人は、一人でも多いほうがいい。
南広場につくと、そこには魔狩協会が手配した乗合馬車があった。懐中時計をとりだして時間を確認する。ちょうどいい時間だ。
御者にかるくあいさつをして乗りこむと、ソウは扉に近い座席へ腰かけ、背もたれに自重をあずけて息をついた。ここから先は半日ほど移動して、都市部から魔鉱列車に乗り、そこから二日ほどかけて任務地である沙国へ移動する。
いつも地元で日ごとの仕事をこなしているソウにとっては、長い旅路だ。やがて馬のいななきが耳に届き、御者が、ソウをふくめた乗員らに声をかけた。ほかの魔狩もすでに乗車していた。見たことはあるが、名前は知らない。
なれない振動とともに、乗合馬車は進みはじめた。
ソウはまぶたを閉じる。朝が早かったぶん、すこしでも寝ておきたかったからだ。
――緊急招集なんてやめてほしいよなぁ。
――ねぇ、聞いた? ほら、ランクSの噂。
――そういえば皇国の神子様、ご懐妊なさったって。
わずかにまぶたをひらくと、なじみのある風景が遠くなっていくのが見える。遼遠と広がる青空に浮かぶ真っ白な雲が、ひとつだけ千切れた。
ソウは腰元の猫面にそれとなく触れる。
馬車が揺れるたびに鈴の音がせわしなく鳴るものだから、他の人にとってはうるさいだろうと思い、そっと手のひらで包んで音を隠した。
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