146 / 194
第二部
第43話 ほころび(アナベル視点)
しおりを挟む
「アナベル、今ちょっといい?」
トマス・カマユーが、惜しみなく愛想を振りまいて使用人部屋にやってきたとき、私は内心で少し驚いた。
ここのところ、めっきり近付いて来なかった。
昨日、ディクソン公爵邸でのあの騒ぎの後ですら、話し掛けて来なかった。口を利くのは久しぶりだ。
お仕着せに身を包んだ使用人たちが入れ替わり立ち代わり、忙しく出入りする木製のドア枠に腕をかけ、制服姿を凭れさせている。
「今、忙しいので――」
リリアーナの部屋に運ぶ、小花模様の茶器の載った銀のトレーに視線を落とし、冷淡に聞こえるよう意識して続ける。
「――用事なら、他の者に言いつけてください」
騎士らしい厳めしさの欠片もないトマス・カマユーは、困ったみたいに眉尻を下げる。
これで引き下がるだろうと思ったのに――
「そうかー……あ、侍女頭さん、アナベル、ちょっと借りていいです?」
今日に限って、彼は食い下がった。
穏やかに笑いかけられたのは、背筋の通った伯爵邸の侍女頭だった。「どこかで表情筋を落としてきてしまったのよ」と若いメイドたちから噂される彼女は、顔の筋肉を全く動かさぬまま、器用に固い声を出す。
「かしこまりました。アナベル、行ってきなさい。――リジー、アナベルの代わりにリリアーナ様のお部屋へこれを」
お茶運びに指名されたリジーは、ぱあっと顔を輝かせた。やった! と小さく叫び、ゆっくりしてきていいからね、とすれ違いざまに私の肩を軽く叩く。
使用人が集うこの場において、誰よりも身分が高い王宮騎士――トマス・カマユーは柔らかな笑みを深める。
不機嫌な表情をして見せても、今日の彼は全く気にしない素振りで、「さ、行こうか」と私の背中にゆるく触れた。
欅の大木に背を預け、伯爵邸の広い庭を眺める。落葉樹たちは半分ほど葉を落とし、辺り一面を鮮やかに染めている。薄紅色の葉がはらりと落ちて、その模様を変える。くしゃりとそれを踏みしめながら、トマス・カマユーが優しい声で言う。
「葉っぱ、だいぶ散っちゃったな。寂しいような気もするけど、これはこれで趣あって、俺はわりと好きだな。アナベルは? 秋、好き?」
――ねえ?
――『わたくし、秋って好き。欅は、同じ枝に違う色の葉をつけるのね。これは赤。こっちは黄色と紅色。ほら、これなんて、わたくしの瞳の色とおんなじ。妖精が絵を描いたみたい。ねえ? あなたはどの季節が好き?』
似たようなことを訊いた少女の声を思い出した。冷たい空気と、この欅の葉のせいだ。
「――これから、レディ・リリアーナがレディ・ブランシュと買い物に行かれます。準備がございますから、手短に願います」
単調な声で告げた途端、ふっと吹き出して、トマス・カマユーは頬を緩めた。
「うん、了解。だけど、手先が不器用じゃなかったっけ? 外出の準備でアナベルが手伝えることってあんの?」
「…………」
これ見よがしに大きく息を吐いても、今日のトマス・カマユーは余裕の笑みを崩さない。子どもが落ち葉を蹴って遊ぶみたいな仕草をしながら、明るい口調で言う。
「いやー、昨日はマジびびったわー。メイアンが、令嬢とアナベルが連れ去られたとか言うもんだから。何でかあいつの態度、普通じゃなかったし」
「……ディクソン公爵様、情け深い方で助かりましたね」
公爵邸の中庭で抜き身を手にした場面を目にしたときは、さすがに仰天した。
「いや、マジで。俺、抜剣しちゃってたし。シャトー・グリフ行きは免れんと思った。うちの団長なら、間違いなくそうしてる。なんなら絞首台に送ってる」
あはは、と大きく笑うと、彼の目尻には皺が入る。
「そうですか」
「うん、良かった。アナベルも令嬢も怪我なかったし。めちゃくちゃ心配して、馬かっ飛ばしたんだ。俺、早かったろ? 少しはときめいた?」
呆れたように、また大きく溜め息をついて見せると、彼はまた、あはは、と笑った。柔らかそうな金の髪に木漏れ日が落ちて、紅葉の色が映っている。
私より一回り大きな身体が近付いてきたかと思うと、背後の欅の幹に左手をついた。
「それでさ、アナベル――」
黒い制服の襟元と咽喉仏が真正面にきて、思わず顔をしかめて見上げると、優しく微笑みかけられていた。目を合わせたまま、穏やかな声は続ける。
「――ディクソン公爵邸の深緑の騎士と、どういう関係?」
柔らかな弧を描く空色の瞳の奥は、笑っていない。
市場で聞いた、プファウの声――。
『ブルソールらへんじゃないかって……レオンとオウミが、その線で潜るって』
――しくじった。
「何のことです?」
とぼけて、首を傾げて見せる。
トマス・カマユーは目を細めた。おどけた口調で言う。
「アナベルの優しい微笑み、久しぶりに見た。そうかー、こういう時には、笑ってくれんのね」
「…………」
「ノア・シュノー騎士、二十八歳、西部トルソー村出身。三か月前、深緑の騎士に採用されたって?」
「……誰のことだか」
「そう?」
「はい」
目の奥は笑わぬまま、空色の瞳は笑みを深めた。
「おっかしいなあ……昨日、合図、送り合ってたじゃん? 瞬き三回。知り合いかなー? と思ったけど、その後はずっと、わざとみたいに視線合さなかったろう?」
舌打ちしたいのを堪える。侮っていた――ヘラヘラ笑ってたくせに。
黙っていると、トマス・カマユーは明るい声で続ける。
「今のところ、俺しか気付いてない。ほら、みんなはレディ・リリアーナの方を見てたから? これも愛の力ってやつ?」
「なんのことだか、さっぱり」
そうか――、とトマス・カマユーは欅の幹に手を突いたまま顔を近づける。至近距離にある瞳。すっと表情を消して、彼は低い声で言う。
「わかった。じゃあ今すぐ、この足でディクソン公爵邸に向かう。ノア・シュノーは拘束させてもらう」
「……どうぞ、知らない人ですから」
空色の瞳は、柔らかな弧を描いた。
「脅しじゃない、わかってるだろ? レディ・ブランシュの懸賞金は取り下げられたけど、安心はできない。俺は護衛だから、不安要素は取り除く」
「…………元カ――」
「元カレっての、もう無しね。俺、アナベルに元カレいないって知ってるし」
「…………清い交際の、元カレです」
「そうきたかー」
あはは、とトマス・カマユーは明るく笑った。欅の幹から手を離す。
「じゃ、ちょっとディクソン公爵邸行ってくるね。アナベル、悪いけどアイルたちに身柄預けるから、一緒に来てくれる? 手荒な真似はしないし、疑いが晴れたらすぐ解放するって約束するよ」
行こう――と手を差し出して、トマス・カマユーは半身を向けた。
「…………」
薄紅色の陽が揺れるその掌に、この手を重ねてみようか――。手を伸ばしかける。
夕焼けの光が、部屋を染めていたから。
器用に針を通す大きな手と長い指が、優しかったから。
『一生愛して、大事にするのに。後悔させない自信あるのに』
優しい声で、あんなことを言うから――。
差し込む光が、理性を溶かす。
――その光に、触れられるのは誰?
例えば、戦争なんて起きてなくて、隣の国とは関係良好で――私は船にも乗っていなくて。もうずっと昔から、ここで侍女として働いている。長く帰れていないけれど、故郷は変わらずあの場所にあって、そこでみんな元気に暮らしている ――
――そういうことに、できたなら。
ほんの少し、この手を伸ばせば。
それなら――
『わたし、アナベルが一緒にいてくれて、すごく幸せです。夢みたいです。一緒にいてくださいね』
きらきらきらきら。
この場所は、輝いていた。
もしも、ここにいる資格があったなら、どんな未来があっただろう?
――ねえ?
あの日、少女は欅の大木を見上げた。
『葉はこうして風に誘われて落ちてしまうけど、土に還って、根に吸われて、いつかまた樹に帰るでしょう。だけど、あの人たちは……、お父様に命じられて……戻れなかった人たちはどうなるのかしら……』
その朝、報告が届いたガリカ谷の戦いのことを言っているのだろうと、わかった。敵も被害甚大ながら、昨夜ついに突破された。
陛下は決して和睦に応じない。
今は立て直しに終われている敵が、じきに進軍してくる。
陛下は、撤退禁止命令を出していた。「戦線を死守せよ」――あの戦線から、ガリカ谷から生きて退けた味方はいない。同期や知人の顔が浮かんでは消えた。
『……故郷でないところで、身体は土に還っても、魂は風になって帰ってきます』
建国神話にある、風の神が魂を掬い上げる話を思い出しながら、私は言った。それが本当だったらいい。頬を撫でるこの風が、彼らのうち誰かかも知れない――
『……そうね……』
『この王都ある限り、帰ってきます。風神と水神の兄弟に愛され、母なるクムロフ川に守られたハイドランジアは、永遠ですから』
『…………でも、あなたは風になんかならないでね。わたくしの傍で、ずっと生きていなくてはだめよ』
いつも気丈だった少女は、その時だけ、ひどく不安そうな顔をした。
『もちろん、お約束いたします。何があっても、お傍でお守りします。だって私、すごく強いんですよ? 敵がここまで来るなんてありえませんけど、万に一つ来たって、どうってことありません』
冗談めかして言うと、彼女は瞬きながら、うっすら微笑んだ。幼い頬が、薄紅色に透けていた。
彼女の瞳と同じ色に染まった葉が、一枚、足元に落ちる。
――……丁度、頃合いだった。
ずっと、ここにはいられない。
――あの日、心はあの場所に置いてきた。
深く、長く、息を吐く。
身体中の空気と一緒に、迷わせるものを全部、吐き出せるように。
「カマユー卿」
「お、言う気んなった?」
振り返った空色の瞳を、まっすぐに見る。
きらきらきらきら――眩しい光。
真っ暗な水底で泥に沈んだ私を照らす。
「私、ロウブリッターの仲間でハイドランジアの元騎士です。令嬢の敵じゃありません。伯爵と令嬢方は事情をご存じですから、後で確認してください。ノア・シュノーは偽名ですが、私の仲間です。例の懸賞金の件、ディクソン公爵邸に潜入して調べていました」
一息に言ってしまうと、空色の瞳はみるみる見開かれた。笑顔は固まる。
「…………マジで?」
大きく頷く。これでもう、無理しなくていい。
きらきらきらきら。
私のこと、好きなの?
だけどここにいるのは、空っぽの入れ物。
心はもう、あの水底に捨ててきた。
「私、捕まる気もローゼンダールにつく気もありませんので、これっきりです。短い間でしたがお世話になりました。屋敷の皆様にもよろしくお伝えください」
空色の瞳はさらに開かれた。
「…………は?」
そのまま背を向け、駆け出す。
「……っ?……アナベルっ!!」
秋色の木立に響いた偽りの名は、風に吹かれて、散って消えた。
トマス・カマユーが、惜しみなく愛想を振りまいて使用人部屋にやってきたとき、私は内心で少し驚いた。
ここのところ、めっきり近付いて来なかった。
昨日、ディクソン公爵邸でのあの騒ぎの後ですら、話し掛けて来なかった。口を利くのは久しぶりだ。
お仕着せに身を包んだ使用人たちが入れ替わり立ち代わり、忙しく出入りする木製のドア枠に腕をかけ、制服姿を凭れさせている。
「今、忙しいので――」
リリアーナの部屋に運ぶ、小花模様の茶器の載った銀のトレーに視線を落とし、冷淡に聞こえるよう意識して続ける。
「――用事なら、他の者に言いつけてください」
騎士らしい厳めしさの欠片もないトマス・カマユーは、困ったみたいに眉尻を下げる。
これで引き下がるだろうと思ったのに――
「そうかー……あ、侍女頭さん、アナベル、ちょっと借りていいです?」
今日に限って、彼は食い下がった。
穏やかに笑いかけられたのは、背筋の通った伯爵邸の侍女頭だった。「どこかで表情筋を落としてきてしまったのよ」と若いメイドたちから噂される彼女は、顔の筋肉を全く動かさぬまま、器用に固い声を出す。
「かしこまりました。アナベル、行ってきなさい。――リジー、アナベルの代わりにリリアーナ様のお部屋へこれを」
お茶運びに指名されたリジーは、ぱあっと顔を輝かせた。やった! と小さく叫び、ゆっくりしてきていいからね、とすれ違いざまに私の肩を軽く叩く。
使用人が集うこの場において、誰よりも身分が高い王宮騎士――トマス・カマユーは柔らかな笑みを深める。
不機嫌な表情をして見せても、今日の彼は全く気にしない素振りで、「さ、行こうか」と私の背中にゆるく触れた。
欅の大木に背を預け、伯爵邸の広い庭を眺める。落葉樹たちは半分ほど葉を落とし、辺り一面を鮮やかに染めている。薄紅色の葉がはらりと落ちて、その模様を変える。くしゃりとそれを踏みしめながら、トマス・カマユーが優しい声で言う。
「葉っぱ、だいぶ散っちゃったな。寂しいような気もするけど、これはこれで趣あって、俺はわりと好きだな。アナベルは? 秋、好き?」
――ねえ?
――『わたくし、秋って好き。欅は、同じ枝に違う色の葉をつけるのね。これは赤。こっちは黄色と紅色。ほら、これなんて、わたくしの瞳の色とおんなじ。妖精が絵を描いたみたい。ねえ? あなたはどの季節が好き?』
似たようなことを訊いた少女の声を思い出した。冷たい空気と、この欅の葉のせいだ。
「――これから、レディ・リリアーナがレディ・ブランシュと買い物に行かれます。準備がございますから、手短に願います」
単調な声で告げた途端、ふっと吹き出して、トマス・カマユーは頬を緩めた。
「うん、了解。だけど、手先が不器用じゃなかったっけ? 外出の準備でアナベルが手伝えることってあんの?」
「…………」
これ見よがしに大きく息を吐いても、今日のトマス・カマユーは余裕の笑みを崩さない。子どもが落ち葉を蹴って遊ぶみたいな仕草をしながら、明るい口調で言う。
「いやー、昨日はマジびびったわー。メイアンが、令嬢とアナベルが連れ去られたとか言うもんだから。何でかあいつの態度、普通じゃなかったし」
「……ディクソン公爵様、情け深い方で助かりましたね」
公爵邸の中庭で抜き身を手にした場面を目にしたときは、さすがに仰天した。
「いや、マジで。俺、抜剣しちゃってたし。シャトー・グリフ行きは免れんと思った。うちの団長なら、間違いなくそうしてる。なんなら絞首台に送ってる」
あはは、と大きく笑うと、彼の目尻には皺が入る。
「そうですか」
「うん、良かった。アナベルも令嬢も怪我なかったし。めちゃくちゃ心配して、馬かっ飛ばしたんだ。俺、早かったろ? 少しはときめいた?」
呆れたように、また大きく溜め息をついて見せると、彼はまた、あはは、と笑った。柔らかそうな金の髪に木漏れ日が落ちて、紅葉の色が映っている。
私より一回り大きな身体が近付いてきたかと思うと、背後の欅の幹に左手をついた。
「それでさ、アナベル――」
黒い制服の襟元と咽喉仏が真正面にきて、思わず顔をしかめて見上げると、優しく微笑みかけられていた。目を合わせたまま、穏やかな声は続ける。
「――ディクソン公爵邸の深緑の騎士と、どういう関係?」
柔らかな弧を描く空色の瞳の奥は、笑っていない。
市場で聞いた、プファウの声――。
『ブルソールらへんじゃないかって……レオンとオウミが、その線で潜るって』
――しくじった。
「何のことです?」
とぼけて、首を傾げて見せる。
トマス・カマユーは目を細めた。おどけた口調で言う。
「アナベルの優しい微笑み、久しぶりに見た。そうかー、こういう時には、笑ってくれんのね」
「…………」
「ノア・シュノー騎士、二十八歳、西部トルソー村出身。三か月前、深緑の騎士に採用されたって?」
「……誰のことだか」
「そう?」
「はい」
目の奥は笑わぬまま、空色の瞳は笑みを深めた。
「おっかしいなあ……昨日、合図、送り合ってたじゃん? 瞬き三回。知り合いかなー? と思ったけど、その後はずっと、わざとみたいに視線合さなかったろう?」
舌打ちしたいのを堪える。侮っていた――ヘラヘラ笑ってたくせに。
黙っていると、トマス・カマユーは明るい声で続ける。
「今のところ、俺しか気付いてない。ほら、みんなはレディ・リリアーナの方を見てたから? これも愛の力ってやつ?」
「なんのことだか、さっぱり」
そうか――、とトマス・カマユーは欅の幹に手を突いたまま顔を近づける。至近距離にある瞳。すっと表情を消して、彼は低い声で言う。
「わかった。じゃあ今すぐ、この足でディクソン公爵邸に向かう。ノア・シュノーは拘束させてもらう」
「……どうぞ、知らない人ですから」
空色の瞳は、柔らかな弧を描いた。
「脅しじゃない、わかってるだろ? レディ・ブランシュの懸賞金は取り下げられたけど、安心はできない。俺は護衛だから、不安要素は取り除く」
「…………元カ――」
「元カレっての、もう無しね。俺、アナベルに元カレいないって知ってるし」
「…………清い交際の、元カレです」
「そうきたかー」
あはは、とトマス・カマユーは明るく笑った。欅の幹から手を離す。
「じゃ、ちょっとディクソン公爵邸行ってくるね。アナベル、悪いけどアイルたちに身柄預けるから、一緒に来てくれる? 手荒な真似はしないし、疑いが晴れたらすぐ解放するって約束するよ」
行こう――と手を差し出して、トマス・カマユーは半身を向けた。
「…………」
薄紅色の陽が揺れるその掌に、この手を重ねてみようか――。手を伸ばしかける。
夕焼けの光が、部屋を染めていたから。
器用に針を通す大きな手と長い指が、優しかったから。
『一生愛して、大事にするのに。後悔させない自信あるのに』
優しい声で、あんなことを言うから――。
差し込む光が、理性を溶かす。
――その光に、触れられるのは誰?
例えば、戦争なんて起きてなくて、隣の国とは関係良好で――私は船にも乗っていなくて。もうずっと昔から、ここで侍女として働いている。長く帰れていないけれど、故郷は変わらずあの場所にあって、そこでみんな元気に暮らしている ――
――そういうことに、できたなら。
ほんの少し、この手を伸ばせば。
それなら――
『わたし、アナベルが一緒にいてくれて、すごく幸せです。夢みたいです。一緒にいてくださいね』
きらきらきらきら。
この場所は、輝いていた。
もしも、ここにいる資格があったなら、どんな未来があっただろう?
――ねえ?
あの日、少女は欅の大木を見上げた。
『葉はこうして風に誘われて落ちてしまうけど、土に還って、根に吸われて、いつかまた樹に帰るでしょう。だけど、あの人たちは……、お父様に命じられて……戻れなかった人たちはどうなるのかしら……』
その朝、報告が届いたガリカ谷の戦いのことを言っているのだろうと、わかった。敵も被害甚大ながら、昨夜ついに突破された。
陛下は決して和睦に応じない。
今は立て直しに終われている敵が、じきに進軍してくる。
陛下は、撤退禁止命令を出していた。「戦線を死守せよ」――あの戦線から、ガリカ谷から生きて退けた味方はいない。同期や知人の顔が浮かんでは消えた。
『……故郷でないところで、身体は土に還っても、魂は風になって帰ってきます』
建国神話にある、風の神が魂を掬い上げる話を思い出しながら、私は言った。それが本当だったらいい。頬を撫でるこの風が、彼らのうち誰かかも知れない――
『……そうね……』
『この王都ある限り、帰ってきます。風神と水神の兄弟に愛され、母なるクムロフ川に守られたハイドランジアは、永遠ですから』
『…………でも、あなたは風になんかならないでね。わたくしの傍で、ずっと生きていなくてはだめよ』
いつも気丈だった少女は、その時だけ、ひどく不安そうな顔をした。
『もちろん、お約束いたします。何があっても、お傍でお守りします。だって私、すごく強いんですよ? 敵がここまで来るなんてありえませんけど、万に一つ来たって、どうってことありません』
冗談めかして言うと、彼女は瞬きながら、うっすら微笑んだ。幼い頬が、薄紅色に透けていた。
彼女の瞳と同じ色に染まった葉が、一枚、足元に落ちる。
――……丁度、頃合いだった。
ずっと、ここにはいられない。
――あの日、心はあの場所に置いてきた。
深く、長く、息を吐く。
身体中の空気と一緒に、迷わせるものを全部、吐き出せるように。
「カマユー卿」
「お、言う気んなった?」
振り返った空色の瞳を、まっすぐに見る。
きらきらきらきら――眩しい光。
真っ暗な水底で泥に沈んだ私を照らす。
「私、ロウブリッターの仲間でハイドランジアの元騎士です。令嬢の敵じゃありません。伯爵と令嬢方は事情をご存じですから、後で確認してください。ノア・シュノーは偽名ですが、私の仲間です。例の懸賞金の件、ディクソン公爵邸に潜入して調べていました」
一息に言ってしまうと、空色の瞳はみるみる見開かれた。笑顔は固まる。
「…………マジで?」
大きく頷く。これでもう、無理しなくていい。
きらきらきらきら。
私のこと、好きなの?
だけどここにいるのは、空っぽの入れ物。
心はもう、あの水底に捨ててきた。
「私、捕まる気もローゼンダールにつく気もありませんので、これっきりです。短い間でしたがお世話になりました。屋敷の皆様にもよろしくお伝えください」
空色の瞳はさらに開かれた。
「…………は?」
そのまま背を向け、駆け出す。
「……っ?……アナベルっ!!」
秋色の木立に響いた偽りの名は、風に吹かれて、散って消えた。
0
お気に入りに追加
243
あなたにおすすめの小説
婚約者の幼馴染?それが何か?
仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた
「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」
目の前にいる私の事はガン無視である
「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」
リカルドにそう言われたマリサは
「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」
ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・
「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」
「そんな!リカルド酷い!」
マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している
この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ
タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」
「まってくれタバサ!誤解なんだ」
リカルドを置いて、タバサは席を立った
【完結】夫もメイドも嘘ばかり
横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。
サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。
そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。
夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
婚約者は、今月もお茶会に来ないらしい。
白雪なこ
恋愛
婚約時に両家で決めた、毎月1回の婚約者同士の交流を深める為のお茶会。だけど、私の婚約者は「彼が認めるお茶会日和」にしかやってこない。そして、数ヶ月に一度、参加したかと思えば、無言。短時間で帰り、手紙を置いていく。そんな彼を……許せる?
*6/21続編公開。「幼馴染の王女殿下は私の元婚約者に激おこだったらしい。次期女王を舐めんなよ!ですって。」
*外部サイトにも掲載しています。(1日だけですが総合日間1位)
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる