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第一部
第24話 変わり者の魔女
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「…………」
唖然とした、何とも言えない微妙な空気が流れる中、レクター・ウェインは、咄嗟に手を伸ばし掴んだリリアーナの右腕を見やり、浅い溜め息をついた。
――どうするかな? これ。
取り押さえたリリアーナの右腕は空中に停止し、左手の方はセシリアの持つ大皿をむんずと掴んでいた。
リリアーナが唐突に立ち上がり、両手を伸ばすのを見て、反射的に腕を掴んだ。
特に、凶器のようなものは持っていなかった。
ただ、皿を掴みたかっただけなのだろうと察せられたので、力は緩めたが、念の為、離してはいない。
驚くほど細く、力を込めたら簡単に折れそうな華奢な腕は、しかし、振り払う素振りも見せなかった。
どういうつもりだ、と顔に目をやると、唇は引き結ばれ、厚いベールで目元が隠されてはいるが、視線は真っ直ぐセシリアに向けられている。
ラッドは眉を顰めてはいるが、立ち上がる素振りはなく、成り行きを見定めるつもりらしい。オデイエはぎょっとしたようにリリアーナを見つめ、キャリエールは憐れむような目をしていた。
(キャリエールの言う通り、やはり、この女は頭がおかしいんだろうか?)
子ども達も目を見開き、不安げにこちらを見つめていた。
しかし、何と言っても、最も当惑しているのは、いきなり皿を掴まれたセシリアだ。
「あの、その……、すぐに、配り終えますので」
「いえ!どうしても今、一枚いただきたいのです。どうか、お願いいたします!」
「いえ……あの……ほんとうに、」
セシリアの困惑ぶりを見兼ねたキャリエールが、助け舟を出した。
「令嬢、すぐに配ってくれますから、一旦、座りましょう。ね?」
冷ややかな瞳に反し、口調は子供に諭し言い聞かせるようだったが、リアーナはふるふると首を横に振った。
「あの……わたくしに先に一枚食べさせてくだされば、あとはもう、空気のように静かにじっとしております。これ以降は、決してご迷惑をおかけいたしません。ですから、お願い致します」
最後の方は自信なさげな、消え入りそうな声だった。
セシリアは困惑に目をいっぱいに見開き、訳がわからない、と言った様子だ。
「あの、どうして……?そんな……」
「わたくし、本当にとてつもなく、たまらなく空腹なんです。お願い致します! セシリア様!」
懇願するリリアーナに奪われまいと、セシリアは皿を引いているようだが、リリアーナの方も決して離すまいと力を込め、掴んだ左手は血の気が失せ、白くなっている。
セシリアの狼狽ぶりは見ていて気の毒になるほどだった。その目は見開かれ、うっすらと涙まで浮かんでいる。
「どうされたんですか、貴女は、一体、どうして……」
オデイエが、これ見よがしな溜め息をついた。
「令嬢、もういい加減にしてください。迷惑です。何なんですか? 呼ばれてもないのに無理やりみたいに付いてきて、こんな騒ぎまで起こして」
オデイエにじろりと睨まれ、リリアーナが怯んだことが掴んだ右腕越しに伝わったが、なおもベールで覆われた頭を横に振る。
「あの……セシリア様。こちらのお宅、新しくて、とても綺麗なお宅ですね。お掃除も、とても丁寧にされているようにお見受けします」
やはり、頭がおかしいんだな、と憐みに似た感情が湧く。この状況で家を褒め始める理由が、全く思い当たらない。
「はあ……どうも……」
セシリアも訝し気に眉を寄せる。リリアーナはさらに口を開いた。
「でも、ネズミがいるのですか?」
その瞬間、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
どこから――?と思う間もなく、ぞっとするような嫌な声が、耳に響く。
「……なぜ?」
それが、セシリアの口から発せられたと理解するまで、少し時間が必要だった。
続いて、獣の咆哮のような唸り声。
大皿は、思い切りテーブルに叩き落とされた。
おそらくその衝撃で、リリアーナの左手も離れる。
皿とクッキーは、テーブルにぶつかり、弾けるように砕け散った。
「どうしてよ……!? どうして!? どうして!? どうして!? どうして!?」
見やると、セシリアの両目からは、滂沱の涙が溢れ出ていた。
聞こえてくる耳をつんざく獣のような金切り声は、セシリアの口の動きと合っているのに、いつもと違い過ぎるそれは、俄かには信じ難い。
目が離せず、ただ、その顔を凝視した。
「どうして!?――っロイは帰ってこないのに、あんた達だけ!? あんた達が死ねば良かった!」
ビュンっと頭の横を皿が飛び、後ろの壁に当たって、激しい音を立てて砕け散る。
セシリアが、テーブルの上の物を掴んで、めちゃくちゃに投げつけ始めた。
リリアーナの手を離し、最低限の動きで飛んでくる皿やらスプーンやらを避けながら、思考を巡らせる。
セシリアはかなり興奮している。
無理に押さえつけると暴れ、怪我をさせるかもしれない。
ロイ・カントには恩がある。それは避けたい。
セシリアとの間には大きなテーブルがある。乗り越えるのは容易だが、そこまでするほどのこともないだろう。
叫び尽くし、暴れ尽くし、落ち着き始めたところで、無難に取り押さえ事情を聞こう、と判断した。
目の端に、同じように考えたと思われるラッドが、子ども達を抱きかかえ保護しているのが見えた。オデイエとキャリエールは、飛んでくるものを反射的に避けながら、驚愕の表情を浮かべ、セシリアを凝視している。
この二人にはショックが大きいだろう。ロイともセシリアとも親しかったからな――。
「あんた達のせいで! あんた達が呪われてるから! ロイは死んだ!! 人殺し!!悪魔!! 死ね!! 死ね!! 皆、皆、死んじゃえ――!!」
視界の中心では、セシリアが呪いの言葉を吐きながら、テーブルの上のものをめちゃくちゃに投げ、暴れ続けていた。
頭が痛いな――と舌打ちしたい気分になる。
また、面倒事だ。仕事ばかり増える。
これも報告書が必要だろうか。要らないか、いや、一応書けって言われそうな気がする。
だから、来たくなかったのだ。セシリアの目、一見、好意的に見えたが、そんな筈がないことは、分かっていた。
リリアーナが来るなどと言い出さなければ、絶対に断っていたのに。
やはり今日はラッドに任せて、溜まりまくっている書類仕事でもしておくべきだった。
そこまで考えたところで、セシリアの手が、熱湯の入ったポットを掴み、振りかぶった。
熱い紅茶を振りまきながら、ポットが隣のリリアーナの顔の辺りをめがけて飛んでいる。
流石に避けるだろうが、片付けが大変だな、誰がするんだ? 後で何人か手配するか?
嘆息を落としながら、念の為ちらりと左を見やり、仰天した。
まったく、避けようとしている素振りがなかった。
呆然と固まって、ポットの射程内に立ち尽くしている。
――これほど鈍くさい人間が、この世にいるのか!?
ポットが一瞬前までリリアーナの頭があったところを通過して、ガチャンと大きな音を立てて床で砕けた。
抱き留めて床に伏せさせた体は見た目通り華奢で、ふわりと軽く、柔らかく弱々しい。
この体にあのポットが激突して、熱湯をかぶっていたら、医者は必須である。報告書も簡単なものでは済まなかっただろう。
伏せた姿勢のまま、リリアーナの背に回した腕を抜き、このくらい自力で避けろ、と腹立たしい気分で顔を上げると、驚きに見開かれた瞳と目が合った。
――目が、合った?
伏せさせた拍子に、ベールのついた帽子がふっ飛んだんだな、と気付いたのは、ずっとずっと後のことである。
伸し掛かるような体勢で、リリアーナの顔を間近に見た途端、後頭部を鈍器で殴られたように、世界が真っ白に染まった。
飛び上がるように体を離し起き上がり、まずは頭に何も当たっていないことを確認した。
その後は、とにかく、動転した。
自分でも何故そうなったか理解不能だが、この時は、動転しまくった。
今のは不可抗力で!とか、ポットが飛んでくるのが見えたので!とかいう言い訳めいた間抜けな台詞が、次々と頭を掠めては消えたが、幸いにも、口からは出なかった。
その間もリリアーナの顔から目が離せなかったが、リリアーナは手をついて体を起こしながら、その吸い込まれそうな瞳を何度か瞬くと俺から視線を外した。
テーブルの下から少し頭を出し、セシリアの方を向く。
しまった、手を差し出して、助け起こすべきだった、と思うのに、体はどういう訳か、動かない。
穴が開くほど凝視しても、横を向いた輪郭の中に一つの瑕疵も見付けられずにいると、長い睫毛に縁取られた瞳が、驚きに見開かれた。
視線を辿ると、セシリアがクッキーを両掌いっぱいに掴み取っている。
「やめて!」
立ち上がろうとするリリアーナがセシリアに向けて叫ぶ声が響いた途端、ようやく、事態の重さを理解した。
テーブルを乗り越え、クッキーを口に押し込む両手を後ろ手に捉えた瞬間、セシリアの喉が、ゴクリと動いた。
唖然とした、何とも言えない微妙な空気が流れる中、レクター・ウェインは、咄嗟に手を伸ばし掴んだリリアーナの右腕を見やり、浅い溜め息をついた。
――どうするかな? これ。
取り押さえたリリアーナの右腕は空中に停止し、左手の方はセシリアの持つ大皿をむんずと掴んでいた。
リリアーナが唐突に立ち上がり、両手を伸ばすのを見て、反射的に腕を掴んだ。
特に、凶器のようなものは持っていなかった。
ただ、皿を掴みたかっただけなのだろうと察せられたので、力は緩めたが、念の為、離してはいない。
驚くほど細く、力を込めたら簡単に折れそうな華奢な腕は、しかし、振り払う素振りも見せなかった。
どういうつもりだ、と顔に目をやると、唇は引き結ばれ、厚いベールで目元が隠されてはいるが、視線は真っ直ぐセシリアに向けられている。
ラッドは眉を顰めてはいるが、立ち上がる素振りはなく、成り行きを見定めるつもりらしい。オデイエはぎょっとしたようにリリアーナを見つめ、キャリエールは憐れむような目をしていた。
(キャリエールの言う通り、やはり、この女は頭がおかしいんだろうか?)
子ども達も目を見開き、不安げにこちらを見つめていた。
しかし、何と言っても、最も当惑しているのは、いきなり皿を掴まれたセシリアだ。
「あの、その……、すぐに、配り終えますので」
「いえ!どうしても今、一枚いただきたいのです。どうか、お願いいたします!」
「いえ……あの……ほんとうに、」
セシリアの困惑ぶりを見兼ねたキャリエールが、助け舟を出した。
「令嬢、すぐに配ってくれますから、一旦、座りましょう。ね?」
冷ややかな瞳に反し、口調は子供に諭し言い聞かせるようだったが、リアーナはふるふると首を横に振った。
「あの……わたくしに先に一枚食べさせてくだされば、あとはもう、空気のように静かにじっとしております。これ以降は、決してご迷惑をおかけいたしません。ですから、お願い致します」
最後の方は自信なさげな、消え入りそうな声だった。
セシリアは困惑に目をいっぱいに見開き、訳がわからない、と言った様子だ。
「あの、どうして……?そんな……」
「わたくし、本当にとてつもなく、たまらなく空腹なんです。お願い致します! セシリア様!」
懇願するリリアーナに奪われまいと、セシリアは皿を引いているようだが、リリアーナの方も決して離すまいと力を込め、掴んだ左手は血の気が失せ、白くなっている。
セシリアの狼狽ぶりは見ていて気の毒になるほどだった。その目は見開かれ、うっすらと涙まで浮かんでいる。
「どうされたんですか、貴女は、一体、どうして……」
オデイエが、これ見よがしな溜め息をついた。
「令嬢、もういい加減にしてください。迷惑です。何なんですか? 呼ばれてもないのに無理やりみたいに付いてきて、こんな騒ぎまで起こして」
オデイエにじろりと睨まれ、リリアーナが怯んだことが掴んだ右腕越しに伝わったが、なおもベールで覆われた頭を横に振る。
「あの……セシリア様。こちらのお宅、新しくて、とても綺麗なお宅ですね。お掃除も、とても丁寧にされているようにお見受けします」
やはり、頭がおかしいんだな、と憐みに似た感情が湧く。この状況で家を褒め始める理由が、全く思い当たらない。
「はあ……どうも……」
セシリアも訝し気に眉を寄せる。リリアーナはさらに口を開いた。
「でも、ネズミがいるのですか?」
その瞬間、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
どこから――?と思う間もなく、ぞっとするような嫌な声が、耳に響く。
「……なぜ?」
それが、セシリアの口から発せられたと理解するまで、少し時間が必要だった。
続いて、獣の咆哮のような唸り声。
大皿は、思い切りテーブルに叩き落とされた。
おそらくその衝撃で、リリアーナの左手も離れる。
皿とクッキーは、テーブルにぶつかり、弾けるように砕け散った。
「どうしてよ……!? どうして!? どうして!? どうして!? どうして!?」
見やると、セシリアの両目からは、滂沱の涙が溢れ出ていた。
聞こえてくる耳をつんざく獣のような金切り声は、セシリアの口の動きと合っているのに、いつもと違い過ぎるそれは、俄かには信じ難い。
目が離せず、ただ、その顔を凝視した。
「どうして!?――っロイは帰ってこないのに、あんた達だけ!? あんた達が死ねば良かった!」
ビュンっと頭の横を皿が飛び、後ろの壁に当たって、激しい音を立てて砕け散る。
セシリアが、テーブルの上の物を掴んで、めちゃくちゃに投げつけ始めた。
リリアーナの手を離し、最低限の動きで飛んでくる皿やらスプーンやらを避けながら、思考を巡らせる。
セシリアはかなり興奮している。
無理に押さえつけると暴れ、怪我をさせるかもしれない。
ロイ・カントには恩がある。それは避けたい。
セシリアとの間には大きなテーブルがある。乗り越えるのは容易だが、そこまでするほどのこともないだろう。
叫び尽くし、暴れ尽くし、落ち着き始めたところで、無難に取り押さえ事情を聞こう、と判断した。
目の端に、同じように考えたと思われるラッドが、子ども達を抱きかかえ保護しているのが見えた。オデイエとキャリエールは、飛んでくるものを反射的に避けながら、驚愕の表情を浮かべ、セシリアを凝視している。
この二人にはショックが大きいだろう。ロイともセシリアとも親しかったからな――。
「あんた達のせいで! あんた達が呪われてるから! ロイは死んだ!! 人殺し!!悪魔!! 死ね!! 死ね!! 皆、皆、死んじゃえ――!!」
視界の中心では、セシリアが呪いの言葉を吐きながら、テーブルの上のものをめちゃくちゃに投げ、暴れ続けていた。
頭が痛いな――と舌打ちしたい気分になる。
また、面倒事だ。仕事ばかり増える。
これも報告書が必要だろうか。要らないか、いや、一応書けって言われそうな気がする。
だから、来たくなかったのだ。セシリアの目、一見、好意的に見えたが、そんな筈がないことは、分かっていた。
リリアーナが来るなどと言い出さなければ、絶対に断っていたのに。
やはり今日はラッドに任せて、溜まりまくっている書類仕事でもしておくべきだった。
そこまで考えたところで、セシリアの手が、熱湯の入ったポットを掴み、振りかぶった。
熱い紅茶を振りまきながら、ポットが隣のリリアーナの顔の辺りをめがけて飛んでいる。
流石に避けるだろうが、片付けが大変だな、誰がするんだ? 後で何人か手配するか?
嘆息を落としながら、念の為ちらりと左を見やり、仰天した。
まったく、避けようとしている素振りがなかった。
呆然と固まって、ポットの射程内に立ち尽くしている。
――これほど鈍くさい人間が、この世にいるのか!?
ポットが一瞬前までリリアーナの頭があったところを通過して、ガチャンと大きな音を立てて床で砕けた。
抱き留めて床に伏せさせた体は見た目通り華奢で、ふわりと軽く、柔らかく弱々しい。
この体にあのポットが激突して、熱湯をかぶっていたら、医者は必須である。報告書も簡単なものでは済まなかっただろう。
伏せた姿勢のまま、リリアーナの背に回した腕を抜き、このくらい自力で避けろ、と腹立たしい気分で顔を上げると、驚きに見開かれた瞳と目が合った。
――目が、合った?
伏せさせた拍子に、ベールのついた帽子がふっ飛んだんだな、と気付いたのは、ずっとずっと後のことである。
伸し掛かるような体勢で、リリアーナの顔を間近に見た途端、後頭部を鈍器で殴られたように、世界が真っ白に染まった。
飛び上がるように体を離し起き上がり、まずは頭に何も当たっていないことを確認した。
その後は、とにかく、動転した。
自分でも何故そうなったか理解不能だが、この時は、動転しまくった。
今のは不可抗力で!とか、ポットが飛んでくるのが見えたので!とかいう言い訳めいた間抜けな台詞が、次々と頭を掠めては消えたが、幸いにも、口からは出なかった。
その間もリリアーナの顔から目が離せなかったが、リリアーナは手をついて体を起こしながら、その吸い込まれそうな瞳を何度か瞬くと俺から視線を外した。
テーブルの下から少し頭を出し、セシリアの方を向く。
しまった、手を差し出して、助け起こすべきだった、と思うのに、体はどういう訳か、動かない。
穴が開くほど凝視しても、横を向いた輪郭の中に一つの瑕疵も見付けられずにいると、長い睫毛に縁取られた瞳が、驚きに見開かれた。
視線を辿ると、セシリアがクッキーを両掌いっぱいに掴み取っている。
「やめて!」
立ち上がろうとするリリアーナがセシリアに向けて叫ぶ声が響いた途端、ようやく、事態の重さを理解した。
テーブルを乗り越え、クッキーを口に押し込む両手を後ろ手に捉えた瞬間、セシリアの喉が、ゴクリと動いた。
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