屋根裏の魔女、恋を忍ぶ

如月 安

文字の大きさ
上 下
24 / 194
第一部

第24話 変わり者の魔女

しおりを挟む
「…………」

 唖然とした、何とも言えない微妙な空気が流れる中、レクター・ウェインは、咄嗟に手を伸ばし掴んだリリアーナの右腕を見やり、浅い溜め息をついた。

 ――どうするかな? これ。

 取り押さえたリリアーナの右腕は空中に停止し、左手の方はセシリアの持つ大皿をむんずと掴んでいた。

 リリアーナが唐突に立ち上がり、両手を伸ばすのを見て、反射的に腕を掴んだ。

 特に、凶器のようなものは持っていなかった。

 ただ、皿を掴みたかっただけなのだろうと察せられたので、力は緩めたが、念の為、離してはいない。

 驚くほど細く、力を込めたら簡単に折れそうな華奢な腕は、しかし、振り払う素振りも見せなかった。

 どういうつもりだ、と顔に目をやると、唇は引き結ばれ、厚いベールで目元が隠されてはいるが、視線は真っ直ぐセシリアに向けられている。

 ラッドは眉を顰めてはいるが、立ち上がる素振りはなく、成り行きを見定めるつもりらしい。オデイエはぎょっとしたようにリリアーナを見つめ、キャリエールは憐れむような目をしていた。

(キャリエールの言う通り、やはり、この女は頭がおかしいんだろうか?)

 子ども達も目を見開き、不安げにこちらを見つめていた。
 しかし、何と言っても、最も当惑しているのは、いきなり皿を掴まれたセシリアだ。

「あの、その……、すぐに、配り終えますので」

「いえ!どうしても今、一枚いただきたいのです。どうか、お願いいたします!」

「いえ……あの……ほんとうに、」

 セシリアの困惑ぶりを見兼ねたキャリエールが、助け舟を出した。

「令嬢、すぐに配ってくれますから、一旦、座りましょう。ね?」

 冷ややかな瞳に反し、口調は子供に諭し言い聞かせるようだったが、リアーナはふるふると首を横に振った。

「あの……わたくしに先に一枚食べさせてくだされば、あとはもう、空気のように静かにじっとしております。これ以降は、決してご迷惑をおかけいたしません。ですから、お願い致します」

 最後の方は自信なさげな、消え入りそうな声だった。

 セシリアは困惑に目をいっぱいに見開き、訳がわからない、と言った様子だ。

「あの、どうして……?そんな……」

「わたくし、本当にとてつもなく、たまらなく空腹なんです。お願い致します! セシリア様!」

 懇願するリリアーナに奪われまいと、セシリアは皿を引いているようだが、リリアーナの方も決して離すまいと力を込め、掴んだ左手は血の気が失せ、白くなっている。

 セシリアの狼狽ぶりは見ていて気の毒になるほどだった。その目は見開かれ、うっすらと涙まで浮かんでいる。

「どうされたんですか、貴女は、一体、どうして……」

 オデイエが、これ見よがしな溜め息をついた。

「令嬢、もういい加減にしてください。迷惑です。何なんですか? 呼ばれてもないのに無理やりみたいに付いてきて、こんな騒ぎまで起こして」

 オデイエにじろりと睨まれ、リリアーナが怯んだことが掴んだ右腕越しに伝わったが、なおもベールで覆われた頭を横に振る。

「あの……セシリア様。こちらのお宅、新しくて、とても綺麗なお宅ですね。お掃除も、とても丁寧にされているようにお見受けします」

 やはり、頭がおかしいんだな、と憐みに似た感情が湧く。この状況で家を褒め始める理由が、全く思い当たらない。

「はあ……どうも……」

 セシリアも訝し気に眉を寄せる。リリアーナはさらに口を開いた。


「でも、ネズミがいるのですか?」


 その瞬間、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。

 どこから――?と思う間もなく、ぞっとするような嫌な声が、耳に響く。


「……なぜ?」
 

 それが、セシリアの口から発せられたと理解するまで、少し時間が必要だった。

 続いて、獣の咆哮のような唸り声。

 大皿は、思い切りテーブルに叩き落とされた。

 おそらくその衝撃で、リリアーナの左手も離れる。

 皿とクッキーは、テーブルにぶつかり、弾けるように砕け散った。


「どうしてよ……!? どうして!? どうして!? どうして!? どうして!?」

 見やると、セシリアの両目からは、滂沱の涙が溢れ出ていた。

 聞こえてくる耳をつんざく獣のような金切り声は、セシリアの口の動きと合っているのに、いつもと違い過ぎるそれは、俄かには信じ難い。

 目が離せず、ただ、その顔を凝視した。

「どうして!?――っロイは帰ってこないのに、あんた達だけ!? あんた達が死ねば良かった!」

 ビュンっと頭の横を皿が飛び、後ろの壁に当たって、激しい音を立てて砕け散る。

 セシリアが、テーブルの上の物を掴んで、めちゃくちゃに投げつけ始めた。

 リリアーナの手を離し、最低限の動きで飛んでくる皿やらスプーンやらを避けながら、思考を巡らせる。

 セシリアはかなり興奮している。

 無理に押さえつけると暴れ、怪我をさせるかもしれない。

 ロイ・カントには恩がある。それは避けたい。

 セシリアとの間には大きなテーブルがある。乗り越えるのは容易だが、そこまでするほどのこともないだろう。

 叫び尽くし、暴れ尽くし、落ち着き始めたところで、無難に取り押さえ事情を聞こう、と判断した。

 目の端に、同じように考えたと思われるラッドが、子ども達を抱きかかえ保護しているのが見えた。オデイエとキャリエールは、飛んでくるものを反射的に避けながら、驚愕の表情を浮かべ、セシリアを凝視している。

 この二人にはショックが大きいだろう。ロイともセシリアとも親しかったからな――。

「あんた達のせいで! あんた達が呪われてるから! ロイは死んだ!! 人殺し!!悪魔!! 死ね!! 死ね!! 皆、皆、死んじゃえ――!!」

 視界の中心では、セシリアが呪いの言葉を吐きながら、テーブルの上のものをめちゃくちゃに投げ、暴れ続けていた。

 頭が痛いな――と舌打ちしたい気分になる。

 また、面倒事だ。仕事ばかり増える。
 これも報告書が必要だろうか。要らないか、いや、一応書けって言われそうな気がする。

 だから、来たくなかったのだ。セシリアの目、一見、好意的に見えたが、そんな筈がないことは、分かっていた。
 リリアーナが来るなどと言い出さなければ、絶対に断っていたのに。
 やはり今日はラッドに任せて、溜まりまくっている書類仕事でもしておくべきだった。

 そこまで考えたところで、セシリアの手が、熱湯の入ったポットを掴み、振りかぶった。

 熱い紅茶を振りまきながら、ポットが隣のリリアーナの顔の辺りをめがけて飛んでいる。

 流石に避けるだろうが、片付けが大変だな、誰がするんだ? 後で何人か手配するか?

 嘆息を落としながら、念の為ちらりと左を見やり、仰天した。


 まったく、避けようとしている素振りがなかった。

 呆然と固まって、ポットの射程内に立ち尽くしている。


 ――これほど鈍くさい人間が、この世にいるのか!?


 ポットが一瞬前までリリアーナの頭があったところを通過して、ガチャンと大きな音を立てて床で砕けた。

 抱き留めて床に伏せさせた体は見た目通り華奢で、ふわりと軽く、柔らかく弱々しい。

 この体にあのポットが激突して、熱湯をかぶっていたら、医者は必須である。報告書も簡単なものでは済まなかっただろう。

 伏せた姿勢のまま、リリアーナの背に回した腕を抜き、このくらい自力で避けろ、と腹立たしい気分で顔を上げると、驚きに見開かれた瞳と目が合った。


 ――目が、合った?


 伏せさせた拍子に、ベールのついた帽子がふっ飛んだんだな、と気付いたのは、ずっとずっと後のことである。


 伸し掛かるような体勢で、リリアーナの顔を間近に見た途端、後頭部を鈍器で殴られたように、世界が真っ白に染まった。

 飛び上がるように体を離し起き上がり、まずは頭に何も当たっていないことを確認した。

 その後は、とにかく、動転した。

 自分でも何故そうなったか理解不能だが、この時は、動転しまくった。

 今のは不可抗力で!とか、ポットが飛んでくるのが見えたので!とかいう言い訳めいた間抜けな台詞が、次々と頭を掠めては消えたが、幸いにも、口からは出なかった。

 その間もリリアーナの顔から目が離せなかったが、リリアーナは手をついて体を起こしながら、その吸い込まれそうな瞳を何度か瞬くと俺から視線を外した。

 テーブルの下から少し頭を出し、セシリアの方を向く。

 しまった、手を差し出して、助け起こすべきだった、と思うのに、体はどういう訳か、動かない。

 穴が開くほど凝視しても、横を向いた輪郭の中に一つの瑕疵も見付けられずにいると、長い睫毛に縁取られた瞳が、驚きに見開かれた。

 視線を辿ると、セシリアがクッキーを両掌いっぱいに掴み取っている。

「やめて!」

 立ち上がろうとするリリアーナがセシリアに向けて叫ぶ声が響いた途端、ようやく、事態の重さを理解した。

 テーブルを乗り越え、クッキーを口に押し込む両手を後ろ手に捉えた瞬間、セシリアの喉が、ゴクリと動いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

婚約をなかったことにしてみたら…

宵闇 月
恋愛
忘れ物を取りに音楽室に行くと婚約者とその義妹が睦み合ってました。 この婚約をなかったことにしてみましょう。 ※ 更新はかなりゆっくりです。

処理中です...