8 / 10
愛はありません
しおりを挟む
アドニスの目の前がパーッと晴れ渡ったような気がした。
「愛、愛か」
なるほど、愛。
自分の人生で、誰かを愛することなど無いと思っていた。
だが、これほどニケに執着し、彼女以外を嫌だと思うのは、彼女を愛しているからに他ならない。
「そうか、私はそなたを愛し、」
「いいえ」
目を輝かせて見上げるアドニスを、ニケは否定した。
「…ニケ?」
「貴方は私を愛してなんかいないわ。だって貴方は自分しか愛せない人だもの」
「そんなことはない、私は、」
「そうね。たしかに貴方はフィリア様だけは愛していたかもしれないわ。でもそれは、フィリア様が唯一自分より美しいと認めた女性だったからよ」
「それは違う。私はたしかにフィリア様を慕い、彼女の護衛騎士を望み、その仕事に誇りを感じてはいるが、」
「ええ。妻も子供も顧みないほどね」
「それは…」
言葉を飲み込んで、アドニスは俯いた。
たしかに、アドニスはいついかなる時も妻より王太子妃を優先してきた。
しかしこれが愛ならば、自分はフィリアに恋焦がれていたか?
フィリアの夫である王太子に嫉妬したりしただろうか。
いや、仲睦まじい王太子夫妻を見て、微笑ましく思っていたはずだ。
だったら…。
アドニスは再びニケを見上げた。
あんなに酷い条件を提示したのにそれを飲んで寄り添ってくれた妻。
垢抜けない田舎令嬢だったにも関わらず、アドニスに相応しくあろうと、美しく洗練された淑女となった妻。
可愛い娘と、そして嫡男を生んでくれた妻。
たしかに夜の営み以外はずっと放置してきたかもしれないが、それは、それが悪いことだとアドニス自身が全く思っていなかったからだ。
フィリアに対する思慕とニケに対する想いは違う。
今だって、目の前にいるニケを自分は抱きしめたいと、キスしたいと思う。
この想いはきっと…。
「ニケ、私はそなたを愛している。やっとわかった。この、そなたに対する気持ちが愛なんだ。だから私はそなたに触れたいと、」
「勘違いです」
ニケに触れようとアドニスが差し出した手を、彼女は器用に避けた。
悲しげにニケを見上げるアドニスの瞳は潤んでいて、それこそ神話に出てくる美青年を彷彿とさせる。
余程強靭な心を持っていなければうっかり絆されてしまうだろう。
でも…。
(私はもう絆されない)
ニケは冷たい目でアドニスを見下ろした。
「旦那様…、初夜の晩、私を抱きながら貴方が言った言葉をお教えしましょうか」
「……え?」
「貴方はあの時、私の耳元で、フィリア様、フィリア様と何度も言ったのよ」
「……まさか」
「いいえ。貴方はあの日、私をフィリア様の代わりに抱いたの。あれ以来、私は自分の心を殺したわ。だって貴方は決して手に入らないフィリア様を想いながら、私を抱くのよ。こんな屈辱って無いわ。だから私は、貴方と心を通じ合わせることも諦めた。愛してもいない男に抱かれる毎日は、苦痛以外のなにものでもなかったわ。しかも、ちっとも気持ちよくなかった」
ニケの話を聞いて、アドニスは愕然とした。
たしかにニケと結婚するまで、ずっと自分に釣り合うのはフィリアだけだと思っていた。
だが、フィリアが自分のものになることは決してない。
あの頃アドニスは、見返りを求めないフィリアへの想いに酔っていたのかもしれない。
だから…、そんな設定に酔って、無意識にフィリアの名を呼んでしまったのかもしれない。
茫然自失のアドニスに、ニケは追い打ちをかける。
「幸い、貴方は二回目以降フィリア様の名前を呼ばなくなった。でも知ってた?貴方が私の名前を呼ぶのは、今日が初めてなのよ。閨でも、昼間でもね」
「まさか、そんな」
そう呟いて愕然とする。
たしかに、『ニケ』の名を口にするのは初めてかもしれない。
心の中では何度も呼んでいたのに。
結婚する前もしてからも、フィリアが一番大切だった。
でも多分、いつの間にか一番は逆転していた。
「いいのよ、どうせ私の名を呼ぶ必要なんてなかったのだから。だって貴方は、初対面で私に名乗らなくてもいいと言ったくらいだもの。名前を呼ぶことはないから覚える必要もないってね」
ニケの口調は、もう次期公爵夫人のそれではなくなっていた。
もう、取り繕う必要さえないのだ。
言葉をなくしたアドニスを、ニケは真っ直ぐに見据えた。
「貴方とラントン公爵家には感謝しています。公爵家の支援で弟は無事アカデミーに入学出来たし、実家も持ち直しました。でも、その代償として提示された義務を、私、ちゃんと果たしたでしょう?」
「……代償……」
その言葉に衝撃を受けたアドニスは、縋るような目でニケを見つめた。
しかしニケは全く温度を感じさせない声音のまま、アドニスに最終通告を言い渡した。
「貴方にはもう、金輪際、二度と触れられたくないの。だって、私だって貴方を愛してなんかいないもの。だから、私を解放してくださいませ、旦那様」
「愛、愛か」
なるほど、愛。
自分の人生で、誰かを愛することなど無いと思っていた。
だが、これほどニケに執着し、彼女以外を嫌だと思うのは、彼女を愛しているからに他ならない。
「そうか、私はそなたを愛し、」
「いいえ」
目を輝かせて見上げるアドニスを、ニケは否定した。
「…ニケ?」
「貴方は私を愛してなんかいないわ。だって貴方は自分しか愛せない人だもの」
「そんなことはない、私は、」
「そうね。たしかに貴方はフィリア様だけは愛していたかもしれないわ。でもそれは、フィリア様が唯一自分より美しいと認めた女性だったからよ」
「それは違う。私はたしかにフィリア様を慕い、彼女の護衛騎士を望み、その仕事に誇りを感じてはいるが、」
「ええ。妻も子供も顧みないほどね」
「それは…」
言葉を飲み込んで、アドニスは俯いた。
たしかに、アドニスはいついかなる時も妻より王太子妃を優先してきた。
しかしこれが愛ならば、自分はフィリアに恋焦がれていたか?
フィリアの夫である王太子に嫉妬したりしただろうか。
いや、仲睦まじい王太子夫妻を見て、微笑ましく思っていたはずだ。
だったら…。
アドニスは再びニケを見上げた。
あんなに酷い条件を提示したのにそれを飲んで寄り添ってくれた妻。
垢抜けない田舎令嬢だったにも関わらず、アドニスに相応しくあろうと、美しく洗練された淑女となった妻。
可愛い娘と、そして嫡男を生んでくれた妻。
たしかに夜の営み以外はずっと放置してきたかもしれないが、それは、それが悪いことだとアドニス自身が全く思っていなかったからだ。
フィリアに対する思慕とニケに対する想いは違う。
今だって、目の前にいるニケを自分は抱きしめたいと、キスしたいと思う。
この想いはきっと…。
「ニケ、私はそなたを愛している。やっとわかった。この、そなたに対する気持ちが愛なんだ。だから私はそなたに触れたいと、」
「勘違いです」
ニケに触れようとアドニスが差し出した手を、彼女は器用に避けた。
悲しげにニケを見上げるアドニスの瞳は潤んでいて、それこそ神話に出てくる美青年を彷彿とさせる。
余程強靭な心を持っていなければうっかり絆されてしまうだろう。
でも…。
(私はもう絆されない)
ニケは冷たい目でアドニスを見下ろした。
「旦那様…、初夜の晩、私を抱きながら貴方が言った言葉をお教えしましょうか」
「……え?」
「貴方はあの時、私の耳元で、フィリア様、フィリア様と何度も言ったのよ」
「……まさか」
「いいえ。貴方はあの日、私をフィリア様の代わりに抱いたの。あれ以来、私は自分の心を殺したわ。だって貴方は決して手に入らないフィリア様を想いながら、私を抱くのよ。こんな屈辱って無いわ。だから私は、貴方と心を通じ合わせることも諦めた。愛してもいない男に抱かれる毎日は、苦痛以外のなにものでもなかったわ。しかも、ちっとも気持ちよくなかった」
ニケの話を聞いて、アドニスは愕然とした。
たしかにニケと結婚するまで、ずっと自分に釣り合うのはフィリアだけだと思っていた。
だが、フィリアが自分のものになることは決してない。
あの頃アドニスは、見返りを求めないフィリアへの想いに酔っていたのかもしれない。
だから…、そんな設定に酔って、無意識にフィリアの名を呼んでしまったのかもしれない。
茫然自失のアドニスに、ニケは追い打ちをかける。
「幸い、貴方は二回目以降フィリア様の名前を呼ばなくなった。でも知ってた?貴方が私の名前を呼ぶのは、今日が初めてなのよ。閨でも、昼間でもね」
「まさか、そんな」
そう呟いて愕然とする。
たしかに、『ニケ』の名を口にするのは初めてかもしれない。
心の中では何度も呼んでいたのに。
結婚する前もしてからも、フィリアが一番大切だった。
でも多分、いつの間にか一番は逆転していた。
「いいのよ、どうせ私の名を呼ぶ必要なんてなかったのだから。だって貴方は、初対面で私に名乗らなくてもいいと言ったくらいだもの。名前を呼ぶことはないから覚える必要もないってね」
ニケの口調は、もう次期公爵夫人のそれではなくなっていた。
もう、取り繕う必要さえないのだ。
言葉をなくしたアドニスを、ニケは真っ直ぐに見据えた。
「貴方とラントン公爵家には感謝しています。公爵家の支援で弟は無事アカデミーに入学出来たし、実家も持ち直しました。でも、その代償として提示された義務を、私、ちゃんと果たしたでしょう?」
「……代償……」
その言葉に衝撃を受けたアドニスは、縋るような目でニケを見つめた。
しかしニケは全く温度を感じさせない声音のまま、アドニスに最終通告を言い渡した。
「貴方にはもう、金輪際、二度と触れられたくないの。だって、私だって貴方を愛してなんかいないもの。だから、私を解放してくださいませ、旦那様」
78
あなたにおすすめの小説
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
元婚約者が愛おしい
碧井 汐桜香
恋愛
いつも笑顔で支えてくれた婚約者アマリルがいるのに、相談もなく海外留学を決めたフラン王子。
留学先の隣国で、平民リーシャに惹かれていく。
フラン王子の親友であり、大国の王子であるステファン王子が止めるも、アマリルを捨て、リーシャと婚約する。
リーシャの本性や様々な者の策略を知ったフラン王子。アマリルのことを思い出して後悔するが、もう遅かったのだった。
フラン王子目線の物語です。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
『影の夫人とガラスの花嫁』
柴田はつみ
恋愛
公爵カルロスの後妻として嫁いだシャルロットは、
結婚初日から気づいていた。
夫は優しい。
礼儀正しく、決して冷たくはない。
けれど──どこか遠い。
夜会で向けられる微笑みの奥には、
亡き前妻エリザベラの影が静かに揺れていた。
社交界は囁く。
「公爵さまは、今も前妻を想っているのだわ」
「後妻は所詮、影の夫人よ」
その言葉に胸が痛む。
けれどシャルロットは自分に言い聞かせた。
──これは政略婚。
愛を求めてはいけない、と。
そんなある日、彼女はカルロスの書斎で
“あり得ない手紙”を見つけてしまう。
『愛しいカルロスへ。
私は必ずあなたのもとへ戻るわ。
エリザベラ』
……前妻は、本当に死んだのだろうか?
噂、沈黙、誤解、そして夫の隠す真実。
揺れ動く心のまま、シャルロットは
“ガラスの花嫁”のように繊細にひび割れていく。
しかし、前妻の影が完全に姿を現したとき、
カルロスの静かな愛がようやく溢れ出す。
「影なんて、最初からいない。
見ていたのは……ずっと君だけだった」
消えた指輪、隠された手紙、閉ざされた書庫──
すべての謎が解けたとき、
影に怯えていた花嫁は光を手に入れる。
切なく、美しく、そして必ず幸せになる後妻ロマンス。
愛に触れたとき、ガラスは光へと変わる
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる