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6 時代巡り(その2)

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 それからの一週間、静刻の生活は元へと帰った。
 バイトをして古本を読んで、出版されるアテのない原稿を書く。
 テレビやネットでは、いよいよ間近に迫ったオリンピックの話題で持ちきりだが、東京を遠く離れた西日本の片田舎では特需もなく観戦に赴く者もいない。
 自国開催ではあっても所詮はテレビの中だけの話に過ぎないのだ。
 メディアから垂れ流される“東京だけのバカ騒ぎ”を、地方民が醒めた目で見るのは毎年のハロウィンを除けば、スカイツリーの開業以来かもしれない。
 そんな具合に、少なくとも静刻の周囲はいつもと変わらない夏を迎えようとしている。
 とはいえ――。
 ギィアのことが、ネイビーブルー・カタストロフィのことが静刻の頭を離れることはなかった。
 ネイビーブルー・カタストロフィはギィアが一九九二年を訪れる前と変わらず発生した。
 そして、“百匹目の猿”の覚醒によって絶滅は連鎖し、ブルマは学校現場から消え去った。
 ギィアは今もあのオペレーションルームにいるのだろうか、未来から迎えが来て帰ったのだろうか。
 置き去りにしてきたような後味の悪さに何度か忘れようとしたのも事実だった。
 それでもいまだにギィアの表情や声は静刻の頭から離れない。
 そして、それを思い出すたびに静刻のココロは締め付けられるような息苦しさを覚えるのだ。
 そんな時、静刻は逃げるように思考の矛先を変えてみる。
 結局、船引和江がブルマを否定していた根拠はなんだったのだろう。
 男子からの目線ではないとしたら、なにが船引和江をブルマ否定派にしたのだろう。
 ブルマがエロアイテムではなく学校指定衣料として認識されていたあの校内で、なにがネイビーブルー・カタストロフィを引き起こしたのだろう。
 ふと口にしてみる。
「ネイビーブルー・カタストロフィ……誰がブルマを滅したか――」
 わからない、わからない、わからない。
 何度も考え、何度も結論を出せずに思考は打ち切られる。
 そして、またふとした拍子に思い出し、考える。
 エロネタランキングから始まった一連の調査結果を。
 図書室で聞いた第六エロ魔王のご高説を。
 深夜の学校で知った似非ブルフェチとブルマ否定派女子たちの思惑を。
 それらを反芻し、並べ替え、組立てる。
 しかし、結論は出ない、真相は見えない。
 時には思い立って、ネットで“ブルマ史”を検索してみたりもする。
 学校現場へ現れた時期、消えた時期、そして、それぞれの経緯。
 特に消えた理由についてはさまざまな説や考察が存在するものの、どれも静刻の疑問には答えない。
 それも当然の話で、“一地方の中学校におけるブルマ廃止の真相”ごときがネットでわかる方がおかしいのだ――そう気付いて、ブラウザを閉じる。
 そんなことを繰り返していると、今度はなぜ自分はここまで“ギィアの呪縛”から逃れられないのだろう、とも考えてみる。
 ギィアと過ごした一九九二年は夢だった、静刻の描いた空想に過ぎなかった――そう結論づけてもあながちまちがってはいない。
 少なくともギィアと出会う前から、現実はなにひとつ変わってはいないのだから。
 あとは静刻の気持ちだけ。
 とっとと自分の中でエンドマークを、ピリオドを打ってしまえばそれで終わる話なのに、それがわかっているのにエンドマークを、ピリオドを打てずにいる。
 なにかココロを、感情を惹かれるものがあるのかもしれない。
 浮かんだ言葉を思わず口にしてみる。
「恋――」
 夜の学校を一緒に歩いたギィアが浮かぶ。
「――とか言ってみたり」
 その感情を認めるのが気恥ずかしく、あえて思考を逸らせる。
 そして、すぐに思い至る。
 なぜ自分がここまで引きずっているのか、その理由を。
 “やりかけたことはやりとげる”
 その信条が、静刻を自らの意志で呪縛から逃れることをジャマしているのだ。
 “やりかけたことはやりとげる”
 この言葉をどこで聞いたのだろう、いつから、自分を縛る言葉になったのだろう。
 記憶を遡るまでもない、これは疑うことなく父の言葉であることを静刻は知っている。
 しかし――。
 ふと浮かんだ違和感から考えを進めてみる。
 確かに父の言葉ではあるけれど、父から“贈られた”言葉ではない。
 大手機械メーカーに技術職として勤める父は、謹厳実直を擬人化したような人間だった。
 それは公私のいずれにおいても変わることはなかった。
 そんな父が父自身に、あるいは母や仕事仲間や、もしくは趣味の釣り仲間や山仲間、さらには静刻から見て叔父にあたる親戚たちに信条としてこの言葉を口にするのをずっと静刻は聞いてきた。
 “やりかけたことはやりとげる”
 状況がどう変わろうと、いかなる障害が現れようと、必ず打開策はある。
 だから、諦めず、手を抜かず、妥協せず、投げ出さず、やりかけたことをやりとげる。
 これはこれで、いわゆる“箴言”ということになるのだろうが、しかし、父は一度もこの言葉を静刻に向けて言ったことはなかった。
 それが必ずしも利口な生き方ではないということに気付いていたのだろう。
 愚直な生き方でもあることをわかっていたのだろう。
 この生き方のせいで“しなくてもいい”苦労を背負うこともあったのだろう。
 単に後悔することもあったのだろう。
 だから父は静刻にこの言葉を贈ることはなかった。
 それでも、この言葉は日常的に聞かされた静刻の意識に浸透して、静刻の信条になっていった。
 そこまで考えた時――
「そういうことだったのか」
 ――静刻の脳内ですべてがつながり、真相を覆っていた霧が晴れた。
 そして、つぶやく。
「行かねば、ギィアのもとへ」
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