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出戻り妃は紅を刷(は)く
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詩吟の会当日。
妹妹は、高熱を出して寝込んでしまった。
意識がまだ戻らない妹妹が心配で仕方ないが「宇春様、成功させて」といううわ言を聞くと、立ち上がらないわけにはいかなかった。
支度をして、化粧をして、震える手で紅をひく。
けれど、あの宇春にはなれない。
女官長にお願いして紅をひいてもらっても、変わらなかった。
(どうしよう。妹妹のためにも成功させたいのに。今のままの私じゃ、きっと無理)
詩吟の会は夜からだ。
昨年まで昼に行われていた詩吟の会は、今年、宇春の出した企画により、夜に行うことになっていた。
まだ時間はある。
でも、紅の力のない宇春は、小さなことにも緊張して怯えてしまう。
今の宇春には、成功できる未来が全く想像できなかった。
思い悩むうちにいつの間にか、宇春は劉帆と出会った隆文楼へと足を運んでいた。
劉に告白をして振られた場所ではあったけれど、ここで過ごした時間は、悲しい思い出ばかりではなかった。
妃時代も、落ち込んだり悩んだりすると、ここにやってきて劉によく話を聞いてもらっていた。
彼に助言をもらえることも、そうでないこともあった。しかし、ここに来て彼と話した後は、いろいろなことが不思議なほどうまくいった。
(そっか。私は劉さんに会うだけで力をもらってたんだ)
その事実に今更ながらに気づいてしまって悲しくなる。
もう会うことはないのだという思いが、心の奥をきゅっと締め付ける。
──それなのに。
「きれいだな」
ずっと焦がれていた、優しい、深い眼差しが、宇春を見つめていた。
(なんでここにいるの?)
「お、女主人の役を任されたのです。……美しい衣でしょう?」
(なんで私が助けを必要としている時に、こんなに都合よく現れるの?)
「衣じゃなく、お前がきれいだと言ったんだ」
(なんでそうやって、私の心を揺らすようなことを言うの?)
どう受け止めていいのかわからなくて、宇春は下を向く。
「あ、ありがとうございます。──昨日も、妹妹を助けてくださってありがとうございました。私の大切な、本当に大切な子なんです」
「ああ、お前のだいじな子だと思ったから、体が動いてしまった。お前を悲しませたくなかったから」
劉の言葉は、弱り切った宇春の心に、砂に落ちた水のように深く染み込んでくる。
それは愛情ではなく、思いやりとか慈しみとかそんな類のものだろうけれど、宇春にはそれで十分だった。
「……どうして、ここにいるんですか?」
「お前が、心配だったんだ」
その言葉に、どくんと心臓が跳ねる。
(もう、無理だ)
ただ、振られさえすれば、その後は忘れられると思っていた。
彼の幸せを祈って、そのまま立ち去れると思っていた。
でも、もう、ごまかし続けるのは無理だった。
(私、やっぱりこの人が好き)
きっとこの気持ちがなくなることなんてない。
なんだかもう、家に帰って他の人と結婚するとか、無理な気がする。
縁談は断ろう。一生一人で生きていく。
この気持ちを捨てなくても、忘れなくてもいい。そう考えると少し気持ちが楽になった。
「あの子は、大丈夫なのか?」
「は、はい。今は高熱で苦しんでいますが、熱が下がれば大丈夫だとお医者様がおっしゃっていました」
「その割には浮かない顔だ。あの子が心配なのはわかるが、それだけではないな」
劉は、簡単に宇春の心の内を見抜いてくる。
「妹妹が言うんです。うわ言で、今日の会を成功させて、と」
「ああ」
「でも、私、だめなんです」
「どうして?」
「あの子の引いてくれる紅がないと、私、怖くて。怖くて、自信がなくて。絶対、無理です。みんなの前で失敗して、呆れられて、女官のみんなに迷惑かけてっ」
言葉に出すと、もう、それは確定された未来のように思えてきた。
「宇春、俺を見ろ」
気づくと、劉が目の前にいた。
「その役目、俺に任せてくれないか」
隆文楼をぐるりと取り巻く回廊の裏。
誰もいない廊下に敷かれた劉の上着の上に、宇春は、正座をして目を閉じた。
劉の武骨な手が、宇春の顎を持ち上げた。
ことりと床におかれた紅壺から、ぬぐうように紅をとった劉の手が、宇春の唇に触れた。
わずかに震える宇春の体に気づき、劉は手を止める。
宇春は、止まった手に気付き、おそるおそる目を開けて劉の顔を見上げた。
劉は、ふっとほほ笑むと、宇春の目を見つめ返した。
「お前ならできる」
そして、その手で。その指で。
紅を、刷く──。
妹妹は、高熱を出して寝込んでしまった。
意識がまだ戻らない妹妹が心配で仕方ないが「宇春様、成功させて」といううわ言を聞くと、立ち上がらないわけにはいかなかった。
支度をして、化粧をして、震える手で紅をひく。
けれど、あの宇春にはなれない。
女官長にお願いして紅をひいてもらっても、変わらなかった。
(どうしよう。妹妹のためにも成功させたいのに。今のままの私じゃ、きっと無理)
詩吟の会は夜からだ。
昨年まで昼に行われていた詩吟の会は、今年、宇春の出した企画により、夜に行うことになっていた。
まだ時間はある。
でも、紅の力のない宇春は、小さなことにも緊張して怯えてしまう。
今の宇春には、成功できる未来が全く想像できなかった。
思い悩むうちにいつの間にか、宇春は劉帆と出会った隆文楼へと足を運んでいた。
劉に告白をして振られた場所ではあったけれど、ここで過ごした時間は、悲しい思い出ばかりではなかった。
妃時代も、落ち込んだり悩んだりすると、ここにやってきて劉によく話を聞いてもらっていた。
彼に助言をもらえることも、そうでないこともあった。しかし、ここに来て彼と話した後は、いろいろなことが不思議なほどうまくいった。
(そっか。私は劉さんに会うだけで力をもらってたんだ)
その事実に今更ながらに気づいてしまって悲しくなる。
もう会うことはないのだという思いが、心の奥をきゅっと締め付ける。
──それなのに。
「きれいだな」
ずっと焦がれていた、優しい、深い眼差しが、宇春を見つめていた。
(なんでここにいるの?)
「お、女主人の役を任されたのです。……美しい衣でしょう?」
(なんで私が助けを必要としている時に、こんなに都合よく現れるの?)
「衣じゃなく、お前がきれいだと言ったんだ」
(なんでそうやって、私の心を揺らすようなことを言うの?)
どう受け止めていいのかわからなくて、宇春は下を向く。
「あ、ありがとうございます。──昨日も、妹妹を助けてくださってありがとうございました。私の大切な、本当に大切な子なんです」
「ああ、お前のだいじな子だと思ったから、体が動いてしまった。お前を悲しませたくなかったから」
劉の言葉は、弱り切った宇春の心に、砂に落ちた水のように深く染み込んでくる。
それは愛情ではなく、思いやりとか慈しみとかそんな類のものだろうけれど、宇春にはそれで十分だった。
「……どうして、ここにいるんですか?」
「お前が、心配だったんだ」
その言葉に、どくんと心臓が跳ねる。
(もう、無理だ)
ただ、振られさえすれば、その後は忘れられると思っていた。
彼の幸せを祈って、そのまま立ち去れると思っていた。
でも、もう、ごまかし続けるのは無理だった。
(私、やっぱりこの人が好き)
きっとこの気持ちがなくなることなんてない。
なんだかもう、家に帰って他の人と結婚するとか、無理な気がする。
縁談は断ろう。一生一人で生きていく。
この気持ちを捨てなくても、忘れなくてもいい。そう考えると少し気持ちが楽になった。
「あの子は、大丈夫なのか?」
「は、はい。今は高熱で苦しんでいますが、熱が下がれば大丈夫だとお医者様がおっしゃっていました」
「その割には浮かない顔だ。あの子が心配なのはわかるが、それだけではないな」
劉は、簡単に宇春の心の内を見抜いてくる。
「妹妹が言うんです。うわ言で、今日の会を成功させて、と」
「ああ」
「でも、私、だめなんです」
「どうして?」
「あの子の引いてくれる紅がないと、私、怖くて。怖くて、自信がなくて。絶対、無理です。みんなの前で失敗して、呆れられて、女官のみんなに迷惑かけてっ」
言葉に出すと、もう、それは確定された未来のように思えてきた。
「宇春、俺を見ろ」
気づくと、劉が目の前にいた。
「その役目、俺に任せてくれないか」
隆文楼をぐるりと取り巻く回廊の裏。
誰もいない廊下に敷かれた劉の上着の上に、宇春は、正座をして目を閉じた。
劉の武骨な手が、宇春の顎を持ち上げた。
ことりと床におかれた紅壺から、ぬぐうように紅をとった劉の手が、宇春の唇に触れた。
わずかに震える宇春の体に気づき、劉は手を止める。
宇春は、止まった手に気付き、おそるおそる目を開けて劉の顔を見上げた。
劉は、ふっとほほ笑むと、宇春の目を見つめ返した。
「お前ならできる」
そして、その手で。その指で。
紅を、刷く──。
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