遥かな音色。

ねこひげ

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第1章 ピアノとの出会い。

遥(はるか)という女の子。

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彼は言った。


「生きていくのには必要だったんだ」


「生きるために必要だったんだ」


―――それの何が悪い。




-------------------------------------------------




クレーンゲームのアームが動く。
ガーっと音を立て、安っぽいメロディを奏でながら、動いていく。
そうしてステンレスのアームは下に降下していくと、両手に納まるくらいのガラス張りの空間の中で、クマのぬいぐるみを意地悪そうに掴んで、ケチなほど簡単に落とした。

それを、ただ、ため息をつくと、片眉を上げ、はるかは心の中で言った。

―――あーあ…落ちちゃった。

都内の、渋谷近くのゲームセンター。
若い子がよく遊びに来る場所に、遥はいた。
薄暗いというより、目がちかちかしそうな配色の店内。
いろいろなゲーム機が置いてあり、耳が難聴になりそうな騒がしさだった。
だが、そんなことに、遥は気にも留めない。何とか、この目の前のぬいぐるみを取りたかった。右に左にガラスの前を移動し、縫いぐるみの位置取りを確かめる。
そうして、また百円玉を入れた時だった。

誰かが遥の肩を叩いた。

「ねぇ、君」

振り返ると、そこに立っていたのは二十代の男だった。
茶髪の、耳にピアスを開けた、軽そうな印象の男。

「今ここに独りでいるの?」

彼は優し気な笑みを浮かべ立つ。その横にもう一人黒髪の同じくらいの男を連れていた。サングラスをかけ、ガムを噛み、見るからに柄が悪い。
遥は答えなかった。
困惑した顔をすると、瞬き。そうして少し怯えた表情をして振り払うようにクレーンゲームの前を去ろうとした。
だが。

「ちょい…無視かよ…待てって!」

そうして、彼は背後から逃げる遥の肩を掴んだ。
そこへ―――。

「ちょっと!」

女の子の声がした。
まだ若い声。
遥たちが声のした方を見ると、遥と年頃の変わらない女の子がむすっとした顔をしてこちらに歩いてくるところだった。

「アンタたち、何?」

彼女はサクサクと歩いてくると、男の手を遥の肩からぱしりと振り払う。
遥の腕を掴むと、ぐいと自分の方に引き寄せる。そうして、男たちの前から自分の背後へと隠した。

「何って…」
「私たち、ここにパパたちと来てるの。パパとママ呼んできましょうか?」

すると、パパとママ、という言葉に腰が引けたのか、チッと呟いて、男たちは。

「行こう…」

背を向けると、睨みを利かせてその場を後にした。
去って行ったのだ。
そうして、「まったく…」と腰に手を当てた女の子、アリサは、「大丈夫?」と遥を振り返って目の前の親友に訊いた。遥は頷いた。そうして、破顔した。

《アリサ、パパとママなんて来てないじゃん》

そう、遥は手話をして見せた。
それを見たアリサは同じように笑う。

「あれには、ああいうのが一番効くんだよ、今度またあんなのがいたらいけないから、遥、ウチから離れない方がいいよ?」

分かった、という風に遥は頷いた。

この日、遥は1日、アリサと共に渋谷を歩いた。お気に入りのトップスやパンツを売る店でポップスやロックの曲をバックミュージックにして二人で選んだり。好きなキャラクターのぬいぐるみを売る可愛らしいお店でグッズを買ったりした。
そうして、最後に寄ったのが、このゲームセンターだった。
ここは、未成年に人気の店だ。プリクラを撮る高校生も多いし、勿論チャラい大人も来る。
約1時間、二人でプリクラを撮ったりクレーンゲームをして遊んでいたが、やがて自分の好きなものを見つけるのに夢中になり、少しお互いに離れた時に、先ほどのようなことが起きたのだ。
遥は声が出ない。
小学校の頃、イジメに合ってから失声症と診断され、それから中学に入って二年目になったが。依然声は戻ってはいなかった。普段のアリサとの会話は、手話だ。アリサの従妹が聴覚障害を持っていたため、アリサは小学生の頃から手話ができた。

「…もう帰る?」

それから数十分後、アリサはふと言った。
両手に二つ、キャラクターの縫いぐるみと、何だかわからない変な縫いぐるみを抱えていた。
対して遥は、小さなウサギの縫いぐるみをひとつ、手に持っている。
周りを見渡すと、うんうん、と遥は頷いた。


**


「アリサちゃんはえぇ子やなぁ、はるちゃん」

優しい声が、遥にかけられる。

自宅―――。

あれから都内のマンションの一室に帰宅した遥は、晩御飯を作っていた祖母と、一緒にキッチンに立っていた。
祖母手作りのハンバーグを、祖母自身が皿によそい、それを遥がテーブルに並べる。
そうして、二つ分互いに向くように並べると、口を動かし、唾の音を少々出しつつ、遥は手話をして見せた。

《グーノの縫いぐるみを二人で狙ってて、取ろうとしたんだけど、取れなかったの…》
「グーノ?」

祖母はちゃぽ、とポトフのスープにおたまを落とすと、入れた皿を再び遥に渡しながら訊き返した。
祖母は、五十八歳。おしゃれとまではいかないが、落ち着いた、上品な女性だった。

《知ってるでしょ?学校で流行ってるアメリカ産のキャラクタの縫いぐるみ》

すると、その説明に祖母の町子は、あぁ、と言って理解したように笑った。

「あのへんな顔した縫いぐるみね…あんなのどこがいいの?」
《ちょっと変わってるけど、見てると何かいいじゃん?》

鍋に蓋をして、「さぁ食べましょ」というように、町子はテーブルを振り返った。
皿を、コトと音を立て、遥はポトフを置いた。

二人の傍にある、テーブルのすぐ傍の小さな仏壇。
そこには、とある二人の人物が写り込んだ写真が置いてある。位牌もだ。
遥には、両親がいない。
遥が二歳の頃、交通事故で亡くなった。父を桜井昭さくらいあきらと母を桜井怜子さくらいれいこという。
まだ三十代の若い夫婦だった。
両親がいないことで、遥は小学校の頃、友達ができなかった。両親がいないことで、家庭事情が違い、周りの子との話題も合わなかった。おまけに、流行りの髪型をして散髪して登校したら、一人浮いたようになって、イジメが始まった。イジメは三年間続いた。
陰湿ないじめだった。
それから遥は―――声を失った。
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