螺旋邸の咎者たち

センリリリ

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21. 母を知る人

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 店を出て、堀田さんと別れ、しばらく歩いたときだった。

「あの」

 背後から、声をかけれらた。
 一瞬ちょっと警戒したけど、女性の声だったから、あたしは足を止めて振り返った。

(あっ……!)

 そこで、驚いた。
 知った人間だったからだ。
 いや、正確に言えば、こっちが一方的に知っていた人間。

「もしかして、鏑木かぶらぎさん……ですか?」

 あたしは思わず身を乗り出すようにして訊いた。

「あ……ああ、え? はい、そうですけど……」

 相手は戸惑って何度も瞬きをする。
 まあ、自分から声をかけた人間にいきなり押し迫られたら、そんな反応にもなるだろう。

「あの、いつも読んでます」

 あたしは勢いよく言った。
 そう。この女性は、『惨地巡礼』という、事件物……というか、事件が起きた後のことや影響みたいなのをテーマにしたルポルタージュシリーズの著者だ。流行してるようなタイプの本じゃないけど、評価はされていてコンスタントに新刊が出てる。
 そしてなにより、あたしが尊敬しているノンフィクション作家のひとりだ。
 あたしが螺旋邸から引き上げてきた荷物のなかにも、最新刊が入っている。
 だから、びっくりはしているけど、そんなことより目の間に突然現れた憧れの存在に、働きかけをすることのほうが、当然優先順位が高かった。
 とは言え相手はそんなこと知らないから、あたしの勢いに驚いたようだった。

「あ、ありがとう。……ところで」

 でも鏑木さんはすぐに戸惑いをなくし、落ち着いた声で雰囲気を一瞬で切り替えた。

「あなた……、もしかして、沖津留見子さんの娘さん?」

(えっ……)

 思ってもみなかったことを訊かれ、今度こそ、さすがにあたしも声を失った。

(なんで、お母さんの名前を知ってるの)

 相手はすぐに、あたしが不審がってるのに気づいたようだ。

「ああ、変に思ったらごめんなさい。さっき、レジで堀田さんと話してるのが、耳に入って。沖津棗さんって、ちょっと他にはない名前だから、もしかしてと思って」

 急いで説明してくれた。

(えっ、堀田さんまで知ってるんだ)

「沖津さんにはお世話になったから、ついつい懐かしくなっちゃって。ちょっとオハナシでもできたらと思ったの。突然、ごめんなさいね」

 鏑木さんはそう言って目を細めた。

(まさか、お母さんの知り合いだったなんて)

 あたしはあたしは慌てて申し出た。

「あの、あの、よかったら……、これから、どこかのお店にでも一緒にどうですか。私も、母の話を聞きたいです」

「私は大丈夫だけど……。いいの?」

「ぜひ。ええと……、お店……」

 どこかいい店でも紹介したいところだけど、いかんせんこのあたりの土地勘が全くない。情けない。

(せっかくなんだから、気の利いた店に行きたい!)

 スマホを取り出して必死で探すんだけど、どれもなんだか今いち。迷ってるのを見かねて、鏑木さんが提案してくれた。

「よかったら、ちょっと行ったところに、知り合いがやってる小さいバーがあるから、そこはどう?」

「い、いいんですか?」

「もちろん。そちらがよければ」

「じゃ、じゃあ、お願いします」

 裏路地に入り、すこし行ったところにあった店は、本当に小さかった。
 看板も、壁に表札よりはすこし大きい程度の金属プレートがついているだけ。

(まず、一見いちげんさんは入ってこないタイプの店って感じだな)

 鏑木さんに続けて入ると、カウンターに、テーブル席が二つの本当に小さな店だ。店員も、見るからに寡黙そうなマスターがひとり、カウンターの奥でひっそりと立っているだけ。
 いかにも、内輪の人間だけがやってきて、『内緒話』をしやすいような雰囲気だ。
 さっきまでいた『半鐘』もそうだったけど、やっぱり、記者さんなんかやってると、自然とこういう店がなじみになるのかな。
 鏑木さんは軽く片手をあげてマスターに挨拶すると、慣れた様子で最奥のテーブル席に座った。

「なに、飲む?」

「鏑木さんは?」

「私はバーボンソーダ。いつもそうなんだ」

「じゃあ、私も同じものを」

 頷いた鏑木さんは、ハンドサインのようなものを送った。それで十分通じるんだろう。

「さて。偶然の出会いを祝して」

 酒が運ばれてくると、鏑木さんはそう言って、いったんグラスを合わせた。
 それから、本題に入る。

「さしでがましいことかもしれないんだけど。もしかしてあなた、堀田さんと一緒に仕事してるの?」

「はい……。母のようなジャーナリストに育ててやるって、言ってもらって」

「留見子さんのように? 堀田さんが?」

「はい」

「ええ? おかしいなあ」

 鏑木さんは、眉をひそめた。
 思いもかけない反応に、あたしは戸惑う。

「どういうことですか?」

 グラスの中身をこぼしそうな勢いで訊く。
 鏑木さんは言うかどうか迷っているのか、すこしのあいだ黙っていたけど、結局、口を開いた。

「たしかに、一時期は堀田さんと留見子さんが組んで取材に行ったりもしてたけど……。結局、すぐに決別したはず。だから、流派違いというか……」

「決別?」

 これはちょっと、意外な話だった。

「取材方針が合わないとかなんとかだったみたい。留見子さんが、はっきりそう言ったわけじゃないけど。一度一緒に飲んだときに訊いたら、そんな雰囲気だったな。一応同業者だから、あまり厳しいことは言わないでおいたんだと思う。留見子さんはそういう優しさを持ってる人だったから」

「そんなこと……、堀田さんは一度も言わなかったです」

「ああ……」

 鏑木さんは妙に納得しているような表情になる。

「というか、なんなら一番の理解者同士だったっていうようなニュアンスで……」

「まあ、堀田さんのほうは執着はしてたかもね。……恋愛感情も、正直あったみたいだし」

「やっぱり、そうだったんですか」

 あたしは頷いてみせる。
 別にはっきり言われたわけじゃない。
 けど、そういうニュアンスを感じることは、正直、何度かあった。
 だからまあ、心当たりに正解をもらったような気分だ。

「まあ、留見子さん、モテたから」

 鏑木さんはそう言ってニヤリと笑う。

「そうなんですか?」

「そうそう。でも留見子さんのほうは、堀田さん相手に限らず、全般的にそういうの面倒くさがってたふし・・はあったけど」

「じゃあ……、あの」

 あたしは、思い切って訊いてみることにした。

「あたしの父が誰か、ご存じですか」

 この質問に、鏑木さんは黙りこくった。
 答えたくないのか、答を知らないからなのかはわからない。
 他人の家族の事情に首を突っ込みたくない、って人がいることだって、わかってる。
 でも、あたしは一縷の望みを捨てきれなくて、次の言葉が出てくることを期待して、ずっと待っていた。
 あたしのそんな圧力を、嫌というほど感じているのか、鏑木さんは何度も咳払いをする。
 でもとうとう、覚悟を決めてくれたらしい。
 グラスの中身を一気に飲み干すと、ようやく口を開いた。

「知らないの。たぶん、留見子さん以外は知らないと思う。もしかしたら、あなたのお父さんでさえ」

「そんなもんなんですか」

「実は、当時、あたしも訊いたんだよね。結婚するんですか、って。その時に言われた。するつもりもないし、相手にも妊娠は伝えない、って。自分ひとりで育てるって」

「ええ……?」

 あたしは思わず怪しむ声をあげてしまう。
 そんな頑固な人だったのか。

(いや、頑固というか……、なんだろう?)

 あたしは自分の胸の内に生まれた感情を、なんという言葉に換えればいいのかわからなかった。
 ただそう考えると、しかたなくシングルマザーになったわけじゃなくて、そういう選択をした人だった、ってことか。

「もしかして……」

 あたしは迷いながらも、ずっと抱いていた疑問を吐き出すことにした。
 だって今訊かないと、ある程度事情を知っている人に出会える機会なんて、そうそうないだろう。

「堀田さんが、あたしのお父さんじゃないかとも思ったことがあるんですけど……」

 鏑木さんはいったん目を丸くしたあと、笑い出した。

「それはないと思うな。たぶん海外の人なんだと思う。日本を離れてるあいだに妊娠したみたいだから」

「そうなんですか……」

 それはもう、今さら探すのはかなり難しそうだ。

「でもね。ちょっと、ほほえましかったな」

「え?」

「仕事ひと筋で、結婚なんてしてる暇ない、家庭を持とうなんて思わない、っていうのが、ずっと留見子さんの口癖だったんだけど」

「はあ」

 さっきからの話を聞いてると、さもありなん、という感じだ。
 あたしのあきれたような顔つきに気づいたのか、鏑木さんはフォローするような笑みを浮かべた。

「でもね。いざあなたが生まれたら、いろいろ考えたみたい。危険な取材は避けて、もうすこし人に寄り添うようなタイプの仕事へと徐々にシフトする予定だ、って言ってたの。その矢先に、交通事故で亡くなられたけど」

「そうだったんですか」

 そんな話、堀田さんから聞いたこと、なかった。
 あの人が話す母は、なによりも仕事が第一優先。だからこそ認められ、輝いていたのだ、という印象だった。
 読ませてくれたいくつかの昔の記事も、容赦ない筆致で世の悪を糾弾する、といった調子の鋭く厳しいもので、そのイメージをさらに補強するようなものばかり。
 でも、鏑木さんは違う母親像を知っているみたい。
 今まで、そんな別の面があるなんて考えてもみなかったので、あたしは頭のなかを整理するのに、しばらく時間が必要だった。

「そうだ、たしか……」

 鏑木さんは唐突に、バッグからスマホを取り出した。

「ちょっと待ってね。まだサービスやってるかな……」

 そう言って、なにかを調べ始めている。

「ええと……、棗さん、誕生日訊いてもいい?」

「あ、はい、12月27日です」

「ありがとう」

 鏑木さんは、画面にそれを打ち込んだみたい。

「あ、入れた」

 そう言ってから、画面をこちらに見せてくれた。

「『いのち日記』?」

「留見子さんの、育児の記録。まあつまり、棗さん、あなたの」

「えっ」

「練習がてら、記録を残してみようって言って、連載形式で書いてたの。まだちゃんと残ってる」

「そんなの、母の名前で調べたときには、出てきませんでした」

「あ、そうなんだ。一応、パスワードがわかってる人間しか読めない日記サービスだから、かな? 私もずいぶん覗いてないから、教えてもらったパスワード忘れてたんだけど。娘の誕生日、って言ってたのは覚えてたから、ようやく今入ることができてよかった。読んでみたら? 本になってるようなものとは、かなり違った雰囲気だから」

「は、はい……」

「それになにより、あなたのことを書いてあるんだし、ね」

 鏑木さんの言葉に、あたしはなんだか、頭のなかが熱くなってきた。
 母の痕跡が、しかも自分のことを、どう思ってくれていたのか。
 わかるものが残っているなんて、思ってもみなかった。

(今日はなんだか、びっくりすることばっかりだ)

 あたしのそんな気持ちをわかってくれたのか、鏑木さんは今日はこのあたりにしましょうか、と提案してくれた。

「これ、渡しておくから。なにかあったら、気軽に相談して」

 そう言って、名刺もくれた。

「い、いいんですか」

「私も若い頃はずいぶん、留見子先輩に面倒みてもらったし。恩返しみたいなものだから、気兼ねしないで」

「ありがとうございます」

 憧れの人に会えて話ができただけでもすごいことだったのに、さらにはなににも代えられないすごい贈り物をもらえたようで、帰りの道のことは、ほとんど覚えていなかった。
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