地平の月

センリリリ

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第六章

4.一歩

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 その前の晩、瑠奈は、『晴海』の地位に上がっていた。
 つまり、寝室へと入り、一晩じゅう道孝の欲望に応えていた筈だ。
 相手をさせられている人間には正直悪いが、ただその時間だけが、神経を削る生活のなかで、残りのふたりはつかの間の静けさを味わえる唯一の時間だった。
 だが、その波立たない空気は、まだろくに陽も登っていないような早朝、突如破られた。
 そして、階上から聞き覚えのない大きな音が聞こえて来たかと思うと、激昂した道孝が部屋から飛び出してきた。
 仁王立ちになり、瑠奈の伸ばしっぱなしだった長い髪を両手でつかんでいる。
 そのせいでバランスの取れない瑠奈は、痛みに泣き叫びながら、立ち上がることさえできずにいた。
 階段に繋がれたままで、ろくに眠れなかった初瑠は、朦朧としながらも顔をあげた。
 そのとたん、階段を瑠奈がごろごろと転がり落ちてくる。

「ひゃっ」

 小さな声をあげ、あわてて身体を端に寄せると、なにかに掴まろうと腕を伸ばしたが叶わず、そのまま落ちていった。
 一段一段、身体のどこかをぶつけているせいで、ゴヅッ、ゴヅッ、と濁った音が、落ち切るまで続く。
 なにがどうして、そんなふうに道孝の機嫌を損ねたのかは、わからない。
 些細なことにも目を光らせ、容赦なく罰を与えられることが日常になってくると、理由が正当なものかどうかなんていうのは、まったく意に介さなくなってくる。
 ただひたすら、道孝の意向を窺うことだけで、脳の容量がいっぱいになってしまうのだ。
 だから、道孝の怒っている姿を見ると、当事者でなくてもビクビクするのが、当然の反応になっていた。
 だから初瑠は、うめき声をあげている姿を見おろしながら、怯えて階段についている柵に取り縋るしかなかった。
 そのうち、ゆっくり降りてきた道孝が、その手を取った。
 涙の溜まった目で見上げると、道孝がかすかな笑みを浮かべながら見つめている。
 もうそれだけで、初瑠は喜びで震えた。
 道孝が、笑顔を見せてくれる。
 それは、待遇が良くなる合図だからだ。

「瑠奈は今から『初瑠』になった。今から、君が『瑠奈』だ」

 すでに自我が曖昧になっていた身にとっては、それが自分の戸籍上の本名かどうかなど、どうでもよくなっていた。
 ただ、待遇がよくなる名前に変更されたことに、至上の喜びを感じていた。

----あたしは、瑠奈。

 だから、何度も何度も、心のなかだけで繰り返した。

----初瑠でいるのは、もう終わり。

----階段の下でうずくまっているのは、瑠奈じゃない、『初瑠』。

----あたしはもう、『初瑠』じゃない……。

 『瑠奈』であることは、あのとき、あの空間にいる自分にとって、なによりも大切なことだった。
 ……そう。
 その世界が、崩壊したあの日まで……。
 だからあのとき、両親を刺し殺したのは、自分の主観のなかでは『初瑠』だった。

「ああ」

 口から、嘆きとも気づきともいえるような声が、自然と出た。

----すべて、思い出したと思っていた。

----だが、違った。

 自分が記憶をなくしていたのは、あの惨状を思い出したくないからという理由だけだと思っていた。
 だから、『惨地巡礼』なんていう価値観に、まんまと自分を預けてしまった。

----あの頃と、なにも変わっていない。

----自分は。

 身体から力が抜け、視界がまた真っ暗になった。
 床のタイルの冷たさに気がつくと、またいつのまにか、マンションのエントランスホールに戻っている。

「『瑠奈』を返して」

 少女の像が、繰り返す。
 思い出した。
 そう……、思い出せた。
 あの日、自分以外はみんな息絶えた部屋から、必死で這いずりながら、なんとか逃げ出そうとした。
 道孝の死体に近づき、腰につけた鍵の束をとりはずそうとした。
 震える手ではうまく外すことができず、半狂乱になって思いっきり引っ張ると、ビリッという音がしてはずれた。
 おそらく、ベルト通しがちぎれた音。
 だがそのはずみで、道孝の身体が動き、偶然顔がこちらを向いた。

「ひいぃぃっ……!」

 それまでの習慣で身体が竦み、その顔を窺ったが、もちろん、表情筋はピクリとも動くことはなかった。
 その目の濁りを認識してようやく、自分はもうこの男に、尊厳を踏みにじられることは二度とないのだという確信を持てた。
 奪った鍵束を改めてしっかりと握り、中腰になりながら、リビングを出ようとする。
 出入口のドアにいくつもつけられた大ぶりな南京錠を、ひとつひとつ、時間をかけて開けた。ひどく長く感じる時間だった。呪いにかけられているのでは、とまで思えるほど。
 玄関へと続く廊下に出てもなお、足の震えがあまりにひどくて途中で何度も転び、結局最後にはまた這っていった。
 長いあいだ開けることを許されなかったドアを震える手で開け、マンションの廊下に這いずり出る。
 すると、叫び声を聞きつけたらしい隣の住人、四十代くらいの女性が廊下に出てきていた。

「け、警察……」

 そう頼むと、顔面蒼白になりながらも頷き、自宅に戻る。
 そしてスマートフォンで連絡を取りながら、すぐに引き返してきた。
 手にはタオルを持っていて、腕には上着までかけてあった。
 それをすぐに羽織らせてくれたので、自分のみすぼらしい恰好が隠せた気がして、それだけでも安心感が増した。

「大丈夫? なにか飲む? かわいそうに、こんなに痩せて……」

 そう言われ、喉が痛いくらいにひりついているのに気づいた。
 何度も頷くと、壁に背を預けて座るように手伝ってくれてから、ちょっと待ってて、と言ってまた自宅に戻った。
 水を入れたグラスを持って戻ってきて、渡してくれようとしたが、あまりにも手がぶるぶると震えて受け取れない。
 それを見て、親切にグラスを口元にもってきて、すこしずつ口に含ませてくれた。

「……ありがとう、ございます」

 久しぶりに飲んだ冷たいミネラルウォーターは、まるで美しいクリスタルを飲み込んでいるような感覚で、それでなにもかもが浄化されていくような気さえした。

「すぐに救急車と警察が来るから。しっかりね」

 全部飲み終わると、優しい声で言ってくれる。
 そんな風に声をかけられることなど、もうずっとなかったせいか、涙が滲んできた。
 鼻を大きくすすると、タオルが差し出される。

「す……、すみません」

「謝らなくていいのよ。……ところで、名前は?」

「る……、『瑠奈』……」

 そのとき、そう名乗ることに、なんの疑問も抱かなかった。
 異様な生活のなかで、『瑠奈』となればベッドでの相手も、寒くてひもじい思いも、どちらも味あわずに済む、一番いい立場でいられると、骨の髄まで叩きこまれていたのだ。
 精神は、脳は、まだその世界から逃げ出せずにいた。
 だから、とっさに『瑠奈』と名乗ったのだ。
 戸籍上の名前は、初瑠だったのに。
 駆けつけた警官や消防士が訊いたときにも、同様にした。

----ああ、そうだ。

 思い出した。
 今や、もう、はっきりと。

「瑠奈を返して」

 少女が言う。
 戸籍上の名前は、瑠奈だった少女。

「瑠奈の名前を返して」

 手を伸ばしてくる。
 血にまみれた手。
 瑠奈……いや、今までそう名乗っていた初瑠は、自分の手も伸ばす。
 触れた瞬間、ぐっと強く握られた。

「ごめんね、瑠奈」

 本当は、ずっと、名前を返したかった。
 なのに、心が強くなれずに、自分の意識の下へと隠した。
 手紙を書いたのは、そんな情けない自分に、気づいてほしかったから。
 自覚しないまま、自分にそれを送り続けた。

「いいの」

 瑠奈の目は、さっきまでの激しい声とは裏腹に、静かだった。

「名前さえ返してくれれば、あたしはこれで、もう思い残すことはない。だってあたしが瑠奈なら、もう、最下層の人間じゃない」

「瑠奈……、瑠奈、……あたしを、許して……」

 初瑠の言葉に、瑠奈は小首を傾げた。
「あたしはとっくに許してるよ。許してないのは、自分だったんじゃない」

 思わぬ言葉に、初瑠は思わず身を引いた。

「じゃあね」

 瑠奈はたったひと言、それだけを言うと、一瞬で姿を消した。
 それが成仏した、ということなのか、それともただどこかに移動してしまっただけなのか、初瑠にはわからなかった。
 ただ、急に周囲の音が聞こえてきた。

「関戸さん! 返事をしてくれ、関戸さん! ……瑠奈!」

 ガラス戸の向こうから、小野原が呼びかけている。
 もしかしたら、初瑠と瑠奈のやり取りのあいだもずっと、そうしてくれていたのかもしれない。

----彼に、本当の名前を名乗らなくちゃ。

 別人の名前で過ごし続け、自分自身さえ偽り続けた日々は、今日でもう終わりにするのだ。
 初瑠は、一歩を踏み出した。
 今こそ、自分は、道孝の生み出した狂った価値観から抜け出すことを始めるのだ。
 まるで、赤子のように震える足で。
 それでも、初瑠はたしかに、自分の意志で。
 一歩一歩、少しずつだがしっかりと、自分が自分でいられる人生に向かって、歩き始めた。
 最後の最後、極限の状態のなかで英雄だった瑠奈に、恥ずかしくないように。
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