地平の月

センリリリ

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第六章

3.名前

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 バン! と派手な音を立てて、瑠奈はさっきの初瑠のように、ガラス戸を手のひらで叩いた。
 すぐ外に、小野原がいる。気づいてほしかった。
 しかし、望んだ反応はなかった。
 なにが起こったのか理解できていない様子で、ただきょろきょろとあたりを見回しながら、なにかを叫んでいる。
 おそらく、瑠奈の名前を呼んでいるのだろうが、音は聞こえてこなかった。

「ねえ」

 そのとき、背後で、ふいに声がした。
 聞き覚えがある。
 おそるおそる振り返ると、エントランスホールの真ん中に、血まみれの初瑠が立っていた。

 バチバチバチ。

 耳障りな音がして、ホールの灯りが一斉に消える。

『瑠奈をかえして』

 同時に、あの手紙と同じ言葉が聞こえてきた。
 ただ、その声はどこか異様さを含んでいる。
 まるで、遠くにあるスピーカーから聞こえてくるような声だ。
 明瞭ではあるが、空気の層の干渉を多く受けた末に聞こえてくる、音。
 この場合、干渉しているのが空気なのかは怪しかったが。

「……なに?」

 だが、今の瑠奈には、その声の異常さよりも、ずっと意味がわからないままだった、あの言葉を聞いたことのほうが重要だった。
 今こそ、それがわかる機会なのかもしれない。
 そう思うと、勢いづいて訊いてしまう。
 しかしそれに対する返答はなく、初瑠は、ただ血まみれの手を伸ばしてきた。

『あたしに、返して。あたしから奪った名前を、返して』

「名前……?」

 初瑠の手が近づくにつれ、瑠奈の視界が、なぜかだんだんおかしくなってきた。
 周囲のものが認識できなくなり、ただ、じりじりと近づいてくる、初瑠の姿しかまともに見えない。
 映画や写真で、中央の人物だけにピントが合っていて、背景がぼやけているような、あの感じに近い。

『知らないなんて、言わせない!』

 しかし、瑠奈の反応が不満だったのだろう。
 突然、初瑠が激昂した。
 そのまま、つかみかかろうとしてくる。
 反射的に、瑠奈は後ろへと飛びのいた。

「どういうこと? 初瑠」

----ちゃんと、説明して欲しい。

----なにより、しっかり話が聞きたい。

 そう思ってかけた言葉なのに、初瑠の姿は、なぜか急に歪んだ。

「な、なに……」

 戸惑っていると、しばらく炎のゆらめきのようになっていた初瑠の像が、また元に戻る。

『その名前で呼ぶの……卑怯でしょ』

「どういうこと? 初瑠」

『違う!』

 苛立つ初瑠。
 でも、その原因がわからない。

「なにが?」

『あたしの、名前……。大事な、名前……』

「うん」

『……あんたは、あの時、それを奪った。あたしの、名前を』

 それを聞いたとたん、ついに、瑠奈の視界は真っ暗になった。

『あたしの名前が、瑠奈。あんたは、初瑠でしょう……』

 その暗闇のなかで、ただ、その断罪の声だけが、響き続けていた。



 周囲の雰囲気が変わったことに気づき、どうにか目を瞬かせると、エントランスホールではなく、思い出したくもなかった場所にいた。
 あの頃住んでいた部屋、だ。
 だが、おかしい。
 移動した記憶が、まったくない。
 突然、ここにいた。
 しかも最悪なことに、足が鎖で螺旋階段に繋げられている。

「ひっ……」

 瑠奈はのどを引き攣らせるしかない。
 絶対に、戻りたくないあの頃と、同じことが起きている。
 そう、『梅』にされたときの待遇が、再現されてしまっている。
 信じたくない。
 タイムリープもののSFの主人公でもあるまいし、そんなことは現実にはありえないと頭ではわかっている。
 なのに、たった今感じているひもじさも寒さも、あまりにもリアル過ぎて、夢かうつつか判断がつかなくなってくる。
 その曖昧になる判断力の頼りなさまでもが、紛うことなき、あの頃と同じものだった。

「や、やだ……」

 恐怖の呟きが、自然と漏れる。
 身体が小刻みに震えはじめる。感情のせいもあったが、実はそれよりは、肉体的な影響のほうが強い。とにかく、寒いのだ。
 視線をやると、窓が開けられているのが見えた。そこから、容赦のない冷気が、ひたすら吹き込んできている。
 それは、惨めさに拍車をかけるために、わざとそうされているのだ。

「ああ、ほら。こいつは、今日もまた、『梅』だった」

 上の階から、道孝の尊大な声が聞こえてくる。
 顔をあげると、厚手のセーターを着こんだ姿で、廊下にしゃがんでこちらを見下ろしていた。隣には、同じような服装の晴海もしゃがんでいる。
 いつものように、みっともないほどの厚化粧だ。
 しかしそれをもってしても、卑しい表情を隠すことはできていなかった。
 道孝と同じ位置から、人を見下せる立場であることが、誇りでしかたない。
 そんな気持ちが、見て取れる。

「もうすっかり定位置だな。『松竹梅』はやめて、これからは一番下になったヤツは、『初瑠』って呼ぶことにしようか」

 ああ、そうだ。
 この頃、初瑠はもうこの家では、みんなから蔑まれることがあたりまえの人間になっていた。
 道孝の命令を、内容の理不尽さには一切の疑念を持たず、即座に完璧に従順に遂行することができない初瑠は、ほとんどの時間、最低ランクの地位にいた。
 それを、さらに貶めるシステムにしようというわけだ。
 そしてこの日から、家のなかでの待遇の呼び名は、『松竹梅』ではなく、『晴海・瑠奈・初瑠』という呼び方に変わった。
 このせいで、自分の名前に対する認識が、いつしか曖昧になっていったように思う。
 大半の時間は、『初瑠』は初瑠本人だった。
 だが道孝の命令を失敗したり、粗相をしたりすると、晴海も瑠奈も容赦なく『初瑠』と呼ばれ、最低の待遇に落とされた。
 いつしか『初瑠』という言葉そのものが、家のなかで最も卑しいものと思われるようになっていったのも、自然な成り行きだったと言える。

 そして、あの日。

 あの、血まみれの日。

 あの日、『初瑠』だったのは……。

 そう。

 瑠奈だった--------。
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