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第六章
2.決意
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出てみると、見知らぬ中年の男が立っていた。
かっちりと撫でつけた髪に、仕立てはいいが地味な色のスーツとタイ。
会社の弁護士だと名乗り、名刺を差し出してくる。
突然のことに戸惑っているが、背後にいる人間の姿を見て、さらにそれは強くなった。
社長の大山がいたのだ。
これまでは、写真でしか見たことがなかった。
まさか一介の社員の家まで訪ねてくるとは想像したこともなかったので、瑠奈は思わず、たじろいでしまう。
「話し合いに来ました。お時間、頂けますか」
瑠奈が引き気味になったことを見透かしたようなタイミングで、弁護士が申し出る。丁寧な口調に、ついつい頷いてしまった。
奥に案内すると、様子を窺っていた小野原が、やはり戸惑った表情で立っている。
「ソファにどうぞ。今お茶をいれますから」
瑠奈の言葉に、大山たちは慌てて手を振った。
「どうぞおかまいなく」
「ああ、じゃあ、僕が淹れますよ」
小野原がそう申し出てくれる。
礼を言ってお願いすることにしてから、瑠奈がもう一度勧めると、ようやく大山たちはソファに腰をおろした。
このダイニングは静海が取引相手との打ち合わせに使うこともあったので、すこし変則的な家具の配置になっている。
ダイニングテーブルの片側には合皮のソファ、対面に座高の高いダイニングチェア、といった具合だ。
彼らがソファに落ち着いたのを見てから、キッチンに行き、湯を沸かし始めた小野原の隣に立つ。勝手のわからない彼のために、客用のカップを取り出し、並べる。
「これ淹れ終わったら、僕、帰ったほうがいいかな?」
小野原が、ささやき声で訊いた。
「それは……」
正直、迷うところだ。
おそらく、吉田とのことを話し合いに来たのだろうから、小野原は直接的には関係ない。だから巻き込むのは申し訳ない気もする。
かといって、あの堅苦しそうな相手に自分ひとりで相対しなければならないのも、どうにも心もとない。
「あの、もし、よかったら……。いてくれると、心強い」
「わかった」
「迷惑じゃない? もし、そうなら……」
「大丈夫」
小野原の、しっかりとした声が頼もしい。
話し合いが始まったあとも隣に座ってくれ、要所要所では疑問を呈してくれたり、瑠奈が考えているあいだに間を持たせるような話を差しはさんでくれたりと、向こうの思い通りにはさせないような助けをしてくれる。
おかげで、不意打ちめいた訪問だったわりに、落ち着いて対応することができた。
最終的には職場で受けた精神的ショックに対する百万円の慰謝料、警察には被害届を出さないこと、今回のことを他人に口外しないこと、吉田は他部署へと移動させること、などの条件で示談することになった。
サインを済ませ、彼らが帰っていくと、どっと疲れが出た。
彼らが座っていたソファを思いっきり手のひらで叩き、寝っ転がる。
「社長まで来るなるなんて」
ため息まじりに愚痴ると、小野原は同情の頷きをする。
「自分の身内のことだからね。警察にでも駆け込まれたらたまらない、って思ったんだろうね。ずるいと言えばずるいとも言える」
そんなことを話していると、小野原のスマートフォンが鳴った。メールの着信だ。
それを読んだあと、悲し気な表情のまましばらく黙った。
「どうしたの? 誰から?」
「……あの、それが……」
言いにくいのだろう。言葉が、切れた。
それで、すぐにわかる。
「吉田さん?」
確かめると、頷いた。
「なんて言ってる?」
「……アメリカに、留学することになったって。明日発つから、最後に会いたいって」
「アメリカ!? 明日!?」
あまりに急な話に、瑠奈は驚いた。
だが、妙に納得もする。
このまま留まらせても、なにがきっかけで、この件が蒸し返されないとも限らない。
それに、吉田の性格からしたら、このままずっと引っ込んでいられるかは、甚だ疑わしい。
それなら、おとなしく従っているうちに、遠くへやってしったほうがいいと、誰かが判断したのかもしれない。
もしかしたら吉田自身が処分を不満として決意したのかもしれないが、社の幹部に言いくるめられて決断せざるを得なかったとしても、それはそれで合点がいく。
まるで、島流しだ。
だが、身内を庇うのと会社を守るとの、両立を図るにはいい手ではある。
「会ってこようと思う。あいつがおかしくなったの、俺のせいでもあるし」
「……そう……。でも、気をつけて。人目のあるところで会いなよ」
「ああ、そうする。じゃあ」
小野原は急いで自分の持ち物をまとめた。
「あの」
ドアを出ていく背に、瑠奈は声をかけた。
「うん?」
「色々と、ありがとう。今度改めて、ちゃんとお礼させて」
「気にしなくていいよ。でも落ち着いたらまた、話の続きを聞かせて」
「うん」
マンションの廊下に出て、帰る小野原を見送る。
しばらく出たままで下を見ていると、エレベーターを降り、マンション前の駐車場を通って敷地を出ていく小野原の小さな姿が見えた。
振り向くかな、とそれをぼんやり眺めていると、駐車場の反対側の端になにかの影があった。
よく見ようと視線を動かすと、それは消えていた。
でも、それがあの血まみれの少女--初瑠--だという確信が、なぜだかあった。
次の朝出社すると、同僚たちの視線が痛い。
それを意に介さないフリをして席に着いたが、すぐに伊坂に呼ばれた。
「米田部長が呼んでる。一緒に行こう」
正直、ありがたかった。
あくまでその場しのぎに過ぎなかったが、とにかくこの痛みさえ感じるような視線から、一時でも逃れられる。
廊下に出て部長室に向かう途中、伊坂が突然立ち止まり、陰になっている自販機スペースへと立ち寄った。
「昨日、社長と弁護士が行った?」
「はい。来ました。吉田さんの件、示談にすることになりました」
「そっか。大変だったな」
「はい」
「でも、最初は、なかったことにしようとしてたんだよ。社長たち」
「え」
「でも部長が進言してさ。初期対応で逃げを打って、結局SNSに晒されたり、裁判沙汰になって評判に傷をつけるほうが社の体面に関わるって、説得したんだよ」
声を潜めながら事情を話してくれる。
「そうなんですか……」
「一応、お礼を言っておいたほうがいい」
「わかりました」
部長室に入ると、笑みこそ浮かべていなかったが、なぜか相当に機嫌がよさそうな米田に迎え入れられた。
以前、噂の真偽を確かめるために呼び出されたときとは雲泥の差だ。
「今回は、社内で大変な目に遭わせてしまったね」
「ええ、いえ、ケガしたわけでもないですし、その割には色々と真摯に対応もしていただけたので……。あの、部長が色々と進言してくださったとか。ありがとうございました」
「いやいや。こんなことで、優秀な社員にやめられでもしたら、我々にとっても損失だからね」
この言葉に、
----今まで、真面目に仕事を頑張ってきてよかった。
瑠奈はしみじみとそう思った。
「それで、仕事にはもう戻って構わないのかね」
「はい」
「もしも精神的に辛いのなら、当分のあいだ自宅業務にすることもできるが」
「大丈夫です」
「そうか」
米田は頷くと、引き出しから、パンフレットのような書類を一枚取り出した。
「一応、うちと提携しているカウンセラーの一覧だ。なにかあったら相談に行くといい。社員証を提示すれば、請求はうちにくる」
「ありがとうございます」
受け取り、頭を下げる。
「もちろん、我々に相談してくれてもいい。どうか、ひとりでため込んだりしないでくれ」
「はい。そうします」
あまりに細やかな対応に、すこし戸惑いながら部長室を出たが、戻る途中で伊坂がまたこっそりと教えてくれた。
「今回の進言で、部長も上層部に恩を売れたらしいよ。関戸くんのおかげ、ってわけだ」
「あー……」
なるほど、そういうことなら理解できる。
社内政治の材料に使われたことに、ちょっと居心地の悪さを感じたが、まあ、派閥に加えられたりしたわけでもないだろう。深くは考えないことにした。
その週末、いつものように鏑木と会ったときに、瑠奈は吉田との一件を話した。
「それは……。大変でしたね」
「それで、はっきり思い出したんです。あのとき、なにが起こったのか……」
「話してくださるんですか」
「ええ、ただちょっと、長い話になりそうで……。お時間、大丈夫ですか」
「もちろん。瑠奈さんにお会いする日は、念のため後の予定は入れないようにしてるんです」
「そうですか……。それじゃあ、あの、うちに来ませんか。長い話になりそうなので」
「いいんですか」
「はい。鏑木さんのこと、信用してますから」
「それは……、光栄です」
鏑木はちょっと複雑な表情だ。
無理もないだろう。
どこをどう取り繕ったところで、自分の本のために瑠奈に近づいた、という事実は変わらない。
だから、瑠奈も最初は警戒した。
でも、目を通した著作の文章から悪意やスキャンダル狙いの下卑たものは感じなかったし、恒例となったこの週末の会合でも、瑠奈が嫌がることを無理矢理聞き出すような、強引な手法は一度も取らないでくれた。
そして、そうやって穏やかに瑠奈の話に耳を傾けてくれたことで、瑠奈も自分が今まで心の隅に押しやったり蓋をしていたことを、落ち着いて取り出すことができるようになった。それも、孤独を怖れることなく。
だから、たとえそれが相手にとってはビジネス目的だったとしても、瑠奈にとっても助かることだったのは確かだ。
だから、信頼することにしたのだ。
自宅に招き入れ、インタビュー形式で過去になにが起こったのかの話をしているあいだ、鏑木の座ったソファの後ろに、初瑠の姿がずっとあった。
だがその血まみれの姿は、今の瑠奈には怖ろしくなかった。
血まみれなのは、可哀そうな人間だからじゃない。誰もが混乱するなか、不屈の勇気を持ち続け、最後に悪魔を倒した英雄だからだ。
その勇姿が意味するものを、鏑木に伝えようと思った。
そう考えると、もしかしたら著書にも『巡礼』という敬意を含んだ言葉を使う、遺された想いを追おうとするジャーナリストに出会えたことも、運命だったのかもしれない。
「初瑠は、いつだって、私にとっては英雄でした。そう、『あの日』も……」
だから、そんな言葉で語り始めることにした。
そうして、吉田とのいざこざが起こった日から、一ヶ月ほど経った頃だった。
瑠奈は、事件の起きた家のあった場所を、訪ねてみることにした。
『事件のあった場所に、残った想い』
鏑木の著作、『惨地巡礼』の前書きにあった言葉だ。
それが頭にこびりついたままで、何度打ち消そうとしても、できない。
しかも最近はかなり頻繁に、初瑠の姿を見るようになっていた。
彼女がいつまでも成仏できないのは、あまりにも悲しすぎる。もしかしたら事件を起こした場所に未練が--『想い』が、残っているせいかもしれないと、ようやく思い至った。
そして、ずっと記憶から消していたほど忌まわしいあの家を、ふたたび訪問することを考え始めた。
しかし、当然怖い。
迷った末、小野原に一緒に来てもらうことにした。
電車の席に並んで座り、揺られているうちに、今さらながらどんどん申し訳ない気持ちが強まってきた。
「ごめん。嫌なことに巻き込んじゃって」
「こういうとき、いつも謝ってるけど、気にする必要ないよ」
「でも……」
「どちらかというと、光栄だよ。信頼してもらえて。子供の頃に酷い目にあった人間が、誰かを頼りにするのにどれだけ勇気がいるのが、俺も知ってるから」
「……ありがとう……」
自然と、手を伸ばし、重ねた。
こんなことは、初めてだ。
小野原も意外だったのだろう。一瞬目を見開いたが、反対側の手を、その上にさらに重ねた。
大きくてごつごつとした手の温もりが、ゆっくりと血管を伝って心臓まで届いてくるようだ。
いつかの、熱い手とは違う。
心が安らぐ温度だ。
事件の頃住んでいた家の最寄り駅で降り、改札を出たところで足を止め、街並みを眺める。
懐かしさは、まったくなかった。
忌まわしい経験があったからというよりは、この街に引っ越してきてからは、ほとんど外を出歩くことがなかったからだろう。
そうやって思考があの頃のことに戻ると、無力だった自分にまた後退してしまいそうで、身体じゅうの皮膚がざわざわと総毛だつ。
思い出すだけでこんな風になるのに、あの日、自分たちを縛りつけていた軛をたったひとりで断ち、抑圧に立ち向かった初瑠。
なのに、死してなおこの世に留まり、安寧を味わってないのなら、悲しくてしかたがなかった。そう思うと、どうにか震える足を踏み出すことができた。
おぼろな記憶を頼り、ときにはスマートフォンのナビゲーションアプリを使って、あのマンションへと道筋を辿る。
当時は新興住宅地で活気に溢れていた街は、今ではどことなく裏さびれた雰囲気へと変貌していた。
通りにひと気はなく、立派な家々が並んでいるが、生活音のようなものがまったく聞こえてこない。
途中で通り過ぎた保育所には、『閉園のお知らせ』と書かれたポスターが貼られていたが、雨風に晒され、説明の文字はもうほとんど読めなくなっていた。
景気のいい時代に、無理矢理開発された住宅街の末路、といった雰囲気だ。
地縁もなく、産業もないベッドタウンは、景気が悪くなればどんどん人が流出していくものなのだろう。
ゴーストタウンのように感じる通りを何度も曲がり、やがて、目的の建物が見えてきた。
白とモスグリーンで統一された外観のそのマンション、瑠奈たちの一家が住んでいたそこは、改装すらされず、まだそのまま残っていた。
不思議なもので、外観に嫌悪感は感じない。
街並みと同じだ。外にほとんど出なかったので、見覚えがあまりないのだ。
あまり定かではない記憶をたどり、正面にある芝生と庭木の共同スペースを抜けて、エントランスへと向かう。
だが、ここで思ってもみなかった障害に遭ってしまった。
オートロックだったのだ。
考えてみれば建てられた年代的に、当然そうなっていても不思議はない。
改めて作戦を練り直す必要があると、引き返そうとした、その時だった。
バン!
大きな音が聞こえた。
振り返ると、閉まったままのガラスの扉に、手のひらのあとがひとつ、浮かんでいる。
「なんだ、あれ……」
小野原も、驚いて見つめている。
しかも見ているうちに、また、バン! という音がすると、手形がさらにひとつ増えた。
ひとつ、またひとつ。
繰り返す音のたびに、新しい手形が現れる。
やがて数えきれないほどの手形がガラス戸の上部を埋め尽くしたころ、その向こうにぼんやりとした人影が見え始めた。
「初瑠?」
もしかするとと思い、ためしに呼びかけてみる。
すると、手形と音が、ぴたりと止んだ。
そして、顔がガラスに近づいてきた。
こちらを覗く、その顔は。
初瑠。
「初瑠、あたしのこと、わかるの」
近づいて、訊いてみる。
「関戸さん? 誰に話しかけてる?」
ついてきた小野原が、不思議そうな声をあげる。
どうやら、初瑠のことが見えていないらしい。
「初瑠がいる。なかから覗いてる……」
視線は動かさないまま、答える。
初瑠の口元が動いている。でも、声は聞こえない。
『助けて。出して、ここから』
ただ、そう言っているように思えた。
『瑠奈をかえして』
あの言葉は、もしかしたら、初瑠からのメッセージを受けて書いていたのかもしれない。
急に、そう思った。
自分が帰って、初瑠を助け出すべきなのだと、忘れている自分へ必死にメッセージを送っていたのだと。
「初瑠」
だが、方法がわからない。
せめて、なんとかしたいという気持ちだけは持っていることを伝えようと、瑠奈は自分の両手を初瑠の手形のひとつに重ねるようにして、ガラスに触れた。
その瞬間だった。
……気がつくと、マンションの内側にいるのは、瑠奈になっていた。
かっちりと撫でつけた髪に、仕立てはいいが地味な色のスーツとタイ。
会社の弁護士だと名乗り、名刺を差し出してくる。
突然のことに戸惑っているが、背後にいる人間の姿を見て、さらにそれは強くなった。
社長の大山がいたのだ。
これまでは、写真でしか見たことがなかった。
まさか一介の社員の家まで訪ねてくるとは想像したこともなかったので、瑠奈は思わず、たじろいでしまう。
「話し合いに来ました。お時間、頂けますか」
瑠奈が引き気味になったことを見透かしたようなタイミングで、弁護士が申し出る。丁寧な口調に、ついつい頷いてしまった。
奥に案内すると、様子を窺っていた小野原が、やはり戸惑った表情で立っている。
「ソファにどうぞ。今お茶をいれますから」
瑠奈の言葉に、大山たちは慌てて手を振った。
「どうぞおかまいなく」
「ああ、じゃあ、僕が淹れますよ」
小野原がそう申し出てくれる。
礼を言ってお願いすることにしてから、瑠奈がもう一度勧めると、ようやく大山たちはソファに腰をおろした。
このダイニングは静海が取引相手との打ち合わせに使うこともあったので、すこし変則的な家具の配置になっている。
ダイニングテーブルの片側には合皮のソファ、対面に座高の高いダイニングチェア、といった具合だ。
彼らがソファに落ち着いたのを見てから、キッチンに行き、湯を沸かし始めた小野原の隣に立つ。勝手のわからない彼のために、客用のカップを取り出し、並べる。
「これ淹れ終わったら、僕、帰ったほうがいいかな?」
小野原が、ささやき声で訊いた。
「それは……」
正直、迷うところだ。
おそらく、吉田とのことを話し合いに来たのだろうから、小野原は直接的には関係ない。だから巻き込むのは申し訳ない気もする。
かといって、あの堅苦しそうな相手に自分ひとりで相対しなければならないのも、どうにも心もとない。
「あの、もし、よかったら……。いてくれると、心強い」
「わかった」
「迷惑じゃない? もし、そうなら……」
「大丈夫」
小野原の、しっかりとした声が頼もしい。
話し合いが始まったあとも隣に座ってくれ、要所要所では疑問を呈してくれたり、瑠奈が考えているあいだに間を持たせるような話を差しはさんでくれたりと、向こうの思い通りにはさせないような助けをしてくれる。
おかげで、不意打ちめいた訪問だったわりに、落ち着いて対応することができた。
最終的には職場で受けた精神的ショックに対する百万円の慰謝料、警察には被害届を出さないこと、今回のことを他人に口外しないこと、吉田は他部署へと移動させること、などの条件で示談することになった。
サインを済ませ、彼らが帰っていくと、どっと疲れが出た。
彼らが座っていたソファを思いっきり手のひらで叩き、寝っ転がる。
「社長まで来るなるなんて」
ため息まじりに愚痴ると、小野原は同情の頷きをする。
「自分の身内のことだからね。警察にでも駆け込まれたらたまらない、って思ったんだろうね。ずるいと言えばずるいとも言える」
そんなことを話していると、小野原のスマートフォンが鳴った。メールの着信だ。
それを読んだあと、悲し気な表情のまましばらく黙った。
「どうしたの? 誰から?」
「……あの、それが……」
言いにくいのだろう。言葉が、切れた。
それで、すぐにわかる。
「吉田さん?」
確かめると、頷いた。
「なんて言ってる?」
「……アメリカに、留学することになったって。明日発つから、最後に会いたいって」
「アメリカ!? 明日!?」
あまりに急な話に、瑠奈は驚いた。
だが、妙に納得もする。
このまま留まらせても、なにがきっかけで、この件が蒸し返されないとも限らない。
それに、吉田の性格からしたら、このままずっと引っ込んでいられるかは、甚だ疑わしい。
それなら、おとなしく従っているうちに、遠くへやってしったほうがいいと、誰かが判断したのかもしれない。
もしかしたら吉田自身が処分を不満として決意したのかもしれないが、社の幹部に言いくるめられて決断せざるを得なかったとしても、それはそれで合点がいく。
まるで、島流しだ。
だが、身内を庇うのと会社を守るとの、両立を図るにはいい手ではある。
「会ってこようと思う。あいつがおかしくなったの、俺のせいでもあるし」
「……そう……。でも、気をつけて。人目のあるところで会いなよ」
「ああ、そうする。じゃあ」
小野原は急いで自分の持ち物をまとめた。
「あの」
ドアを出ていく背に、瑠奈は声をかけた。
「うん?」
「色々と、ありがとう。今度改めて、ちゃんとお礼させて」
「気にしなくていいよ。でも落ち着いたらまた、話の続きを聞かせて」
「うん」
マンションの廊下に出て、帰る小野原を見送る。
しばらく出たままで下を見ていると、エレベーターを降り、マンション前の駐車場を通って敷地を出ていく小野原の小さな姿が見えた。
振り向くかな、とそれをぼんやり眺めていると、駐車場の反対側の端になにかの影があった。
よく見ようと視線を動かすと、それは消えていた。
でも、それがあの血まみれの少女--初瑠--だという確信が、なぜだかあった。
次の朝出社すると、同僚たちの視線が痛い。
それを意に介さないフリをして席に着いたが、すぐに伊坂に呼ばれた。
「米田部長が呼んでる。一緒に行こう」
正直、ありがたかった。
あくまでその場しのぎに過ぎなかったが、とにかくこの痛みさえ感じるような視線から、一時でも逃れられる。
廊下に出て部長室に向かう途中、伊坂が突然立ち止まり、陰になっている自販機スペースへと立ち寄った。
「昨日、社長と弁護士が行った?」
「はい。来ました。吉田さんの件、示談にすることになりました」
「そっか。大変だったな」
「はい」
「でも、最初は、なかったことにしようとしてたんだよ。社長たち」
「え」
「でも部長が進言してさ。初期対応で逃げを打って、結局SNSに晒されたり、裁判沙汰になって評判に傷をつけるほうが社の体面に関わるって、説得したんだよ」
声を潜めながら事情を話してくれる。
「そうなんですか……」
「一応、お礼を言っておいたほうがいい」
「わかりました」
部長室に入ると、笑みこそ浮かべていなかったが、なぜか相当に機嫌がよさそうな米田に迎え入れられた。
以前、噂の真偽を確かめるために呼び出されたときとは雲泥の差だ。
「今回は、社内で大変な目に遭わせてしまったね」
「ええ、いえ、ケガしたわけでもないですし、その割には色々と真摯に対応もしていただけたので……。あの、部長が色々と進言してくださったとか。ありがとうございました」
「いやいや。こんなことで、優秀な社員にやめられでもしたら、我々にとっても損失だからね」
この言葉に、
----今まで、真面目に仕事を頑張ってきてよかった。
瑠奈はしみじみとそう思った。
「それで、仕事にはもう戻って構わないのかね」
「はい」
「もしも精神的に辛いのなら、当分のあいだ自宅業務にすることもできるが」
「大丈夫です」
「そうか」
米田は頷くと、引き出しから、パンフレットのような書類を一枚取り出した。
「一応、うちと提携しているカウンセラーの一覧だ。なにかあったら相談に行くといい。社員証を提示すれば、請求はうちにくる」
「ありがとうございます」
受け取り、頭を下げる。
「もちろん、我々に相談してくれてもいい。どうか、ひとりでため込んだりしないでくれ」
「はい。そうします」
あまりに細やかな対応に、すこし戸惑いながら部長室を出たが、戻る途中で伊坂がまたこっそりと教えてくれた。
「今回の進言で、部長も上層部に恩を売れたらしいよ。関戸くんのおかげ、ってわけだ」
「あー……」
なるほど、そういうことなら理解できる。
社内政治の材料に使われたことに、ちょっと居心地の悪さを感じたが、まあ、派閥に加えられたりしたわけでもないだろう。深くは考えないことにした。
その週末、いつものように鏑木と会ったときに、瑠奈は吉田との一件を話した。
「それは……。大変でしたね」
「それで、はっきり思い出したんです。あのとき、なにが起こったのか……」
「話してくださるんですか」
「ええ、ただちょっと、長い話になりそうで……。お時間、大丈夫ですか」
「もちろん。瑠奈さんにお会いする日は、念のため後の予定は入れないようにしてるんです」
「そうですか……。それじゃあ、あの、うちに来ませんか。長い話になりそうなので」
「いいんですか」
「はい。鏑木さんのこと、信用してますから」
「それは……、光栄です」
鏑木はちょっと複雑な表情だ。
無理もないだろう。
どこをどう取り繕ったところで、自分の本のために瑠奈に近づいた、という事実は変わらない。
だから、瑠奈も最初は警戒した。
でも、目を通した著作の文章から悪意やスキャンダル狙いの下卑たものは感じなかったし、恒例となったこの週末の会合でも、瑠奈が嫌がることを無理矢理聞き出すような、強引な手法は一度も取らないでくれた。
そして、そうやって穏やかに瑠奈の話に耳を傾けてくれたことで、瑠奈も自分が今まで心の隅に押しやったり蓋をしていたことを、落ち着いて取り出すことができるようになった。それも、孤独を怖れることなく。
だから、たとえそれが相手にとってはビジネス目的だったとしても、瑠奈にとっても助かることだったのは確かだ。
だから、信頼することにしたのだ。
自宅に招き入れ、インタビュー形式で過去になにが起こったのかの話をしているあいだ、鏑木の座ったソファの後ろに、初瑠の姿がずっとあった。
だがその血まみれの姿は、今の瑠奈には怖ろしくなかった。
血まみれなのは、可哀そうな人間だからじゃない。誰もが混乱するなか、不屈の勇気を持ち続け、最後に悪魔を倒した英雄だからだ。
その勇姿が意味するものを、鏑木に伝えようと思った。
そう考えると、もしかしたら著書にも『巡礼』という敬意を含んだ言葉を使う、遺された想いを追おうとするジャーナリストに出会えたことも、運命だったのかもしれない。
「初瑠は、いつだって、私にとっては英雄でした。そう、『あの日』も……」
だから、そんな言葉で語り始めることにした。
そうして、吉田とのいざこざが起こった日から、一ヶ月ほど経った頃だった。
瑠奈は、事件の起きた家のあった場所を、訪ねてみることにした。
『事件のあった場所に、残った想い』
鏑木の著作、『惨地巡礼』の前書きにあった言葉だ。
それが頭にこびりついたままで、何度打ち消そうとしても、できない。
しかも最近はかなり頻繁に、初瑠の姿を見るようになっていた。
彼女がいつまでも成仏できないのは、あまりにも悲しすぎる。もしかしたら事件を起こした場所に未練が--『想い』が、残っているせいかもしれないと、ようやく思い至った。
そして、ずっと記憶から消していたほど忌まわしいあの家を、ふたたび訪問することを考え始めた。
しかし、当然怖い。
迷った末、小野原に一緒に来てもらうことにした。
電車の席に並んで座り、揺られているうちに、今さらながらどんどん申し訳ない気持ちが強まってきた。
「ごめん。嫌なことに巻き込んじゃって」
「こういうとき、いつも謝ってるけど、気にする必要ないよ」
「でも……」
「どちらかというと、光栄だよ。信頼してもらえて。子供の頃に酷い目にあった人間が、誰かを頼りにするのにどれだけ勇気がいるのが、俺も知ってるから」
「……ありがとう……」
自然と、手を伸ばし、重ねた。
こんなことは、初めてだ。
小野原も意外だったのだろう。一瞬目を見開いたが、反対側の手を、その上にさらに重ねた。
大きくてごつごつとした手の温もりが、ゆっくりと血管を伝って心臓まで届いてくるようだ。
いつかの、熱い手とは違う。
心が安らぐ温度だ。
事件の頃住んでいた家の最寄り駅で降り、改札を出たところで足を止め、街並みを眺める。
懐かしさは、まったくなかった。
忌まわしい経験があったからというよりは、この街に引っ越してきてからは、ほとんど外を出歩くことがなかったからだろう。
そうやって思考があの頃のことに戻ると、無力だった自分にまた後退してしまいそうで、身体じゅうの皮膚がざわざわと総毛だつ。
思い出すだけでこんな風になるのに、あの日、自分たちを縛りつけていた軛をたったひとりで断ち、抑圧に立ち向かった初瑠。
なのに、死してなおこの世に留まり、安寧を味わってないのなら、悲しくてしかたがなかった。そう思うと、どうにか震える足を踏み出すことができた。
おぼろな記憶を頼り、ときにはスマートフォンのナビゲーションアプリを使って、あのマンションへと道筋を辿る。
当時は新興住宅地で活気に溢れていた街は、今ではどことなく裏さびれた雰囲気へと変貌していた。
通りにひと気はなく、立派な家々が並んでいるが、生活音のようなものがまったく聞こえてこない。
途中で通り過ぎた保育所には、『閉園のお知らせ』と書かれたポスターが貼られていたが、雨風に晒され、説明の文字はもうほとんど読めなくなっていた。
景気のいい時代に、無理矢理開発された住宅街の末路、といった雰囲気だ。
地縁もなく、産業もないベッドタウンは、景気が悪くなればどんどん人が流出していくものなのだろう。
ゴーストタウンのように感じる通りを何度も曲がり、やがて、目的の建物が見えてきた。
白とモスグリーンで統一された外観のそのマンション、瑠奈たちの一家が住んでいたそこは、改装すらされず、まだそのまま残っていた。
不思議なもので、外観に嫌悪感は感じない。
街並みと同じだ。外にほとんど出なかったので、見覚えがあまりないのだ。
あまり定かではない記憶をたどり、正面にある芝生と庭木の共同スペースを抜けて、エントランスへと向かう。
だが、ここで思ってもみなかった障害に遭ってしまった。
オートロックだったのだ。
考えてみれば建てられた年代的に、当然そうなっていても不思議はない。
改めて作戦を練り直す必要があると、引き返そうとした、その時だった。
バン!
大きな音が聞こえた。
振り返ると、閉まったままのガラスの扉に、手のひらのあとがひとつ、浮かんでいる。
「なんだ、あれ……」
小野原も、驚いて見つめている。
しかも見ているうちに、また、バン! という音がすると、手形がさらにひとつ増えた。
ひとつ、またひとつ。
繰り返す音のたびに、新しい手形が現れる。
やがて数えきれないほどの手形がガラス戸の上部を埋め尽くしたころ、その向こうにぼんやりとした人影が見え始めた。
「初瑠?」
もしかするとと思い、ためしに呼びかけてみる。
すると、手形と音が、ぴたりと止んだ。
そして、顔がガラスに近づいてきた。
こちらを覗く、その顔は。
初瑠。
「初瑠、あたしのこと、わかるの」
近づいて、訊いてみる。
「関戸さん? 誰に話しかけてる?」
ついてきた小野原が、不思議そうな声をあげる。
どうやら、初瑠のことが見えていないらしい。
「初瑠がいる。なかから覗いてる……」
視線は動かさないまま、答える。
初瑠の口元が動いている。でも、声は聞こえない。
『助けて。出して、ここから』
ただ、そう言っているように思えた。
『瑠奈をかえして』
あの言葉は、もしかしたら、初瑠からのメッセージを受けて書いていたのかもしれない。
急に、そう思った。
自分が帰って、初瑠を助け出すべきなのだと、忘れている自分へ必死にメッセージを送っていたのだと。
「初瑠」
だが、方法がわからない。
せめて、なんとかしたいという気持ちだけは持っていることを伝えようと、瑠奈は自分の両手を初瑠の手形のひとつに重ねるようにして、ガラスに触れた。
その瞬間だった。
……気がつくと、マンションの内側にいるのは、瑠奈になっていた。
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ジャストコーズ/小林正典
ホラー
※アルファポリス「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」サバイバルホラー賞受賞。群馬県の山中で起こった惨殺事件。それから六十年の時が経ち、夏休みを楽しもうと、山にあるログハウスへと泊まりに来た六人の大学生たち。一方、爽やかな自然に場違いなヤクザの三人組も、死体を埋める仕事のため、同所へ訪れていた。大学生が謎の老人と遭遇したことで事態は一変し、不可解な死の連鎖が起こっていく。生死を賭けた呪いの鬼ごっこが、今始まった……。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
暗夜の灯火
波と海を見たな
ホラー
大学を卒業後、所謂「一流企業」へ入社した俺。
毎日毎日残業続きで、いつしかそれが当たり前に変わった頃のこと。
あまりの忙しさから死んだように家と職場を往復していた俺は、過労から居眠り運転をしてしまう。
どうにか一命を取り留めたが、長い入院生活の中で自分と仕事に疑問を持った俺は、会社を辞めて地方の村へと移住を決める。
村の名前は「夜染」。
最終死発電車
真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。
直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。
外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。
生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。
「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!
その影にご注意!
秋元智也
ホラー
浅田恵、一見女のように見える外見とその名前からよく間違えられる事が
いいのだが、れっきとした男である。
いつだったか覚えていないが陰住むモノが見えるようになったのは運が悪い
としか言いようがない。
見たくて見ている訳ではない。
だが、向こうは見えている者には悪戯をしてくる事が多く、極力気にしない
ようにしているのだが、気づくと目が合ってしまう。
そういう時は関わらないように逃げるのが一番だった。
その日も見てはいけないモノを見てしまった。
それは陰に生きるモノではなく…。
私達が押し付けられる理不尽(りふじん)なゲーム
転生新語
ホラー
私(二十代)は今日も、変わらない世の中に絶望しながら眠りに就いた。そんな私は夢の中で、少女の声を持つ死神さんと出会う。
死神さんが持ち掛けてきたのは、デスゲームでイカサマを仕掛けるという話だった……
あまり怖くない話ですが。精神を患(わずら)っている方は、負担が掛かる恐れがあるかも知れないので読まないでください。
カクヨムに投稿しています→https://kakuyomu.jp/works/16817330658135781804
また小説家になろうにも投稿しました→https://ncode.syosetu.com/n2110ig/
銀の少女
栗須帳(くりす・とばり)
ホラー
昭和58年。
藤崎柚希(ふじさき・ゆずき)は、いじめに悩まされる日々の中、高校二年の春に田舎の高校に転校、新生活を始めた。
父の大学時代の親友、小倉の隣の家で一人暮らしを始めた柚希に、娘の早苗(さなえ)は少しずつ惹かれていく。
ある日柚希は、銀髪で色白の美少女、桐島紅音(きりしま・あかね)と出会う。
紅音には左手で触れた物の生命力を吸い取り、右手で触れた物の傷を癒す能力があった。その能力で柚希の傷を治した彼女に、柚希は不思議な魅力を感じていく。
全45話。
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